野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

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なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

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何もしたくないが話題には乗っかりたい都知事

目黒の五歳児の虐待問題について考えている。摘発があったのは3月であり、あの「かわいそうな」手紙が公開されるまでそれほど話題にならなかったのだから「社会が見殺しにする」などと声高に叫ぶつもりはない。しかし、それにしても今回の政治家の対応はひどいなと思った。浮き彫りになるのは、話題にはなりたいが何もしたくないという政治家の姿である。こういう外見の良い人たちに期待したことがあるので余計腹立たしさを感じる。リーダーシップのなさというより有権者はなめられているのかもしれない。

小池都知事は会見で記者たちに児童相談所の体制を24時間365日にすると表明したそうだ。区役所と児童相談所の連絡体制も密にするとのことである。「早速、動いてくれているのだな」という印象を持つ。

ところがこれとは全く違った情報も出ている。上田令子都議(「かがやけ東京」という音喜多都議との二人会派のようだ)が関係各所への連携について都議会に質問した所「現状維持」という回答が戻ってきたのだという。小池都知事も「現状維持」回答だったとのことである。文中に次のようにある。110番通報とあるところから関係各機関が警察を含んでいることがわかる。

先にあげた事例は、関係各機関が機動的に動いていれば防げた事案です。このような痛ましい虐待死事件が繰り返され手遅れになる理由として、虐待を把握していながら児相が家庭訪問をしなかった、不在だった、子の現認を怠ったケース、110番通報が入っても、児相との情報共有がないため見逃してしまうケースが散見され、児相、区市町村が関与しながら虐待死に至った子供は、過去10年で26名に上ります。

小池都知事が言っていた「連携」とは区役所と児童相談所という自分の縄張りの連携である。一方、上田さんが言っているのは「警察も含めた」連携である。つまり、東京都はなんらかの理由で他の役所が介入してくるのを嫌うのである。また、小池さんは予算については言及していない。同じ予算でカバーする領域はそのままでも「児童相談所に頑張ってもらう」ことで24時間体制は実現できる。つまり、ポーズのために職員を犠牲にしているということになるだろう。

もちろん、警察がやみくもに様々な役所と「連携」することは慎重に議論されるべきだろう。しかし、実際には予算が足りないなどとの制約が出ている。政治家は予算措置が講じられないなら進んで各所との連携を議会に諮るべきだろう。警察介入を嫌うはずの共産党が賛成に回ったことからもその緊急性が想像できる。

もちろん小池都知事が関係各機関との連携を拒否しているわけではないだろう。だが、少なくとも彼女はこの話題に「乗りたい」だけであって、関係各所に頭を下げてまでは子供の状況を変えたいとは思っていないということがよくわかる。豊洲や築地の話から見てわかるように、記者会見で格好の良いことは言いたいが何もしたくない人なのではないかと思う。

引用した上田さんの文章は政治家とは思えない下品な書き方がしてある。キャラを立たせたいために却って信頼性を損ねるように思える。言いたいことが真っ当なだけにもったいない印象を持つ。

世論はひどい親を叩きたい人たちだけかもしれない。だから、本格的な議論には繋がらないだろう。しかし事件に注目が集まったのだから政治家はそれを利用して状況の改善に努めるべきだし、また世の中をよくしたいと考える人が政治家であるべきだ。しかし、実際に政治家たちは単に世間の注目を集めたいだけで、その意欲がない。

同じような思惑で動いているように思えるのが東京選出であり過去都知事に近い動きを見せていた長島昭久衆議院議員である。希望の党を作って民進党を破壊した中核のいわゆる「保守」の人たちである。この人も、どうにかして「児童相談所」のやる気の問題にしたいようだ。援護射撃のつもりなのかもしれないが、あまりにもあからさまである。

