エアコン否定派にされてしまった熊谷千葉市長

千葉市の熊谷市長が学校にエアコンをつけないと表明して物議を醸している。つけないのではなくお金がないからつけられないと言っているだけなのだが、Twitterはいまやエアコン至上主義が正解なので何人であってもこれに逆らうことは許されない。テレビも同じ状態にあるようでコメンテータが財政の問題について触れる時に「エアコンが必要なのはまちがいないですが」と触れるのが常識化している。

中でも面白かったのが、ケチな市長を選ぶと結局市民が損をするという呪いの言葉だった。同じようなことをヨーロッパのポピュリストたちが使う。緊縮財政に耐えられなくなった人たちがよく使ういいかたなのである。

こうした発言が出るのは実は偶然ではない。千葉市は放漫経営を放置して損出を各種団体に飛ばしていた過去がある。その上、政令指定都市になる時に「さいたま市くらいには勝たなければならない」として大型の公共施設も作った。結局、財政再建団体転落一歩手前で踏みとどまったが、これ以上市債が発行できないという状況にある。

その意味で過去に政治に関心を持たなかったから、現在の市民が損をするという指摘は当たっている。

その上県もあてにならない。県知事は「あの」森田健作である。今回は「市町村を応援する」と表明したが、実際には「国に頼んであげる」といっているだけで県がお金を出すつもりはないらしい。ただこうしたいい加減な発言がなんとなく許されてしまう県民風度がある。おおらかと言えばおおらかだが、いい加減な土地柄なのだ。

熊谷市長はこれまでの2期は財政再建ばかりをさせられてきたので、面白みのある政治課題には着手できなかった。やっと整理もできたのでようやく再開発などのまちづくりに着手できるという段階にある。

しかし、今回の件で熊谷市長を応援する気にはなれない。そもそも最初の段階で「共産党」を持ち出してきた時点で彼らを刺激することはわかっていたはずだ。長期政権のおごりが出ているのだろう。

熊谷市長はこれまで改革派の旗手とされており「若いからSNSの使い方も上手」という印象があった。ラクダみたいな顔をしているが、身長が180cmあり市民団体のおばさんたちにも評価が高い。このように味方に囲まれているためアンチに慣れていない。このために自分に都合が良いツイートをリツイートしたりという炎上に油を注ぐようなことをやってしまっている。

その上、今回の議論はすでに結論が「エアコンが正義」と決まっていた。そこに「予算の問題で」などと言っても言い訳にしかならない。

この「正義」については個人的も怖いなと思う体験をした。比較的リーズナブルな反応をする人も「いやいろいろと事情があるのですよ」というとかなり強く反論された。そのあとも幾つかTweetしていたので気持ちが収まらなかったのではないかと思う。「絶対に賛成されるはずなのに賛成されなかった」ことに対して怒りを覚えるようだ。

前回は、個人として意見を表明するのが怖いと考えている人が反論そのものに心理的葛藤を覚える事例だった。日本人が個人として意見をいう時には切腹する覚悟が必要である。ただ、こうした人たちが群衆にまぎれたり、匿名で発言する場所を得たり、もしくはすでに集団として結論が決まっている意見にコミットすると、逆に自意識を膨張させてしまう。裏返せば「正義の側に立ったらなにをしてもよい」とされているからこそ、普段は個人の意見が言えないのかもしれない。

だが、考えてみれば「エアコン至上主義」というイズムがその人の人格に大きな影響を与えるはずはない。実際に市長選挙の時にもエアコンの話はあったがほとんど話題にならなかった。つまり、人々はエアコンをつけなければならないと考えているわけではなく、自分の意見は正義なので通らなければならないと考えていることになる。これは「フォルスコミットメント」なのだ。

熊谷市長は共産党を挑発することで一部の人々に「フォルスコミットメント」を与えた。ただ、そのコミットメントが偽のものだったとしても、それが取りさげられるとは限らない。ビールの代わりに発泡酒を飲んだ人が「これがうまい」と言ってしまったがために、発泡酒を飲み続けるようなものである。つまり、人々を刺激して意見を言わせてしまうと、それが後付けでその人の主張になってしまうのである。

前回はアサーティブさについて考えたのだが、アサーティブな技術ではフォルスコミットメントの問題は解消できないと思う。人々は善意から行動しており義憤に駆られている。そのため、主張が正義の実現に欠かせないと思い込んでしまうのである。

