100円均一の材料を使ってジーンズを補修する

長年ジーンズを履いていると擦り切れたり穴が開いたりすることがある。でも、捨てるのはもったいない。こういう時に100円均一で買った布用のボンドを持っていると便利だ。

やり方はいたって簡単である。ダイソーにはデニムはぎれが売られている。これを布用のボンドでくっつければ良いのである。針と糸は必要はない。5分程度押し当てれば十分に接着でき、ちょっとした洗濯で剥がれることもない。

コンビニでも補修ボンドが売られているが、若干値段が高めである。

ただし、元の布と当て布の色があまりにも違いすぎると悪目立ちしてしまうので、できるだけ同じような色合いの生地を探した方が良いかもしれない。ダイソーは濃いインディゴ一択なので、そこが少し使いにくい。

おしゃれな人なら別の色の布を使ってもよいだろう。コートの裏生地と合わせるなどという手もありそうだ。だが、コーディネートが難しくなるという難点がある。汎用性ということを考えるとちょっと考えものである。

一時期流行したダメージデニムなのだが、最近では穴が開いているものは流行っていない。もちろん、おしゃれな人はきれいに加工されたダメージデニムを選択するのだと思うのだが、お気に入りのジーンズを延命させる程度であれば100円均一のボンドでも構わないと思う。

もちろん、このボンドは裾上げにも使える。「洗濯したら剥がれてしまうのではないか」などと思ったのだが、数回の洗濯で剥がれるということはないようだ。裾上げが必要なくなったら剥がすこともできるのだが、若干糊の跡は残る。また、これで見てわかるように暗めの色だと若干跡が気になる。さらに、布には使えるがニットは浸透がよすぎるせいかうまくいかなかった。

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セーターの補修をしたいなら別の方法を使った方がよい。フエルト生地に針をさしてなじませるパンチングという技法があるそうである。フエルトとニードルパンチも100円均一で売られているそうだ。

「悪気がないから」といって全体主義の萌芽を許してはいけないわけ

先日、ある識者が「沖縄方言は標準文法と語彙が整備されなかったので独立した言語ではない」と言う論を展開していたのを見た。最初はネトウヨ目当ての記事だから目くじらを立てるのもどうかと思うのだが、しばらく寝かせていて考えを改めた。これはとても危険な試みのように思えてきたからである。

以前にアイヌ語について同じことを言っている人を見たことがあるので、こうした筋の議論はネトウヨ界隈では定説になっているのかもしれない。絡まれると怖いので原典はリンクしないが、まとめるとこんなことを言っている。

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は日本語と同系統の言葉だ。方言言なのか別の言語なのかといえば、独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま明治時代に完全に日本に併合され本土の言葉が普及した。

この記事が許容できないのは、この考え方が帝国主義の文脈を持っているからである。

この文章は「ウーマン村本という人の妄言をただす」というようなタイトルになっており、人を教化する文脈で国際的には受け入れられそうにない主張をあたかも正解のように語っている。これをリベラルな人たちが読むとも思えないのだが、保守思想に共感する人たちに「正解」として普及し、実際にマイノリティの攻撃に使われる。そこが問題なのだ。

この主張を展開すると「ある一定の時点までに文法と語彙が整備されれば主権を持った言語として認めてもいいが間に合わなかったから方言的ステータスになる」と言っていることになる。これはある時点までに主権国家ステータスが得られれば主権国家格が得られるがそうでない国は植民地になっても構わないというのと同じ言い方になる。

「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれないのだが、もともと言語・方言論争というのは極めて政治的な色合いが高い。多くの主権国家が国内でマイノリティを踏み台にしてから海外に出かけていったという歴史がある。彼らは出かけた先でさらに遅れた人たちを目にして「神様に選ばれた」という過剰な選民意識を募らせてゆく。この動きはイギリスやフランスなどから始まり、ドイツや日本は遅れて植民地獲得競争に乗り出した。最終的に起こったのが第二次世界大戦だ。

何が言語で何が方言かという議論に科学的な根拠はない。例えば、一般的にスペイン語とポルトガル語は別の言語だとされている。それぞれの言葉を公用語とする地域があり、これを同一言語という人はいないだろう。だが、この二つの言葉には語彙にも文法にも方言程度の違いしかない。

スペイン語とポルトガル語が兄弟のような関係にあるのに比べて、スペインの域内にあるカタルーニア語はオクシタニア・ロマンス語という別のグループに入っている。オクシタニア・ロマンス語はスペイン東部からフランス南部で話される言葉であり、一般的には「スペイン語」と「フランス語」と見なしうる言語が含まれている。実はフランス語も別のグループに入っており、フランス・スペイン圏は三つの異なったラテン語系の言語群を抱えていると言える。

シノドスにカタルーニアの独立運動についての歴史が書かれている。スペイン中央政府はカタルーニア語の使用を禁止する弾圧を行った。これが現在まで尾を引いており独立運動まで起きているということはすでによく知られている。

極めて不安定な政情の中で自治が開始されたが、それも軍のクーデターが引き金となったスペイン内戦(1936~39年)の中でついえ、内戦後に成立したフランコ独裁体制は、民族主義的な政治・文化活動はもちろんのこと、カタルーニャ語についても公的な場での使用を禁止した。

こうした複雑な事情を抱えるのはスペインとフランスだけではない。イタリア語も実際には西ロマンス語と南ロマンス語という別のグループに割り当てられる方言(あるいは言語)群から成り立っている。標準イタリア語があり文法と辞書が整備されているからその他の言語は方言にしかならないという定義をイタリア人に説明すれば、多分かなりの反発を受けることになるだろう。これはイタリアでは政治的問題化してい、北イタリアは独立こそ求めないが自治権を充実させて税金の使い道を決めたいという動きがある。

方言か言語かという話がセンシティブなのはマジョリティの側がマイノリティの言語を「単に方言だから」とみなして弾圧した歴史があるからだ。例えばフランスは特に非ラテン語系の言語を中心に弾圧した歴史がある。これについてよく知られているのが「最後の授業」である。ある年代の人たちは国語で習ったのではないか。

「最後の授業」はプロシアに占領されてフランス語が教えられなくなった教師が「ビブ・ラ・フランス(フランス万歳)」と唱え、それを聞いた生徒が真面目にフランス語を勉強しなかったことを後悔するという筋の話だ。しかし実際にはアルザス地方ではドイツ語系の言葉が話されており少年がまともにフランス語を話せないのは当たり前だった。当然少年は学校でフランス語以外の言語を禁止されていたのだろうから、少年にとっては「ドイツ語系の言葉」の解放であったはずでそれを悲しむはずはない。

この話のポイントは「フランス語こそが美しい言葉であって、ドイツ語などはくだらない言葉である」という国内向けの意識づけだ。言語を方言と貶めたりまた方言を言語化したいという欲求は民族意識と結びついている。だが、このような民族意識は一方で大きな反発を生むのである。

イギリスでもウェールズ語などが禁止された歴史がある。

アイルランドと異なり,スコットランドやウェールズは,早い段階からイギリスに併合されていた. 1536年にウェールズがイングランドに併合されると,ウェールズ語が英語よりも劣った言語と見なされ,法廷で は英語使用が義務づけられた.さらに1870 年の教育条例により,ウェールズ語使用を禁止する運動(Welsh Not )も起こり始める.同時期の産業革命の影響と相俟って,19 世紀中盤からウェールズ語話者が急激に減 少し,その後 世紀に入っても減少傾向は止まらなかった.

