「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

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低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

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低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

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ネトウヨ対策について考える

先日来、政治議論にまつわる様々なテーマについて考えている。「政治家の嘘」「民主主義の死」「政治議論の呪い」などである。今回はこれについておさらいしながらネトウヨ対策について考えたい。

もともと日本の政治家は嘘を「本音と建前」として管理していた。ウチとソトの境目が曖昧になり本音の一部が「嘘として露出」することになった。これを攻め手に欠け有権者から見放された野党が攻撃して「民主主義の死だ」と叫んでいるというのが真相だろう。野党も組織や社会を管理する側に回れば「本音」という名前の真実を建前で隠蔽するようになるはずだ。一方、彼ら(野党と与党の支持者たち)の政治議論の多くは基本的にフレームワークの押し付け合いである。これは、身内がお互いが気持ちよくなるための言い訳と他人への抑止なのだから集団を共有するつもりのない議論は全て無意味なのである。基本的に他者を前提としないのが日本人なのでルールがないときには違いを前提とした外交交渉はできない。ただ、建前を真実だとして語ることが一種のマニフェストになってしまうので、これが呪いとなりお互いの選択肢を狭めてしまう。だからこれは無意味であると同時に有害でもある。

日本人は民主主義の本質について理解しているわけではないし特に興味もない。ゆえに双方の議論はめちゃくちゃになりがちである。例えば基本的人権は「自分は人生の主人公であるべきなので、自分の内心を表現したり、同じような気持ちを持った仲間と協力する自由がある」から存在する。ところが早いうちから集団に頼って自我を増長させる日本人にはこの民主主義はあまり意味を持たない。このため日本人の人権に対する理解は控えめに言ってめちゃくちゃになる。政治家は「公のためにわがままである人権はちょっと抑えるべき」などと発言し、ネトウヨの人たちも「表現の自由というなら朝鮮人は国に帰れという自由もあるはずだ」などと言い出す。とはいえリベラル側も基本的人権についてよく理解していないので「憲法に書いてあるからダメなのだ」などという水準の説得しかできない。彼らもまたルールを作る側になれば規範を押し付ける側に回るはずだ。

他にも山の登り方はいくつかあるのだろうが、これを観察すると二つの疑問に行き着く。一つは民主主義など存在しないのにどうして民主主義社会が崩壊しないのかという疑問である。実際に日本の民主主義は破綻していないので、なんらかの別な仕組みが独裁制を防いでいるのだろうという仮説が立つ。そしてもう一つ、なぜ日本人は表で本音の議論をすることが前提になっている民主主義的な行動ができないのだろうかという疑問がある。日本人は早いうちから集団に自我を同化させるので、個人の資格で誰かから反対されることを極端に嫌うのだろう。表で反対されると嫌なので「甘えることができる」環境でしか自分の欲求を表出することができない。

こうした本音の議論では身内の結束を高めるために「他人に対する嫉妬や陰口」とか「自分は社会の約束事からは自由なのだといった強がり」などといった甘えた感情によって結びついた「とんでもない」議論が行われる。派閥の会議がたいてい下卑た冗談で埋め尽くされるのはそれがボーイズクラブだからだし、逆に女性が多い会合では「規範の押し付け合い」や「嫉妬」が渦巻くことになるのではないかと思われる。

安倍首相が反発されるのは「選挙に負けた」時に生じた内輪の強がりを社会の要請として誤解して「社会一般の規範」に格上げしようとしたからだろう。もともとネトウヨ的議論はこれまでも一部の右翼的な雑誌で横行していた。こうした議論がそれほど問題にならなかったのはそれが影響力のない雑誌での「サブカルチャー」的な議論だったからである。

生涯を通じて自分を拡張させてくれる集団を見つけられなかった人たちが最後にたどり着くのが実体のない「国家」だ。もし彼らがアメリカに生まれていれば原理主義的なキリスト教に傾倒していたはずである。しかしそれは彼らの満たされなかった所属欲求を満たしてくれるものでなければならないので「日本というのは無謬であり世界に尊敬されていなければならない」という主張を繰り返すことになる。

だが、そんな国はありえない。だから例えばGHQであったり日教組であったり国内の少数民族であったりあるいはその人たちに協力する「反日分子」を持ち込んで合理化を試みるのだろう。

ところがこの甘えた議論がそのまま表出することはない。それが「世間」にさらされるからだ。この文章の冒頭で「何が独裁制を抑えているのだろうか」という疑問があったのだが、この世間が抑制装置になっている。民主主義を理解しない日本人にとって公共とは政治家が好き勝手に解釈できるどうでもいいものだが、世間はそうではない。「世間体」とか「世間の目」に実体はないがこれこそが日本人を縛り付ける。

日本人は世間を恐れている。例えばこのような事例がある。安倍首相はなんとかして憲法を変えたい。中には人権を否定するような動きがある。内輪で話し合っている時にはかなり勇ましい議論がでる。だが自民党が「世間」を意識するとき、その議論は萎縮する。自民党の憲法草案はかなり勇ましい内容だったが、今ではこれを表立って擁護する人はいない。また安倍首相は「憲法第9条を改正したい」と提案しているが、具体的な議論になると及び腰になるのが常である。未だに安倍政権は末期の麻生政権よりは支持されている(最終的には20%以下まで下落したそうだ)なので、安倍首相の機嫌を損ねたくはないのだが、かといって世間と戦ってまでこれに勝ちたいと考えている人は一部のネトウヨ議員たちを除いてほとんどいない。彼らは世間がよく理解できないがゆえに安倍首相を支持するが、世間がわからないがゆえに失言で失脚する。