彼らはネットは劣情の渦巻くところであり、誰かを指差せば勝手に炎上してくれると侮っているのではないだろうか。せめてもの救いはネットにはそれなりの判断機能があり、彼らの主張が全く顧みられておらず、全国的にも支持が広がっていないという点だろう。現在無所属を含めた旧民主党系右派に注目が集まらないのはいいことだ。保守を自認しながらこの程度の認識しかない。

安倍政権はトカゲの尻尾切りで政権の延命を図り、日大アメフト部の監督は選手が勝手に勘違いしたという言い訳をして逃げ切ろうとした。日本では声をあげられない人たちに責任を被せて逃げ切ろうとする自称リーダーが多すぎるように思える。さらにネットは劣情渦巻く空間であり何をしても構わないし、有権者はバカだから見栄だけ切っておけばあとはなんとかごまかせると考えているのだとしたら、それは考え直した方が良いと思う。

小池都知事は学歴を誇大に伝えたという疑惑があるそうだ。その件を聞いた時も「前から噂があったことだし、みんな知っていて黙殺していたのだから、それくらいで騒ぐのは如何なものか」などと思っていたのだが、もしかしたら本当に政治をやってはいけない人たちなのかもしれない。今後良識のある政治家が登場して状況が変わることを期待したい。

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母性という密室が子供を殺す

目黒の女の子の虐待死について考えている。外側からの規範意識を無自覚に受け入れた結果として子供を殺してしまう母親についてだった。エントリーでは母親が自分の理解した「母親像」を押し付けた結果子供が亡くなったというように分析したのだが、その後に読んだハフィントンポストの記事によると、父親が子供たちを支配しており、母親はそれを黙認していたというような図式になっている。いずれにせよ東京の子育て環境が密室化しており、両親の病んだ支配欲求を満たすのにおあつらえ向きの空間になっていたということがわかる。

この件に関する政治家の動きで一番腹が立ったのは小池百合子都知事の対応(日経新聞)だった。非難の矛先が自分に向くことを恐れたのか、早速政治的なポーズを見せた。なんの総括もせず具体的なことも部下に丸投げするのだろう。この人にリーダーシップを期待しても無駄なのだが、それにしてもひどすぎると思う。

ただ「支援がなかったのだろう」とか「この人は特殊なのだろう」と考えること、気持ちを収めたいという受け手側の事情もわかる。こう考えることで日本人が持っている母性信仰に逆らわずに済むからだ。だが、実は母性は適切な環境なしにはそれほど頼りにならない。病化すれば却って母性が子供を苦しめることになる。

この母親は生きてゆくために夫の規範を受け入れた。つまり生きてゆくにはそれが最適なのだと子供に教えたかったのだろう。それは子供が動けなくなるくらい衰弱しても「勉強のノルマを果たせなかった」という理由で折檻するというような病んだ規範意識である。確かに病んではいるが「無批判に大人のいうことを聞く」というのは典型的な良い子の姿である。先生のいうことを聞いていればそれでいいのだと教えられて、内的な批判精神を一切持たないまま育つ日本人はこの母親の姿勢を笑うことができないのではないかと思う。

これは、国や社会が「子供は国のために犠牲になって死ぬべきである」という規範を持った場合、母親が援助者として機能するということを意味する。つまり、国が戦争を求めた場合、母親は喜んで子供を戦場に送り出してしまうようになるだろう。それがその社会の「良い子」の姿だからである。

この無批判な精神は大人になるとさらに強い規範意識に縛られる。それが「女の人はうまれながら優しい母親である」という思い込みだ。こうした議論に加担する人は、優しい自分を見せたいだけであって、対象物にはそれほど興味がないのだろ。しかし、正解であるという思い込みが強ければ強いほど人気の題材になる。前回の聖書の例で見たように「これさえ掲げておけば安心」という正解だからである。

もし仮に「母性は病化する」などと主張してみても「お前の個人の意見など聞いていない」と黙殺され罵倒されるはずである。政治家の中にもこうした論調に乗ろうとする人がいる。冒頭に挙げた小池東京都知事もその例である。「わかりきっている」とされたことに乗って人気を取るという薄っぺらさが彼女の戦略だからだ。

