山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

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オタクはなぜ差別されるのか – 現代オタク差別論争

今回のテーマはオタク差別である。時々タイムラインにオタク差別というTweetが流れてきたのだが何を言っているのかがよくわからなかった。だが問題を眺めているうちにこれがフレームワークの問題を含んでおり、多分当事者同士では解決しないだろうなということがわかった。さらにこれを非当事者から見てもよくわからない。年齢的な壁があるからである。最初は特殊な差別の話なのかなと思ったのだが、実は現在の人権論争にも通じる一般性があるように思えてきた。これらを順番に考えてゆく。

オタク論争というのは「オタク差別なんかない」という人にたいして「いやオタク差別はある」というカウンターがあるという話なのだが、そのオタクが何なのか全く理解ができなかった。Twitterで問いかけてみたが当然答えはない。

そこでTwitterをオタク差別で検索してこの文章を見つけた。すべてを理解したわけではないと思うのだがなんとなく概要はつかめたと思う。オタク差別と呼ばれているものは様々な差別の集積であるということを考察している。

個人的な体験から話をしたい。大学では文芸系のサークルに2つ所属していた。一つは純文学系でもう一つはSFである。筒井康隆が好きで文学部に通っていたのでこれは普通の選択だった。文芸系の人たちは周りがどういう趣味を持っているのかを気にしない。不思議に思ったのは、SF系のサークルの人たちが被差別感情を持っているという点であった。彼らは漫画が好きで漫研と掛け持ちしている人もいた。首都圏出身者が多く「コミケ」というところで同人誌を売ったりしていた。

大学に通っていた時に宮崎勤事件が起きたのでオタクという言葉や概念はあった。だからコミケに通う人=オタクという概念はあったはずである。だが、地方にはこうした非差別感情はあまりなかった。今にして思えばコミュニティがなく非差別集団としての意識が希薄だったからではないかと思える。

逆にSFが好きな経営学部出身の先輩もい。この名古屋出身のの先輩からやたらと友達を紹介され、丸井とか笹塚のバーなどに誘われた。ファッション雑誌にスナップを撮られるようなおしゃれな人だったので、多分脱オタクを志向していたのだろうが、当時はその意味もよくわからなかった。非差別集団的なオタクがおり、いや趣味として認められるべきだが外見が見すぼらしいと差別されてしまうのだと思っていた人がいたということである。

つまり、オタク文化に触れており、容姿と趣味はオタク的だったのだが、純正オタクというほどオタク文化に埋没しているわけでもなく、かといっておしゃれでもなかったということになる。

数日前にQuoraで「大学デビューしたから普通に見えないといけないと考えると底知れないプレッシャーを感じる」という質問を見た。今回のオタク論争に関する文章を読んだ時に似ているなと思った。つまり普通から滑り落ちたらまずいという感覚である。この感覚はバブル期にはなかった。

Quoraの説明を論理的に考えると「普通」というものを統計的に割り出して定義するところから始めなければならない。だが、実際には普通というカテゴリは存在しない。大学は多様性を許容するはずなのだから「自分なりの普通を見つければ良い」というようなことを書いたのだが、今にして思えばそれは綺麗事でしかなかったのかもしれない。

現在には普通という存在しないものから「逸脱してはならない」というプレッシャーがあるのだろう。そして普通というものが存在しないからこそ人は「何をしでかしたら普通だと思われないのだろう」と怯えながら過ごすことになる。

なぜこんなことが起こるかというと、中流に止まるのが難しいからなのだろう。ファッションで普通でないとみなされると「オタク」という烙印を押されるし、趣味が違っていても「オタク」になる。下流になったらそこで差別されてしまう。排除する理由は趣味でも外見でもよいわけだから、趣味から見たオタクと見すぼらしい格好をしていて体型が不恰好なオタクという区別にはあまり意味がないということになる。

我々がこれを理解できないのは高度経済成長期に育っているからなのかもしれない。高度経済成長期は頑張れば上流に上がれるがそうでなくてもそこそこの暮らし(中流)があるという世界だった。だが今は縮小社会なので黙っていると下流に転落してしまうのだ。そして転落した人たちのことをオタクといって差別しているということになる。

逆にいうと転落を恐れる人はオタクという下層を作ることによって「自分たちは普通なのだ」という満足を得られる。これは統計をとって「普通」を定義するよりも簡単にまとまりを作ることができる。前回の韓国の全羅道差別では「普通をまとめるための被差別集団」を観察した。これと同じことが日本でも起きているということになる。自分たちが普通だということを感じるためにはオタクが必要なのである。

すると、オタク差別はなくならない。そして何をしたらオタクになるのかという定義も存在しえない。多数の人たちから「お前は違うよね」と宣告された人が結果的にオタクになるからだ。

さらにオタクを差別する普通の人たちは「見下して当然」の人を差別しているだけなのだから、そこに差別意識を感じない。これは女性差別に似ている。女性差別は存在するが、女は男よりも劣っていて当然だと思っている人が「当たり前の処遇」をしているに過ぎない。だから女性が「差別はあるだろう」と言っても「当たり前のことをしているだけなので差別などありえない」と答えてしまうのである。

結果的に差別されている人がオタクなのだから「オタク」という属性は存在せず、従って何がオタク差別かどうかということは決められない。だから定義について議論しても何も生まれないのだ。だが、それが決められないのは実は普通が決められないからだ。

オタクという言葉の定義はこのように「普通でない」ことを意味し、何が普通なのかがわからない。にもかかわらず何がオタクなのかという了解がなんとなくあるようだ。この問題について藤田直哉という人がまとめたものを見るとそのことがよくわかる。それはかつてあったコミケのような社会的集団が続いているからなのだろう。

オタク差別は確かに存在するが、それは「非普通差別」である。そして非普通差別される人たちをオタクと呼んでいるので、オタク差別というのは別の言葉でいうと「差別者差別」であり、議論の対象にはなりえない。差別者という属性は存在しないが、差別そのものは存在するので、お互いに話がかみ合わないのだ。