こうした世間の目はかなり微妙な形で日本の政治に作用している。例えば森友・加計学園の問題では問題が報道されると支持率が下がる。しかし、政権を追い詰めるまでには下がらず微妙なラインを保っている。つまり「政治について監視するのは面倒だが、かといってあまり羽目を外しすぎるとどうなるかわかりませんよ」というラインが維持されていることになる。

もしここで「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが顔出しで自分の主張を喧伝し、それを世間が支持するようになればそれはかなり危険な兆候になるだろう。しかしこの「世間」はとにかく政治について極端なポジションを取らず、いかなる変化も拒む。とにかくリアクションがないのでその層に訴えることはできない。彼らが好む答えは「とにかく何も変えない」ということだけだからである。

さらに世間が民主主義や人権について正しい理解をしているということもなさそうである。女性は家にいるべきであり「ふらふらと外でお勤めすべきではない」と感じているだろうし、犯罪者を糾弾して問題を切り捨ててしまえば問題そのものがなくなると感じている人も多いことだろう。かといって同性婚や夫婦別姓に反対するということもない。自分が強制されれば嫌かもしれないが、特に関係がないと思うと彼らは関心を寄せないのだ。しかしこうした制度ができても同性婚や別姓を差別し続けるかもしれない。今でも夫が妻の姓を名乗るのは自由だがそれを選択する人は多くない。世間で「なぜそんな不自然なことをするのだ」といって抑圧されることが容易に予測できるからである。

世間から相手にされないネトウヨと呼ばれる人たちには観客が必要になる。世間には異議申し立てができないが、リベラルは話を聞いてくれる。挑発すれば怒ってくれる上に危機感も持っていて脅しがいがある相手だ。ネトウヨの実体はそれほど多くないことが知られているので、相手にさえしなければ彼らのメッセージがそれほど広がることはない。するとそういう思想に触れる人は少なくなる。逆に彼らのお相手をすることで彼らの思想を広め、無批判な人たちにその思想を感染させる可能性がある。

政治家の「勇ましい発言」はその都度潰しておいた方が良いと思うのだが、それは「ここは内輪ではなく、従ってあなたたちの強がりを聞く義務はない」といったトーンにすべきだろう。選挙に勝つ必要がある政治家は世間の建前を意識せざるをえないので建前で潰してしまえば良いわけだ。さらに社会的な影響力のないネトウヨは相手にするだけ無駄だし却って彼らを増長させる可能性がある。Twitterでネトウヨに対して何かを書きたくなったらそのことを考えるべきだろう。

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政治の世界で「発言の撤回」が頻繁に起こるわけ

衆議院予算委員会の河村委員長が自身の発言を撤回した。首相が「集中審議は勘弁してくれ」と言われたらしいのだが、野党から攻撃されると一転して「そんなことは言わなかった」というのである。この人もまた「嘘をついている」と思うのだが、どうしてこのような嘘が蔓延するのか考えてみたい。これは「気の緩み」なのだろうか。

これについて考えているうちに、かつて日本人は恒常的に「管理された嘘」をついていたのだという考えにたどり着いた。ただし日本人はこれを嘘とは言わなかった。今になってなんらかの理由で嘘を管理できなくなっているのだろう。さらに西洋流の個人主義が間違って解釈されたことも原因になっているのではないかと思う。日本人はかなり特殊な集団制を生きていた。それが失われつつあるのかもしれない。

この言葉を考えてゆくと「政治にとって言葉は命である」という言葉も誤解されているということがわかる。言葉は命であるというと多くの人は「政治家は正直でなければならないのだな」と考えるが、本当にそうなのだろうか。

まず最初に個人主義について考える。ヨーロッパを起源とする文化はまず個人を考える。しかし階層構造がないわけではないし個人の欲求もぶつかることがある。そこで個人が協力するための様々な工夫が作られてきた。例えば個人主義のアメリカでは上司と部下はなんでも好きにいい合えると誤解している人は多い。しかし、アメリカで部下が上司に逆らえばクビになってしまう。アメリカ人は上司と部下の間が「フラットに見える」のを好むが、実際には上限関係があるからだ。

こうした文化の違いは、これまで紹介してきた異文化コミュニケーションの本にまとめられている。これまで「文化が衝突するとき」と「異文化理解力」という本をご紹介した。他にもホフステッドの指標などがありオンラインでも個人主義というのはどのようなものなのかを学ぶことができる。他の社会ついて学ぶことで日本人の集団主義が何を意味しているのかということも明示的に理解できるだろう。

日本ではアメリカ人のようにズバズバものをいうのがかっこいいという間違った個人主義理解が進んだ。このため集団の中の日本人が地位を利用して自分の意見を好き勝手に述べるというようなことが蔓延している。最近も大分選出の穴見議員が肺がんの患者の参考人に対して「いい加減にしろ」と恫喝したニュースが話題になった。規制の影響を受けるレストランチェーンの創業者一族であり分煙・禁煙を敵視しているのだが、のちに「喫煙者の権利を守りたかった」と釈明したそうだ。個人主義は自分の権利を守ると同時に相手の権利を尊重する主義のことなのだが、穴見さんは典型的な「甘やかされた日本人」でありこれが理解できなかったのだろう。だが、これが日本人にとって典型的な個人主義の理解であるのも確かである。多くの日本人にとって個人主義とはわがままな個人のことなのである。