そしてその善意を実現するためには民主主義のプロセスを無視して場外で騒いでも良いし、物理的でなければ言葉の暴力くらいは許されると考えるようになる。皮肉なことにこれがオートクラシーへの階段になっている。

熊谷市長はもともと民主党市議団などから推される形で市長になったようだ。これまで真面目に財政再建に取り組んできた。しかし、こうした地道な努力は評価されない。また予算について市民で話し合ってくれなど言ったとしても、その人は市民ではないかもしれないし、面倒な意見集約などをしてくれるはずはない。単に「あれが欲しい」とか「こうでなければならない」という意見をぶつけるだけなのだ。

市長としてこれがやりたいと言った時点で叩かれる。市長というのはその意味ではサンドバッグのような存在でありそれほど面白みがない。このような面白みのないポジションに進んで立ちたがるのは、政治家の二世とか、企業と結託して彼らの代理人になる人か、自己評価が肥大した人格に問題のある人だけになってゆくだろう。そしてそれを後押ししているのが、何かあった時だけ大騒ぎする「外野」の人たちなのである。

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日本人の男性はなぜ議論ができないのか

先日コンタクトフォームからメールをいただいた。全文掲載したいのだが著作権について取り決めをしていないので二次使用は控えることにする。本来なら全文掲載した上で論評しないと公正にならないのではないとは思う。編集の時点で、どうしてもなんらかのバイアスが生じてしまうからである。

ただ、コメントは著作物なのでそのまま引用してしまうとあとで編集ができないという問題が生じる。このためこのブログではDisqusという仕組みを導入しているのだが「名前が残る」ことに拒絶反応があるようだ。コンタクトフォームはデタラメなメールアドレスが通ってしまうので一方的に気持ちをぶつけるためには利用しやすいのだろう。

まずこのメールの良い点から見て行こう。たいていの人は「日本人はバカだ」と言われても「自分を除いた日本人はバカなのだ」と読み替えてしまう。心の平安を守るためにはよいがそれでは何も変わらない。最初は違和感を持ったり怒ったりするかもしれないのだが、当事者としての違和感を持つことは重要である。今回はどこかで日本人男性は共感を訓練する場所がないと書いたのを「決めつけだ」と憤っているようだった。当事者感覚を持っているという意味では他の人たちより一歩先に行っているのではないかと思った。

「お前には共感がない」と書かれていたが、これは当たっている。周囲との間に共感を求めることにあまり興味がないので「冷たい人」と呼ばれることはよくある。このため技術的ではあるが一致点を見つけようとしたり「わかりますよ」でとりあえず文章を始めるようなことをしている。

Twitterなどでは特に有効な手法であると思う。が、今回は「日本人男性には共感を訓練する場所がない」と書いたことへのカウンターになっている。これもTwitterでよく見られるが自分が指摘されて嫌だったことを相手にもオウム返しにする人がいる。自民党支持者が野党支持者に対して行うことが多い。相手の指摘を呪詛とうけとめ呪詛返しをしようとしているのかもしれない。

最初の問題点はオンラインツールへの理解不足だ。反論であるためには何に対する反論かが明示されており、さらにそれが他者に開示される必要がある。オンラインで履歴が追えるならハンドルネームでも構わないと思う。オンライン上でレピュテーションをためて行けるからである。このためこのブログではDisqusのコメントシステムを採用している。記事ごとにコメント欄があるのでどの記事に対する意見なのかがわかり、縦軸ではその人のコメント一覧が表示される仕組みになっている。また編集もできるので自分の発言をコントロールできるというメリットもある。反論は冷静にDisqusを使っていただきたい。

次の問題は心理的障壁だ。「異議申し立て」に対する日本人の心理障壁の大きさは想像を絶するものがあるようだ。「ああ、また日本人批判か」と思う人もいるかもしれないが、後でアメリカ人も自分の意見を表現するのに苦労しているということをご紹介する。いずれにせよ技術的な難しさがある上に日本は社会が異議申し立てを嫌うので個人がさらに抑圧されてしまうのである。

今回は共感が問題になっているのになぜ自己主張の話になるのだと思う方もいるかもしれない。しかし、相手の話を聞くということと相手に主張を伝えるということは実はワンセットになっている。つまり、共感ができない人は相手に自分の気持ちを伝えることもできない。論理的な主張でなくてもよい。悲しかったということを言わなければ悲しかったことは伝わらない。