ヨーロッパにはラテン語系・ドイツ語系・スラブ系・ケルト系・バスク語などの様々な系統の言語があり、支配層と被支配層が異なった言葉を話していた地域も多い。

こうした同化政策は日本にも取り入れられ「方言札」を使って沖縄や南洋諸島で現地の言葉を使う人たちを辱めたという歴史がある。だから「帝国主義の文脈で語られるのはヨーロッパだけで日本は関係ない」とは言えない。日本が民族国家として主権格を求めた時に同時に行ったのが同化政策だったので、むしろ「正しく理解したが故に同化政策を推進した」という方が正しい。琉球の方言と同じくアイヌ語もこの文脈で禁止されている。前回見た「アイヌ語は言語ではない」が有害な理由は、こうした帝国主義的な歴史と関係がある。そして、それを朝鮮半島に拡大し名前を変えさせたりした。その時も強制同化策とはいわず「かわいそうな朝鮮人が希望をしたから氏を与えてあげる」とやったのだ。

さらに、現代でも日本は沖縄に米軍基地の大半を押し付けている。本土の我々がそれほど罪悪感を抱かないのは、やはり本土とは違った歴史のある特殊な地域であり、我々には関係ないと思っているからだろう。つまり、沖縄と本土の間には差別・被差別の関係があり、本土がそれを容認したままで日米同盟に依存しているというのは、残念ながら否定しがたい事実だろう。

しかしながら「言語を否定されても同化させてもらえるならいいではないか」という次の疑問が浮かんでくる。これを明確に否定するのがアーレントである。「全体主義の起源」は民族国家の中で起こった過剰な同化欲求が異物を排除する過程で「皆殺しにしてしまえ」というほどの脅威に変わってゆく姿を検証している。その脅威は国民の間から「自発的に」湧き上がっており、最終的にはその国民全体を巻き込んだ悲劇に発展した。

このことから、同化欲求や言語の序列化が無知から来るものであった方が悲劇性が高くなりそうだということだということがわかる。わかって扇動している人たちはまだ意識的にやっているのだろうからある程度で歯止めが効く可能性もある。しかし、わからないでそうした枠組みを植え付けられた人たちにそうした歯止めはない。当然のことのようにしてそれを選択しそれに慣れてしまう。そして、その先に何が起こりうるかということは考えない。

だから「ある言葉は言語であり、別のものは方言である」とか「民族として優れた文化がないから否定しても構わない」という主張はその都度潰しておく必要があるということになる。また、そうした主張は社会を滅ぼしかねないということも明確に知っておくべきであろう。

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アイヌ語がないならば日本語もない

さて、二日に渡って反論に時間を取られてしまったので本題に戻りたい。先日来、ネットにある「アイヌ語などなかった」という反論について考えている。

この問題に着目するに至ったきっかけは「アイヌ語には標準語がなかったからアイヌ語は存在しない」という反論だった。この論を取ると明治期以前日本語という言語はなかったことになる。例えば薩摩ことばと会津ことばは違う言葉であり、明治期以前には標準日本語という概念はなかったからである。

単にそれはアクセントと用語のばらつきの問題だと思う人がいるかもしれないのだが、例えば福岡の言葉で「バスがこちらに向かっている」時、二つの別の言い方をする。

  • バスが来(き)とう
  • バスが来(き)よう

東京の人には同じに聞こえるかもしれないのだが、前者はすでにバス停にバスが停まっていることを示しており、後者はバスが今到達しようとしている(つまりまだ着いていない)ことを示している。たいていは副詞を伴って、もう来とうとか、いま来ようなどと表現する。

こうした言葉を学校で習うことはないので、ネイティブスピーカーは明確に分別しているわけではない。このため文法と実感はやや異なって捉えられているように思う。

  • 雨が降りよう :  雨が今降っている。今見ているからわかる。文法的には現在進行形にあたる。
  • 雨が降っとう :  雨が今降っているかあるいは降っていた痕跡がある。ただし「降っとうと」というと、今降っているのかと質問していることになり、過去に降っていたことを質問する「降っとったと」と弁別される。現在完了形に当たるのだが、実感には揺れがある。
  • 雨が降りよった・雨が降っとった : 雨が降っていた(自分が見て雨が降っていたことを知っている)が今は降っていない。過去進行と過去完了だが、いずれも過去のことなので実際には弁別されない。

つまり、福岡のことばには標準語や東京方言にはない現在完了形があるのだ。

相手の言語がないということを証明するためには言語の定義をしなければならない。そのために幾つかのツールを発明することになる。例えばそのツールを使うと実は自分たちの言語もなかったことを証明してしまうことがある。

もちろん、こうした反論が顧みられることはないだろう。「アイヌ語がなかった」という人はアイヌ語にも日本語にも興味がなく、単に「先住民族という名目でお金をもらっている人」に嫉妬しているだけだからである。だから、学問的には相手にするだけ時間の無駄だと言える。

もっとも、学術的に「アイヌ語と日本語は似ている」という人はいる。これだけでなくアイヌ語と南西諸島のことばは似ているという人もいるし、もっと南下して台湾の諸言語と似ているという人もいるそうだ。

多総合性という分析ツール

アイヌ語を見る上で言語学者が注目する特徴の一つに「総合性」という概念があるそうだ。孤立語、屈折語、膠着語という区分の他に、総合的言語と分析的言語という区分があるというのである。Wikipediaのいささかわかりにくい説明によると、総合的言語には極めて総合性の高い言語とそうでないものがあり、アイヌ語は極めて総合性の高い言語にあたり日本語はそうでない言語に当たる。

この総合性の高い言語の中には、ポリシンセティック(多的総合)という概念とインコーポレーティング(包合)という概念があるそうだ。この概念は二律背反するものではなく、ポリシンセティックでインコーポレイティングな言語もあれば、どちらか一つの性質しか持たないものもあるとされている。

この論文は総合性の高い言語のうちの多総合的言語としてのアイヌ語に着目している。ベイカーという言語学者の多総合的言語(ポリシンセティック)研究をベースにして、アイヌ語の性質をアメリカ大陸の諸言語との関係について言及しているのである。

アイヌ語の多総合性は「包合語」という概念でも語られる。これは動詞に様々な要素をつけてあたかも一つの文章であるような性質を持たせるという日本語にはあまり見られない統語方法だ。

日本語とアイヌ語を同系言語だという人がいるのだが、文法的には対極とはいえないまでもかなり違った言葉だとは言える。例えば日本語は「私は書く」というように、名詞にマーカーをつけて文法的な役割を持たせるのだが、アイヌ語では動詞に人称接辞がつく。このため「彼が言った」と「私が言った」は同じ語感を持つ別の動詞になる。逆に名詞にはマーカーがつかない。

もう一つの隣人 – 台湾諸語

ここまではアイヌ語と日本語の関係を見てきたのだが、日本の南部には台湾諸語という全く別系統の言葉がある。これは中国語とも違っているし、沖縄県で話されるうちなーぐちとも全く違っている。日本語千夜一話というウェブサイトでは台湾諸語について言及している。台湾諸語の特徴は、動詞が先にくる点、狭い範囲にお互いに意思疎通しない言葉(母音の数も言語によってかなり異なる)が混在しているという点と、接頭・接尾詞を使って言葉を増やすという点らしい。

総合性は極めて高いと言えるが、台湾諸語は包合語ではなく日本語と同じ膠着語として扱われているようだ。動詞が先にくるという特徴があり、極めて動作を重要視した言葉であると言える。一方日本語は動詞や結論は文の最後にくる上に主語が省略されるところから、極めて対象物への関心が高いという言語だ。主語が意識されないことから、発話者が思い描いた心象がそのまま特定されずに表現されると言っても良い。

それぞれの言語は異なった考え方をする

先日Twitterで「北朝鮮はアメリカのミサイルで日本がうちおとせる」という表現を目にした。学校では「〜は」は主語を作ると教わるのだが、英語的な構文にすると、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮をうちおとすとなる。つまり、この人の頭の中には北朝鮮という対象物が想起されたのでそれを念頭に置いているということになり、それが必ずしも文法上の主語でなくてもよいということになる。そしてそれを整理しなくてもなんとなく伝わる言葉なのである。

統語法はある程度思考を支配するということがわかる。その意味では、日本語は、文法を意識して明示的に情報を伝えようとする英語や中国語とも、動作を問題にする台湾諸語とも違っているということがわかる。

古い言葉には同じような性質がありそれがモダンな言語になるに従って分析的な性質が出てくるのだという言い方もしたくなるが、それも断定的なことは言えない。もっとも、英語や中国語のように話者が増えてくると文法的な複雑さが失われ、狭い範囲で話されている言語ほど複雑な総合性が現れるという特徴はありそうである。台湾では中国語が広く使われているし、北アメリカでも英語が流通する。多分複雑な文法を持っている人たちにとっては、中国語や英語の方が簡単な言語に思えるだろう。また、より多くの人たちに通じるという意味では「より優れている」(あるいは便利である)と言えなくもない。日本語はある程度の複雑さを残しながら域内の支配言語になったという特徴があると言えそうだ。

一つだけ確かに言えること – 日本語世界の複雑さ

もちろん、近隣言語を見ただけで日本語の起源などを軽々に語るべきではないのだが、一つだけ確かに言えることがある。日本語は全く異なった言語の結節点にあるということである。よくウラル・アルタイ系とひとまとまりに扱われる膠着性の強い言語群と台湾諸語のように動詞が文頭二くるオーストロネシア語、そして、北アメリカとシベリアにつながる多総合的言語に囲まれている。さらに、後世になって孤立語的な特徴を持っている中国語から何回にも渡って単語を取り入れている。

改めて各言語との文法上の関係を示すと次のようになる。その複雑さは、あるパーツを取ると近接言語と極めて近いのだが、かといって別のパーツは全く異なっているという具合だ。これを見ていると「日本語などという固有言語はない」と言いたくなってくる。

