大竹まことさんの発明と問いかけ

大竹まことさんの長女が大麻所持の疑いで逮捕されたという。こうした身内の不祥事が起きた場合、芸能人の親はたいていの場合には対応を「間違えて」しまい、結局仕事を休まざるをえなくなる。しかしながら、大竹さんの場合はちょっと違っていた。記者たちに「公人とは何か」を問いかけたのである。

この大竹さんの問いを分析すると、日本人が「個人」「責任を取る」「公人」という概念を全く理解していないということがわかる。この記者会見を見たりニュースを聞いたりして違和感を持った人にはわかりきったことなのだとは思うが、もう一度整理してみよう。

大竹さんはまず記者会見をして「自分は公人であるから」という理由で説明をする。しかしながら娘さんは芸能人ではない。そこで芸能リポーターに「本当に聞きたいですか」とか「必要ですか」確認をしていた。芸能リポーターは個人の資格として意思決定をしなければならないのだが、これに答えられる人はいなかった。また後で芸能ニュースを読んでも「非常に難しい問題だ」とお茶を濁すようなものが多かった。このことから、芸能ニュース全般が「不倫や不祥事ネタは売れる」ということはわかっても「何を伝えるべきなのか」という社会的な見識は持ち合わせていないことがわかる。

芸能レポーターは「裏方の人」として責任は取らない。これは意思決定者としては振舞わないということである。しかしながら「私は話してもいいが、最終的に決めるのはあなた方だ」と大竹さんが発言したことでレポーターはちょっとしたパニックに陥った。なぜならば突然個人として指名されて意思決定するように迫られたからである。「裏方の人」にとってはあってはならないことなのだ。

これまで「日本人は個人を徹底的に嫌う」と書いてきた。この場合レポーターは集団で一人の人間を囲んでいる。そうすることによって「みんなが聞いているから私も聞いている」という体裁を取れるからである。レポーターは裏方の人間であり個人として責任を取らなくてもよいと思い込んでいる。その裏にはプロデューサや編集長がおり、さらに向こうには視聴者や読者がいる。このように大勢の人が個人を囲んで吊るし上げるのである。芸能人がここから逃げられないのは、今後もこの村で生きて行かなければならないからなのだろう。

「個人として責任が取れますか」という問いかけは、例えば小室哲哉さんが音楽家廃業に追い込まれた時に彼の生活の面倒を見ることができますかという問いである。つまり、責任を取るためには権限とリソースを持っていなければならない。レポーターはテレビ局や新聞社などから言われてきているだけで何か起きた時の責任を取る権限がない。だから「あなたが決めてください」といわれるとひるむのだ。

この「責任には権限とリソースが必要」というのは実は非常に重要な概念である。「公人」というのはある種の権限を個人から委託された人のことである。国会議員には極めて大きな権限があるのだで、「法律なんて守らなくてもいいや」という人であってはならない。だから、政治家は公人として私生活を監視される。官僚や軍人などもこのような対象になる。執行権限と意思決定に大きな役割がありその権原は個人にある。つまり、個人がなければ権限委譲もなく従って公人もいないということになる。

大竹まことさんは表に出ている人ではあるが社会から権限を委譲されているわけではない。だから実際には公人ではない。にもかかわらず公人と言わなければならなかったのは実は日本人の中に公人について理解していない人が多いからなのだろう。レポーターが公人について理解できないのも当然のことだ。彼らは集団で個人を吊るし上げれば自分たちは透明な存在として結果についてなんら責任を問われることはないと信じている。そもそも公人が何かなどということには興味がないのだろう。

レポーターは会社に言われてきているだけであり、会社は見る人がいるからやっているだけであり、また見ている人は週刊誌が提供しただけだからたまたま手に取っただけであると言える。誰も責任を取らないのだから、大竹さん個人の問いかけがこの無責任な村落共同体を変えることはないだろう。例えばオリコンはわかったように次のように言っている。

 大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし、矢面に立つ一方で、長女については「一般人」とし、今後の生活も見据えて守った。二世が逮捕される度に話題となる“親の責任”はどこまでなのか。結論は難しい。