今回は、メールアドレスがtokumei@gmail.comになっている。匿名である裏には「悪口をいって攻撃されたらどうしよう」という恐れや「失礼になってしまったらどうしよう」という気持ちがあるのだと思う。しかし、メールアドレスを伝えたくないならデタラメでもよかった。メールアドレスを書く欄があるのでわざわざ体裁を整えてしまっている。この「相手のフレームに乗ってしまう」と弱気さとその代償としてのアグレッシブさ(攻撃性)の表れではないかと思う。

文章の中にも同じ葛藤がでてくる。つまり、相手に従わなければと思うが、根底に違和感があるのでそれが整理されないままに攻撃性になってしまうのである。途中で人格を罵倒した上で、最終的には「机上の空論じゃまともな人間はついてこねえぞ。」という罵倒で終わるのだが、最初は「あなたの記事ですが、意見は正論かもしれませんが、」と丁寧な口調で始まる。文章全体は255文字しかないので、書いているうちにかなりの心理的コンフリクトを感じていたことがありありと伝わってくる。もともとは大変従順な人なのではないかと思う。

なぜ日本人は異議申し立てに葛藤を抱えるのだろうか。それは異議申し立てが「相手を否定することにつながる」とみなすからだろう。例えば、クラスで手を上げて異議申し立てした時点で「先生、それはないわ」とか「お前らみんな間違っている」と言っているのと同じだとみなされる。日本人には自分を殺して全てを受け入れる、影で悪口をいう、相手を全否定するという三種類しか違和感に対する対処方法がない。そして、現実にはこれがないまぜになってしまうのである。

実際には相手を否定しなくても議論はできる。「日本人男性は共感ができない」という課題が間違っていると主張したければ、反証になるデータを持ってくるか、そうではないという個人的な経験を共有すれば良いだけの話なのだ。それは相手を否定することにはならず、そういう事例もあるのだという新しい知見を与えることになるだろう。

こうした反証を持ち合わせていないとしても「自分が気分を害された」ということを素直に開陳するというオプションがある。これも相手を罵倒して否定する必要はない。議論の目的は勝ち負けだけではない。別の視点を持ち込むことも「議論への貢献」である。

しかしいずれにせよ議論を成立させるためには「お互いにわかりあおう」という共通の目的がなければならない。だが、日本人は問題をなかったことにし、異議申し立てを人格の否定と受け止めて禁止してしまう。この反動がTwitterに出ている。抑圧された感情はより激しい形で表出するのである。そして、このために日本人はますます表向きの政治議論を避けるようになる。政治家はヤバい人ばかりで、政治に興味を持つ人もヤバいということをTwitterを見て「知ってしまう」からだ。こうして悪いフィードバックが生まれるということはすでに過去に観察した。

では自分の主張をうまく伝えるためにはどうしたらいいのだろうか。それが「アサーティブコミュニケーション」である。今回はGoogle検索して最初に出てきた英語記事をご紹介するのだが、日本語でもリクルート関係の記事が見つかる。最近では学生を中心にアサーティブコミュニケーションへの関心が高まっているようである。人事面接が高度化してきており面接をクリアするために必須の能力になっているのだろう。

引用した文章は簡単な英語で構成されており誰にでも理解ができるはずだ。さらにアメリカ人であっても「アサーティブになる」には心理的葛藤があり、ついつい弱気になったり攻撃的になったりすることがあるということがわかる。一方で、アメリカ人は定型的な知識を大切にする。これを克服するための方法論もまた共有されているのである。

  1. Understanding the Difference between Assertiveness, Aggression, and Passiveness:アサーティブさと攻撃的なコミュにケーションや受け身のコミュニケーションの違いを学びます。
  2. Learn verbal features of assertive communication: 冷静に理路整然と話す。
  3. Learn the non-verbal features of assertive communication: 感情的になるべきではないが、怒りを感じた時にはきちんと眉を潜めて表現しましょう。
  4. Learn thoughts associated with assertive communication: アサーティブなコミュニケーションでは自分の意見は堂々と主張しましょう。
  5. Understand aggressive communication: アサーティブさとは違う攻撃的(アグレッシブ)なコミュニケーションの違いを学びます。
  6. Understand passive communication: 受け身(つまり弱気な)のコミュニケーションについて学びます。
  7. Think about your influences: これはアメリカ的で翻訳が難しい。本文では年配の男性は感情を表に出すことは弱さの表現だと教えられており、女性は自分の要求を伝えることが怒りの表現であると教えられていると言っている。つまり、新しい世代が新しい規範意識のロールモデルになるべきだと読む人の美徳に訴えかけているのである。
  8. Do not blame yourself for your communication style: アサーティブになったからといって自分を責めてはいけないと言っている。このブログでもよく「日本人は」と書いているので西洋人は最初から自己主張ができるのだと思っている人もいるかもしれないが、アメリカ人であっても冷静に自分の要求を伝えることは難しいのである。