日本語と中国語:中国語には語尾はないのでわざわざカナを発明して語尾を記述しなければならなかった。つまり、文法構成は全く異なっている。ただし、日本語が多くの言葉を中国語から借用したので、辞書だけを見ると同種の言語ではないかと思えるほど似通っている。さらに、時代じだいに異なる音を模写したので、化石のように様々な読み方が保存されており、日本語の方が中国語の古い特徴を残しているということさえ言えてしまう。日本語は中国語から単語を取り入れた経験があり、英語の単語や概念を取り入れる際にも役立っている。「〜する」とつければ英語の動詞が全て日本語として利用可能なのである。

日本語と朝鮮・韓国語:固有語の語彙は全く共通しないのだが、’文法的には極めて近く偶然では説明ができない。例えば、〜がいます・ありますという言い方があったり、「は」と「が」の使い分けがあったりする。敬語という概念も共有するが、儒教発祥の地である中国語には複雑な敬語体系はないので文化的なものではなく言語的な特性といえそうだ。しかしながら、朝鮮・韓国語の動詞の活用は三段しかなく日本語の方が複雑だ。また「は」と「が」は基本的に同じように使い分けられるのだが微妙な違いもある。さらに日本では無生物と生物を区別するが朝鮮・韓国語はどちらも同じ言葉を使う。また、敬語も絶対敬語・相対敬語という違いがある。

日本語とオーストロネシア系言語:台湾諸語を含むオーストロネシア系言語と日本語は音節が似ているという説があるのだが、実は台湾諸語の中でも音韻にはかなりのバリエーションがあり確かなことはいえない。接頭語・接尾語が豊富だったり、畳重現象という共通点を指摘する人もいる。ただし、祖語を構成するほど強い関係性は証明されておらず、主に日本国内でしか通用しない私論がいくつか見られる程度である。

アイヌ語とオーストロネシア系言語:アイヌ語も台湾諸語も日本語(南西諸島のことばを含む)よりも複雑性が高い。ただし、これが系統的な類似なのかあるいは古くからある狭い地域で話される言語に特有の特性なのかということはわからない。アイヌ語には北アメリカ諸言語との共通性がありこれが全く偶然のものとも考えられないが、オーストロネシア系の言語と北アメリカ系の言語の類似性を解く研究はなさそうだ。

いずれにせよ「アイヌ語がない」という証明をする過程で「実は日本語などない」という結論に至る可能性の方が実は高そうだ。例えば語彙の変化に着目して、日本語は中国語の一部であると言えてしまうし、文法から見ると日本語は語彙が違う朝鮮語の一亜種であるというめちゃくちゃな結論さえ導き出せてしまう。もっとも楽な結論は日本語は近隣の言葉から様々な要素を取り入れており、独自の言語体系を作り出したのではないかというものである。

かつて「このままでは日本語が滅びる」というようなテーマの本が売れたことがあったのを思い出した。家族の価値観が崩壊すると民族の誇りが……などという人もいる。しかし、その論法だと日本語は中国語にとうの昔に滅ぼされていることになる。しかし、実際には「〜する」とか「〜的な」という膠のような特徴があるせいで、中国語が日本語の一部として取り込まれただけだった。多分、日本語が滅びる論者は悪い夢を見ているか、日本語の特性を過小評価しているのではないだろうか。

日本の独自性はその複雑さにある

もちろん「アイヌ語などなく日本語しかなかった」というような暴論を考察する価値はないのだが、それを緒にして調べてみると日本語についての理解が深まることがわかる。

日本人や日本語について考えるとき「その独自性」について言及する人は多い。しかしながら、実際に感じる日本語世界の魅力はその雑多さにある。全く異なった世界の結節点にありそれらの特徴を貪欲に吸収しつつ結果的には極めて独自性が高い言語世界を形成していると言えるのではないだろうか。

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日本人の政治的議論が折り合わないわけ

噛み合わない議論に巻き込まれた

先日書いたアイヌ民族についての文章に反論が来た。読んでみたのだが何が言いたいのかさっぱりわからない。最終的にはTwitterで返信をもらったのだが要領を得ない。引用はやめてほしいと言われたので、まとめると次のようになる。

「アイヌ民族などいないという文章は気に入らない」「読んでみると合意できる点も多いのだが」「やはりアイヌ民族などいないという文章は世間に悪用される可能性がある」

実際にはもっと長い文章で、散発的に二時間くらいかけて送られてきたので「こんなに短くまとめる」ことに対して反発はあるかもしれないのだが、実際の論理構成はこんな感じなのである。

最初は理解しようと思ったのだが、散発的に送られてくることもあり、途中で読むのが面倒になってきた。文章を書いた以上は話を聞く義務があると思うと反面、もうちょっと効率的に反論してくれればいいのにとも思った。

だが同時に、日本人特有のある構造がわかって面白いなとも感じた。

この人が問題にしているのは文章ではなく「周囲の評判」のようだ。この人は普段から「アイヌ民族などいないから補助金は返すべきだ」という主張について反論している。だから、このブログのタイトルにも反応したのだろう。

だが、冷静に考えてみるとこの文章を否定しても周囲にいる「アイヌ民族などない」という人たちの意見を変えることはできない。このように、対話をしている当事者と実際に問題になっている人が違うというのは実は日本人の政治議論を考える上でかなり重要なポイントなのではないかと思った。

日本人の会話が噛み合わない独特の構造

これがこの人特有の問題なのであれば特に文章を起こそうとは思わなかったと思うのだが、同じような特性は左翼リベラル系の人たちに多く見られる。

憲法第9条の<改悪>に反対している人たちに、例えば「あなたが想定する戦争とは何か」とか「憲法第9条には項目がいくつあるか」などと聞いてもまともな答えが戻ってこない。同じように共産党の支持者に「現在の労働者は株を買って資本家になれるし、正規労働者の組合はむしろ非正規を搾取する立場なのでは」などと聞いても同じような曖昧な答えが返ってくる。

どうやら彼らは対象物についてはさして興味がなさそうだ。最初は自分が部外者でリベラル村の住人ではないから「相手にされていないのだな」と思っていた。

  • まともに返事をくれないのだから、部外者扱いされてまともに取り合ってもらえない。
  • 相手に質問を理解する能力がない。
  • 実は相手は対象となっている項目に関心がない。

しかし、今回の場合、反論してきた人はトピックについて勉強はしているわけだし、まとまった文章を書いて反論してきたのだから意欲はあることになる。にもかかわらず同じような特性が見られるのはどうしてだろうか。

この人と話をしていて思ったのは、実は「あなた」ではなく「世間」が問題なのだということだ。つまり話を聞いてあげているつもりになっていても、実は最初から問題にされていないのである。

同じように憲法問題について話を聞いても、護憲派は実は話を聞いてくれない人に向けて語りかけているので、僕の顔など見えていなかったことになる。と同時に、話を聞きに来た人を説得しないのだから、いつまでたっても状況は変わらない。だから、日本のリベラル左翼の運動はあらかじめ失敗することが約束されているのではないだろうか。

何重にも世間に絡め取られている日本人

ここまでがワンフォールド(一折)である。これだけでも十分ややこしいのだがここにもう一折入る。それが日本人は個人の意見はなかったものとして考えるという特性である。例えば、人権や平和主義について考える時「私はお互いに思いやりのある国に住みたいから、人権を蹂躙するような発言には憤りを感じるのです」と言えばよいのだが、日本人は個人が意見を持つことを徹底的に嫌うので「世間はこうあるべきである」という風に課題をおいてしまう。

論の根拠というか出発点が「世間」に置かれており、さらに説得するのも「世間」なので、当事者同士で話をしても全く折り合いようがない。「世間」の意見が変容するとしても意見を変えるのは個人なので、意見変容が起こらないからだ。「Twitterの議論は無駄」という話はよく聞くが、その理由は当事者がそこにいないからなのではないだろうか。

今回も「アイヌ問題があなたにとってどう大切なのか」ということを聞いてみたのだが、やはり世間を主語にした言葉が返ってきた。さらに「何かの団体に属しているわけではなく」「世間にどんな波紋があるかわからない」ので自分の意見を発信する意味はないという言葉までが戻ってきた。

普段から「日本人は個人を徹底的に否定する」などと書いているのだから、こうしたことはわかっているつもりなのだが、実際に自発的に徹底して個人を排除しようとする姿をみるとやはり異様に思えてしまう。政治的にあるポジションにかなり強力にコミットしているのに、なぜここまで個人を消したがるのかということがさっぱりわからない。