今回のケースの場合、母親は周囲に助けを求めることができたし、実際には救いの手が差し伸べられていた。それをやらなかったのは母親が「合理的な」選択をしたからである。彼女は二人の男性との間に子供がいた。一人は子育てをするつもりがなく、もう一人は子育てをするつもりがあった。「どちらかを選ばなければならない」となった場合、子育てをするつもりがない父親の子供ではない方を「取った」ということになる。先程は「母性は不健康な状態になる」と書いたのだが彼女にとっては「合理的」ですらあったかもしれないのだ。

目黒の事件は確かに極端なケースだ。しかし、あるべき母親像に苦しめられる人は多い。「母が重い」と感じる娘が話題になったのはもう数年前になる。この日経WOMANの記事は2014年に書かれている。主に問題なっているのは「女性は家のことを完璧に取り仕切るべきだ」という社会規範に囚われてしまった母親だ。子育てがその人の「中核的な事業」になってしまうと、子育てが終わっても子供に依存することになる。家庭に入ることで母親は全てを諦めなければならなくなり、同じ生き方を娘に押し付けたり、あるいはその反動として娘に違った生き方を強要するというケースがあるようだ。BuzzFeedは5冊の本を挙げて「毒親」について解説している。

密室になった親子関係が子供を精神的に殺してしまうというケースは日本では見逃されがちである。それは親密な親子関係が美談として語られるケースが多いからである。小池都知事の他にもこれを利用しようとする人がいる。男性はさらに無責任で、子育てを女性に丸投げしようとする。

適当なラベルがないので「保守」とするが、父親から見た理想の家庭を国民に押し付けたい人たちは、家の問題を母親に押し付けて「あとは自動的に健全な子育てが進む」と考えている。例えば萩生田光一は「子育てはママがいいに決まっている」と言っている。これは「子育てを母親に押し付けている」という反発を受けている。はっきりした統計はないがと開き直っているところから、この主張には何の根拠もない。

母親は毒になる。これを防ぐためには「どのような関わり方の育児がいいのだろう」と考えた。家族という密室を作らないためには、社会全体が子育てに携わる必要があるのだが、それは何も地域の人たちが保育施設を作って子供の面倒をみるというようなことではないのではないのではないか、と思った。むしろ、子育てに専念するような環境を作ってはいけないのだ。

もともと人間にはいろいろな役割がありその役割の中でいろいろな関係に囲まれている。例えばあるお父さんは会社では課長であり地域の野球クラブの一軍コーチであるという具合である。この中に子供が組み込まれれば良い。お母さんにも職場、地域のネットワーク、家庭があれば一つのところに閉じ込められて子供に依存する必要はなくなる。

実はこのようにして解決できる問題はいくつもある。学校が世界の全てだと思えばいじめから逃げるために自殺する人が出てくる。会社の評判が全てだと思い込むと過労死でなくなる。そしてアメフトが全てだと考えると違法タックルに追い込まれる。全て「社会の密室か」の問題が背景にあることがわかるだろう。

ただ、こうした複合的なネットワークを実現するためには、変えなければならないものがいくつもある。例えば職場に子供を連れて行って良いことにしなければならないし、お父さんもお母さんも自分の裁量で仕事が調節できるようにしなければならない。さらに、今学校に丸投げしている課外活動に両親や祖父母が参画することになる。そのためには、誰かがビジョンを作ってそれを実行することが求められる。これをリーダーシップと呼ぶ。

日本人はビジョンを作って協力し合うのがとても苦手だ。代わりに箱を作って全てをその中に密閉しようとする。小池都知事の方針について反発したのは彼女の方針が「密室作り」の延長でしかないからだ。リーダーシップのない政治家は適当に口当たりの良いことだけを言って箱を作りあとは何もしてくれない。児童相談所の人たちが他部門に協力を求めたとしてもその調整は彼らが独自にやらなければならない。実はこの「社会の密室化」は社会全体の問題であり、母性はその中でこれまでも静かに病変を育んできたのだろう。