しかしながら、これとは違った状況も見える。かつて日本人は本音と建前を使い分けていた。もともと個人の欲求などなかったことにして全てが自然と決まったと考えることを好んだ。これは集団と個人の間にマイルドな癒着があったからだ。だから欲求がぶつかるようなことは裏で根回しとして行い、表面上は「しゃんしゃん」と決めて表面上の和を大切にしてきた。こうして生まれたのが本音と建前である。みんなが気分良く過ごすためには建前が必要なのだが、それだけでは不満がたまる。そこで親密な仲間同士と甘えられる場所で本音をぶつけ合っていたのである。

政治にとって言葉は命であるというのは政治家が建前を管理する仕事だからだろう。日本で民主主義が崩れたなどという人がいるが、これは誤解だ。もともと日本の意思決定は最終的には儀式で終わる。この儀式の最新のファッションとして選ばれたのが民主主義なのだ。その意味では、日本の政治家は「建前の司祭」という帽子をかぶっていたことになる。つまり言葉というのはこの儀式に用いられる言葉のことだったのである。

ではなぜ河村さんは記者たちに「裏であったことを正直に語ってしまった」のでだろうか。河村さんは安倍首相と昵懇の仲であり「本音を打ち明けてもらえる仲間である」ということを見せびらかしたかったのではないだろうか。首相と仲良くなった人はみな首相との仲をほのめかしたがる。例えば籠池理事長がそうだったし、加計学園の渡辺理事長も県庁に行き「これは首相プロジェクトなのだ」と自慢していた。ところが彼らが地位の優越性をほのめかすと、それは「安倍首相はルールを作る側なので、多少の無茶はやってもいいのだ」という自慢になってしまう。実際に安倍首相はそのように行動していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

自民党はこの「儀式力」を失いつつある。これは裏を返せば安倍首相に「建前の司祭長」としての自覚がないからである。例えばいま立憲民主党が政権をとれば彼らは緊張して建前と本音を分離しようとするだろう。だが自民党は「一度失った政権を取り戻した」と考えており「多少のことは許されるようになった」と誤解しているのではないだろうか。だから「建前と本音」を分離して聖域を確保するという気持ちが薄くなってしまうのかもしれない。また、最初の政権では儀式性にとらわれて言いたいことも言えなかったという気持ちがありそれを取り戻したいということも考えらえる。なぜ「気が緩んでいるか」は多分本人たちに聞かなければわからない。

もちろん、政治家全体が西洋流の「説明責任」を学び民主主義を尊重するというアプローチも取れる。個人主義社会に出た日本人は問題なく個人主義の文化を学ぶことができるので「日本人には無理だ」とも思わない。だが、一人ひとりの議員を見ているととてもそのようなことはやってくれそうにない。意識が低いというか「ぼーっとして何も考えていない」ように見えてしまう。二世議員が多く「集団に守られている」という油断があるのだろう。その一方で、建前と本音を意地でも守り通す(つまり本気で民主主義ごっこをやる)気迫も感じられない。こうして嘘が蔓延しそのたびにマスコミが大騒ぎするという気風が生まれてしまった。

我々はかつて本音と建前という二重性を生きていた。しかし今では西洋流の民主主義や組織統治の上に本音と建前がかぶさる三重性を生きている。

国民が「政治家が嘘をついている」というとき何を求めるのだろうか。本物の民主主義国のように正直に意思決定プロセスを伝えて欲しいと思っているかもしれないのだが、これは同時に不都合な事実も受け止めるということを意味する。多くの人は不都合なことや醜いことは「そちらで処理して」きれいな結果だけを見せてくれと思っているのではないかと思う。つまり、政治家は嘘をついているという非難は、必ずしも「正直になってくれ」ということを言いたいのではなく、なぜもっと上手に嘘をついてくれないのかという非難なのかもしれない。

この文章を読んでくださる方にはぜひ、これからも「上手な嘘」のある社会を求めるのか、それとも正直な社会を求めるのかということを考えていただきたい。誰かに伝えるつもりならお化粧が必要だが、誰にもいう必要はないのでその分だけ正直になれるはずだ。

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「貧乏人はカップ麺を食べるからダメなんだ」について考える

先日来、リベラルの呪いについて考えている。今回は知らず知らずのうちに他人を呪う人について考える。ここから得られる教訓は二つだ。日本人は知らず知らずのうちに他人にフレームワークを被せてしまう。多分自分も含めてそこから逃れることはできない。そしてそれが他人だけではなく自分の行動を制約してしまうのである。これが「人を呪わば穴二つ」の意味である。

先日「貧乏人はカップ麺を食べるからダメ」というTweetが回ってきた。普通の日本人は日本人であるだけで「誰かに何かの意見を押し付けている」と思った方が良いんだなと思った。特に自分がリベラルだと考えている人は要注意である。無自覚に価値観を押し付けるのだが、他人から何かを押し付けるとことさらに怒り出す傾向にあるからである。思い込みが激しい人しかリベラルになれないのではないかと思えてしまう。

実際に「低所得の人ほど安価なものでお腹を膨らませたがる」という傾向はあるようで、一定の真実が含まれているのは確かである。しかし、これが中途半端に科学的なので、自分の思い込みを接ぎ木してしまうと結論を間違えてしまう。

このTweetは「カップラーメンは高い割に健康に良くないから和食を食べなければならない」と主張していた。その背景には「人間というのは和食を食べなければならない」という思い込みがあるようだ。実はこれがリベラルの人が嫌っている「日本人は夫婦同姓でなければならない」という思い込みと相似形になっているのだ。