この徹底的に個人を排除するという姿勢は「意見表明」や「情報発信」では顕著である。これは表面的に見えるのでわかりやすい。しかしその裏には意見訴求の相手としての個人も受け入れられないという側面が隠されているようだ。これが今回の一番の発見だった。

ところがここでさらにもう一折入る。個人の意見が何もないのにポジションにこだわるのは「自分の主張がどの程度受け入れられるか」ということが社会でのポジションの誇示につながるからだろう。だから、根拠が個人にない意見を表明してポジションにコミットするとそれを変えられなくなってしまう。社会ポジションを認知するのも当事者ではなく「世間」である。

さらにこの世間は個人の価値観の中にも入り込んでいる。主婦には社会的な価値はないという世間の評価を一番内在的に持っているのは主婦当事者だ。そこで「子育てをしている女は無価値である」という評判を聞くと「全てが否定された」気持ちになる。

ここまで考えてきただけでも、日本人は四重に「世間」に絡め取られていることになる。実際には個人の価値観と世間の評価の間には反響があるのではないかと思う。このようにして、世間はある蜘蛛の巣のように個人をからめとっているのではないだろうか。

憲法議論の錯綜

さて、この個人の徹底的な排除は政治議論にどのような影響を与えるのだろうか。ここではいくつか例をあげて見て行きたい。

まず手始めに憲法議論について考えてみよう。実利的な問題には落とし所があるが憲法問題は自由に決められるので却って落とし所が見つからなくなるという特性がある。

安倍首相はどうやら憲法を変えたいと思っているようだ。だが彼の成育歴を紐解くと「おじいさんのため」あるいは「お母さんから言われたから」憲法が問題になっているということがわかってくる。つまり人から言われたからそうしたいと考えていることになる。

やっとのところでそれを自分の問題だと消化したところで、今度は周囲から「勝手に憲法を変えようとしている」と言われる。そしてそれを言っているのは主に身内である。

だが、自民党の人たちが憲法を大切に考えているようには思えない。支持者を得るために急進的な人たちに近づいた形跡のある人もいるようであり、安倍首相の人気が高いから従っておこうと考えている人たちもいる。

そこで、集団でなんとなく何か変えればいいのではないかということになる。あるいは野党時代に作ったように誰が主導したのかはわからないが徹底的なルサンチマンによって成り立ったドラフトもある。この結果、自民党の憲法議論は、誰も最終的な責任を取らず撤回もされなければそれを元に議論するでもないというとても中途半端なアイディアが次から次へと浮上してくる。

さらにこれに反対する方も「議論の中身はよくわからないが」とにかく「自民党が言い出したことが気に入らない」という人たちがいて「自分の意見ではないが」「別に実質何も変わらないのなら憲法を変えなくてもよいという空気がある」などと言っている。

ここまででも十分複雑なのだが、この二つのパーティーの間の議論は実は当事者間のものではない。憲法に興味がなくなんとなくその場の雰囲気に飲み込まれて判断しそうな「一般有権者」が問題になっている。賛成派はタレントを巻き込んで宣伝すれば世間が流されるだろうと考えており、反対派は有権者は馬鹿だから軽々な判断をしないように釘をさしておこうとする。

つまり、皆が重要だと言っている憲法を本気で変えたいと思っている人は誰もいない。興味がない人がいかに自分に都合が良い判断をしてくれるかということを期待しているという人ばかりが議論に参加しているのである。

日本人が無駄な議論を繰り返しているうちに、憲法第9条の議論だけを見ても、前提条件になる東アジアの勢力図は急速に変わりつつある。ここ一年だけを見ても数ヶ月の間に北朝鮮を封じ込めるという姿勢から対話路線へと急速に転換しつつあるのだが、国内の議論がそれを織り込んだ様子はない。

「国際世論への訴求」という不毛

この「実際のキーパーソンが議論の中にいない」問題は国際問題にも波及している。例えば慰安婦問題も韓国と日本の問題のように思えて、実は当事者は「アメリカ」だろう。日本政府は、韓国や慰安婦の人たちにはさほど関心はない。このために、謝罪がとてもおざなりになものになり「日本は金で口封じをしている」という印象が韓国人の態度を硬化させる。

ここまでは主語を日本人と置いてきたのだが、実は韓国の方も日本を問題視しているわけではなさそうだ。だからサンフランシスコに銅像が立つ。韓国人の目的もまた「被害者としてのかわいそうな姿勢を世界(特にアメリカ)にアピールして「日本人の顔に泥を塗ること」なのだろう。

そう考えるとなぜ日韓合意にアメリカが関与したのかがわかってくる。どちらもアメリカに対して自分たちの立場を認めさせたいのではないだろうか。

このことから「世間を問題にする」というアプローチをとるのは何も日本人だけではないということがわかる。極めて東アジア的とも言えるしもしかしたらアメリカなどの個人主義の国にも同じようなことが起こり得るのかもしれない。

アメリカなどの個人主義の国には、世間の態度を変容させるために個人の意見を変えるというブレーキがある。日本や韓国のような集団志向が強い国ではこうしたブレーキが効きにくいのではないかと考えられる。多分アメリカは「当事者間で話し合ってくれ」というのだろうから、この慰安婦の問題が解決することはないのかもしれない。

解決策を個人を大切にすること、なのだが……

ここまで見てくると「個人の意見を重要視すれば政治的な問題は解決する可能性が高い」ということがわかる。一人ひとりの意見を変えて行けば、やがて世間も変わるからだ。だが、実際に政治的議論をやってみるとそもそも個人として問題提起するのも難しく個人としての意見を貰うのも困難だということがわかる。

もちろん、適切なモデレーションがあればそれなりに意見交換することはできるのだが、それはとても疲れる作業でもある。このためついつい「問題をなかったこと」にして異なる意見をブロックしたり、相手を人格攻撃したり嘘を並べてたりして議論そのものを無効化しようとする態度が横行するのではないかと思った。社会からはじっくり腰を据えて議論をする余裕や時間はなくなっており、気に障る意見は次から次へと流れてくる。

個人にアクセスしないかぎり政治的な問題は何も解決しない。そのうちに年収が200万円以下というアンダークラスや、政治的議論に参加する時間的余裕も精神的余裕もない中間層などが生まれて、どんどん政治や社会問題に対する関心が薄らいで行く。さらに、それがアンダークラスを増加させるという悪循環が生まれるように思えてならない。

個人の意見を大切にしないということは、実は我々の社会に大きな弊害をもたらしているのではないかと思う。

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反論の技術

ブログを書いていると時々反論がくることがある。だが、反論の中身を読んでみてもよくわからないことが多い。最初のうちは少し忖度して「こういう意味ですか」などとやっていたのだが、これはあまりよいやり方ではないようだ。たいていの場合相手は怒っているので、さらに「お前はわかっていない」とやられてしまう。だが、これはまだ良い方で本当に何を言っているのかわからない人も多い。

このような経験を積み重ねるうちに反論する技術がないと相手に反論していることすら伝わらず、単に不毛な言葉のやりとりになってしまうのだなと思うようになった。

そこで改めて反論の技術について考えてみたい。いろいろと書いているのだが、読んでもらえなさそうなので、短くまとめた。


  • 一晩置く
  • パーソナルに取らない
  • Twitterは使わず、適切なメディアを使う
  • 構成を考える

リアクティブな反応は一晩置く

第一の技術は「技術」というほど大げさなものではない。自分の考えと違ったものを見ると即座に反論したくなるのだが、それはまとまりを欠く場合が多い。つまり、一晩置いてよく考えた方がよいと思う。もちろん、ニュースのコメンテータのように瞬発力で生きている人もいる。同じように即座に反論を書いてもそれなりに通用する文章が作れる人もいるのだろうが、こうした才能に恵まれていない人や経験の乏しい人が真似するのは難しいと思う。少なくとも僕にはできそうにない。

さらに、いったん反論を書いたら相手の論を見直してみるのも重要かもしれない。意外と「あれ、本当はそんなこと言ってないな」というものも多い。

もちろん、すべてのテーマについて冷静で居られるわけではないのだろうが、本当に大切で伝えたいと思うならできるだけ冷静になった方が良い。

パーソナルに取らない

次のコツは個人的に取らないということである。これには日本人独特の難しさがあり、別にエントリーを立てて今回の事例とともに考えたいと思う。個人的に取ってしまうと「否定されたらどうしよう」と思ってしまい、なかなか思い切った文章が書けない。練習するなら、あまり自分とは関係がないトピックについて意見を書く練習をすればよいと思う。

中には個人攻撃を仕掛けてくる人もいるが、少なくとも学術的には反則行為だし、そもそも合意するつもりもないのだろうから放置しても構わないと思う。「反論がないということは負けを認めるということなんだ」なと言いたがる人もいるが、そもそも勝ち負けではない。