だがその背景にあるのは普通の不確かさである。常に脱落する恐怖にさらされているのだが、何をすると脱落するのかがわからないので被差別者を作って安定を図っているのではないかと思われる。これは韓国の士林派が神学論争を繰り返しお互いを差別しながら結束を図ろうとしていたのに似ているし、朴正煕大統領が地域差別を利用して韓国の他地域をまとめようとしていたのに似ている。

ここからがこの一連の話の一番残酷なところである。そもそも人権運動というのは多様性を認めるところから出発する。オタクであればオタク的趣味やルックスをそのまま認めろということである。女性差別であれば女性的な行動様式が認められなければならない。しかし日本人は差別を内在化しているので、オタクを普通の人と同列に扱えとか、女性にも男性並みの普通を認めろということになりがちだ。

だが普通というものが溶解しているので「普通に扱う」ということに実態がない。だからいつまでも普通に扱われることはないということになる。これは差別者の側の問題でもあるのだが、差別される側も「ゴールを持たない」ということになる。さらに多様性を前提にした人権問題のフレームワークを使って問題を処理しようとしている傾向も見られるのだが、これは破綻が見えている。西洋の人権意識は多様性を前提にしているのであって普通への復帰運動ではないからである。

オタク差別は確かにあるのだが、それをブレークダウンしようとするといくつもの問題にぶちあたる。だから議論をすればするほど解決から遠のいてしまうということになる。

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「山口メンバー」報道に思うこと

TOKIOのメンバーが2018/5/2に記者会見を開いた。過去何回か病院を巡ったが「アルコール依存症」との明確な診断は出ていないそうである。メンバーが知っていて無関心ではなかったということと、無関心でなかったとしてもプロの助けなしでは問題の解決が難しかったということがよくわかる。


TOKIOの「山口達也メンバー」が会見を開いた。ニュースが飛び込んできてから半日空いたので最初はジャニーズ事務所が隠蔽しているのではないかなど周辺のことが気になっていたのだが、本人の記者会見を聞いて考えが変わった。

一晩経ってまた考えが変わった。テレビ局も芸能事務所も「世論を侮っている」と思った。

初動対応はまさにパニックだった。関係者は表向きは反省しているようなことを言っているのだが、頭の中ではこの騒ぎが大きくなって自分たちに損害が及ぶことだけを恐れているのだろう。

NHKが最初にこの問題を伝えたのは火元が自分たちの番組だからだろう。子供向け番組の出演者を管理していなかったせいで起こってはいけない問題が起きてしまった。内部調整して発表する時間はない。調整の兆候が見えた時点で週刊誌は面白おかしく伝えるだろう。そこでまずニュースとして伝え「自分たちは知らなかった」風を装ったのかもしれない。

「NHKが不祥事に対して隠蔽体質なのはむかしからですが、報道局からあがってきた性犯罪をジャニーズだから、微罪だからといって握りつぶしたとしたら、どうなるか。特に今回は加害者被害者が、子供たちを育む役割のEテレから出たことは絶対に見過ごせない。万が一それが変な形で露見して、やはり組織ぐるみで隠していたのかとなったら、国民から受信料不払いが巻き起こり、へたすりゃNHKがつぶれるほどの大変な事態になります」(NHK幹部)

TBSはメンバーの国分太一が司会者をやっていることもあり、表面上は「山口メンバー」を糾弾するような様子を見せつつ、どうにかして穏便に抑えたいという気持ちを持っているようだった。テリー伊藤さんは「相手のあることだから」と言って相手に寄り添うような風を見せていたが、実際には「ことを大きくすべきではない」ということを主張していたのが印象的だった。

印象的だったのは国分さんが「福島の野菜は」と唐突に言及していたことである。まず頭にスポンサーなどのことがよぎったのだろう。ところが、徐々に国分メンバー(あるいは国分司会者)も山口メンバーのお酒の問題を知っていたことが明らかになる。知ってはいたが大した問題だとは思っていなかったようだ。実はこのことがこの問題の本質をよく表している。彼らは多分お酒の恐ろしさを知らなかったのだ。

問題を複雑にしているのはジャニーズ事務所の「隠蔽体質」と放送局の「忖度」体質である。大勢の有力なタレントを抱えているジャニーズ事務所は常々「メディアを押さえつけているのではないか」という疑惑が持たれている。だから放送局はことを荒立てたくないと考える一方で、忖度しているように思われてもならないということで頭がいっぱいになっているのだろう。確かにその意味では脚本はよく練られておりそのあとの対応も含めてよくできていた。芸能デスクという人が全てを統括してバラバラな意見が出ないようにしていた。TBSの芸能ニュースにとってジャニーズ事務所は重要なネタ元に当たる。それを守ることが最重要課題である。

だが、実際にジャニーズ事務所が隠蔽しているのは事件やタレントの商品価値ではないのだと思う。

視聴者は明らかに煮立っている。政治でも同じような問題が起こっているからだ。Twitterの一部には同じ山口である別の人を指差して比較する人たちもいた。権力者は決して不祥事を認めようとしない。だから、不倫や性的な問題に関してはすぐに「社会的生命に対する死刑判決」が出るようになった。これが累積し「この類の問題を起こしたら一発退場」という相場が作られている。普段政治問題について面白おかしく伝えているマスコミは自分たちが「忖度し隠す側になった」として視聴者から襲撃されることを恐れている。政治もテレビ局もこの問題はもはやバスティーユなのだ。

だが、その裏にある認識は「視聴者はバカだから問題について深く考える頭はないだろう」という侮りである。彼らは普段そういう「バカな視聴者」を念頭に番組を作っているのだろう。

だが、本人の会見でわかったことはかなりショッキングだった。本人はアルコールの問題で入院していたのに帰ってきてすぐにお酒を飲み酩酊状態になったということがわかった。さらに本人には自分がアルコール依存におちっているという認識がない。

焼酎を一本空けたという証言があることから山口さんがアルコールに対して歯止めを失っているのは明らかだ。一升瓶か5合瓶かなどと言っていた人もいるが、どちらにせよ「たしなむ程度」で一本空くことはない。このことから、病院では酒量を管理されていたことがわかる。病院から仕事場に通っていたのは多分私生活でこの人がお酒の量をコントロールできなくなっていたからである。つまり、周囲の人は異常を知っていたということになる。