具体的には米を炊けと言っている。「和食がよい」というのがその人の「聖書」になっており、それを主張する自分に酔っているのだろう。だが、なぜそれが呪いになるのか。

和食を成立させるためにはおかずをどこかから調達してくる必要がある。自分で作ると手間がかかり割高になるので「調理」という選択肢はない。この人は、当然スーパーかコンビニに行けばいくらでもおかずが調達できると考えているのだろうが実はこれが間違っている。

コンビニエンスストアは「いつでも一定のものが手に入る」という便利さを売っているので、ある程度の所得以上の人しか利用できない。割引サービスがないこともあり、年金暮らしの高齢者などはコンビニには行かない。

もちろんスーパーに行けばそれなりのおかずは購入できるだろうが、そもそも地方には徒歩圏内にスーパーがない場所がある。統計に出てくるわけではないし政治課題にもならないので、小型スーパーがなくなっているということに気がついていない人は多くないかもしれない。

人件費がかかる小型スーパーは斜陽産業になっている。代わりに台頭しているのが地域の大型店と簡便なミニスーパーだ。ミニスーパーは商品入れの作業を軽減したり陳列を簡素化したりして対応しているので生鮮食品が置けなくなる。つまり、生鮮食品を作って並べるということがそもそも「贅沢な行為」なのだ。

それでも「頑張って」安い値段でおかずを提供していた店はある。記憶に新しいのはポテトサラダを提供して食中毒を出してしまった北関東のスーパーだ。できるだけ手間をかけずにお惣菜をおこうとしたのだろう。このニュースのインパクトは凄まじかった。日本農業新聞によるとジャガイモの需要が減るほどの影響が出ているそうだ。

日経新聞のこの記事によると、去年食中毒を出したスーパーは全店閉鎖になってしまった。ブランドイメージが毀損したという理由のあるのだろうがそれだけではないだろう。手間のかかる上に収益の上がらない業態が成り立ちにくくなっているのではないかと思える。普通に見ているだけではこういうニュースの後追いには気がつきにくいだろうし「リベラルな自分」に酔っている人はなおさらであろう。

「手間がかかる惣菜」の代わりに安くなっているのが加工食品である。日持ちがするので無駄が少ない上に箱や缶に入っているので輸送費が安い。

それでもご飯食に拘ると保存食品かレトルト中心となり、塩分過多の問題が出てくる。もちろんインスタントラーメンも塩辛いのだが、漬物と味噌汁(そもそも味噌汁は贅沢品なのだが)でもつけようものなら塩分はインスタント食品よりも高くなるかもしれない。日本人はインスタントラーメンのような工業製品的な食品にはうるさいのだが、梅干しや漬物などの塩分はなぜか度外視してしまう。和食は体に良いという刷り込みがあるのではないだろうか。肥満と並んで高血圧も成人病の元になる。

お金もなく、買い物も頻繁にできないという条件下では加工食品にうまく依存しないと選択肢の少なさに苦しめられることになる。これが「呪い」になるのだ。加工食品ばかりという制約された条件ではこうした思い込みを解体して「必要な栄養をどうやって摂取するか」ということを考えなければならない。

調理が必要な「野菜」は贅沢品なので、野菜ジュース(これは1日分の野菜というようなものが100円以下で売られている)と炭水化物の組み合わせが「現実的な」ソリューションになる。もう少し贅沢すればビタミンを補うような補助食品も売られている。この<野菜>には繊維質が含まれていないので、健康に気をつけるならば小麦粉を使った菓子で補うことになる。こうした食事を「普通でまとも」と思える人は少ないのではないだろうか。

さらに一回あたりのカロリーが低いので三食も難しいかもしれない。つまり、こまめに食事をして空腹を防ぐことになる。実はこれは「ダイエット」の基礎になっている。

一番安いのは一番安いのは袋入りのラーメンである。ガスがないなら炊飯器で調理できる。次が安売りのインスタントラーメンだ。50円くらいの違いがあれば卵が二個足せる。日清のカップヌードルなどは廉売されないので「贅沢品」と言える。つまり「インスタント麺を同列で語る」時点でその人は「何にもわかっていない人」なのである。

ここからわかるのは、思い込みは他人と自分の選択肢を同時に狭めてしまう効果があるということだ。そしてそれを否定すると今度は慌ててそれを否定する情報を探してしまう。実はサヨク・ネトウヨ対立にはこうした呪いが満ちている。

もちろん「何も知らずに上から目線で貧困について自分の意見を押し付けてくる人」を非難するつもりはない。なぜならば自分もやっているからである。だが、知らないのなら当事者を否定するのではなくまず何が起きているのかを実際に聞いてみるべきだと思う。だが、意外と「自分は知らない」ということもわからないので、少なくとも情報が取得できるように対話の窓は開けておくべきかもしれないと、自戒を込めて思う。

その一方で具体的に社会問題を考えてみることで様々なニュースが面白く読み取れることもわかる。思い込みを捨てた方がいろいろなことがわかるのではないだろうか。

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呪いあう人々

先日は日本人のコミュニケーションの特徴を見ながら「分かり合えないこと」について観察した。今回はこれを基礎にして「呪いあう人々」について考察したい。上西さんという「ご飯論法」を流行させた法政大学の教授が「呪いの言葉の解き方」という概念を提唱した。Twitterの不毛な議論から「社会は呪いを押し付けてくる」と感じているらしい。ハッシュタグまとめサイトまで作っているがあまり広まっていないようである。しかし、これをみるとこの人たちは自らを呪っているのではないかと思った。