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船戸結愛ちゃんの届かなかった叫び

目黒で5歳の女の子が殺された。警視庁が子供のメモを公開し「親が許せない」というトーンで報道されている。今回は「人が育つ・育てる」というのはどういうことなのかということについて考える。

なおこの文章は「孤立した母親が自分が理解した規範を娘に規範を押し付けている」という見方で書いているがハフィントンポストの分析だと父親が規範を押し付けていたというように読み取れる。女はモデル体型ではないといけないと言っていたのは父親だというのである。

確かにこの訴えを聞いていると両親が許せないというような感情が湧き上がる。毎日新聞に子供のメモの全体が掲載されており、ワイドショーの中にはタレントに涙まで流させて扇情的に扱ったところもあった。

ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

だが、本当にこの話は単に扇情的に扱われて良いのかという疑問がある。結愛ちゃんの叫びは我々には届かなかった。親が子育てに失敗したという見方もできるだが、社会が母親を育てるのに失敗したとも言える。社会が人を育てるというのはどういうことなのだろうか。リベラルの識者がいうように単に児童相談所の予算を増やせば良いのだろうか。

最初、報道を見ないで考察したのだが結果的にはかなり外れてしまった。この後フジテレビの情報番組で情報を補足した。その中で見えてきたのは二つの行動原理である。夫の方は動物の基本通りに行動している。自分の遺伝子を確実に残すために邪魔な子供を消そうとしたのだ。報道によるとリーダーシップもあり仕事もできる普通の社会人だったというだけに恐ろしさが際立つ。一方で母親の方がもっと屈折しているのだが、報道では「夫の暴力を黙認した半ば被害者」のような扱われ方になっていた。

夫の方は比較的単純に分析ができる。父親と結愛ちゃんの間には血のつながりがない。このことからこれが一部の猿などで見られる典型的な子殺し案件だったということがわかる。普通の男性は何らかの理由でこれを抑え、代わりに共感と愛情を育んでゆくがこの人にはそれができなかった。「経済的に余裕がないから虐待したのではないか」と思ったのだが、年齢も離れており仕事も持っていたということで、経済的に余裕がなかったということは言えないようだ。

猿の中で子殺しをするので有名なのは、ハーレムを作るハヌマンラングールという猿だ。強いオスがハーレムを乗っ取ることがあり、前のオスの子供をすべて殺してしまうそうだ。サルの場合は子育てをしている間は発情が抑えられるので子供を「取り除いて」発情を促すという側面もあるという。遺伝子を残すという意味では合理的な行動である。だが、これは人間の世界ではやってはいけないことである。

痛ましいのは、児童相談所の摘発が転居のきっかけになっている可能性である。東京新聞によると食品会社を退職して東京に移っているのだが勤めていた会社は摘発(書類送検されたが不起訴)について全く知らず「子供のことを考えているよい父親だ」と感じてたという。しかし、結局この転居は「逃げるため」のものになった。東京ではさらに念入りに隠蔽工作が施される。結愛ちゃんについて知っている人がほとんどいなかったうえ、事情を知っていた児童相談所も結愛ちゃんに会えなかったようだ。目黒には児童相談所はなく品川などの広い区域を少ない人数でカバーしていたそうである。

問題は母親である。子供を安全保障に使っているということと夫の行動を黙認しているという点では動物的な側面を持っていると言える。だが、本当にこの人は、新しいオスに子供を殺されるだけの被害者だったのかという問題がある。