だが、オリコンがこのような「問い」に興味がないのは明白である。彼らは社会的非難が自分たちに向いた時のために予防線を張っているだけである。

しかし、無責任な村落共同体は現実の暴力として個人に襲いかかってくる。そればかりか「彼が喋らなかったから悪いのだ」と言って、自分たちが気にいる結論が得られるか新しいおもちゃが手に入るまで対象物を嬲(なぶ)り続けることになる。

そこで大竹さんが取った戦略は次の三点だった。これは大竹さんの発明だろう。

  • 個人を浮かび上がらせて相手に責任を委ねる。
  • 自分は相手との間に一切の感情的関わりを持たない。
  • 衆人環視の元で行う。

大竹さんが感情を見せなかったのは過去にビートたけしさんにかけてもらったアドバイスが影響しているのかもしれない。大竹さんは過去に死亡事故を起こしているのだが、この時に「素を見せてはいけない」と言われたそうだ。つまり、ここでの分析と大竹さんの対応の理由は違っている可能性が高い。しかし、大竹さんが意図しているかどうかは別にして効果的なやり方だと言える。

書いていて戦慄を禁じえないのだが、実はこれは家庭内暴力やいじめの被害者たちと同じ構図になっている。これは私たちがこうしたニュースを消費することで加害者になっているということを意味する。

例えばDVの加害者は自分を暴力的な人間だとは思っていない。自分は正義に満ちた思いやりに溢れる人だと信じている。だから彼らは「妻が口ごたえをした」などと言って妻を殴る。ここで妻が心理的なつながりを一切絶ってしまえば少なくとも夫には妻を殴る理由はなくなる。代わりに「あなた、私を叩きますか、私は逃げませんけどね」などと言えばどうなるだろうか。それでも夫は妻を「目つきが気に入らない」といって叩くかもしれない。では、これをみんなが見ている前で宣言したらどうなるか。

夫は「夫婦共同体の立派な指導者」ではなく、個人として暴力的な加害者であるという事実に直面せざるをえなくなるだろう。

大竹さんがどうやってこの「やり方」を思いついたのかはわからないが、これは集団暴力の被害者にとって、もしかすると唯一の選択肢なのかもしれない。

多分「人を叩く」ということには社会的報酬があると思う。ある意味では麻薬中毒に近い状態になっており止めるのは容易ではないのだろう。しかも日本人は集団の問題を偽装することによって個人として快感を得ようとしている。

悲しい話なのだが全ての人と分かり合えるとは限らない。いったん「あなたを叩いても構わない」とか「騙してもいい」考えるようになった人はもうあなたにとっては「交渉可能な人間ではない」と考えたほうが良いだろう。

交渉可能ではないのだから切り離すしかない。再び優しくなるかもしれないが、それは集団が成立しているということを確認した上で新しい麻薬を手に入れるための取引の試みでしかない。

それでも大竹さんはこの村で生きて行かなければならない。そこで「抵抗せず、感情も動かさない」ことにしたのではないだろうかと思える。これから家族の問題に直面しなければならないことを考えると苦渋の決断だったのではないだろうか。

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どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

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私らしさとドメスティックバイオレンス

前回までは日本の村落構造について見てきた。人間関係が濃密な村落的環境がもたらす安心感とそれが崩れたときの再構築を巡るお話である。

今回はここから少し離れて「私らしさ」について考える。私らしさという概念はどこか漠然としているのだが、絶対に手に入れなければならないものと考えられており、多くの人を苦しめている。ではなぜ私らしさはこれほど人々を苦しめるのだろうか。そこには「個人主義的な私らしさ」と「日本人が個人を徹底的に嫌う」という問題がある。

「私らしさ」とはつまり人生の成功の指標を自己責任で見つけてくださいということだ。ところが、日本人は個人を徹底的に嫌うので、内面に指標を見つけることができないし見つけたとしてもくだらないものとしか思わない。そこで外に向かって「私らしさ探し」が始まる。自分の中にないわけだから当然どこかからコピーして持ってくることになる。例えば女性の場合には「ドラマの主人公のように生きること」だったり「海外セレブのように」愛されるということかもしれないし、男性の場合には「明治維新の志士」だったり「戦国武将」がそれに当たるだろう。

ロールモデルを持ち込んでそれに近づきたいということ自体はそれほど悪いものではない。最初からオリジナルを作ることはできないわけだから「戦国武将とあなたは違う」とか「海外セレブのようなスタイルを持っているわけではない」という点を除けば模倣もある種の入り口にはなり得るからである。