テレビ局が侮っているはずの大衆は実は冷静だった。これはアルコール依存であり周囲のサポートなしには回復できないという意見がTwitterで見られるようになった。つまり世の中には問題を抱えている人やそれを専門的知見からサポートする人が大勢いるのである。だから、相談さえしてくれれば良かったのだ。

このズレの原因は明らかに事務所にある。もともと同性愛志向のある男性が自分の理想の少年を売り出したのがジャニーズ事務所である。そのこと自体は責められるべきではないし、女性たちとの間に共有のシンパシーもあったようだ。ただ、このため少年として魅力がなくなった男性アイドルは放置されることが多い。そこに商品価値を見つけているのが女性たちである。成熟した男性に商品価値をつける。

ただ彼女たちは女性であるがゆえに、男性が持つであろう問題については知識がなくまた無関心だった。

夢を売ること自体は悪いことではない。例えば宝塚はある年代の女性を使って夢を売っているが、彼女たちには第二のキャリアがある。宝塚歌劇団はそれ以降の女性を活用することができないからである。宝塚から巣立って女優になった人は多く、このシステムがうまく機能している。

一方ジャニーズ事務所はその特有の嫉妬心から独立を許さない気風がある。だから中年になってもアイドル以外の選択肢が持てない。彼らが抱える特有な問題はSMAPの3人が「テレビから干された」ことからもよくわかる。

山口さんは会見の中で「事務所の誰に相談していいかわからず」「メンバーにも言い出せなかった」と言っている。私生活上の問題については放任されていたのだろう。

少なくとも、メディアコントロールも含めて会社のマネジメントは極めてずさんだったということがわかる。なぜ酒量が増えたのかはわからないが、本人がコントロールできるような状態ではなかったようなので、周りが親身になって止めるべきだった。これができなかったのは、大人の男性が当然抱える問題に対する事務所の無関心があるのではないだろうか。

ジャニーズとお酒という問題は実は珍しくない。草彅剛さんが全裸で逮捕されたという事件もあったし、最近では「錦戸メンバー」が瑛太さんを殴ったという事件が伝えられた。逮捕が伴わない事件は他にも起きているのだろうがテレビが伝えることは滅多にない。

この問題を「では誰が悪いのか」というところに落とし込んでしまうと、もちろん本人が悪いということになるのだろう。しかしながら、実際には関係性の中で起きていたことがわかる。イメージが損なわれるようなことはできれば考えたくないという気持ちがここまで問題をエスカレートさせたということは認めたほうがよさそうだ。

もし人間が完全に理性的な存在であればこれほど複雑なことを考える必要はない。だが人間であれば自分ではコントロールできない問題を抱えるのが普通だし、トップアイドルも例外ではない。だからこそ周囲がサポートすべきだし、サポートできないなら潔く手放すという選択肢も考えるべきだ。

人間には様々な衝動がありそれを理性で押さえつけることができるとは限らない。我々はこのことを十分に知っておくべきだし、それを感知したら周りは助けの手を差し伸べるべきだろう。だが我々は一人ではない。同じような経験をした人がたくさんいるのである。

テレビ局は「ジャニーズ事務所を怒らせたらどうしよう」ということを考える前に「人間は弱い存在だが助け合いによって救われることもあるのだ」ということを再認識するべきではないかと思う。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。

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女性記者が福田事務次官を告発したことの本当の意味、とは何か

福田事務次官が辞任したが、まだこの問題は収まっていないらしく「テレビ朝日けしからん」というような話になりつつある。ネトウヨの人たちが朝日を嫌っているのはわかっているのでまあいいとして、リベラルの人たちも好意的な見方はしていないようだ。

昨日のエントリーではテレビ朝日けしからんというような書き方をしたのに態度を変えるのかといわれそうなのだが、みんなが朝日系列叩きを始めると、価値判断なしにこの女性記者の是非を考えたくなった。へそ曲がりと言われればそれだけなのだが、価値判断なしに何かを考えるのは実は難しい。

しばらく考えていたのだがよくわからない。そもそも、なぜわからないのだろうかと考えた。普通の企業であれば記者の稼働時間というのはコストなので情報を得るコストと価値を天秤にかければよい。だがそれができない。理由はいくつかある。

第一の理由はどこのテレビ局も同じような情報を流しており情報に価値がないからだ。極論すると政府広報と民放一局で良いのではないかと思える。あとは週刊誌が二誌あれば良い。競争が働くのでそれなりのスクープ合戦が起こるだろう。

また人件費の問題に落とし込むのも難しそうだ。日本の記者というのはオフィシャルの情報をとってくるだけではダメで私生活に食い込んで「本音の話を聞く」のが良いとされているらしい。このブログでは普段から非公式な意思決定ルートが民主主義にとって害悪であるという論を採用しているので、まあこの線でアプローチしてみても良いのかなと思った。だが、実際には「みんながやっている」ことを一社だけ降りるのは難しそうだ。

福田財務事務次官というのは、女性記者が私生活を切り売りして情報をとる価値がある相手なのかと考えた。仲良くなって取れる情報というのは「いずれは公になる情報を他社より少し早く知ることができる」か「財務省が流したい情報をオフレコと称して流す」という二つが考えられる。もしこれが株価に関係するような内容であればいち早く情報を取ってくるのは重要だろうが、そんな情報を軽々しく流すとは思えないので、結局は情報機関の自己満足か財務省のために使われるということになる。だからこの一連の取材活動は無駄だと言える。

だが、そもそも記者が私生活を切り売りしていることが報道社のコストであるなどという論調はどこにもない。これはなぜかと考えてみた。第一に記者たちが仕事時間と私生活を切り離していないという事情があるだろう。つまり「私生活に切り込んでなんぼ」と記者を<洗脳>することで報道社はブラックな職場環境を作っていることになる。ブラックでも記者というのは特権的でやりがいがある仕事とされているので「女性だから使えない」とは思われたくないのだろう。

ではなぜ報道社の記者というのは特別なのだろうか。それは報道社が特別だからだ。ではなぜ報道社は特権的な地位が得られるのか。それは記者クラブがあるからである。女性記者はフリーになるかネットメディアの記者になるという選択肢があったはずだが、いずれも記者クラブから排除されるので取材活動そのものができなくなる可能性が高い。皮肉なことに今回のテレビ朝日の深夜会見でもネットメディアは排除されていたらしい。