前回見た日本人の特徴をおさらいしよう。それは、あらかじめ答えを決めつけてしまいその中でしか動かないし動けないというものだった。これに満足している場合には共感が得られる上に自己肯定感を持つことができる。集団から守られていると感じるはずである。だが、例外が発生するとお互いに「分かり合えない」という感情が生まれる。さらに「よく見られたい」という気持ちも強く、これも情報のプロセッシングを難しくしていた。

今回観察する呪いとはこの「あらかじめ作られた」フレームワークを意味している。Twitterのような半匿名の公共空間では公に知られた枠組みがないので「マウンティング」を行って誰がゲームのルールを設定するのかを決めるのだろう。例として「野党は批判ばかり」というフレームがある。結論は「だから野党はダメ」ということになる。そして、この答えを形成するフレームを固定することを「押し付ける」と言っている。つまりフレームを押し付けることで答えを押し付けているのだ。

まとめサイトにある彼女たちのソリューションは別のフレームを持ち出すことである。つまり自分たちの文脈を被せようとしている。相手のフレームは無効化することはできるが、折り合いをつけることは難しいだろう。これも決めつけであり相手が受け入れるはずはない。あとは多数決にするか取っ組み合いの喧嘩をして決めることになる。この世界観の延長にあるのが「民主主義は多数決だから選挙で勝った人が勝ち」だろう。

だが、このレベルですでに彼女たちは相手の呪いにかかっている。議論の目標は「政府を正常化」させることであって、フレームワークなど実はどうでも良い。つまり一段議論のレベルをあげなければならない。議論の中に内田樹という人の「次数をあげる」というタームが出てくる。議論を客観視するということなのだと思う。これがなかなか難しいと言っているのだがそれは当然だ。「相手の呪い」に張り付いているのでレベルの上げようがない。

こうした状態に陥るのはなぜだろうか。「決まり切ったフレーム」を相手に押し付けようとしているからだろう。日本人はあらかじめ決まったフレームに依存しているのでこうした話法から抜け出すことはできない。フレームがぶつかるとお互いに「フレームを決める争い」に膠着してしまい話し合いができなくなる。だが、そもそも社会全体でソリューションを求めるつもりはないので、それでも構わないのだろう。さらに仲間内で主流と見られて「勝ちたい」という気持ちや、その中で「いい人に見られたい」という気持ちが強く、ますます解決からは遠ざかる。

こうした喧嘩腰の議論の裏にあるのは「既存社会はいつも私たちにフレームを押し付けてきており、私たちは損をしている」という、これも決まり切った認識なのかもしれない。前回のATMの例で観察したおばあさんは「前提が変わったらATMを使わなければならない」という理不尽な意識を持っているように思えた。また「何かを言われたらそれを相手のプロトコルに従って理解しなければならない」という思い込みもある。自分が「何をしたくて、何がわからないか」に集中していればもうすこし違った情報交換ができただろう。

このあたりからうっすらと見えてくる結論は「何を解決したいのか」という目的と、自分は何を知りたいのかという「自身」に注目することの重要さである。

ところが日本人は「周囲に調和している自分」を見せたいという意識が働く。場合によってはその規範に従って自分の行動を変えなければならないと考えてしまう。平たく言えば「他人の目がきになる」のだ。

例えば、夫婦別姓に反対している人にも同じような調子が見られる。議論を始めた人たちは「社会のベースは同姓でも構わないのだが自分たちは別姓を選択できるようにしたい」と言っているだけである。だが「なぜ全員別姓にしなければならないのか」という前提で噛み付いてくる人がいるようだ。社会のルールは一つしかありえず、それが崩れてしまうと社会全体がめちゃくちゃになってしまうという思い込みがあるようだ。中にはこれを「革命だ」と言っている人すらいるのだが、欧米ではこうした「革命」が起きているが社会不安には繋がっていない。背景には「みんなが同じルールを持たないと社会全体がめちゃくちゃになってしまうから何も変えたくない」という思い込みがあることは確かだが、それがどこから来たのかを考えてみても理由が全くわからない。

政治はもともと自分たちがやりたいことを達成するための道具にすぎない。だからそれに従って行動している分にはそれほど複雑なことにはならないはずだ。しかし日本人は「自分は社会の主流にいて、自然と好ましい待遇が得られる」ように見えることを好むので、話が複雑化していまうのだろう。

実際の「呪いの言葉」議論の経過を1日観察していたのだが、問題解決は遠のき与党支持者に対する当てこすりになってきているこ。二つの圧力が働いている。同じ気分を共有する人たちが自然と集団を作って自分たちを慰め合うようになってしまうという内向き化と細かな点に着目して大きな流れが見えなくなるという微細化だ。つまり「新しい村」が誕生しているのだ。

この呪いに拘泥することで実は議論自体が呪われている。安倍首相は嘘をついているか現実を否認している。先日はついに「架空の話」という言葉さえ飛び出した(毎日新聞)そうである。しかし安倍首相は嘘をついていないと言っている人がおり、実際本人も政府の周りの人もそれを認めていない。そこで反安倍人たちは「嘘をついている」という証拠を集めようと躍起になり、キャンプを作ってお互いを慰め合うようになる。するとそれを遠巻きで見ていた人たちは議論から離れてしまうのだ。