ところが、外からモデルを持ってきたとしてもそこから満足を得ることはできない。ここで問題になるのは慰安婦問題のところでみた対象物と関係性の問題だ。

慰安婦問題の基本構造は、韓国は日本の慰安婦問題について語っているように見えて実はアメリカのレスポンスを問題にしているという点だ。つまりコミュニケーションの相手と議題がずれているのである。これは村落でのポジションが「みんながその人をどう思っているか」という周囲の目によって決まるからなのだろう。つまり、アメリカを代表とする国際コミュニティの評判で韓国の国際的位置が決まると考えるのだ。

これを「私らしさ」に置き換えてみよう。男性が女性にモテたいと考えているとする。すると彼がやるべきなのは相手の女性が気に入るように変わるか自分の長所を伸ばすことのはずである。しかし、実際に彼が気にするのは周囲の人たちが「自分をモテる人間だと認めてくれるか」ということなのだ。

だが、これだけでは終わらない。なぜならば女性の方も「付き合った男の価値で自分の価値も決まる」と考えているかもしれないからである。そうなると、付き合っている男がどの程度のランクにいるのかということが気になる。女性の場合は常に「自分が付き合っている男の品定め」が行われいるのである程度「村のランキング」がわかるのだが、それはコントロールができないし当然男性の方では操作ができない。

この状況に勝利するためには「全ての事柄において平均以上」の点数を取らなければならない。男性の場合は仕事さえしていればそれなりの社会的評価が得られるのでこのゲームに勝利するのは割と簡単である。しかし、女性はそうはいかない。職業的にも成功しなければならないが、それだけではダメで同窓会で自慢ができる程度の男性と結婚して、子供を作り、姑との間の関係も良好でなければならない。つまり、いつの間にか減点ゲームになってしまい、それが手に入らないと「負けた」ことになってしまうというわけだ。

世間が無理を要求するという見方もできるのだが、逆に自分の内面にあるありもしない過剰な成功事例に縛られているとも言える。この鎖は自分を縛るだけではなく他人をも縛り付ける。比較によるゲームの始まりだ。序列がはっきりしない世界ではこれはたちまちのうちにマウンティング合戦に発展する。こうして新しい村ができるのだが、この村は利益を伴わない無駄な村である。

村から解放されて自分が好きなように人生の価値を追求できるようになったにもかかわらず、個人の中に価値観がないために進んで価値観の鎖に縛り付けられていると言えるだろう。

女性の場合は不機嫌さを溜め込むだけなのだが、男性の場合はこれをコントロールしようとして暴力に走る場合もあるようである。女性よりもさらに自分の気持ちを言語化することに慣れていないからだろう。

NHKの番組でドメスティックバイオレンスの加害者の特集をやっていた。「従属物である」妻が自分の思い通りに行動しないとカッとなって女性を精神的に追い詰めたり、代替物(例えば車のシートや机)を叩いたり妻に暴力を振るったりするというのが典型例のようである。彼らは「自分の従属物である妻」が自分の思い通りにならないことを怒っているように見えるし、番組でも「コントロールできないという怒り」が注目されていた。しかし、実際にコントロールできていないのは自分の感情であろう。自分の感情をうまく補足できておらず、それを相手に伝えることもできない。これが蓄積して暴力に訴えかける。

この結果、多くの男性は妻や子供にさられることになるという。中には経済的に独立的ないという女性もいて、被害者意識を受け入れて共依存関係に発展する人たちもいる。女性は永遠の被害者として生きるのだが、男性は時々湧き上がる怒りとそのあとの反省という感情の奴隷になって一生を過ごすのだ。

内面的な規範がないにもかかわらず全てをコントロールしなければならないという気持ちは「自裁権」という形で破壊に向かうかもしれないのだが、実際にはコントロールできる(と自分が勝手に思っているもの)への暴力という形で顕在化しやすいのだろう。それが社会において自分より弱いものを叩くことに向かいやすいのではないかと思われる。例えば気の弱い友達であったり、経済的に従属した妻なのである。