記者クラブが特権的な地位を得ることで、労働者である記者は隷属的な地位に置かれるのだが、それ以上の問題がある。国民は新しい視点からの情報を得ることはできないのだ。すると、財務省は「特権的な地位」の許認可権限を握っていることになる。これが報道社から便宜供与を受ける理由になる。

それなりにメディア倫理が働いていると指摘する人もいるのだろうが、普段から行状に問題がある人のセクハラすら告発できない会社が、財務省に都合が悪い情報を流せるはずはない。当然、女性記者の上司のように何かの理由をつけて自粛するはずだ。そしてそれは国民の知る権利を阻害しているということになる。

結局「記者クラブが悪い」ということになった。期せずしてわかったのはこれが単に女性や労働者の人権問題であるだけでなく、国民の知る権利に関わっているということだ。福田事務次官の「名乗り出ることもできないだろう」という強気の裏には「国民の知る権利などというのは高級官僚の胸先三寸で決まるのだ」という確証があったのではないかと思う。「報道各社も独占的に情報を得ることでおいしい思いをしてきたでしょ」ということだ。

そう考えるとこの女性記者が発したメッセージの意味は実は我々が考えているよりもっと重いものなのかもしれない。女性記者が守られるためには「テレビ朝日の配慮を」というような声があるのだが、多分テレビ朝日はあてにならない。当座は女性ジャーナリストが連携して彼女を守る必要があるのだろうが、実はフリーの記者を含めた人たちが連携して彼女を守らなければならないのではないかと思える。これは独占的に情報を占有している報道者と官僚機構の共犯意識から生まれたハラスメントだからだ。

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福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

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福田財務事務次官更迭騒ぎ – ポリティル・コレクトネスの世界にようこそ

財務省の福田事務次官がセクハラ騒ぎで炎上している。Webに公開されたものはどうやら本人のものであることはまちがいがないらしく、3つのテープをつぎはぎしたものが出回っているようだ。週刊誌が捏造したという話もあるのだが、むしろいろいろなところで同じようなことをやっているということなのだろう。

この事件はもちろん安倍政権の末期症状の一つとしても捉えられるのだが、日本がポリティカリーコレクトな社会に入ったことを物語る最初のケースになるのではないかと考えられる。

これまで職業に入った女性は男性社会に合わせて行動するのが「正しい」と考えられてきた。名誉ある男性社会の一員として「受け入れてあげる」代わりに母親であることを諦めたり性的な嫌がらせに耐えるという嫌な経験を引き受けるということだ。だが、これからは知的な職業であればあるほど「人権に配慮した人が正しい」と考えられるようになるだろう。逆に男性は「これくらいいいじゃないか」と思ったとしてもそれを絶対に口にだすことはできない。男性は常に政治的に正しくなければならない。

もしかしたら被害者は一人ではないかもしれない。会話の様子から会話は最近のものらしいのだが、もし一人にしかやっていないなら直近の行動を調べれば該当記者が分かるはずである。「該当者は名乗り出るように」といっているところをみると「誰に言ったのか」がわからないということで、これはすなわち方々で同じことをやっているのだろうということになる。

これは政界だけの問題ではない。報道各社も彼の人格が分かっていて女性を担当者として当てていた可能性が高い。複数だとしたら複数の会社が同じことをやっているということだ。そして「情報を取る」ことを優先にして女性記者の人権をないがしろにしていた可能性が高い。「役立たずの女なんだからせいぜい女を武器にして会社に貢献してよ」というわけだ。

これについて、福田事務次官は辞任するべきだという声があり、出所の分からないテープで辞めさせられたら悪い前例になる可能性があるという声もある。確かに個人の能力と人格は別なのだがこれは辞めざるを得ないのではと思える。仮にこれが政権を貶めるための週刊誌のワナだったと仮定して「ではどうしたらよかったのか」と考えてみたのだが「どうしようもないだろうな」と思った。それは男性社会がセクハラ親父に甘いという社会通念があるからだ。その証拠に麻生大臣は「ほらやっぱり」と思われている。

さらに「詩織さん」の件がある。彼女はレイプされたという疑惑があるのだがテレビ局の立場を利用したとされるジャーナリストは立件されず、それどころか「女を武器に仕事を取ろうとしたのだろう」などとセカンドレイプされた。確かなことはいえないが政権が擁護したのではないかという疑惑がささやかれている。もしあのときに厳正に対応していれば今回ももう少し違う展開が考えられたかもしれない。

さらに、だれもが財務省は明らかに嘘をついていると思っている。今回の件も本当に何があったのかは良く分からないが、肌感覚に合致してしまった。福田さんが何をやったのかではなく、その後の男性社会の対応のほうが反発を買っている。男はトクだと「誰もが知っている」のだ。

こうした肌感覚はどこから来るのだろう。

先日駅で女性が男性にしつこく声をかけられているのを見た。お金儲けしたくないですかと言われていたが、さらにナンパも兼ねているようでしつこくLINEのアドレスを聞かれていた。彼女には何の落ち度もない。たんに女性であるというだけである。

さらにTwitterで聞いた話では女性だとエスカレータの真ん中に立っているだけで男性がぶつかってくることがあるのだという。こういう経験をしたことがある男性はいないと思うのだが、女性であるというだけでぞんざいな扱いを受けたりすることがあるらしい。

男性は気がつかないが、女性は常にこのような脅威にさらされている。そして何かあったとしても訴えることができる場所はそれほど多くなく、それどころか「自己責任論」で片付けられてしまう。こうした一つひとつのできごとが積み重なって「ほらやっぱり」という感覚になるのではないだろうか。

常識に根ざした感覚は単なる思い込みかもしれない。だが、週刊新潮側は取り立ててこれを照明する必要はない。ああやっぱりなという普段の感覚に接木されて全体が「常識」で判断される。そしてそれが森友・加計問題のようなもやもやした事件の印象と合体して「分かりやすい」印象が生じてしまうのだ。

こうなるとだれにも状況はコントロールできない。ここで「やはり冷静に人格と仕事とを分けてみては」とか「今、事務次官に辞められると政権に打撃が」などといえば、かばっているとみなされてお前はセクハラ男の味方をするのかと責められる事になるだろう。