まずフジテレビのワイドショーは「支配」というキーワードを用いていた。児童相談所勤務経験のある人の証言では、虐待する母親ほど子供に執着することがあるのだそうだ。この手紙も自発的に書いたものではない可能性があるという。つまり、結愛ちゃんはこれを忖度して書かされていたことになる。忖度と言っても支配するためには直接的な暴力や言葉による罵りが行われることがある。つまりこれは結愛ちゃんの考えではなく母親の規範である。政治の忖度と同じように児童相談所にこれを見せて「子供が言っている」として正当化の道具に使う親もいるそうである。

次のキーワードは「理想の(あるいは普通の)家族」である。結愛ちゃんは近所からも隠されて「あんな子供がいたことを知らなかった」という証言があった。つまり近所には「完全な(つまり血のつながりだけで形成された)家族」を演じていたということになる。

母親は子供に「社会的規範」を移していることがわかる。手紙から伝わっているキーワードは「こつこつ努力すること」「遊びのような無駄なことをしないこと」であり、供述からわかるのは「モデルのように美しくなること」である。が、このキーワードは一体どこから出てきたのかはわからないが、コツコツ努力できなければ叩かれても良いとか、モデルのように美しくなるためには成長に必要な栄養を与えなくても良いというのは明らかに暴走だろう。

例えばこれを自分に向ける女性もいる。モデルの女性を見て羨ましく思った女性が自分に価値がないのは美しくないからだと考えて拒食症に陥ってしまうというのがその例だ。彼女はそれぞ自分には向けずに娘に押し付けていた。つまり、社会が彼女を「育て」て、彼女は娘を「育てて」いたことになる。この規範の移転も実は母親の「機能」なのである。

だが、この機能には修正装置もついている。それが社会である。この社会がなかったのなら「社会が悪い」で済むのだが、実はそうでもなかった。

人間は猿よりも寿命が長いので祖父祖母という存在がある。つまり、祖父母が間に入って介入できれば「惨劇」が防げていたのではないかと思った。だが、これ想像とは異なっていた。母親は親と同じアパートに住んでおり、新しく結婚するまでは交流もあったようだ。最後に食事にも出かけていたことから放置されていたわけでもなかった。

国も制度を持っていた。児童相談所は虐待について知っていたわけだし、それなりに心配もしていたようだ。香川では二回の虐待騒ぎが起きているから「移動させると大変なことになる」と指摘した人たちもいたという。だが、目黒ではそれがうまく行かなかった。

今でも不十分なセーフティネットだが、それが取り除かれあるべき規範意識を社会が押し付けるだけになるとどのような問題が起こるのかが予想できる。そしてその時に最大の「加害者」になるのは無批判に外的な規範を受け入れてしまう母親である。

ここに出てくる人たちは核家族という集団で規範を作ろうとしていた。ただし、核家族は拡大家族や地域社会から閉じこもる道を選び、さらにその中では家族から母娘が閉じこもる道を選んだ。この小さな集団は短い間に暴走し、最悪の結果がもたらされた。結愛ちゃんの叫びは何重にも密閉され警察に発表するまで誰にも聞こえなかったということになるだろう。

自民党の憲法草案は「あるべき家族像」を政治家が国民に押し付けても良いという考えのもとに作られている。と同時に社会はこれ以上のお金は出せないからそれは家族がお互いに助け合って何とかすべきだとも主張する。

よく「子供を戦場に送らせない」というリベラルの主張がある。この母親が特殊な人であったとしたら暴力的な社会から子供を守る母親たちが子供を守ることになる。しかし、もしこの母親が特殊でないとしたら、夫や社会の暴力にさらされた時、母親はそれを黙認するばかりか、子供を進んで危険な場所に送り出すようになるはずである。どちらが多いのかはそうなってみなければわからないが、もし悪い方の予想が当たればそれは取り返しのつかない社会の失敗になるだろう。

自民党は社会を作ることに関心がない政党である。働き方改革でも、彼らなりのビジョンを押し付けた上で「柔軟な働き方ができるように規制を取り除く」と言っているが、その労働市場がどうやったら作られるかということについては一切興味を持っていないようである。