日本人が環境や村落と一体化している「個人」という考えを持たなかった。個人が出てくるのは「責任を取らされる生贄」か「村八分にされた仲間はずれ」だけである。ところが、戦後西洋流の個人主義というりんごの実をかじってしまったために、個人主義の毒が我々を苦しめる。その最たるものが「自己責任」でこれは「お前ら勝手にやれ」ということでしかない。

ここから脱するためには個人主義を捨てて「自分の運命は自分の思い通りにはいかない」ということを認識するか、自分の問題を言語化して相手に伝える技術を学ぶかの二つの選択肢があるのだと思える。

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日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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社会的劣等機能の発露としてのTwitter

先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。

保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。

こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。

一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。

もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。

日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。

さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。

ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。

このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。

例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。

さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。

しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。

そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。

現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。

保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。

問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。

ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。

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二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

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カルボナーラを炊飯器で作るべき理油

時々カルボナーラを作るのだが、フライパンの上で卵が炒り卵状になり失敗する。何度やっても失敗するので作り方が間違っているのだと思うようになった。そこで色々と調べてみたのだが、どうやらカルボナーラを作るには蒸気が必要なようだ。だから炊飯器を使えば良いのではないかと思った。

ヒントになったのはあるYouTubeの動画だった。後半2分くらいのところで出てくるのだが、パスタを茹でているところに行って卵と麺を混ぜている。フライパンで炒るようにして卵を混ぜるから「炒り卵スパ」になってしまうのだ。

もちろん、フライパンを使う動画もあるので、これじゃなきゃダメということもないのだろうが、このやり方でやってみようと思った。

スパゲティを半分に折って塩水を多めに入れた炊飯器に投入する。10分ほど経過するとふつふつと煮立ってくるし、お湯で始めれば袋の表記通り7分で済む。パスタは炊飯器でも茹でられるし、時間を研究すればアルデンテも作れる。

パスタの水を切ったら、テフロンの釜にオリーブオイルをスプーン一杯垂らす。小麦粉がすでに溶けているので水と油が乳化してソースが絡むようになる。

そこに卵とパルメザンチーズの粉をまぜてしばらく置いておいたものを入れる。混ぜてからすぐに入れると卵とチーズが分離した状態になる。コメント欄にもあるように本来はパルメザンチーズは使わないそうだ。つまり、これは「カルボナーラ風」ということになるだろう。

このような手順で作るとビデオと同じような状態になり炒り卵にはならなかった。今回はハムは入れなかったがフライパンで調理したハムを入れてもいいかもしれない。代わりにチキンスープを入れて茹でても美味しい。

あと何かやることはあるかと思ったが何もない。カルボナーラにはニンニクも入らないし、一部のレシピのように生クリームも入れない。湯加減や油加減の調整だけで好みの味が調整できるので意外とクロウト好みかもしれない。しっかり水切りをすれば水分が少なくなり、ざっくりと水切りをすればスープっぽい仕上がりになる。

ということで、テクニックというほどのテクニックもなく完成した。簡単だし具材もあまり入らないので給料日前などいいかがだろうか。

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コンテンツの良し悪しを測定するKPIを作る

WEARでコーディネートを投稿している。最初のうちは毎日「いいね」がついたりして気分が良いのだが、コーディネートが蓄積されてくると「これは自分なりにどれくらい良い成績が取れているのだろうか」ということが気になりだす。そこで、成績を元にパフォーマンスの良いコーディネートだけを残し悪いコーディネートを整理する方法がないか考えてみた。いわゆるKPIの作成である。

指標作りにに正解はないとは思うのだが、当初は指標というのは目的を持って作らないとダメなんだなと思った。しかし、やってみるうちに指標づくりそのものが学習なのではないかと思い直した。つまり、コンテンツ作りで最初から「こういうゴールを設定しよう」などと思えるものではなく、ゴールのイメージを作りながらコンテンツを作るのが正しいあり方なのではないかと思ったのだ。

さて、WEARにはページビュー、ハートマーク、SAVEという3つの指標がある。ハートマークは挨拶代わりにつけて行く人が多く、実際に参考にしたいものはSAVEされるということになっている。これらはそれぞれ違った概念なので、これを総合的に評価するのはなかなか難しい。数学が得意であれば、毎回簡単にイメージ化ができるようになるのかもしれないが、高校数学で挫折したという暗い過去があるのだ。高校は理系クラスだったが、国語の先生から「バカか」と言われ、実際には文系の大学に進学したという苦い経験があり、数学にはトラウマを持っている。