特に、最後の知見は重要だろう。つまりアメリカ人も最初からうまく自己主張ができるわけではないということになるからだ。しかしこれを裏返すと「技術さえ学べば誰でも自己主張ができるようになる」ということになる。

ここでいただいた「お問い合わせ」についてみると改めていろいろなことがわかる。異議申し立てを感情を交えずに理路整然と伝えるには技術が必要だがそれができていない。だが伝え方以前にそもそも自分が何を伝えたかったのかがわかっていないように思える。何かを伝えたいということを整理するためにはまず自分が何を感じ、何をしたいのかという欲求を言葉にしなければならない。

その上で、異議申し立てをすることで相手の感情を害してしまうのではないかという恐れと、それでも自分を主張したいという欲求の間で感情が揺れており、結果的に「いったい何を解決したかったのか」がさっぱりわからない文章になってしまっている。何回か読み直してみたが、この文章を送りつけた目的がわからない。共感を得ようとしたのか、慰めて欲しいのか、泣いて謝って欲しいのか、認識を変えて欲しいのかがわからないのだ。

Twitterのダイレクトメールでも時々この手のクレームをいただくのだが「何が目的なのか」と聞くと話が流れてしまうことが多い。「主語が私」になると途端に話をそらそうとする人がいるのである。日本人はとても私に興味があるが、私を相手に伝えることは嫌う。

ショッピングモールで一方的に子供を叱りつけている親をみると「この子供は自分の欲求を罪悪感なしで伝えることができるように成長するのだろうか」と考えることがある。子供が何か要求すると親の計画が狂ってしまう。子供に邪魔されたことに腹を立てて子供を上から押さえつける母親がとても多い。学校に上がると今度は「お教室で静かにしなさい」という教育が始まるので、多分自分の欲求を伝える技術を身につける機会を持たないままに成長するのではないかと思う。

日本人が学校で「先生のいうことを聞く」技術は学ぶが「自分の意見を正しく伝える」方法を学ばない。先生には無条件に従うのが良いとされている。引用した文章でいうと「アサーティブさ」が禁止された空間で最低9年を過ごすのである。最近では先生が忙しくなってきており「問題を起こさないためには抑圧して管理するしかない」という風潮もあるようだ。こうした教育をうけた親の場合も「自分が何に腹を立てているか」がわかっていないのではないかと思う。「欲求を言葉にしない」ことで、とても悪いフィードバックループが生まれるのだ。

こうした環境で自分が何をしたいのかがわからなくなると共感の持ちようもなくなる。「日本人に共感がない」という時に重要なのは、実は相手が要求を伝えているのに受け取らないということでではない。お互いに何がしたいのか、何がして欲しいのかがわからないなかで、自分の価値観を押し付けることになってまうのである。

男性の場合には「男は黙っているべきだ」という風潮がある上に、仲間同士で「わかってもらえる」相互依存的な環境が作られやすい。みんなが同じような環境にいて居酒屋で相互承認するというような環境である。これを「共感」と呼ぶ人もいるだろうが、何について同意しているのかがよくわからないそれは果たして共感なのだろうか。

だが、日本も契約型の社会になりつつあり、お互いのニーズを確認したあった上で労働契約を結ぶという方向に移行してゆくことになるだろう。そんな中で共感を学ばなかった人たちだけが取り残されて、社会に不満をぶつけるということになってしまうのかもしれない。

だが、自分の言いたいことを伝えるというのは単にスキルの問題なので練習すれば習得することができる。半匿名が許されるオンラインコミュニケーションは本来「自動車教習所」のような場所であるべきだろう。これが多様な価値観を折り合わせるために話し合いをする成熟した民主主義が育つ唯一の道なのではないだろうか。

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虚しさだけが残るエアコン論争

エアコンの設置論争が熱い。小学校1年性の子供が熱中症で死亡したのだが、このとき対応した教室の室温が37度だったそうである。外気温が32度のところで熱中症になったのにさらに熱がこもったところに連れて行ったことになる。先生に救命救急の知識がなかったようだという観測もあったし、もともと体調が悪い子供を無理に外に連れ出したのもまずかった。