こうしたことはアメリカでは珍しくない。日本人男性であるというだけで沖縄や女性を蔑視していると取られることはよくあることだ。日本人男性であるというステータスは変えられないのでこれも一種の差別なのだが、日本人男性はことさら女性の人権には敏感であるという態度を取ることを求められる。これがポリティカルコレクトネスの世界である。

一方で日本人は差別の対象でもあるので、白人に向かって「あなたの不愉快な態度はアジア人差別ですか」などと言ってもいけない。これは逆に白人男性であるというだけで彼らが有色人種差別者であるというレッテルを貼ることができてしまうとても重い言葉なのだ。白人男性にとってこれは社会的な死を意味する。

このためアメリカでは肌の色が見えていても「見えないフリ」をして、政治的に正しい発言をしなければならない。カリフォルニアのような先進地域だと移民に対しても差別的なことは表立っては言えない。

これまで漠然とした不満だったものが、やっぱり男性社会はいざとなったら女性を不利に扱うのだという具体的な見込みとなり、漠然とした政府の不信感につながる。もちろんそこに合理性はないのだが、いったんできてしまった連想はなくならない。

事務次官の件を放置すれば騒ぎは拡大するだろう。これを解明するためには与野党の女性議員による調査委員会などを作ってセクハラ官僚をすべてパージするくらいのことをやらなければならなくなるはずだ。大げさと思う人もいるかもしれないが「黒人差別」を疑われたスターバックスはアメリカで店舗を休業して研修会を開いている。

財務省側は裁判をするなどといっているようだが、裁判の恐ろしさを舐めている。裁判になると「被害者の会ができるんじゃないか」とされている財務事務次官の普段の言動が暴かれる上に、報道各社が「女性を武器にしてコメントくらいとってこれないのか」などとほのめかしている事実が明るみに出るかもしれない。そもそも報道各社が毅然とした態度を取っていれば女性記者(あるいは記者たち)が週刊誌を頼る必要はなかったはずである。福田さんの強気の裏には「奴らは情報が欲しいのだから訴えてこないし表ざたにもしないだろう」という安心感があったのだろう。こうなるともう政治だけの問題ではなくなる。

財務省は「裁判するぞ」と脅せば記者たちの雇用主が黙っていないと思っているようだが、実は雇用主の側も下手に財務省に加勢すると社会的に制裁される可能性があるという点が見落とされている。

その意味ではこの福田事務次官の問題は単に個人のセクハラ発言という問題ではなくなりつつある。日本が本格的にポリティカルコレクトの世界に突入した契機としてとらえられるべきである。

残念ながら原因はこれまでこの種の問題を放置してきた男性社会の側にある。差別意識がなくせないのであれば、日本人男性は本格的に建前を脱ぎ捨てられない社会を生きることになるだろう。

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防衛省日報隠蔽問題の経緯

布施祐仁さんの書いたレポートを読んだ。布施さんは当事者なのでいろいろ細かく書いているのだが、はたから見ているといつ誰が何をしたのかがよくわからない。そこでできるだけ判断を入れずに時系列でまとめてみることにした。とはいえ一つの記事でまとまっているものがない。そこでいろいろつぎはぎしてきた。するとなぜこんなことが起きたのだろうなどと思えてきた。遡ると、小泉政権以前に原因があることがわかってきた。

1980年代の日本は経済定期に成功していたので「その成功分の貢献をしないのはおかしい」という国際的なプレッシャーがあった。しかし国内の論争は第二次世界大戦の頃の対立を引きずっており「現状を維持して何も決めない」のが国是だった。岸内閣時代の苦い記憶のせいかもしれない。

もしかしたら間違っていることがあるかもしれないので、随時ご指摘いただきたい。とはいえ、本来これはジャーナリストの仕事ではないかと思う。


1990 イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が起きた。日本は国際世論から人的支援を求められたが憲法の制約上応じることができなかった。代わりに130億ドルの経済支援を行ったがクウェートをはじめとする国際社会から感謝はされなかった。この経験はクウェートのトラウマと呼ばれており、外務省を中心に国際貢献の必要性が叫ばれることになった。その後、日本は内閣と外務省が「人的貢献」に向けた実績作りを行うことになる。これは具体的には自衛隊のPKO派遣を意味したが防衛庁は部外者だった。(nippon.com

当時、アーミテージ国務副長官から「ショーザフラッグ(旗色を鮮明にせよ)」という圧力があったとされる。そのため政府首脳部は「テロとの戦い」を名目にして自衛隊を海外派兵する実績作りを模索するようになる。イラク復興支援で小泉首相が自体隊の海外派遣に前のめりだったのはこうした国際社会(特にアメリカ)からの圧力があったためと考えられる。

2003 小泉首相は大量破壊兵器が見つかったというアメリカの声明にいち早く支持を表明した。のちに大量破壊兵器はなかったことが判明している。さらに、復興支援への自衛隊の派遣を推進した。これが現在までつながるPKO派遣の端緒となっている。当時の小泉首相答弁をNewsWeekはこう伝えている。結局2018年になってイラクの復興支援で自衛隊が戦闘状態に巻き込まれていたことがわかるのだが10年以上この事実は隠蔽されたままだった。

2003年に国会で「イラクで戦闘がない土地などあるのか」と追及された小泉首相(当時)は「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」と豪語。しかし、当時のイラクでは外国軍隊へのテロ攻撃が相次ぎ、自衛隊が派遣された2003年、2007年に限っても、米軍だけで、それぞれ486人、904人の死者が出ています。この背景のもと、自衛隊の活動は短期間のうちに終了しました。

2011/8 民主党政権時に国連の要請を受けて菅直人総理大臣が派遣を決定。野田佳彦総理の時に派遣が始まる。最初は2名の調査派遣だったと朝日新聞が伝えている。

朝日新聞によると、わざわざ首相官邸に出向いたパンギムン国連事務総長からの要請を受けた菅直人首相が支援を表明し、野田政権になってから「調査団を送る」という約束をした。朝日新聞はその後の軍事的支援について心配しているのだが、野田首相がどのような心づもりで調査団の覇権を約束をしたのかは見えてこないし、その後本人からの回顧もない。自民党がある程度の戦略的意図を持っていたのに比べると、民主党の対応は場当たり的な印象が強い。