そこで、まずエクセルを広げて全ての数字を記入することにした。24コーディネート入るページが7つあるのでだいたい160程度のコーディネートがあったと思う。最初はハートマークとSAVEの数を数えてそれを偏差値化しようと考えた。全体の標準偏差を出してから「平均との距離」/「標準偏差」とするとそれぞれの偏差値が出るというのは、グーグルで検索してわかった。

偏差値を出すのは比較をやりやすくするためだ。それぞればらつきが違っているはずなので、そのままでは比較ができないのである。だが、このやり方をしても二つの指標をどの割合で混ぜて良いかがわからない。これは100点満点ではないという事情がある。つまり国語と算数のテストで偏差値を出すときには両方が100点満点であれば100と100で混ぜて200点満点にすればいいのだが、いいねには満点がないので、それができないのである。

そこでページビューからの割合で偏差値を出すという方法を考えた。

もちろんページビューそのものを指標に使うという方法もあるのだが、これは却下した。例えば中高年に大人気のウルトラライトダウンなどはページビューが伸びるがハートマークやSAVEは増えない。多分、自分で着方を検索する人は多いのだろうが他人のコーディネートを参考にしたりコミュニティでのプレゼンスを高めるためにハートマークを押す人は少ないのである。実はファッションの世界に「流行しているもの」と「みんなが着用したがっているもの」の間に違いがある。

ちなみにブログだと「初動が稼げるもの」と「長く読まれるもの」の間に違いがあり「いいね」がもらえるものも違っている。「いいね」を指標にしたいところなのだが、識者や人気のある人が回覧すると顕著に伸びることがあり、必ずしも文章の良し悪しの指標にはならない。だから、何を目的にして文章を書くのかということを考えながらやらないと、適切な指標が選べない。

さて、途中経過で「偏差値まで出すのは大げさなのではないか」と思ったのだが、残念ながら作業の仮定ではこれ以外の方法を見つけられなかった。冒頭に確認したように、複数の指標を足すときに全てが100点満点であればそれを単純に足し合わせればよい。例えば合格点が70点になるように設問を設定すればより正確な計測システムが作れるだろう。しかし、WEARの場合はどれくらいの露出があるかわからないので満点が出せない。

時期によっても違いがあるようだ。刈り込んだ後の投稿をハートマークとSAVEの獲得割合で座標にプロットしてみた。

青は最近のコーディネートで赤は始めた当時のものである。どうやらハートマークとSAVEの間には相関がないようだ。全体に、SAVEされたりハートマークをつけたりしてもらえる率が上がっていることがわかる。同じ水準で過去のものをみると全て足切りされてしまう。

こうなる仮説はいろいろ考えられる。

  • 最近、フォロワーが増えて挨拶代わりにハートマークがつけてもらえることが増えた。
  • ファッションについて詳しくなり高評価が得られるようになった。
  • 過去のほうがページビューが高いのでその分だけ反応率が減る。

お金が絡む評価ならきっちりと分析する必要があると思うのだが、あくまでも趣味なので「成長したんだな」と思うことにした。これについては古いデータを棄却せずに撮っておけば良かったと思った。作業するときにワークシートを上書きしてしまったのである。

偏差値を出すためには全ての数字を足し合わせなければならなくなるので、計測システムが複雑になる。これを自動化する方法を考えてみたのだが思い浮かばない。WEARはデータをエクスポートする機能がないからだ。だが、いったん指標が作れればその指標に合わせて足切りをすればいいのではないかと思った。この場合ハートマークが60%程度あれば合格でSAVEは6%くらいが合格ということになり、SAVEは参考にしても良いが無視しても構わない。これならば暗算も簡単である。

もう少し真面目にやったらどうなるのかと思ってRを持ち出してクラスター分析をしてみた。ただ、Rは普段から使うようにしておかないと簡単なこと(例えばデータフレームを作る)などがわからなくなる。今回もCSVを読み込むべきところをテキストで読み込んでしまい、その後の作業ができずに15分ほど悩んでしまった。

k-means法(理屈は難しいのだが、単にkmeansという関数を使えば分析自体は簡単にできてしまう)でグルーピングしたところやはりSAVEは関係がなさそうだ。Rだと露出の50%程度のところで切ればなんとなく足切りができそうである。