実際には「明らかに嘘をついている」という前提で話をしたほうが簡単に説明ができる。実際には「嘘をついている」前提で分析したほうが早い。QUORAで「安倍首相は嘘をついている」という前提で回答したところ「いつもの冷静さがない」と批評された。そこでできるだけニュートラルな用語を使って返事をしたところ「冷静さが伝わりました」と言われた。つまり「安倍首相は嘘をついている」という人は「冷静さを欠いた人である」という決めつけがすでに始まっていることになる。もし安倍首相の嘘に心苦しさを感じている人は一度誰かにそれを他人に説明してみると良いだろう。自分たちの議論がどう見られているかが冷静に観察できるはずだ。

イライラして感情的に反論するよりも冷静に分析してみえたほうが説得力が増す。そのうちそれが暗黙の前提になり政権から気持ちは離れてゆくだろう。逆に感情的な議論は人々を遠ざける。

規範や正義を押し付けてくる不愉快な人は確かにどこにでもいる。そうした人たちを不快に思うのは自由だし自然だ。特に女性の場合「正解」を押し付けてくる男性が多いと感じるだろう。だが、その時点ですでに半分議論に負けて呪いに巻き込まれていると考えたほうが良い。そもそもそうした不快な人たちにお付き合いする義理はないのだ。

もちろん上西さんが独自の方法でいろいろ試行錯誤することは自由だ。だが、それが受け入れられなかったからといって他人を非難することだけは避けていただきたいと思う。

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分かり合えないこと

先日、立て続けに「分かり合えない」という体験をした。この分かり合えなさに共通点はあるのか、ただ単にバカな人と話をしたのかということを考えるためにこの文章を書きた。

最初の分かり合えない体験はTwitter上のものだった。公図があてにならないが区役所の人が実情を見に来てくれないということを書いている人がいた。オフィシャルマークがついているので多分有名な人なのだろう。この人は「役人はあてにならない」ということを言いたかったのだと思う。引用ツイートを捕捉されてコメントを返したのだが、あとから考えると彼にとっては見当違いの内容だったに違いない。

彼がいいたいのは公図も役所の職員も当てにならないという「誰も知らない真実がある」ということだったのだろうが。実はすでに同じような体験をしており元の図面もそこから展開された図面も当てにならないということを知っていた。ただ、それは「意外と知られていない」という思い込みの前では無力である。

公図が当てにならないということは、それを引用して作ったドキュメントはすべて当てにならないということだ。これを修正するためには地権者が立ち会って計測をしなおさなければならない。役所はこのことを知っているので「機会があった時に」地権者に許可を与えないことでこれを修正させようとすることがある。許認可権限を盾に取られた申請者や業者は行政のいいなりにならざるをえない。しかし図面を直すのはかなり大変な作業でコストもかかる。地権者全員の立ち合いが必要なのである。つまり、役所はそれを民間に押し付けて自分たちの管理すべき財産目録を修正させているのである。

逆に言うと公図をきちんと修正しようとするとそれが前例となってしまうので、役所の人が動かないことがあるということになる。加えて人件費削減から担当者が補充されないことがあり実務も回らなくなっている。つまり、役所を非難して問題が解決するというものでもないのである。

だがこれをTwitterで伝えるのはほぼ不可能なので「わかります」と言っておけば無難に終わったのかもしれない。中途半端にコメントしてしまったために「わからない」という印象だけが残ったものと思われる。

これを分析すると「個別事例に着目しているのか、それともその上位の事情に着目しているのか」というフレームの違いがあり、さらに経験や知識が違っていると「わからない」という感覚が得られることになる。さらに相手が「役人は怠惰だがそれが意外と知られていない」という思い込みを持っているとその分かり合えないという印象が強化される。Twitterはこうした文脈の違いを乗り越えることが難しい。

この事例だけをみるとあたかもTwitterが不完全なツールのような気がするのだが、実際には同じようなことはいろいろなところで起きている。次の体験がそれである。

マクドナルドで200円のハンバーガを買おうとしてメニュー写真を指差した。すると店員はセットですかと言ってくる。アップセルといって「たくさん買わせるように」という指示を受けているのであろう。そこで意地悪く「セットもあるのですか」と聞いてみた。すると「セットでよろしいのですね」と重ねてきた。頭の中が「セットを売らなければならない」し「早く列を捌かなければならない」ということでいっぱいになっている。これはTwitterの向こう側の人が「伝えたいことがあらかじめ決まっていてそれを効率よく広めなければならない」と考えているのに似ている。つまりみんな忙しすぎるのである。

最近の若い人にはある特徴がある。雇用環境が厳しい上に受動的な詰め込み教育を受けているのでマニュアルや指示を優先しようとする。だがお客はマニュアル通りに動いてくれないので、マニュアル通りのオペレーションを押し付けようとするのだ。

日本の「効率的」とは例外をなかったことにするという意味である。つまり「私が効率的にお仕事をして有能さを保つためにはお客は面倒なことを言ってはいけない」と考えているのだろう。これはマクドナルドだけではなくアルバイトの多い店などではよく見られる光景だ。思い返してみれば昔は教育実習生が同じようなことをやっていた。あらかじめ作ったプランの通りに生徒が答えないとイライラする先生がいた。最近ではこうした態度が学校全体に広がっており、社会全体に蔓延しているのかもしれない。

よく日本は同調圧力社会だと言われる。普通の状態であれば、みな決まった結論に従うことができるので、例外処理を嫌うのである。例外が発生すると誰かが態度変容を迫られたり例外対応しなければならなくなるのでそれを嫌がるのだ。よく「上から同調圧力がかかる」などという人がいるが、本来的にはピアプレッシャーからくる圧力だろう。ただし女性のように「従うべき存在」というジェンダー圧力にさらされている人は、社会から押し付けられた同調圧力には敏感だが自分が同調圧力をかけているとは思っていないのではないかと思う。同調圧力はそれほど日本人にとって自然で染み付いた考え方なのではないだろうか。