もちろん、自民党が今回の事件を引き起こしたなどと主張するつもりはないのだが、今でも母性というのはかなり危険な状態に置かれており、家族も密室化している。社会がどう形成されるべきかという視点を持たない政治はこの状況をさらに悪いものにするだろう。

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お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

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日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。

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個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

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内田イズムが復帰する時

また日大のアメフトの問題である。「もういいよ、加計学園問題について追求しろよ」と思う人もいるかもしれない。だが、ちょっと嫌な話を思いついたので書かずにいられない気分になった。

内田監督は断罪されて少なくとも関東のアメフト界からは追放された。しかし経営者として学校には残るようである。今、テレビ朝日のワイドショーを見ながらこれを書いているのだが、テレビ朝日はややリベラル寄りの姿勢なので「理不尽な監督の支配から脱却して民主的で合理的なスポーツに戻るべきである」という論調で話を進めていた。これは「普通の」感覚であろう。

確かにそうなのかもしれないのだが、もしこれで日大が勝てなくなったらどうするのだろうかと思った。この件で普通の私たちは大いに清々しい思いをしたのだが、勝てなくなった時に「ほら、昔のスパルタのほうがよかったでしょ」などと内部の人が言い出す可能性があるのではないかと思ったのである。

同じ感覚を共有しているコメンテータはアメリカ流のコーチングを採用すべきだと言っていたが、司会者らにスルーされていた。現在の経営陣がこれを許容する見込みはそれほど大きくなさそうである。

もしそうなった時チームはどうなるのだろうかと思った。内田監督はいなくなったが経営陣には残るので同じように成果を求めるだろう。そして内田さんは「正解」を知っていると思っている。それは選手を恫喝して追い込むという方法である。もし、新しいやり方で成果が出なかった時、現場のプレイヤーはそれでも新しいコーチングを続けることができるのかと考えると、かなり気持ちが揺れるのではないかと思う。新しいコーチングが正解かどうかはわからないのだが、少なくともシゴキでは一度結果が出ているからである。もし、そこで古いマインドセットが復活すれば、中から自浄作用を働かせるのは以前より難しくなるに違いない。

すでに日本のアメフトはアメリカのレベルから遅れていることはわかっている。アメリカでスポーツを学んだ人たちは異口同音に「日本のやり方は不合理だ」と指摘する。アメフトにもそのような声がある。さらに新しくわかってきたところによると「日大のOBでも日大には子供を入れたくない」という人が現れているようである。こうして、新しく変わることに失敗した組織はそのまま衰退してしまうのである。

なぜこのような話を思いついたかというと、もちろんこの話を政治と重ね合わせているからだ。2009年までの数年間、政治には「有権者の手で政治が変えられる」という期待があった。しかしながらそれが失敗に終わってしまった(あるいは失敗に終わったと見なされた)ために、やはり政治を変えるのは無理なのだというような失望に変わっている。そう考えると日本は一度内田監督が退任た世界ということになる。

日大の例に戻ると、日大はこれから独自の指導方法を確立する必要がある。スパルタ指導はよくなかったという認識はあるわけだが、同時にスパルタ以外の指導方法は実践も研究もしてこなかった。彼らは今期は試合に出ることができないので、これからの一年を新しい指導方法を確立するのに充当すべきなのだが、学校側が外部からの指導者を受け入れそうな様子はない。

同じように日本も「今のような曖昧な意思決定と縁故主義に侵された政治は嫌だ」という気分はある。ただし、一度それ以外のマネジメントを実践しようとして失敗した過去がある。加えて自分たちが麻生政権まで行っていたマネジメントがどんなスタイルだったのかということを整理できておらず、そのために反省ができないという状態である。さらに野党側は首相の不正追求に執着しておりマネジメントスタイルを整理した上で国民に提案するというようなことはやっていない。日本人は内省を嫌い集団での競争に熱中するからである。