そもそも最初はアメリカを中心とする国際社会への「お付き合い」として構想されたPKO派遣だが、民主党政権下では米国主導ではなく国連主導の平和維持活動への協力として意識されていた可能性がある。あるいは「国連だったらよいか」と思われていたのかもしれない。しかしながら米国追従傾向の強い安倍政権下で南スーダン覇権がどのように位置付けられていたのかはわからない。

日本は小泉政権下で間違った情報をもとにアメリカのイラク侵攻を支持していたことを総括しておらず、南スーダンへの派遣がどのような意図でなされたのかという総括もない。「戦争反対」という声が大きいので、とにかく前例を利用して既成事実を拡大しようとする傾向が強い。そもそも根強い戦争反対論も第二次世界大戦や日米安保の自発的な総括がないところから始まっていることから、過去の記録を振り返らないことが話をこじれさせていることがよくわかる。

2012/12 民主党が選挙で大敗北を喫し、第二次安倍内閣が成立した。

2013/12 南スーダンの戦闘が激化する。その後も戦闘地域は広がり続け、ついには「比較的安全な首都のジュバ」にも危険が及ぶようになる。Yahooニュースが伝えるところによると、この時に撤退することもできたのだが、安倍政権は集団的自衛権の行使容認のための方策を模索しており、実績作りするために南スーダンのPKOを利用しようとしていたのか、それとも単に南スーダンの状況を過小評価していただけなのかはよくわからない。今の所「防衛省が報告をしなかっただけ」で知らなかったことになっているのだが、報道あったので「全く状況を把握していなかった」とは考えにくい。

一方、南スーダンでは2013年12月に内戦が発生。その直後に菅官房長官は「自衛隊の駐屯地周辺は概ね平穏」と発言。その後も、現地の日本人ボランティアが「自衛隊の駐屯地は首都ジュバのなかで最も危険な場所にある」と報告するなか、稲田防衛相(当時)が駐屯地周辺の状況を「戦闘」ではなく「衝突」と表現するなど、政府は危険を過小評価し続けました。結局、2017年3月に政府は「当初の目的を達した」と自衛隊の完全撤収を発表しましたが、その後も南スーダンでは内戦が続いています。

2014/7/2  集団的自衛権の閣議決定が行われる。毎日新聞 はこう伝えている。この後、国論を二分する安保法制論争が始まる。いったん解釈によって集団的自衛権の行使を容認したのだが、2017年になって首相が憲法改正によって自衛隊を憲法の中に書き込むべきだと提案した。これを契機にして自民党の中で憲法改正議論が行われるようになった。

政府は1日、臨時閣議を開き、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めた。集団的自衛権は自国が攻撃を受けていなくても、他国同士の戦争に参加し、一方の国を防衛する権利。政府は1981年の政府答弁書の「憲法上許されない」との見解を堅持してきたが、安全保障環境の変化を理由に容認に踏み切った。自国防衛以外の目的で武力行使が可能となり、戦後日本の安保政策は大きく転換する。

2015/8 この年の夏には各地で戦争法反対のデモが起こるが安保法案は成立した。安倍首相は「日本人を守るために法整備したのだ」と説明し続け、自衛隊に危険が及ぶことはないとも言っていた。自衛隊の安全確保義務が法律に書き込まれているとHaffinton Postの記事は解説している。シビリアンコントロールの中には「自衛隊の安全確保義務」も書かれている。つまり軍隊ではないと解釈されている自衛隊が「戦闘状態に巻き込まれた」と報告しているのに何もしなかったというのは、法律違反であり、そのまま憲法違反の可能性があるということになる。

また、安倍首相も(2015年)5月14日の記者会見で、自衛隊員の安全確保は「当然」として、「例えば後方支援を行う場合には、部隊の安全が確保できない場所で活動を行うことはなく、万が一危険が生じた場合には業務を中止し、あるいは退避すべきことなど、明確な仕組みを設けています」と発言。

2016/7 南スーダンで大規模な武力衝突が起こる。しかし、日報に武力衝突という言葉が使われていたために憲法第9条との矛盾を突かれると困ると考えた稲田大臣は戦闘を武力衝突と言い換えてきた。稲田防衛相の日報隠蔽疑惑、「瑣末な話」が大事件化の事情…日報問題の隠れた本質

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊の部隊が、昨年7月に政府軍と反政府軍の間で戦車、ヘリコプター、迫撃砲も使い、300人以上の死者が出る大規模な戦闘が起こった際、「戦闘が生起した」という正確な情報を中央即応集団司令部(相模原市座間駐屯地)への「日報」(日々の状況や行動の詳細報告)で伝えていた。

2016/9 現地からの情報を掴んでいたジャーナリストが南スーダンの日報の情報開示請求を行う。この時点では日報はネットワーク上に残っていたようだ。これ以降の記録は主に安倍首相は本当に「陸自の日報隠し」を知らなかったのかによるが、他の資料も補足に使っている。

この頃すでに成立していた法律による「駆けつけ警護」の訓練が始まろうとしていた。毎日新聞の調査によると反対している国民は48%と無視できないほどだったが、安倍政権はなんらかの意図を元にした実績作りのために法案成立後の実績作りに前のめりになっていた。この記事によると駆けつけ警護が行われるのは11月からの予定だった。当時の説明では南スーダンでは武力衝突は起こっているものの戦闘状態とまでは言い切れない上にジュバは比較的安全なので自衛隊に新任務が付与されても大丈夫だと説明されていた。だが、実際にはジュバにも危険が及んでいたのである。

日報を見るとそのことはわかっていたが、その日報を稲田大臣と安倍首相が知っていたかがまだわからない。知らなかったとなると自衛隊が自主的に状況を報告していなかったことになり「文民統制」上の問題になる。文民統制違反は憲法違反となる。(AERA.dot

このため戦後は新憲法で軍人は閣僚になれないとし、自衛隊法で最高指揮官を首相と定めるなど文民統制を掲げた。自衛隊を管理する防衛庁を設け、官僚(背広組)が自衛官(制服組)に優越する「文官統制」の仕組みも作った。それは軍令にも及び、防衛庁設置法では防衛庁長官の命令を背広組幹部が「補佐する」とされた。自衛隊が有事や災害で動く際の指揮内容を背広組が仕切る形だった。