さらにポイントカードと電子マネーを使おうとしたところオペレーションを間違え「時間がかかるが本当に修正してもよいのか」と聞いてきた。明らかに腹を立てているうえに、面倒なことはなかったことにしたいのだろう。結局彼女は修正処理ができず、その上のマネージャーの制服を着た人も修正ができなかった。最後にさらに上の人が出てきて修正をした。彼にとってはそれほど難しくない作業のようだった。

ここでも例外は無視される傾向にある。これはTwitterでもよく見られる。普通でないものを面倒だと切り捨てる人と、それは人権無視だといって怒っている人たちの対立が見られる。効率を追求すると例外は「面倒な厄介ごと」になってしまう。さらに「自分は有能に見られなければならない」という信仰が蔓延しているので、知らないことがあると「そんなことはできない」といってごまかそうとする。あやふやな半径5メートルくらいの知識で「普通」を押し付けてくる人は多い。

最近マクドナルドでは電子マネーやクレジットカードを矢継ぎ早に導入しているのだが現場はついてきていないのだろう。マニュアルは配られていてマネージャー以上は読むようになっているそうなのだが、すでに読むのを諦めているマネージャーがいることになる。しかし、スキル神話・有能神話があるために「できません」とか「わかりません」とは言わない。すると本部は「できているのだろう」と考えて、より複雑なオペーレーションを押し付けてくる。こうした悪循環を断ち切るためにはこまめにクレームを入れた方が良いと思う。

この二つの体験には共通点が多い。忙しすぎる上に自分のフレームを押し付けたい人が「分かり合えない」という感覚を持つのだろう。例えば安倍政権は嘘をついているのに「普通の人たちはバカだからそれに気がつかない」と思っている人たちがいる。彼らが暗黙のうちに前提にしているのは「気が付きさえすれば自分の思い通りになる」という楽観的な予測なのだが、実際の有権者はもっと賢くて「知っているが別の理由で野党を支持していない」のかもしれないし、実は「嘘をついているからこそ安倍政権を支持している」のかもしれない。

さて、そのあと寄ったスーパーでも分かり合えない体験をしたのだが、これは少し違った体験だった。おばあさんがこちらを見て「このATMはどうせ手数料がかかるんでしょ」と話しかけてきたのだ。高齢者が話しかけてきた場合どうすればいいのか迷う。場合によっては思考が言葉になってでてきているだけかもしれないからだ。

実際の答えは少し複雑である。イオン系なのでみずほ銀行のキャッシュカードだと手数料がかからないのだがその日は日曜日だったので休日の手数料がかかるのである。つまり、おばあさんの思い込みは間違っているのだが、条件もついている。

そこで、ステッカーを見せてその通りに言ってみたが、やはり無駄だった。

このおばあさんがそもそもATMを使いたかったのか、何にでも手数料を取りたがる銀行に文句を言いたかっただけなのかよくわからない。そこに2分岐情報(if文が二つある)を与えたので、明らかに混乱していた。人はわからなくなると結論だけを記憶する。この場合、最終の答えである108円という数字はわかったようだ。「180円も手数料がかかるの」と言ったあとに、あなたみたいなお金持ちはいいかもしれないわねというようなことを言われた。

180円の理由はわかるのだが「あなたみたいなお金持ちはいいわね」は理由がわからない。これは少し分析が必要だろう。

日本は閉鎖的な村空間に住んでいるので、あらかじめ「何をすべきか」ということが決まっていることが多い。この場合は「銀行外ATMは手数料がかかるので近寄るな」というのが規範である。だが、その前提が間違っているが、それでも結論は変えたくないというバイアスがかかる。すると「新しい言い訳」が必要になるのだ。

ATMに手数料がかかるから使わないつもりでいたのに「いやかからない」ということになると「では使えということなのか」となりかねない。でも使いたくないのだからその言い訳を考えなければならないと思ったのだろう。明らかに慌てており「いやお金持ちではないかもしれないけど」と言っていた。

こういう場合は「私はお金持ちではない」ではなく「108円は高いですよね。なんでも手数料がかかって嫌ですね」というのが正解だろう。新しい情報は伝わらないが、相手に態度変容を求めない優しい答えだ。

あまり安易に日本人はとは言いたくないのだが、これらの3つの事例には日本人的な共通点がある。

日本人には二つの基本的な性質がある。一つは「社会でこうと決まっていることには従わなければならない」というものであり、もう一つは「その通念に基づいて決まった結論は変えたくない」というものだ。あらかじめルールと結論が決まっているのだから、そもそも論理的に情報を伝える必要がない社会なのである。

マクドナルドの場合は「会社が決めているルールがあるのだから、お客は黙ってそれに従っていればよい」のだし、銀行外ATMは「手数料がかかるから近づいてはいけない」ことになる。最初の人だけが違っていて「役所の図面は信頼できるはずだが実はデタラメである」という「驚くべき事実」が伝わっていないと考えているのだろう。Twitterでの叫びを聞いているとこの社会通念と自分の行動がずれていることに悩んでいる人が多いことに気がつくだろう。

態度変容には知的な負荷がかかる。新しいルールを覚えなければならないからである。同じような知的負荷はバイリンガルな脳でも起きているそうである。これは訓練して乗り越えることができるが、モノリンガルな人はそもそもこれを嫌がるので「日本語で思っていることが英訳できない」ことに苛立ち「いつまでも英語ができない」と悩む。いずれにせよ、態度を変えなければ背景情報の理解が曖昧でも結論だけを覚えておけば良い。日本の社会はこうして効率化を図っているのだが、その副作用としていったん染み付いた思い込みや行動様式を手放しにくくなっているのかもしれない。