議論の対象になるのは、例えば「日本は核武装するべきか」とか「アイヌ人は存在するか」というトピックであって、その議論を行っている人の品評会ではないということは覚えておくべきだろう。

Twitterは使わない

Twitterは便利なメディアだが討論に向かない要素がいくつかある。試しに今回の人はTwitterで書いてきたが途中でまとまりがなくなり、論が最初に戻ってしまった。どうやら、論の途中はあまり主張とは関係がなかったようである。

このことから、できればTwitter意外の効果的なツールを使った方が良いのではないかと思う。ここであらためてTwitterの不便な点をまとめてみよう。

  • 文章が細切れになる → まとめて書くことができるツールを使う
  • 書き直しができない → 自分に編集権限があり推敲できるツールを使う
  • リアクションが追いにくい → コメント欄、ピンバック、いいね、リツイート数を使ってリアクションが追えるようにしておく

Twitterはレスポンスがすぐに戻ってくるのでサウンディングのツールとしては使いやすいと思う。情報収集には向いたツールだ。実際に、政治家の中にはサウンディングのツールとして利用している人もいる。少し無茶なことをつぶやいてみて反応を見ているのだ。

オンラインには無料で使えるツールがいくつもある。Wordpressも無料版があるし、Tumblrも利用できる。オウンドメディアであっても月々ワンコイン程度で利用できるものは多い。特に社会運動的な要素のあるものなら同じ興味関心を持った人たちを集めて情報発信すべきだろう。

なお、このブログについているDisqusもミニブログのように使える。単にコメント欄だと思われていることが多いようなのだが、実際には作者ごとの発言が追跡できるし、もちろん気に入らなければ書き直しもできる。つまりオウンドメディア(自前のメディア)がなくても自分の意見が書けるようになっている。ただし、Disqusは他人のブログを使っているので、掲載権はブログの持ち主にある。まとまった意見があるなら自分のメディアを持つべきではないだろうか。

構成を考える

構成を考えることは重要である。今回は反論なので立場を提示してそれに対してどのような意見を持っているかということを最初に書くべきだろう。そのあとに理由を付け加えて行くと良いのではないかと思う。

反論の場合はわかりやすいのだが、実は賛同に見える方が実は厄介だったりする。賛同しているように見えても勘違いをしているのではないか思える意見に遭遇することがある。重要なのは前提条件である。つまり、ポジションは対象物に対する仮定(たいていの場合事実と呼ばれる)によって成り立つのだから、その仮定も同時に明示してやるべきなのだ。

反論および賛同に必要な要素を挙げてみよう。

  • トピックの提示
  • 相手の意見の再確認
  • 相手の意見に対する自分の意見(立論)
  • 前提条件や理解の提示
  • 立論をサポートする論拠を複数
  • 結果の再確認とまとめ

意外と自分が考えている世界観は相手と共有できていない。自分がどう解釈したのかということを提示したり仮説について再提示するのは意外と重要なのではないかと思う。仮説や価値観が違うなら結論が違っても止むをえないのだから、たとえ答えが違っていてもそれを結論を許容する理由になる。

文章を書き始めた当時には何にでも使える魔法のようなルールがあるのではないかと思っていたのだが、そのようなものはないようである。文章の構成にはいろいろな形があり、それを使い分けることになる。

もちろん、俳句の型のような簡単な構成というものはある。ポジションを提示した上で理由を3つ付けて補強し最後にもう一度自分のポジションを提示するというものだ。

  • 立論とその背景
  • 理由
  • 理由
  • 理由
  • 結論

確かに、このやり方をとると簡単に論をまとめることができるのだが、実際にはこのようにはいかないことも多い。相手の言い分からも学べるところがあったり、討論の対立構造に再考の余地がある場合があるのだ。小池百合子東京都知事が流行らせた「アウフヘーベン」である。実は枠組みが思考を支配しているということが多く、枠組みを変えてみることでもっと自由な思考が得られたりすることもあるということだ。

構成を考えるのに特別なツールはいらない。白い紙を出してきて思いつく要素を並べてゆくのがよい。どうしてもパソコンが使いたい場合にはマインドマップアプリを利用すると良いだろう。その場ではまとまらなくてもしばらく時間が置くと再構成ができていることが多い。いったん形にしてしまうとそのあとでも脳が「裏で計算」してくれているようである。

反論はなぜ重要なのか

以上で反論の技術についての考察は終わりである。ここでまとめに代えて、なぜ反論が重要なのかということについて考えてみたい。理由は三つある。

まず、反論の第一の目的は相手に自分のポジションをわかってもらうことである。閉鎖された村のようにみんなが同じ価値観を持っているのならその必要はないが、価値観が多様化した現在では自分の立場を理解してもらうことは重要である。

加えて、反論には相手に知らない知識を与えるという役割もある。もちろん職業的な言論人の中には生活のためにわざと複雑な事情を無視して単純化している議論を繰り広げている人もいるわけだが、そうでない場合には情報を与えることで意見を変えたり同居ができる程度に折り合いがつく可能性もあるのである。

この二つは相手や社会のための行為なのだが、実は反論は自分のためにも役立つ。ある程度構成のある文章を書こうとすると調べ物をしたり言葉の定義を整えたりする必要が出てくる。すると、自分が考えていたトピックについてさらに詳しく知ることができる。

例えば「憲法第9条を守るべきだ」という文章を書くならば、その前提になる戦争について調べるはずである。自然と「自分が考えている戦争というのは一体何なのか」ということを考えざるをえなくなるはずだ。単に勉強会に参加して他人の意見を鵜呑みにしているだけでは前提に踏み込んで物事を考えることはないだろう。

このように反論にはいくつもの利点がある。何か自分にとって大切な問題があるなら、建設的に反論をする技術を身につけるべきだと思う。

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100円ショップの泡立て器(ホイッパー)は使えるのか

限られた道具だけでお菓子を作って生活を少しでも華やかにしたい…… 突然だが、炊飯器と100円ショップにある素材だけでケーキを作ろうと思い立った。

いろいろ調べていると、セリエで売っているホイッパー(泡立て器)が使えるという評判を見かけた。ネットの評判だと小さいのによく泡が立つそうだ。なんか期待が持てる。

早速買ってきたのだが、なぜか台紙が2枚付いていた。さすが中国製だ。

まずクリームを試した。スジャータの植物性のやつを(あまり考えもなしに)使った。5分ほどで泡が立った。ただしケーキに使うと少し柔らかめだった。泡が立ったからといって満足してはいけないらしい。そこで今度は10分ほど泡立ててみた。すると、いわゆる「ツノが立つ感じ」で仕上がった。冬の室内なので15度くらいの温度だが氷には当てていない。

ということで、憧れの「家でスタバ」ができたわけだが、これはあまり美味しくなかった。多分スタバのクリームは植物性のものと動物性のものを混ぜているのではないかと思う。植物性だけではコクが全く足りない。マクドナルドとかコンビニのコーヒーについてくる「フレッシュ」の味がするのだ。


  • セリエの泡立て器はクリームには使える。
  • ただし、植物性のクリームはコーヒーには合わない。
  • あと、一回作ると大量に余るので、一杯だけ飲みたいならスタバに行った方が良い。スタバすごい。

さて、気を取り直して今度は卵の泡立ての方を試してみよう。結論からいうと10分程度泡立てても期待通りの泡立ちは得られなかった。実験のために大型の泡立て器でやってみたところいつも通りに5分ほどで泡が立った。この小型のものは卵用には使えなさそうだ。あと、小さいもので力いっぱい泡立てていると余分な力が加わってしまうので手が疲れる。


  • 大型の泡立て器ははセリエには売られていないのだが中ぐらいのものはあるので、ケーキ作りのためにはそっちを買った方が良い

これが、炊飯器で「焼いた」ものなのだが、卵一個だと5分ほどでスイッチが上がってしまう。10分以上加熱するためには水を入れることになるわけのだが、今度は蒸しケーキみたいになってしまい、いずれにせよ膨らまない。写真のようにぺったんこの仕上がりになる。

膨らませるためには、卵を3つくらいで作るか、ベーキングパウダーを加えた方が良いと思う。実際に「炊飯器でケーキを作ろう」という類の本ではたいていベーキングパウダーが使われている。何にでも理由はあるんだなと思った。

さて、実験のために、オーブンでも作ってみた。分量通り(卵一個・小麦粉35g・砂糖45g)で作ったのだが、実はこちらも前に作ったみたいには膨らまなかった。「大きい泡立て器で作ったから泡は立ったのにどうしてだろうか」と思った。前との違いはいくつかある、卵液を湯煎しなかったということと、小麦粉を一度に入れて力任せにかき混ぜたことである。手順では50度くらいまで湯煎にかけることになっているのだが、これが意外と重要なんだなと思った。

