アエラで「なんで話が通じない」という特集が組まれていた。読んでみると「最近の人の指導を理解しない人が多い」と書かれており「それは教育のせいではないか」というほのめかしがあった。そして、AIの専門家が最近の人は読解力がないと指摘し、読解力は文明が作る高度な能力なのだなどと続いていた。いわゆる「相手はバカ論」なのだが、読んでいるうちに「アエラの指摘とは違うが確かにこれは教育のせいかもしれない」と思った。もし、この仮説が正しいとしたら、日本人はこれからもコミュニケーションギャップに悩み続けるに違いないと思った。
アエラには例えば「パソコンなどのツールを使い方を教えてもすぐにキレる」というようなことが書いてあったのだが、これは自分の知り合いの高齢者にも当てはまる。学歴がないわけではないが、順序立てて理解したがらないのにどうやったら動くのかという結果だけを知りたがる。そしてすぐにキレるのである。
これは脳の制御機能が衰えた老人特有の問題だと思っていたのだが、むしろ日本人によく見られるありふれた態度のようである。そこで特集をざっと読み直してみると、経験の違いがギャップを生んでいるのではないかと思えた。それぞれの世代で最初に接触したコミュニケーションツールが違っているからだ。アエラはパソコン世代に照準を合わせた記事を集めており、これが文明的な態度だと解釈されていた。
高齢者が最初に接触したのは家電だった。だから経験上は物理的なボタンを押して単機能が働くものがデフォルトになっている。電話などがそれにあたるのだが、やがて年賀状作成機のようなものまで作られた。プリンターと簡易ワープロが年賀状の作成という一年に一度の行事のためにだけ組み込まれているという実に非効率な機械だ。このため高齢者は一つの目標を達成するのに複数のパスがあるパソコンに苦労する。「どのボタンを押せばいいのだろうか」と考える上にそのボタンは物理的に存在しない。なかには画面の中にある四角い「絵」がボタンであるということを決して理解しない人もいる。
一方で、若者は最初からスマホを使っている。スマホはマルチタスクなので同時に様々な用事をこなせるだが集中力が犠牲になる。マルチタスクは集中力が削がれることが学術的に証明されているそうだ。若者は一つひとつのコミュニケーションに時間を割くことができない。そんなことをしていたら「ゲームオーバー」になるだろう。これが中年層には「深く物事を考えず、自分の考えを伝えるボキャブラリに欠ける」と映るらしい。中高年から見るとこれは「退化」なのだろう。
これに挟まれているのがいろいろなタスクをこなせるが、一つ一つのタスクが割合と切り離されているパソコン世代だ。パソコン世代はメールをやりながら文章を書くというようなことをしないので動作の連続性と集中力は確保されているのだが、スマホ世代に比べてレスポンスが遅くなるという傾向がある。メールに季節の時候を織り込む我々の世代は「説明が回りくどくレスが遅い」と思われているはずである。
かなり急激にコミュニケーションツールが変わってしまったことがわかり、さらに思考がそれに支配されていることもわかる。だから、我々は違った世代の人たちが理解できないのだ。
こうした違いはコミュニケーショだけでなく情報の取り入れ方にも現れている。中高年までは図書館にこもって調べ物をしていた経験があるので「十進分類」に従って情報を整理している。そのあとハイパーリンク世代があり、最後に検索エンジンが現れる。若者はスマホでググるのだからそもそも分類法には支配されないが代わりに自分が興味のないことは検索ができない。
こうした違いも随所に現れる。例えば新聞はブラウジングメディアなので、一面から順番に(あるいはテレビ番組表から順番に)何があるのかを総覧することができる。本屋もブラウジングメディアである。
中高年世代の思考はブラウジングと分類法に支配されている。例えば長島昭久議員はブラウジング世代なので文書管理をするためには専門部署が必要だとしている。文書の量が膨大で「調べるのに時間がかかる」からである。だが若い世代は「なんで防衛省の日報はググれないんだろうか」と思うのではないか。文章をデジタル化したうえでクローラーを走らせるのがデジタルネイティブ世代の発想だ。長島議員はこれからはAIだと言っているのだが、AIの本質は理解できないし、理解しようともしない。日本ではこの世代の人たちが政治に参加しないので、デジタルネイティブな発想が出てこないうえに、政治家も新しい思考法を理解しようとはせず、自分たちの常識の上に新しい常識を組み上げてゆく。