例えれば、相手に情報を伝える時に「幾つかツールがある」ということを知っている人と、FAXのボタンはこう押せば良いという理解をしている人との違いということになる。どちらが効率的なのはは社会の構成によって異なる。多様な社会ではいろいろなツールを覚える方が効率的だが、日本人は「なぜみんなFAXを使わないのか」と苛立つ。FAX世代がSNSを忌み嫌うように社会の通念を押し付けようとする人が多いのはそのためだろう。すべての人がFAXを持っていれば「効率的な社会になる」と考えるのだ。

ここから得られる結論は、文脈に依存する社会では、すでに形成されている世間知があれば効率的なコミュニケーションができるが、一旦文脈がずれてしまうと相互に新しい情報を入手することができず社会が分断される可能性が高いということである。

我々は分かり合えないのではなく、最初から分かり合うつもりなどないのである。

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なぜネットの人民裁判は完全に追い込むまで終わらないのか

今回は短くネットの人民裁判が個人を完全に追い込むまで終わらない理由について考える。

先日、至学館の栄監督が伊調馨選手に謝罪した。しかし「コミュニケーションの問題だ」として実質的には非を認めなかった。さらに学長も「選手はたくさんいる」と従来の主張を繰り返した。つまり自分たちが可愛がってこなかった伊調馨選手に振り回されたくないというのだ。ワイドショーでは情報が錯綜しており、伊調馨さんを会見場に呼びつけたという人もいれば、実はレスリング協会側が気を利かせて問題を終わらせようとしたという人もいる。伊調馨さん側は「まだ内閣府の処分も出ていない段階で手打ちに応じた」ことにしてしまうと問題がうやむやに終わりかねないということを恐れているようだ。組織防衛のために問題を終わらせようとした学校側と納得しない選手側」が対立していることになる。学校が勝てばパワハラが正当化される。

謝罪に意味があるのは再発防止策を伴うからなのだが、栄監督は組織に守られており、至学館では同じような問題が繰り返される素地が温存されたことになる。「こう謝罪しておけばよい」というフォーマットができたことで問題の構造が温存される可能性もある。実際に政府はそうなっている。いつの間にか「文書はごまかしても刑事罰がない」し「官僚を形式的に罰しておけば政治家にはお咎めがない」というニューノーマルができてしまった。

学長が謝罪したくない気持ちはわかる。世間に負けたことになってしまうからである。麻生財務大臣が世間に部下の問題を謝罪することを「負けた」と感じるのに似ている。村のなわばりを気にする日本人には自然な感情だろう。コンプライアンスを気にするアメリカは企業を社会の構成要素の一つと考えるが、日本人は組織を独立した閉鎖的な村であり、他人からとやかく言われたくないと思うわけである。

この問題はこのままで終わるかもしれないし終わらないかもしれない。終わらないと考える人はレスリング協会という「公共性の高い」組織の問題を指摘している。栄さんはプライベートな空間で活動することはできるだろうが、この先公共性の高い組織には出てこれないかもしれない。日大はここで失敗した。学連という公共性の高い組織に対して非を認めなかったことで学連は排除された。問題は日大の反社会性の問題になっており、今後は企業や学生の親たちが日大をどう承認するかという問題になるだろう。

同じことはなんちゃって軍歌を歌ったRADWIMPSの野田さんにも言える。騒ぎに驚いて謝罪文を出したがライブでは「自分の国を愛して何が悪い」と開き直ったそうだ。つまりネット世論には屈したが、自分は愛すべきファンに囲まれており「このコンテクストでは自分は悪くない」と感じているというのである。彼らの村がどの範囲なのかはわからないが一体化した陶酔感に包まれているのかもしれない。

これらに共通するのは村という閉鎖空間の問題とそこにある「甘え」の存在である。親密な集団に囲まれている人は「集団から守ってもらえる」と感じて反省しない。もちろん形通りの謝罪はするが同じことを繰り返すだろう。

もし仮に日本人がしっかりとした個人を持っていれば「少なくとも公の場ではこういうことをいうのはやめておこう」という規範を身につけるだろう。しかし、集団に守られていると感じると結局それを忘れてしまい外側にいる人たちを苛立たせる。

例えばアメリカにも反社会的な人種差別感情はあるがこれが表に出ることは絶対にない。だが、白人同士の仲間内でどのようなことが話し合われているかはわからない。それはプライバシーとして保護されている。日本は「組織」が間に介在することでこれが複雑化するのだろう。

苛立った人たちは様々な手段に訴える。問題が加熱している時には「集団が白旗をあげて捕虜を引き渡す」ことを確認するまでいつまでも叩き続けることがある。これが炎上である。だが、非を認めない集団がそのまま残り続けると「アンチ」と呼ばれる人たちが蓄積する。安倍政権はアンチを過激化させたままで存続しており、何をしてもアレルギー反応が出る。

つまり、日本人の人民裁判が過激化するのは、個人の倫理が組織と癒着してしまうからなのだろう。問題を起こした人が「新しい約束」を交わす経路ができていれば問題は沈静化できる。また、甘えがあり「やはり認めてほしい」と従来の主張を繰り返すと問題が再燃する。組織や仲間が絡んでくると「自分だけで約束を交わす」ことができなくなり、問題が複雑化するのではないだろうか。

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服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

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