以前、「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」に書いてあった手順を守ってやったものはこんな感じでできあがる。同じ分量で湯煎をして大きなホイッパーで泡立てたものだ。


  • ケーキを膨らませるためには卵液を大きな泡立て器で泡立てるべき
  • 卵液は必ず湯煎する

最後に炊飯器レシピで作ってみた。炊飯器レシピにはいくつかの違いがある。

  • スポンジケーキより多めの小麦粉が使える。スポンジケーキは卵一個あたり35gだったのだが、こちらは40〜50g入っている。
  • ベーキングパウダーが小さじ一杯入る。
  • あとは混ぜるだけ。難しい工程は一切ない。
  • あとは炊飯器で15分ほど蒸すだけ。

厚みは前に作ったケーキと同じなのだがふわふわ具合が全く違っている。砂糖を入れてデザートにもできるし、塩を入れて野菜と混ぜればご飯系になる。

なお、ベーキングパウダーと重曹は同じ成分なのだそうだが、重曹の方が純度が高いそうで、同じ分量を入れると苦さが増してしまうそうである。ベーキングパウダーには他にもコーンスターチなどが入っており口当たりをよくする工夫がなされているそうだ。

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ネトウヨは弱さ

ネトウヨというのは何かとイライラさせられる存在なのだが、近すぎて冷静に判断ができない。だが、海外の同種の人を見ていると少し冷静に観察することができる。

Quoraで「日本人には銃の所有を認められているのか」という質問があり、ちょっとした皮肉も含めて刀狩りについて取り上げた。日本では1600年までに民衆の武装解除があったので今では安全な国になっていますよと書いたのだ。書きはしなかったがアメリカは400年遅れていますねという含みがある。

すると反論が来た。めちゃくちゃな反論を見ると少しイラっとするのだが、同時に「ああ、ネタができたな」などと思ってしまう。

この反論はところどころはあっているのだが何かが間違っている。完全な空想によってできた話ではない。事実がパッチワークのように散りばめられているのだが、それが空想というパテによって埋められている。この反論の筋書きは、刀狩りで武器を取り上げられたから日本はファシストの国になり今では自殺大国になったというものだ。

安全な国でないのに武装解除をするとその国は野蛮で抑圧的になる。日本の農民たち激しく怒っており、武器をあきらめたわけではなかった。銃器が禁止されたのは支配していた将軍が危険を感じたからだ。農民は抑圧され個人の自由はなかった。

この圧政は第二次世界大戦まで続き、暴力的なファシスト制度になった。結果的に何百万人もの日本人が殺される大惨事を招いた。

今日では政府とヤクザだけが武装している。組織化された犯罪者が多くの人を殺しているがこれは警察により隠蔽されている。

日本人が抑圧に満足していないのは明白だ。個人の自由がないので創造力が欠如している。さらに、銃を必要としない自殺が蔓延している。

日本が第二次世界大戦に突入したのは日本人が抑圧されていたからではない。仮に戦前の政権がファシスト政権だったとしてもそれは不完全な民主主義制度の結果である。なんとなく、スターウォーズの最初の最初の三部作の世界を想起させるが、これがアメリカ人が考える個人の自由のない国の姿なのだろう。

実はこの反論は「自分たちの国で銃犯罪が蔓延しているのにそれを止められない」という無力さの裏返しになっているのではないかとも考えられる。それを正当化するために「それでも自分たちには自由がある」と思い込みたがっている。だが、それだけで不安が払拭できるわけでもないので、普段見聞きしている断片から「日本は抑圧されていて惨めな国だ」として相手を落とそうとしているのである。

この姿は日本のネトウヨに通じるものがある。ネトウヨが信じたがっている中国人は共産党政権に抑圧されているかわいそうで貧しい人民だろう。最近の中国でこうした画を撮ることは難しいので北朝鮮の画が代わりに使われたりする。

高度経済成長きにも同じような思い込みはあったが、中国や北朝鮮を攻撃するということはなかった。なぜならば、高度経済成長期の日本人は成長だけを見ていたので、ヨーロッパやアメリカの先進性にばかり目が行っており、中国を気にすることなどなかったからである。

いずれにせよ、アメリカ人が日本を貶めたところで(もしそれが真実であったとしても)問題は解決しない。

確かに日本人は人生にあまり満足しておらず、自殺が多いのも確かである。だが、それは我々の問題なので外国人には関係がない。と同時にアメリカに蔓延する銃で大量殺人に苦しんでいるのもアメリカ人の問題なので関係がないといえば関係がない。

一つこちらが間違っていたとすれば、他人の問題に首を突っ込んだことなのかもしれない。

こうした我々とは今後関わることがないであろう人の書き込みを見てもあまり苦痛に感じることはない。さらに日本の歴史について教えるのも時間の無駄にしかならない。そもそも日本には興味がないだろうからだ。

同じことがネトウヨにも言えるので、相手にしないのが一番なのだが、ネトウヨの書き込みをみるとイライラして反論したくなるのだろうか。それは「みんなが同じように感じているのではないか」という焦りを感じるからではないかと思う。例えば、中国が攻めてくるから日本も軍隊を作って先に攻撃しなければならないなどという話を聞くと「みんながそう思ったらどうしよう」などと感じてしまうのである。

だが、実際に問題なのは実はこの人たちではない。普段から政治を見ていて思うのは、実際の敵はこうした人たちではないのではないかということである。むしろ、興味も関心もないから動かないという人たちの方が問題なのではないかと思う。ネトウヨにいくら反論しても無知からくる思い込みを変えることはできない。

例えば「低所得になるのは自己責任だ」という話があるのだが、実際に問題になるのは漠然とこうした話を信じており自分たちの思考の枠組みを変えない人たちである。いくら憲法がすべての人に文化的な生活を保証してもこうした人たちの思い込みを変えないかぎり憲法の精神は生きてこないのだ。

ネトウヨというのは自分たちが解決できない問題を直視する代わりに相手を貶めたいだけなのだということがわかる。こうした「ネトウヨ性」は日本だけのものではなく、アメリカでもヨーロッパでも観測できる。Twitterを見るとこの手の<議論>が蔓延しているので、なんとなく相手にしたくなるが本来の敵はそこにはいないのではないかと思う。

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コンピュータグラフィックス作品を作ってYouTuberになる

昔作った曲をYouTubeで発表する

1990年代にMacintoshを買ってしばらく作曲をしていた。当時はハードウェアの音源をシーケサーソフトで鳴らすという構成だった。

Yamahaのサイトで見ると希望小売価格80,000円ということだったので、定価ではないにしてもかなり思い切って買ったのではないかと思う。FM音源とPCM音源を掛け合わせて音を作っている。FM音源はいわゆる1980年っぽい「シンセっぽい」音がする機構だ。

ある日「YouTubeで発表できるんだ」と思いつくまで、このTG-33で作った曲は単に埋もれてしまうんだろうなあなどと思っていた。作った曲はプレイリストを使って共有もできる。

ただし曲だけでは発表はできない – 動画が必要

調べてみるとYouTubeは曲だけをアップすることはできないようだ。だからどうにかして映像にする必要がある。iMovieというムービーを作るソフトを自分が持っているのは知っていたのだが、なんとなく使い方が難しそうで諦めていた。

そこで意を決して使ってみたのだが、ウィンドウにフッテージを並べてゆくだけで映像が作れる。YouTubeの作品を見ながら、なんでこんなにビデオが量産できるのだろうなどと思っていたのだが、こんなに簡単に作れるんだと思った。

ビデオの作成はAfter EffectとPremierという思い込みがあり敷居が高いと思っていたのだが、完全に裏切られた。あっけないほど簡単だった。凝ったものの場合には別途グラフィックスの作成が必要なようだが、基本的なことは全てiMovieで行えてしまうのだ。圧縮技術も進んでいて数分なら100MB程度で済んでしまうし、かつてのように圧縮方式を選んでくれなどという面倒なこともない。

ただ、テレビをみると名前の入ったキャプションが細かく動いていたりなど、それなりの工夫が凝らされている。iMovieはレイヤーの数が制限されているので、あまり複雑なことはできない。意外とこういうところにお金がかかっているのかもしれないと思える。

音源は全てiTunesに取り入れてあったので、これにタイトルをつけて「共有」をするだけで音楽作品が映像になった。これをアップしたところ、ほんの数分で世界公開ができた。