一方で知っていたとなるとやはり政治家と背広組が法律にある自衛隊の安全義務違反違反だったことになる。これは戦闘状態に巻き込まれると自衛隊が軍隊だったということになってしまうということを意味しており憲法違反になる可能性が高い。

2011/10/11 安倍首相は政府軍と反政府の間で衝突は起きたが戦闘ではないと答弁。(Huffinton Post)この時に内戦とは国や国のような組織(国準)の間で起こる活動であると解釈し、南スーダンの活動はこれには当たらないと説明していた。この時点で防衛省から首相や防衛大臣に報告が上がっていたのかはわからない。

稲田氏は「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」とした上で、南スーダンの事例は「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」と回答。これに対し、大野氏は「戦闘ではなかったのか」と再三にわたって質問。途中、審議が中断する場面もあった。

稲田氏に代わって答弁に立った安倍首相は、「武器をつかって殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった」とした上で、「戦闘をどう定義づけるかということについては、国会などにおいても定義がない。大野さんの定義では”戦闘”となるかもしれないが、我々は一般的な意味として衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と発言。あくまで、戦闘行為ではなかったという認識を示した。

2016/11/19 JB Pressによると駆けつけ警護を任務とする第十一次隊が派遣される。

2016/12 ジャーナリストに日報は廃棄してしまいなくなってしまったという報告が戻ってくる。布施さんによると実際に日報が廃棄されたのはそのあとだそうだ。のちに小野寺大臣にあがった報告ではローカルのハードディスクなどに残っていたことがわかる。

この不開示に誰がどのように関わったのかは不明。つまり、安倍首相や稲田防衛大臣が国会が紛糾するのを恐れて防衛省に不開示を指示したのか、あるいは防衛省が勝手にやったことなのかはわからない。

現在の「文民統制」とは報告書をあげていたかそうでなかったかという議論なのだが、実際には危険状態を誰が認識しておりどういう判断で派遣を継続したのかという問題の方が重要である。さらに、危険があるということを認識しながら任務を拡大したことに対する是非も議論されるべきであろう。

2017/1/17 岡部陸上幕僚長は南スーダンの日報があることを知っており、統合幕僚の辰巳統括官にその旨を報告していた。

2017/1/24 安倍首相が日報(全般)は報告のための文書であり公的文書の管理記録に従って廃棄されたと答弁した。安倍首相が日報が実際に存在しているということを知っていたかどうかは不明。

2017/1/27 辰巳統括官は黒江事務次官に南スーダンの日報問題について相談。すでになかったことになっているので見つかったものだけをあったというようにとの指示を行ったとされる。

2017/2/7  南スーダンの日報はすでに陸幕が廃棄したと言った手前統合幕僚監部で見つかった形にしようと判断し、背広組が稲田大臣にそう伝えた。

2017/2/13 幹部との間の会合で稲田防衛大臣「なんて答えよう」と発言したという記録が残っている。稲田大臣は「戦闘と言ってしまうと第9条との間で問題が起こるから戦闘とは言えない」と答弁して辞任を要求された。安倍首相は応じなかった。

2017/2/15 南スーダンでの記録も残っていないので、イラク復興支援の日報について問われて「こちらも廃棄した」と言わざるをえなくなった。稲田防衛大臣も含めた会合が行われ、黒江事務次官が「なかったといったものをあったとは言えない」と発言したとされる。

2017/2/16 今度はイラクの日報が本当にないのか野党が防衛省に問い合わせ。辰巳統括官は捜索の必要があると認識。(イラク日報についての経緯は毎日新聞の記事による)

2017/2/20  イラクの日報の問題で稲田大臣が「残っていない」と答弁。

2017/2/22「本当にないのか」と稲田防衛大臣が辰巳統合幕僚監部統括官に尋ねた。担当者はメールで3部署に確認したが「捜索したがなかった」と回答をしてきた部署の報告だけをあげて「探していない」部署については確認しなかった。

2017/3/27 教訓課でイラクの日報が発見されたが報告はしなかった。

2017/5 南スーダンからの撤収が決まる。Huffinton Post)の記事によると、政府は「危険だから」ではなく「任務が完了したから」撤収したと説明した。

安倍晋三首相は撤収する理由として、「自衛隊が担当している(首都)ジュバにおける施設整備は一定の区切りをつけることができる」と述べた。ジュバでは2016年7月に大規模な銃撃戦が発生するなど、南スーダンの悪化している治安情勢を考慮に入れた可能性もある。

2017/7/27 特別防衛監察の報告書が出る。防衛大臣が具体的な指示を出した可能性はあるが、照明はできないとした。この時点で黒江事務次官が主導して隠蔽を指示したとされた。責任をとって、防衛省のトップが辞任。稲田防衛大臣は事実上の更迭と伝えられている。

2017/7/28 当時の稲田朋美防衛大臣、黒江哲郎防衛事務次官、岡部俊哉陸上幕僚長の3人が揃って辞任した。(ニコニコニュース

2017/11 日報の実態把握調査が小野寺防衛大臣の指示のもとに始まった。(nippon.com

2018/3/7 三原文書課長はこの時点でイラクの日報があったことを知っていたが、他にいろいろと忙しいことがあったので小野寺大臣には報告しなかった。(JIJI.com

研究本部は1月12日、陸幕衛生部が同31日に、それぞれ陸幕総務課に日報の存在を連絡。陸幕は2月27日に統幕へ報告した。小野寺氏への報告が3月31日にずれ込んだことについて、防衛省関係者は「防衛相への説明や国会質問に耐えられるようにするため時間がかかってしまった」と釈明している。

2018/3/28 18年度予算案が可決され、国会で追求される可能性がなくなった。(毎日新聞)しかしながら、予算案成立の過程では森友学園をめぐる決済文書の改竄問題が取りざたされ、首相夫人の関与を巡り証人喚問が行われた。このため、その他の文書改竄や隠蔽が露見すれば政権の存続すら怪しいのではないかという雰囲気になっていた。その後、加計学園問題で首相官邸の関与があったらしいという証拠が見つかっている。