このようにデータを統計処理することによりなんとなく目標が見えてくる。今は50%程度の獲得率しかないのだが、これを上げて行けば良いということがわかる。こうした指標作りを通して目標が作れるので活動がより具体的にできる。

今回ポイントになるのは数学が苦手な人でもパソコンさえあれば容易に統計処理ができるということである。

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部族化するインテリ

先日来、日本は村落社会化しているのではないかということを考えている。村落社会とは所与の狭い共同体で、独特の社会を形成している。ここでは村落を日本社会を揶揄する目的で使っている。つまり、村落は社会になり損ねた共同体の姿でありつまり「日本では社会が成熟せずに村落に退化しつつあるのではないか」という含みがあるのだ。

日本社会の退化について考えているうちに、村落は退化の最終段階ではないのではないかということを考え始めてしまい、その考えを頭の片隅から追いだせなくなった。特に日本のエリート社会は部族化しやすいのではないだろうか。

考え始めたきっかけは、民進党の分裂騒ぎだ。国会議員たちが部族間闘争に突入しているのだが、Twitterをフォローしてももはや何をやっているのかさっぱりわからない。民進党の千葉県本部に連絡してみたが職員も呆れ顔で「統一地方選挙前にはなんとかするんじゃないですか」ともはや他人事である。

村落には動かない囲いがあり、周囲の人たちがその場その場でルールを決めて行く。それでも済んでいるのは環境が変わらずメンバーもお互いに顔見知りだからである。

日本が戦後アメリカ型の民主主義を受け入れた段階で脱農村化が進み、いったん社会化した。しかし「戦後レジームからの脱却」を模索するうちに退化して村落化が進んだのではないだろうか。

再度村落化が進んだとはいえ、いったん壊れた枠組みが戻ることはない。つまり、新しい村には明確な囲いがない。自分たちで価値観を折り合わせて新しい枠組みを作るか、そもそも枠組みがない(つまり決まった価値観がなく多様な価値観と折合う)世界に慣れるしかないということになる。後者のシナリオを取ると社会化を目指すことになるだろうというのが希望的観測だ。

ところが、実際には真逆な動きが起こっているように思える。最初にこれに気がついたのは、新潮社が出している「Webでも考える人」という媒体の告知方法を見ていたときだった。「野菜炒めでいいよ」って何?という記事だ。この記事は「女性は虐げられており男性は家事を手伝いもしないで偉そうにしている」ということについて語られている。そして、そうした感想が盛んにリツイートされている。

だが、これは少し違う可能性があるのではないかと思った。女性は料理を義務的に行うのでおざなりになることも多い。食べさせられる専門だった男性が料理をしてみると意外と楽しく、女性がおざなりに料理をしていたということに気がつくことがあるのではないかと思った。中には趣味的に料理をする人もいるだろうが、家事をシステム化・効率化して楽しくこなす男性もいるはずである。

ところが、この考え方は彼らには都合が悪い。つまり、ターゲットとする人たちに本を売るためには、男性はわがままな存在でなければならないが、かといって彼女たちの領域に踏み込んできてもらっては困るわけである。

これは男性が「稼げもしないのに女は文句ばかりいう」というのの裏返しになっている。ここで女性は文句ばかりいうが男性の領域に踏み込んではならない。なぜならば女性の方がずっとたくさん稼ぐ可能性もあり「だったら夫などいらない」ということになりかねないからである。

実際にそれをつぶやいたのだがそれが編集部からリツイートされることはなかった。リツイートされる感想は「この気持ちわかる」というものばかりだったのである。

この編集部は昼頃に10件以上もの感想を連続爆撃的にRetweetする。同じような感想ばかりがタイムラインを占拠するのはとてもうるさい。だが、それに気がつかないのは多分編集部の担当者が自分ではTwitterを使っていないからだろう。共感能力が薄い姿勢はオンラインでは嫌われる。

こうした姿勢はリベラル左翼系にもよく見られる。つまり、例えば憲法第9条を擁護する立場からは、安倍首相はあくまでも戦争をやりたがっている悪辣な政治家でなければならないのだが、かといって彼が何のためにどんな戦争をするのかということは語られない。そして、多くの人たちは自分のストーリーに都合のよい話ばかりを連続的にRetweetする。相手が全く見えていないのだ。