調子に乗ってコンピュータグラフィックに挑戦する

iMovieを使っているうちに、これだったら映像作品とかも簡単に作れるんじゃないのかと思った。

手持ちに映像のフッテージがないので、昔使っていたPowerMac G4を取り出してきてClassicでStrata Studio Proを動かしてみた。ほとんど使い方を忘れていたのだが、なんとなくアニメパレットを動かすとなんとなく動いた。これも凝ったものは作れないのだが、直感的に動くのが良いところである。これにGarageBandで適当に音楽をつけたところ、意味不明ではあるがCGが完成した。Strataは今でもハイエンドな製品を作っており最新版は10万円程度ということである。

レンダリングについて復習する

3G作品を作る上ではレンダリングをしなければならないのだが、Phong Shadingを使うとロースペックのマシンでもそれなりのスピードで処理をすることができた。Phong Shadingは荒いという印象があったのだが、改めて見てみるとそこそこ使える映像になっている。Strata ProにはRay Tracingという光線をシミュレートするシェーディング方法もあるのだが、計算が複雑で15フレーム(15フレーム進行で1秒にしかならない)を計算するだけでも一時間かかった。10秒10時間だ。マシンのスペックのせいもあるのだろうが、現在では純粋なRay Tracingはあまり使われず他の方法などを組み合わせるのが一般的なのだそうだ。せっかくなので、代表的な三つのシェーディングを比較してみた。

グーローシェーディングと読むそうだ。テクスチャが全くわからない
フォンシェーディングはテクスチャがよくわかるのだが、影にもテクスチャが出てしまう。光をシミュレートしきれていないようである
光まで考慮に入れたレイトレーシングだが、計算にとても時間がかかる

Classicからのファイルの移動

Classicからファイルを動かすのに少しコツが必要だった。ClassicからOS Xにファイル共有をすることはできない。OS XからClassicにアクセスすることは可能だがOS10.5からはアクセスできるのだが、El Capitanからアクセスすることはできなくなっているようだ。もはやそんなことを試す人がいないからなのか、なぜそうなるのかを開設した文書を見つけることはできなかった。

そこで、いったんOS10.5が動くマシンにファイルを転送してから、El Capitanが動くものに移動させなければならない。OS10.5にもiMovieはあるのだが画面アスペクトが4:3になっているので、できるだけ新しいソフトが動くほうがよいのである。

そうやってできたのがこれである。

思いつきフッテージなので全く意味はないのだが、簡単にできるんだなと思った。よく考えてみると昔は配信するのが一苦労だった。これを全部やってくれるYouTubeというのはあらためて物凄いい発明なのだと思う。

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ベッキーさんのリンチ(私刑)ショーなどについて考える

年末にダウンタウンの浜田さん関連の2津の番組が炎上しているのを知った。これがまだ尾を引いているようで様々な観測が流れてくるのだが、例によって反応が二極化している。一方は人権を念頭に置いて浜田さんは野蛮だと言っており、もう一方は日本人は日本人の規範を持ってさえいれば何も恥じ入ることはないのだと開き直っているようである。

さらにこの2つの問題はほぼ同等のものと捉えられているのだが、実際にはベッキー問題の方が根が深い。現実世界でいじめがどう隠蔽されているのか、観客がどう加担しているのかということがよくわかる。また、その奥を下がって行くといじめが我々の世界で麻薬のように働いているということもわかる。そして、そのことに多くの人が気がつき始めている。

そもそも、これらの問題において、どちらの側が正しくてどちらが間違っているのだろうか。

正しい笑いについて正面から捉えようとすれば「笑い」の本質について考えなければならなくなる。ベルクソンの笑いについての分析が有名である。ベルクソンは笑いは社会的な何かであり、結果として緊張の緩和が生み出されると考えた。つまり、笑いが起こるためには見ている人たちが共通の了解事項を持たなければならないということになる。たかがお笑いなのだが、実は社会批評に使えるのである。

エディー・マーフィーはこの「了解事項」の枠組みのわかりやすい例だ。エディー・マーフィーのビバリーヒルズ・コップについて知っている人たちはある程度の年齢層の人たちであろう。原典がわからないとこの笑いを共有することができない。従って浜田さんはかつて獲得した人たちをターゲットにして笑えるコンテンツを作っていることになり、それは同時に新しい人たちを獲得できていないという意味を持っている。

この枠組のずれが作り出したのが今回の騒動である。

アメリカの文化に詳しい人はこの笑いから「ミストレルショー」を想起してしまう。テレビなので当然こうした人たちの目にも触れるし、二次的に消費される過程でTwitterにも広がり、さらにそこから海外にも発信される。教養のある人ならそれが黒人の屈辱に結びついているということをよく知っているだろうし、さらに教養があればアメリカでは東洋人も嘲笑の対象になっているということがわかる。

アメリカには第二次世界大戦当時のプロパガンダに端を発するつり目で意地悪な日本人の類型があり、性格は疑心暗鬼で狡猾なものと決まっている。日系人はキャンプに封じ込められて差別された歴史がある。浜田さんの外見はこの類型に当てはまる。甲高い声で童顔のみっともない東洋人なので、差別される人が他人種を差別して悦に入っているという、とても醜悪で正視しがたいものに見えてしまうのである。

我々が浜田さんに容易に同意できないのは、視聴者がもはや同一の視点を持っておらず、従って笑を共有できないからだ。ある人は昔を想起して懐かしんでいるだけなのだが、別の人たちには許しがたい暴挙に見える。さらに<議論>に参加する人たちのなかには、ジャポニズムもいけないことなのかとピントのずれた議論をしている。彼らはこうしたコンテクストを共有していないのでこの笑いの埒外なのだが<議論>に参加して人権擁護派の鼻を明かしてやりたいと考えている。こうして<議論>はなんら解決策を持たないまま発散してしまう。

今回話題になった二つの問題のうち、和製ミストレルショーはまだ軽い方の問題だ。もう一つのベッキーの問題はさらに深刻な問題を孕んでいる。笑いは共感を通して集団が結束するために有効に働くのだが、その共感のメッセージが問題になってくる。ベッキーさんは芸能界という村にしがみつきたいと考えており、そのためには笑い者になって人々の結束に奉仕せよと言われているのである。さらに悲劇的なことは、いじめのターゲットになったベッキーさんは「あれは美味しかった」ということで、加害者側を正当化するメッセージを送っている。

もちろんこれを「コミュニティに受け入れてもらっているのだから愛である」と捉えることは可能かもしれない。しかしながら実際には玩具として村から弄ばれているだけであり、慰み者か生贄になっているにすぎない。そして、同じようなちょっとした間違いを犯した人たちに「生きて行きたければ、慰み者になれ」という搾取を正当化するメッセージを送ってしまうのである。

無論ベッキーさんが意図してこのようなメッセージを送っているとは思えないのだが、実際には芸能事務所の制裁的な感情があることは間違いがない。つまり「正しい側」として売り物にならなくなったジャンク製品をどうにか二次利用してやろうということだ。

しかし、なぜ社会は慰み者を必要とするのだろうか。

笑いによってもたらされるのは緊張の緩和だ。つまり、笑って見ている人たちが「社会的に真面目な人生」を生きており、「真面目でない人たちに暴力をふるってもよい」と考えていることになる。つまり鬱憤を晴らすためにベッキーさんを生贄として屠っているということが予想される。彼らは、潜在的に「正しくないもの」として叩かれる危険を感じているか、「正しいもの」なのに十分な報酬をえていないと感じているのではないかということがわかる。

しかし、いじめている側は明らかに「いじめはいけないこと」と感じている。観客は正しいものとしてそこに存在するのだからそれはいじめではなく愛あるいじりでなければならない。侵略戦争をする側が「キリスト教で善導してやるのだ」とか「アジア民族を解放してやるのだ」と言いたがるのと同じことである。

そこで「許してもらうための禊であり、本人もありがたがっている」という体裁付けをしており、これを本人にも言わせている。これはいじめをいじりとして隠蔽するのと全く同様のよくある手口であり、ベッキーだけではなく、学校や職場で普段から行われているいじめの正当化にもつながりかねないという危険性がある。

この背景には「真面目に生きている人たち」が、誰か不真面目な犠牲者を引き合いに出さないで自分たちを正当化できないという事情があるのではないだろうか。つまり、我々の社会はどういうわけか誰かを犠牲なしには成り立たないほど緊張しているということになる。そこで、道を踏み外した人たちが常に必要とされるのだ。こうした社会の一番の危険は、つまり「この人は道を踏み外している」という指摘があれば、誰でも私刑の対象になり得るということである。いったん指を指されたら最後、もはや社会の奴隷として生きてゆくしかないということになる。間違いを償う道はなく「蹴られても文句は言えない人」として生きて行くか、別の人をいじる側にならなければならないのである。