2018/3/31 防衛省によるとこの日になってはじめて小野寺防衛大臣に「日報があった」という報告がなされたとされている。

2018/4/9 安倍首相が日報が見つからなかったことに関して陳謝した。

2018/4/14 2004年に小泉政権下で実施されたイラクの日報にも戦闘の文字があったことが確認された。(朝日新聞)また、シリアが化学兵器を使ったとしてアメリカが大規模な攻撃を行った。国連による調査は行き詰っており調査団の活動期限もすでに切れていた。今回の攻撃では数百人規模のロシア人が亡くなっているという報道もあり、ロシア政府は国連に抗議したが抗議声明は否決された。安倍首相はいち早くアメリカに支持を表明した。(Blogos)トランプ大統領のシリア政策は支離滅裂であるという観測も出ている。(NewsWeek)ロシアとの親密な関係を強調するが、シリア攻撃でロシア人も殺しているからである。

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要点は最初に書け – 読んで欲しければ

今回の話は「要点は最初に書け」というものだ。ブログでページビューを稼ぎたいと思っている人にも役に立つし、例えば安倍政権を倒したいのに賛同が得られないと悩んでいる人にも役に立つだろう。

要点を最初に書けといっても、もちろんそれ以外のことを書くなというわけではない。

先日面白い体験をした。「IPアドレスが自己割り当てになったらどうしたらいいのか」という記事が検索エンジンに引っかかるのだが滞留時間がほとんどんかった。これにちょっと手を加えたところさらにたくさん読まれるようになった。ここから「読んで欲しければ要点は最初に書け」ということを学んだ。要点を書かないとそのまま素通りされてしまうのである。そして要点というのは「相手が探していること」であり自分が言いたいことではないということも学んだ。

最初に書いた記事はIPアドレスが取得される仕組みを基礎から順序立てて細かく書いていた。「コンピュータに詳しい」という自負があるので、問題解決するなら基礎から知らなければダメなのだというような気持ちがあったからである。だが、これは良くなかった。誰も読んでくれないのだ。

この記事は検索エンジンからの流入はある。そしてそれは一過性のものではないようだった。そこで、どうにかしなければならないという気持ちになり、要点を冒頭に付け加えた。細かいことがわからなくてもとにかくルーターのアドレスを調べて手動設定すればいいのだ。そして画像を添付した。

すると滞留時間が目に見えて変化した。最初は平均0秒だったのだが、それが12分まで伸びた。最初に要点だけ書いておくと「俺がほしい情報はここにある」という気持ちになるようである。読んでもらっても同じことを細かく書いているだけなのだがそれでも構わないようだ。「忙しい現代人」は秒単位で役に立つ情報を切り分けているんだなと思った。

滞留時間が増えると有用性が増したと判断されるのかさらに流入者が増えた、と書きたいところなのだがそうではない。多分この辺りは検索エンジンに依存しているのではないかと思う。特定のファンがついているというわけではなく「たまたま検索エンジンにかかっているだけ」である。

このことから別のこともわかる。自分であたりをつけたり自分が言いたいことを書いてはいけないということだ。流入は検索エンジンに依存しているのでコントロールができないうえに、ユーザーは自分が知りたいことだけを検索するからだ。さらにすでにたくさんの人が書いている記事は計策されにくい。いろいろな書いてみてたまたま当たったものについて「ポイント」だけを書くのが良い。それが面倒ならいろいろ書いておいて当たったものにだけ改良を施せば良い。ウェブはスペースが限られているわけではないので、細かいことは時間が許す限り付け加えて行けばよいということになる。

とにかく好きなことをだらだらと書くのが楽しいので、普段はだらだら記事を増やして行き、定着したものだけを見直している。

ただ、このやり方はこちらのブログには当てはまらないかもしれないとも思った。こちらはタイトルと冒頭(これは釣りになっていることが多い)だけを読んで「わかった」と考えてRTされることが多い。政治や文化は複雑なプロセスなのでこの「わかった」が危険なのである。さらにトップページへの遷移が顕著に増えることもある。過去の傾向から多分「安倍政権の悪口が書いてある」とか「共産党が危険な理由が書いてある」などと感じた人が同じような記事を探しているのではないかと思っている。特に政治は複雑なので「答えが見つかった」と感じると同じ記事を探したくなるのではないだろうか。

政治的な意見をつぶやくときには誤解を恐れていろいろと注釈を入れてしまいがちなのだが、これは避けた方がよさそうだ。もし反発を受けたらそのときに注釈を入れてやれば良い。とにかくわかりやすいのだと思わせることが重要で、細かい説明は後からすればよい。

ただしこれは単純なメッセージだけを考えていれば良いということではない。議論を呼びそうな話題についてつぶやくのならあらかじめ想定問答集くらいは考えておいた方がよいし、できればどこかに自分の考えをまとめておくと良いだろう。相手に対する対策にもなるが、まずは自分で検証ができる。常々書いているように「安倍は戦争を従っているから憲法は守らなくては」と主張しても誰も聞いてくれない。その戦争が何なのか当人たちも説明ができないからだ。ただしそれは「あれ、戦争って何だろう」と考えてみないと気がつけないことでもある。

今「戦争反対」デモが各地で行われているのだが、共産党が署名を集めるキャンペーンをやっているからのようだ。自民党と公明党への投票が3000万人程度なので、それくらいの署名が集まれば自分たちの方が正しいことになるという理屈のようである。ただ彼らに「何が戦争なのか」と聞くとリーフレットを渡される。そこには共産党のいう安倍政権が戦争をする理屈が細かく書いてある。ただこれが現実離れしており読んでもよく意味が話からない。そこで人々は興味をなくし「やっぱり共産党が今の政治を気に入らないから騒いでいるんだな」などと思ってしまうわけだ。

これまで見てきたように契約型の民主主義社会に移行したいと考えているなら、市民が政治を監視するのはとても重要だ。だから、一方的に作ったお話をデモで叫ぶのはもうやめた方が良い。ただしそれを一人でやるのは難しいので、政治について意見交換ができる素地を普段から作っておく必要がある。そのためにもまずは興味を持ってもらう方法を考えることは重要だと思う。

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