命にかかわる問題なのでさっそくなんとかした方が良いのだが、行政の腰はなかなか重いようだ。しかし、今回の論争を見ていると行政の他にエアコンがつかない理由があるように思える。それが日本人の議論の稚拙さである。

もちろん、行政にもっとも重い責任があるということを認めた上で、日本人の議論の稚拙さについて考えたい。有権者は問題が持ち上がった時に騒いですぐに忘れてしまう悪癖がある。多分、暑さが緩む頃にはこの話題は完全に忘れ去られているであろう。

今回は千葉県と千葉市を例にあげて説明するのだが、千葉市の公立学校のエアコン設置はほとんど行われていないようで、共産党やリベラルが行政の不備を攻撃する材料の一つになっている。隣の東京都の設置率が比較的高いために攻撃しやすいのだろう。だが、こうした問題が出ても有権者は見向きもしなかった。彼らが無名だからだろう。

実際に「すでに話題に出ているが有権者の耳目を集めなかった」ということがわかっているので、熊谷千葉市長の態度は強気である。逆に船橋市や八千代市など100%設置が終わっている自治体もあるので、住民がその気になればエアコン設置は実現不可能ではない。

もともと日本が子供にかけるお金は少ないとされており、これが政府の政策に疑問を持つ人たちの不満の一つになっているのだろう。議論が複雑すると教育予算全般の正当性は証明しにくくなる。そこで死者までだしてしまった事例が引き合いに出され「エアコンの導入は善であり、それに抵抗するのは悪である」というわかりやすい図式ができてしまったのだろう。

今回の熊谷市長への反発は、このコミュニケーション能力に問題がある市長が議論に全く関係がなかった「共産党ボタン」を押してしまったことが引き金になっている。このことが「無視されつづけているリベラル」の苦々しい記憶を呼び覚ましたのだろう。

実際にきっかけになったつぶやきは、むしろ大阪のプロパガンダに乗ったものと思われる。つまり維新系信者なのだろう。この人がどこの人かはわからないが千葉市外の人であれば、千葉市の共産党対自民・民主連合という情勢については知らなかった可能性が高く、共産党の「ミスリード」の影響を受けているとは思いにくい。

プロパガンダと書いたのだが、大阪市長を経験した橋下徹は350億円をかけてエアコン設置をやりきったそうである。大枠の大阪都構想には疑問があるが、弁護士である橋下さんが基本的な経営の知識を持っており予算の捻出ができた。あくまでも橋下さんの主張によればだが平松さんにはその技量はなかったようだ。確かに1000万円でエアコンは設置できない。

大阪市よりも人口が少ない千葉市の場合にはエアコンの設置には70億円がかかるそうだ。

確かに千葉市の財政は厳しい。数年かけてゴミ処理の費用を削減しようとキャンペーンを行っており、数億円の費用を減らすという努力をしている。また、市役所を建て替えることによってランニングコストの低減と耐震化の向上を狙っている。こうした涙ぐましい努力からわかるように、千葉市は2017年まで財政危機状態にあった。こうした状態で一挙に70億円の支出を決め流のは難しいので「それでもエアコンが欲しい」なら増税の必要がある。市長としてはそのための議論をみんなでしてくれと言っているのだが、増税などという主張をすれば落選してしまう市議はこうした議論の主導には消極的だろう。

実はこの構造は国全体が借金まみれになる原因になっている。そして千葉市はその借金がのちの世代にどう影響するのかという良い実例になっている。予算が出せない千葉はある意味、破綻はしなかったが財政が緊縮した国の姿なのである。

だが、それにしても「共産党ボタン」を押してしまったのはよくなかった。総論としては正しい路線を進んでいる熊谷市政だが、市長のコミュニケーション能力にはこうした稚拙さがある。実質的にはオール与党体制になってしまっている千葉市には野党が共産党しかない。そして共産党は数字を理解しない。数字とは具体的には「どこからお金を持ってくるか」ということと「その投資によってランニングコストがどう変化するか」という視点である。残念ながら共産党は単に「あれが欲しい」というだけなのである。

財政的に厳しい千葉市は開発を民間資金に頼るしかない。これが借金に頼ってでも自前の開発を続けようとした自民党時代との違いである。千葉市の自民党政権は巨額の借金を残し最終的には逮捕者を出して終わった。自民党議員団が利用してきた官僚経験のある市長が汚職で逮捕されてしまったのである。受け取った金額は100万円に過ぎないのだが、懲役2年6月、執行猶予4年、追徴金200万円の判決が確定している。そしてその結果として思い切った投資ができなくなってしまったのである。