私たちが人間関係の軋轢に接した時には二つの反応があり得る。一つは社会を改善することを通して問題を解決するという方法で、もう一つは誰かをいじめる側に回ることでうさを晴らすという方法である。実はこの二つの反応はちょっとした変化によってどちらにも触れ得るのではないかと思う。いじめの容認は、その場では簡単な方の解決策なのかもしれないのだが、蓄積すると問題解決をより難しくするのだと思う。

どちらの問題も「人権上の問題」という共通点があるのだが、実は構造的にはかなりの違いがある。和製ミストレルショーの場合には「アメリカの事情など知らない」という議論は十分に成り立つ。そもそもダウンタウンの芸はいじめの一種であり、日本では長い間これが当たり前のように流通してきた。例えばこれを韓国やタイなどの暴力に敏感な国に輸出することはできない。その意味ではもともと内向きな笑いの一種といえる。才能が枯渇して過去にすがるしかなくなったコメディアンが過去の栄光にすがっているだけと考えることができる。

だからこそベッキーさん問題が出てくる。弱いものを叩いて社会の笑い者にする方が、より多くの人にリーチできる。ワイドショーが好きな主婦から学生までこうした「笑い」を理解できる人は多い。

テレビ局は公共の電波を使っており、こうした私刑まがいの番組を「お笑い」として流すべきなのかという議論は当然あってよい。和製ミストレルショーよりもベッキーさん問題の方が人権上の懸念は大きいので、女性の人権について考える人たちはBPOなどに提訴することを考えた方がよいだろう。もしこれが許されれば「不倫女は足蹴にしても良い」という社会的な合意ができてしまう可能性が高いからである。

しかし、実際の問題は、私たちが共通して安心して笑えるようなモチーフを持ちにくくなっているということなのかもしれない。社会全体がとても大きな不安を抱えていて、誰かを生贄として屠ることなしには、緊張が緩和できなくなっているということになる。こうした笑いは痛みを忘れ去れてくれる効果はあるが、かといって根本的な解決策にならない。その意味では不倫いじめの笑いは麻薬に近いといえるだろう。

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日馬富士暴行問題と貴乃花親方問題の本質とは何か

当初「日馬富士暴行問題」だったものがすっかり貴乃花親方問題になっている。これを観察していると様々な問題が複合していることがわかる。だが、見ている方は一つの視点を持っていることが多いようで、自分の視点にはまらないと「なぜマスコミは本質を言わないのだ」などと感じることが多いようだ。

ここでは前回見た「構造の捉え直し」を通して問題解決の方法を探ってみたい。

様々な問題が錯綜する相撲だが、実は原点はそれほど難しいものではないようだ。その原点とは相撲の定義だ。相撲には3つの定義がある。最初の定義は、相撲がスポーツであるか興行であるかというものだ。スポーツの定義にはいろいろあると思うのだが、ここでは選手がその能力を最大限に追求するためにあるのがスポーツで、見世物にしてお金をもらうのを興行だと定義したい。相撲にはこのほかに伝統の神事であるという側面がある。これを器用に使い分けているように見える相撲協会だが、実はこの違いを扱えなくなっている。

なぜ定義が問題になるのだろうか。もしスポーツだとしたら八百長はしてはいけない。本当に誰が強いがが分からなくなり能力が追求できなくなるからだ。しかし興行であれば選手を長持ちさせる必要があり八百長は必ずしも悪いこととは言い切れない。相撲が真剣勝負に見えればそれでよいからである。

興行としての相撲において興行主は真剣な競技のように見せれば良いので、選手育成にはそれほど力を入れなくなるだろう。一方で、スポーツとしての相撲を追求しその真剣さが神事につながると感じるのであれば選手育成はとても重要な課題になる。「どこに金を使うのか」が違ってくるのだ。

また、相撲をスポーツだと捉えれば柔道のように国際的に開かれたルールですべての人種が戦うような競技が理想形になるだろうが、神事だと捉えると日本人だけが戦うようなものが理想になるかもしれない。さらにこれが現在の原理主義的な民族主義に利用されれば(貴乃花親方の思想にはこうした原理主義的民族思想が入っていると噂されている)相撲はさらに閉鎖的でいびつなものになるだろう。なぜならば、日本人は優れていてアジア諸国の指導者としてふさわしいという理想とモンゴル人に勝てないという現実が折り合わないからである。相撲ではこの衝突は「品格」を使って説明されることが多い。モンゴル人が強いのは日本人のような品格がないからだというのである。

興行としての相撲には、本場所の席代・NHKからの収入・そして地方場所の上がりといった利権を持っている。本場所の席は九州を除いて茶屋制度をとっておりこれが一門とつながっている。この利権を調整しているのが理事の人たちだ。彼らは利権を持っているので興行の神聖性を守り暴力や八百長といった問題をなかったことにしたい。これは極めて当然のことである。だが、相撲をスポーツか民族力発揚の場と考える貴乃花親方にはこれが理解できないし、同調者も少なからずいるようだ。

しかしながら、これだけでは問題は起きなかっただろう。問題になったのはここにもう一つの要素が入ったからである。それは正規力士・非正規力士問題である。正規力士は品格のある相撲をとることで親方になる資格が与えられるので、資格が得られればあとは優雅に相撲をとっていれば良い人たちだ。しかしながら、モンゴル人は国籍を捨てない限りこの資格が与えられないので関取である時代にできるだけ多くの収入を稼ぐ必要がある。このために白鵬は「品格のない相撲」で選手寿命を伸ばそうとし、モンゴル人たちは星の調整を行っているという疑いもある。つまり同じ興行でも、自分たちの投資の回収の仕方が全く違っていることで、興味や関心に違いが生まれ、管理が難しくなる。

これに付け加えて、相撲は伝統文化を守るという「公益」の顔を得てしまった。公益法人にはガバナンスが必要だ。儲けた金には税金を支払わなくてもよいのだが、そのためにガバナンスが効いているふりをしなければならなくなってしまった。これは思った以上に複雑な問題を含んでいる。そもそも興行と公益がイコールでないのに加え、こうした法人は実は内部に蓄積した利権を政治に還流するために利用されることがある。池坊評議委員長は漢字検定協会の理事長を追われた過去がある。漢字検定協会は内部留保金をため込んでおりこの使い道を巡ってトラブルを起こした経緯があるという。公益監査や管理に携わるという名目でため込んだお金を私物化したり、自分たちの企業に還流したいという人たちが大勢いるのである。

そもそも、それぞれの考える目的が違っているのだから、ガバナンスが効くわけもない。だから問題をなかったことにして隠蔽しなければならない。その上に「儲けすぎた金を税金として社会に還元することなく私物化したい」という欲求まで加わっており、一筋縄ではいかない構造が生まれている。それぞれの利害が一致しないので、いつまでも争いが絶えないという構造になっている。

ある人から観察するとこれは刑事事件問題なのだが、別の人たちはこれを八百長談合問題だと見ている。相撲協会のガバナンスの問題だと感じている人もいるし、単に「先輩がいるところで携帯電話をいじるのが失礼」とか「先輩である八角親方の電話を無視する非礼な貴乃花親親方の礼節の問題」に矮小化したいと考える人もいる。さらに日本人はモンゴル人より強いはずだと素朴に感じる人や、協会が蓄積した金を自分たちの企業に振り向たいという人までいる。貴乃花親方は当初からこれを「八百長談合だ」と疑っており相撲協会に反省の意思がないなら自分が知っていることを洗いざらい話すなどと言い始めているそうだ。フライデーや新潮などのメディアが伝えはじめている。

ジャーナリズムがこうした視点を取り出して多角的に伝えることはない。日本人にとっては他の村の利権構造に触れることはタブーであるという事情がある。マスコミもまた村なのでよその村の事情には触れたくないのだろう。さらに、彼らは点にしか興味がなく、それを面として再構成することにはさほど熱心ではないようだ。

相撲が興行であり茶屋利権が理事選挙に影響していることは誰の目にも明らかだが、利権問題に触れてしまうと取材時に情報がもらえなくなることを恐れているのであろうし、すでに八百長問題は解決したことになっている。過去に収集がつかなくなった歴史があるのであえて言い出せば相撲に混乱を与えることになるという懸念もあるのかもしれない。こうした問題を避けつつ曲芸のような報道を続けることで、ジャーナリズムは問題の解決ではなく複雑化に寄与している。

もともと視点が異なっているのだから解決策など見つけようがない。もし解決したいのであれば、そもそも相撲は伝統神事であるべきなのか、スポーツなのか、それとも興行として割り切るのかということを再合意しなければならない。

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