「まともな人であれば安倍政権は支持しないであろう」という感覚は当然なのだが、ではどのような政治を希求するのかということを、これを読んでいる人たち一人一人に聞いてみたい。多くの人は「まともな民主主義が回復されるべきだ」という普通の感想を述べても、それがどんなものなのか他人に説明できないはずだ。「普通の民主主義で<成果>が出ると確実に保証できるのですか」と聞かれると言葉につまってしまうからである。

たかがアメフトの問題という言い方はもちろんできるわけだが、実はかなり大きな学びがある。体制を崩すのはそれほど難しくないが、新しいものを作るのはとても難しい。そして、一度失敗したところから学びなおすのはさらに難しいのである。

日本人は「民主主義というのは誰かが正解を与えてくれる社会体制ではない」ということを理解しなければならない。ただ、明治維新以来「こうすれば勝てる」というゲームを政府から与えてもらっていた「普通の人たち」にとってこれはかなり恐ろしい社会なのかもしないと思った。

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日大の危機管理はなぜ世間からの怒りを買ったのか

今回はこのTweetから、日大の危機管理の問題について考える。このお話を読むとなぜ日大病にかかると時代から取り残されるかということがわかる。

永江さんは、日大の危機管理と我々が考えている危機管理は違っていると言っている。だが、この細切れのTweetからはいったい何が違っていて、なぜそれが起きているのだろうかということはわからないので、自分なりに補足してみた。

今、大げさに「日大は日本の問題が凝縮されている」と騒いでいるのだが、実は半分嘘である。日本の「日大病」には特有のメカニズムがある。非言語によって獲得された知識が客観視されないままで暴走すると歯止めが効かなくなる。個人の判断も停止されており、トップも状況を客観視できなくなる。だが、勝てなくなった組織が不正に手を染めるという現象自体はそれほど珍しいものではない。

同じことが20世紀終わりのアメリカでも起きていた。エンロン事件ととかワールドコム事件という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれない。エンロン事件はもともとエネルギーを扱っていたエンロンが会計操作をして業績をごまかしたという事件である。エンロンには社会的非難があtまり2001年に破綻した。エンロンが不正に手を染めたのは株価維持のために「勝ち続けなれればならない」と考えた。株価を維持するためには業績がよくなければならないので、様々なテクニックを使って会計をごまかした。しかし、当時の会計基準ではこのエンロンの不正を暴くことはできなかった。さらに関わっていた会計事務所のアーサーアンダーセンも多分知っていたのであろうが「知らなかった」で押し通したので、アメリカ全体を巻き込んだ大きな騒ぎとなった。

こうした背景や経緯は今の政治の文書不正問題や今回の日大のアメフト部の問題と似ている。だが、その対処方法はかなり違っている。

アメリカは幾つかのことをやった。まずエンロン事件を防止できるようにサーベンスオックスレイ法を制定して会計監査を厳しくした。結果、アーサーアンダーセンは閉鎖に追い込まれたのだが、当時の基準では違法ではなかったのではないかと言われているそうだ。にもかかわらず炎上を恐れたアーサーアンダーセンは操作の段階で資料の廃棄も行ったそうである。さらにMBAでは倫理教育を行うようになった。エンロンやアーサーアンダーセンにはMBAホルダーが多く、このままではMBAホルダーが悪の根源だという認識が広まりかねなかった。

この結果、MBAではコンプライアンスという考え方を教えるようになった。コンプライは遵守するという意味だが、遵守する対象には法律と社会的規範が含まれている。

アメリカ政府が法律を作ったのは金融市場を守るためである。不正が蔓延すれば金融市場の透明性が失われて外国からの投資が引いてしまいかねない。MBAにも優秀な生徒を集めなければならないので「倫理も教えており不正にはコミットしない」という姿勢を示す必要があった。