しかし共産党は自民党時代との変化を理解せず「大型開発はすべて悪でありこれが可愛い子供達の未来を奪っている」というような理解をしているようだ。最近のキャンペーンではランニングコストの低減を狙った清掃施設の建て替えもすべて「悪だ」と言っている。もしかすると共産党は本当に誤解しているのかもしれない。だが、共産党の側もいうことを聞くわけには行かない。なぜならば聞いてしまえば唯一の反対材料がなくなってしまうからだ。

しかし、市長側にも問題がある。市長選挙で共産党と対峙しているうちに被害者意識が芽生え「ミスリード」と言い切ってしまったのだろう。最終的にかなり挑発的なつぶやきになった。


このようにエアコンは「子供達の未来を考えない悪政の象徴」という地位を得てしまったので、設置が自己目的化してしまった。そもそも暑いのがダメならば学校をおやすみにしてしまえばよい。定期的に夏休みの期間を見直すか、基準を作って登校禁止日を作れば良いのである。しかし、今回の議論の目的は「現在の政治が子供達をないがしろにしている」という主張を認めさせることにあるので、夏休みの長期化というような代替え提案をしても受け入れられる余地はないし、予算について話し合いをしましょうというような提案が受け入れられることもないだろう。

自分たちが無視されることについて憤った人の中には「学校にエアコンをつけるまで官公庁からエアコンをなくすべきだ」という極論を持ち出す人さえいた。俺たちに我慢させるならお前も我慢しろということだが、市長などの偉い人たちではなく、市役所職員などの末端の人たちがいる空間や市の施設などで「我慢の政策」が実施されることになるかもしれない。ルールを決めている人たちはエアコンの効いた部屋で涼んでおり、市職員の人たちだけが暑い思いをするということでは、何の議論なのかさっぱりわからない。

子供の命を守るというのは大切なテーマなのだが、人々はつい「自分の意見が無視されている」ということに過敏に反応する。結局問題は解決されず無視されたと考える人たちの不満だけが高まって行くわけである。だが、それでは問題は解決しない。

議論が噛み合わない背景には「自分をわからせる技術」のなさがある。今回は実際にいただいた読者の感想(実際にはクレームだが)を元に、アサーティブさとその技術について考えたい。

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社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

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TBSのジャーナリズムごっこは何をもたらすのか、そしてなぜ生まれたのか

本日はTBSがようやく水道問題を報道した。この一件から、TBSがジャーナリズムごっこをしており、実際には政権批判を避けているのではないかと思った。果たしてこれが良いことなのか、それとも害があるのかを考える。

水道の議論はもともとは広域化の議論であり、広域化の議論が起こるのはインフラのメンテナンス費用が捻出できないという見込みがある。そこで民間活力を導入しようとしてやや無責任に私企業の参入を許そうとしたのである。反対姿勢を明確にしたい野党は私企業の参入だけをクローズアップしたために一部で大騒ぎになっている。だが、この議論には影の主役がいる。それが伝えなかったマスコミである。彼らは伝えないことで議論を放置し、反対意見を過激化させた。

最初は「それほど重要な問題ではないから放置されているのかもしれない」と考えていたのだが、TBSがこれを報道したのを見て初めて「認知していたが扱いかねていた」ことがわかる。たまたま見たのは朝の情報番組なのだが、議論の時間があまりにも少なかったことと私企業の参加が検討されていることにのみ触れていた。フジテレビがやはり神奈川県の大井町の事例を挙げて「今のままでは水道料金が大変なことになる」とほのめかしたのとはいっけん180度違った態度に見える。

フジテレビはジャーナリズムではなく政権の広報機関として「世論誘導」の役割を果たそうとした。その一方でTBSはTwitterの議論を追認するような姿勢を見せたのである。

マスコミは有権者が正しい政策判断をする助けになるように政治問題を報道する。だから、報道される課題は審議中のものでなければならない。だが、TBSがこれを報道したのは審議が中止になってからだった。TBSは政策判断に自社の報道が影響を与えたとみなされることを恐れたのであろう。これはジャーナリズムの役割の放棄である。だが、それではなんとなく体裁が悪いので審議が終わった後でアリバイ作りのために「報道をした」ふりをしているように見える。