頭が良い人ほど人の話を聞かず共感能力がない。新潮社に勤めている人たちは頭のよい人たちなのだろう。あらかじめ正解を覚えておりその正解に向けて状況を整えて行くというやり方に慣れているのかもしれない。

ネトウヨが取捨選択するのは事実だけなのだが、左翼側の人たちはもう少し複雑な状況を取捨選択するので、より対応しがたいと言える。価値体系がヘドロのように固まっていてそれをほぐして新しい情報を加えることができないからだ。

こうした価値体系の最たるものが言語だ。アマゾンの熱帯雨林にはお互いに意思疎通できないほど言語が別れた人たちが住んでいる。例えばヤノマミ族は28000人が100以上の部族に分かれて住んでいる。彼らがどうして細かな部族に分かれているのかはわからないが、広大なアマゾンの奥地に住んでおりそれなりのスペースが確保できているのだろう。つまり、彼らには逃げ場があるのだ。

NHKで幻想的に取り扱われたことから日本語の記事は精霊(望まれない赤ん坊をシロアリの塚に捧げて「精霊に戻った」とする)に関するものが多いのだが、英語だと彼らの独自性が次のように説明された文章が見つかる。

There are so many variations and dialects of this tribal language that people from different tribes cannot understand one another. (部族によって方言のバリエーションが大きく、お互いに意思疎通ができない。)

他の言語と完全に切り離されているばかりかお互いに意思疎通ができない方言が混在しているということになる。言語というのは、独自性を持たせようとすると相手と差別化するために違った言葉を話せば良い。しかし、それをやっているとどんどんと意思疎通ができなくなる。するともはや、協力して社会や国家を作ることはできなくなってしまうのである。

とても賢いインテリの人たちが概念などを複雑化させてお互いにい疎通ができない世界を作ることができる裏には都市化が進みさらにインターネットという広い空間が出てきたという背景があるのではないかとさえ思える。これはジャングルのように逃げ場を作るので都市化・社会化ができる能力があっても、結果的に部族化を促進してしまうのだろう。

民進党系の人たちの中には「まとまらないと自分たちのプレゼンスが確保できない」という気持ちと、複雑に組み上げられてしまい、一切の妥協が聞かなくなった「部族言語」の間のせめぎ合いがあるように思える。

一部の議員は気に入らないことがあるとTwitterで党首を罵ったりしている。とても良い大学を出て「スペックも高い」のだが、自分たちの姿がどう映っているのかということには多分あまり関心がないのではないだろうか。

民進党の分裂騒ぎは現在進行形なのでどのような着地点が見つかるかはわからない。人の話を聞かず、あまりにも複雑な概念を組み上げて二進も三進もいかなくなる危険性を自省するに止めたい。

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スウェード靴の消しゴム

スウェードの靴を買った。なかなかおしゃれでいいんじゃないかと思ったのだが、雨の日には履けない(実際には水はじきのあるスプレーが売られているが、気分的にどうしても避けてしまう……)という欠点がある。

また、意外に汚れやすく、これも気にし始めるとちょっとしたストレスになる。そこで活躍するのがスウェード靴の消しゴムである。

使い方はいたって簡単で単にこするだけである。まずはブラシで汚れを落とすのだがこれだけだと深く入った汚れは落ちない。例えばこの靴だと左足のつま先のところに白い筋が入っている。蹴り癖があるらしく、必ず同じところに汚れがつくのだ。そこでこのクリーナーでこすってやる。すると汚れがゴムに移動するという仕組みになっている。

前向きに考えてみると革靴のようにクリームをつけて磨くという工程がないので、スプレーをつけてこまめにブラッシングしてやればスウェードの方がお手入れが簡単と言えるかもしれない。

ちょっと張り込んでCOLUMBUS コロンブス スエード ラブラブクリーナー クリーナー 起毛系レザー汚れ落としを買ってきた。それほど頻繁に使うものでもないのでお財布と相談して購入するのが良いのではないかと思う。スウェードの靴を頻繁に履きたいなら気軽に使える靴用のブラシとクリーナーは常備しておきたい。

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