でも、この事態を冷笑するだけではダメだと思います。国防の任に当たる組織が大臣命令とはいえ朝から晩まで全省挙げて日報の探索にあたっているなんて、憂慮に堪えません。現場の自衛官が文書管理や情報公開に疎かったことは甚だ遺憾なれど、文書管理専門部署でも作って対応しなければ根本解決はない。 https://t.co/QncE1TXLVT
— 長島昭久 (@nagashima21) 2018年4月9日
スマホ世代は編集されない情報をTwitter仲間から仕入れるかもしれないが、興味のない情報は「スルー」される。確かにブラウジング世代は編集された情報を網羅的に取得しようとするが、編集から漏れた知識は持っていないかもしれない。これが「NHKが報道しない」と言って怒る人が多い理由である。NHKの編集から漏れた政治的課題は「なかったこと」になる。ブラウジング世代の人たちは若い人たちを「情報が偏っている」と非難するのだが、ブラウジング世代の情報も偏っている。
アエラでは「中高年は優れていて若者はダメ」とほのめかしつつ結論は避けていた。そもそも雑誌を読む人は網羅的に情報が知りたい人なのだろうから若者の見方をしても仕方がないのだろう。これもブラウジング世代の特徴だ。編集を通じて一つの視点を採用しているがそれには気がつかない。
このように大きな違いがあるように見える各世代だが実は共通点もある。だが、この共通点は日本の教育だけを見ていてもわからない。これが冒頭に「日本人はコミュニケーションギャップに苦しみ続けるだろう」と予言した理由である。原因ははっきりしているので修正方法はある。
例えばMBAでは様々な分野について網羅的に見る。ITマネジメントも見るし、経理も見るといった具合である。まずはその特定領域ではどのようなものの見方をするのかを学んだ後で、専門知識を少しだけ学び、様々なバックグラウンドの人たちと入門編的な問題を討論しながら解いてゆく。
これをやっている間は「専門的なことをやらないので物足りないなあ」と思ったりする。たまたま自分のバックグラウンドの問題だと「知識があることを認めさせなければ」とも思う。だが、今回コミュニケーションギャップについて考えているうちに、全く異なった領域のものの考え方を短時間に詰め込むことに意味があったのだと気がついた。専門知識を持っている分野について学ぶときには「物足りない」などと思わずに相手に説明する方法を学ぶべきだったのだ。
マネジメント教育が「物足りない」と感じられたのは、日本の教育では職人の育成が重要視されているせいだと思う。一つの領域を決めてその道を極めるのが良いことだと考えられていることになる。一方で、総合マネージャーは「なんでも屋」だとして嫌われることすらある。
日本の初等教育の原点は寺子屋だろう。寺子屋ではそれぞれに職人に専門の教本のようなものがあり、速習が可能だったのだと聞いたことがある。漢字は複雑な体系だが、基礎的な漢字を習った後で職人に必要な漢字だけを習えばよかった。だから、効率的に職人(あるいは農業従事者も)を育てることができた上に、日本は識字率が高かった。
識字率が高かったおかげで日本の近代化は短い間に進んだ。富国政策を強力に推進することができた上に民族意識も高揚させられたからである。アジアの他の漢字圏では漢字学習が学者に占領されており庶民は文字すら学べなかった。こうした国々では漢字を簡単にしたり、そもそも漢字を廃止することによって文字を普及させるしかなく、民族意識の高揚に時間がかかった。
「手っ取り早く学習する」ためには、常識の上に新しい知識を積み重ねてゆくしかない。だから、違った環境に育った人たちとはお互いに意思疎通ができなくなってしまうのだろう。違った経験をした人たちのことを理解するためにはまず他の人たちがどのような価値体系で動いているかを理解するのが早道である。