TBSは面白い構成になっている。毎日新聞に所属している与良正男や退職した柴田秀一などの人たちは政権に批判的なのだが、これを社員であるアナウンサーが「公正の観点」から修正するという番組作りが見られる。杉尾秀哉のように野党議員になる人もいる。つまり内部には政権に批判的な態度を持った人がいることがわかる。このため、朝の番組や報道特集など一部の番組では「自由に」政権批判の番組が流されることがある。ただ、政権批判をするのはフリーの人や新聞社に属する人たちであって、会社としては政権に影響を与えないようにという<配慮>が見られる。つまり、会社にゆかりのある人を利用して「ガス抜き」をさせているのである。

こうした姿勢の裏にはかつての筑紫哲也に代表されるような「政権におもねらないのがかっこいい」というようなファッションと、政府に認可されて電波を預かっているという大人の事情の間で揺れる放送局特有の問題があるのだろう。

もちろん筑紫哲也の政府批判には理由がある。もともと翼賛体制を賛美していた歴史的な新聞が反省して政権批判をはじめたという歴史がある。一方で読売新聞はCIAの協力者になっており戦後民主主義体制が日本に定着するための広報機関の役割を背負っていた。

この政権を監視して第二次世界大戦のような間違いを二度と引き起こさせないという姿勢は次第に忘れ去られて、ジャーナリズムはなんとなく政権と距離を取るのがかっこいいという姿勢だけが生き残った。このためTBSは政権に批判的な人たちが見てもなんとなく反政権気分が味わえるという仕立てになっている。代表的なのが関口宏のサンデーモーニングだ。見ているだけでなんとなく政権監視ができているように思えるのだが大切なことは報道されないわけだから、実は政権に近い放送局よりも危険度が高いと言えるかもしれない。単に「俺たちは認めないし、協力もしないぞ」と言っているのである。

だが、こうした報道姿勢を一方的に非難することもできない。そこにはやはり放送局として避けては通れない「視聴率」の問題があるからである。

現実には水道の問題を多角的に観察しようと考えると、少なくとも30分くらいをかけて水道の研究だけをしなければならない。しかし、実際には情報番組はスポーツや芸能との相乗りになっている。ニュースショーですらグルメを取り扱ったりするので一つの問題についてじっくりと見るような番組がない。唯一の例外が報道特集である。では、こうした政策研究型の番組にはどれくらいのニーズがあるのだろうか。

実際に視聴率を見てみると「これだけ見ればニュースが大体わかる」というようなニュース番組と高齢者向けに政権を批判してみせる(だが自分たちは何もしない)サンデーモーニングには需要があることがわかる。だが、報道特集のように一つの問題にじっくり取り組むような番組には需要がないようだ。政権批判と言っても「教条的に政権を批判するプロっぽい」報道特集よりも、高齢者の素直な偏見を政治に押し付けるようなサンデーモーニングの方が需要が高いといえる。これが「ジャーナリズムごっこ」が生まれる理由である。

ここは極めて単純に「命に関わる水の問題はみんなで考えるべきであろう」と綺麗事でまとめたいところなのだが、日本人は蛇口をひねれば安い価格で安全な水が飲めるのは当たり前だと考えており、メンテナンスコストがかかるなどと考える人はいない。つまり、水道がこの先維持できないかもしれないなどとは思っていないので、気軽に「私企業に魂を売り飛ばすな」などという気軽なことが言える。

さて、ここまで見てくると、なぜ視聴者は政策にはそれほど興味がなく、気軽な政権批判を好むのかという問題が出てくる。この問題を裏返すと、なぜ政治課題化しない政策は実際には問題を抱えていてもスルーされてしまうのかという問題になる。

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自ら進んで奴隷になりたがる若者

QUORAで「若者が野党嫌いになるのは若者がコミュ力を重視するからだ」という素っ頓狂な質問を見かけた。全力で否定しようと思ったのだが一度落ち着いて元の文章を読むことにした。この文章でいうコミュ力というのは、空気を読んで同調的に動く人のことを意味するのだそうだ。ああ「コミュ力」の定義が違っているのだなと思った。文章として読んでもらえるようにキャッチーなタイトルをつけたのかもしれない。ただ、一生懸命勉強すると忖度官僚になってしまうのだから、あながちないとは言い切れないなとも思った。

コミュニケーション能力というと、例えば会議のモデレータのような能力を思い浮かべる。参加者が持っている漠然とした違和感や疑問などを掘り下げて問題を発見させるというような能力で、アクティブリスニングなどと言われる。自分を知らせるにせよ問題を聞き出すにせよ、コミュニケーションには技術がいる。いわゆる「聞く力」や「話す力」である。