日大病は「内と外」が乖離することによってコミュニケーション障害が起きるという問題があった。一方でアメリカ社会は移動を前提としており透明性を確保する必要があった。日大と他大学お対応を見ているとよくわかるのだが、日大は「自前で囲い込んで生徒にいうことを聞かせる」ことを前提としているので不正が蔓延しやすい。一方他大学は「生徒を確保する」必要があり他校との交流もあり自浄作用が働きやすいと言える。つまり、日大と他大学のアメフトコミュニティでは「関係者」が違うのだ。関係者をステークスホルダーと呼ぶ。

このような経緯からMBAを通じてコンプライアンスという言葉が一般化することになった。「ステークスホルダー」という考え方もここから生まれる。つまり、企業は株主の利益の最大化のためだけにあるのではなくその他の関係者である顧客・従業員・納入業者など全てを満足させるべきだというような理念である。健全な日本の企業にも「三方よし」という考え方がある。

このことからリスク管理の理念も変わってゆく。もともとはダメージコントロールのような理論だったのだろう。永江さんのいうところの「警察的な総会屋対策」などはそれにあたる。だが、今の危機管理理論ではそのように考えないはずである。クレームを行ってきた人がどのようなステークスホルダーなのかということを理解した上で、危機管理をこの人たちに「正しい価値を伝えるためのオポチュニティ」として捉えるというように変化した。

永江さんは返信の中で総会屋対策は耳を貸さないことと言っている。これは総会屋がルールに則っていることを偽装しながら総会を破壊しようとするからである。内田前監督らの記者会見は「タックルしてくる危険なマスコミ」から内田監督らを守るために行われたのである。

一方で、日大の当該選手のインタビューには幾つかの目的があった。表向きの目的は謝罪だが、その謝罪を通じて「監督の指示があった」ということを伝える機会を作った。これは危機管理としては極めて正しいやり方である。と、同時に選手の弁護人は「できるだけ正確に包み隠さず伝えること」により、受け手が常識的な判断の元に「正しく判断してくれるであろう」と信頼した。つまり、関係性を結ぶことに成功したことになる。つまり、インタビューアは敵対者ではなく協力者になり得るのである。

内田前監督と同じことをやろうとしているのが安倍政権だ。野党は「政府の揚げ足を取って政権を奪取しようとする総会屋」のような存在であり、デモに扇動されるような人たちはすべて「総会屋に操られた手先」である。だから彼らのいうことに耳を貸さないのが危機管理の基本になっている。このため、自分たちに投票しない有権者もマスコミもすべて「潜在的な敵」である。確かに防衛には成功しているが、潜在的敵からアイディアをとってくることはできない上に、弱みを見せると攻撃されるので不都合な情報は隠されることになる。こうして騒ぎが広がってゆくのだ。

安倍政権は「自分たちの正義を実現するためには職員が自殺したり書類が改竄されるくらいは構わない」と思っているはずだし、内田前監督は「日大が勝ち続けるためには、相手選手が潰れるくらいは少々の犠牲に過ぎないし、選手の一人や二人の将来が「あんなことくらいで」なくなるなら、最初からアメフトなどやらなければよかった」と思っていたはずだ。彼らはある意味ディフェンスに成功している。だが倫理観もディフェンスされてしまうために「外側とは異なった倫理観」を持つことになってしまうのだ。

アメリカの経営がエンロン事件から学んだのは「インチキはいけない」ということなのだが、それにとどまらず、危機が起きるということはチャンスでもあるのだということを学んだ。彼らは好んで「漢字ではリスクは危機と書く」という。つまり日本では危機というのはデンジャーであると同時にオポチュニティだというのである。

日大は周囲から隔絶される道を選び、それに沿った形での危機管理を発展させた。周囲からの攻撃を恐れているので、政府からの天下りを受け入れて警護を固めようとしている。日本政府にも同じような考え方があり、彼らの基本戦略も情報鎖国である。日大アメフト部はこの結果アメフト界から排除されようとしているのだが、日本政府にも同じような状況に向かっているのかもしれない。ただ、この時点では国際社会から排除されるのか有権者から排除されるのかはよくわからない。

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