だが、コミュ力が同調性・協調性を意味するとすると、日本では受信力や発信力はそれほど重要視されず、形式的な同意が好まれるのだということになる。こうしたコミュ力が横行するのは学校が「何も変えたくないが少ない人数で効率的に生徒を管理しなければならない」からではないかと思う。

例えばいじめについて考えるときに「お互いに相手のことを思いやってうまくやって行きましょう」というようにわかったようにまとめるのがコミュ力である。実際には何も変わらず、したがっていじめはまた起こるだろう。しかし、参加者は(いじめられている人を除いてはだが)気分良くその場を立ち去ることができる。逆にいじめの原因がわかったりすると「何か嫌なものを見た」ことになり、問題を発掘して解決を試みた人は嫌われてしまうのかもしれない。

実際には大人もこうした「そつない」コミュニケーションを取ることがある。だがよく観察していると大人たちには魂胆がある。自分たちの持ち出しを少なくしてできるだけ相手に持ち出させるために「より切実な気持ちになっている人」の方が動かざるをえないように仕向けるために議論をする。そしてどちらも動かないと「鋭意努力はするが誰も何もしない」ことを決める。これは日本人が村落を生きているからである。小さな経済単位の損得ですべてを決めているのである。

高齢になればなるほど腰が重くなるのでますます何もしなくなる。過疎地の高齢者たちは「このままでは村がなくなる」などと言っているが自分で動いて若い人たちが暮らしやすいように村を整えるなどということは考えないし、実際によそから若者が越してきたらあれこれ難癖をつけ面倒な役員を押し付けて使い潰してしまう。こうした議論は今では国中に広がり、少子化対策のためにお金を出さないで、外国から便利に使えて福祉の対象にもならない単純労働力が自然発生してくれないかなと夢想している。日本は全体として過疎集落のようになりつつあるとも言える。

ただ、高齢の村人たちは自分がなぜ動きたくないかを知っており、なおかつ相手もなぜ動きたくないかがわかっている。自分たちが村落に住んでいることを知っているのである。彼らが公共を持ち出すとき、彼らはそれが絵空事であるということを知っている。何もしたくないので相手を非難して見せたりするのだが、たいていの場合それは単なる演技であり、周りを諦めさせるためにわざとやっている。こうしたことができるのは変わらなくても既得権だけでなんとかやって行けるからである。

ところが管理されている若い人たちはこの村落がわからなくなっている。日本人が最初に村落を意識するのは会社で正社員になったときだろう。つまり終身雇用で動く範囲が彼らの村になる。ところが最近の若い人たちはもともとこうした利益構造から取り除かれており、地域もないので村を意識することができない。

これが被害妄想だと感じる人たちに一つだけ例をあげたい。今度の東京オリンピックは建設村などに利権を引き込むための言い訳である。ただ、自分たちだけで投資ができないので「公共」という概念を用いることにした。彼らのいう公共とはつまり政治家の人たちが私物化できる範囲というような意味しかない。彼らは、国民にかわって税金を使うという意識はなく、国民から税金をとりたてて好きなように使うという感覚を持っているので、公共を私物のように捉えてもそれほど違和感を感じないのだろう。

だから政治家はオリンピックの運営に協力してくれた人にはびた一文払うつもりはない。そんなことをしたら彼らの損になってしまうからだ。すでに「これくらい儲けよう」という見込みがあり、それが減ることを考えただけで嫌な気持ちになってしまうのである。そこで「感動を見せてあげるから」などと言いつつ、公共を仄めかして無償労働をさせるのである。

オリンピックのボランティアの内訳をみると、ITや通訳といった特殊技能を持った人たちを無償で使い倒したいという願望が大きく現れている。彼らは本当はこれを企業にも導入したい。こうしたITの知識が語学能力にどれだけお金を払ったのかということなど考えもしない。そんなことは彼らには関係がない。そういう人たちが政治の運営をしているのだから、次第に「専門性を持つ努力をした人をいかに安く使い倒すか」ということを考える社会が作られるだろう。

ただ、周囲との軋轢を避けて「嫌だ」と言わず黙々と働きたいならそれはそれで若者の希望なので、こちら側がとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。ただ、「コミュ力」の高い人たちは意義を唱える人たちは同調圧力をかけて周囲を巻き込もうとする。やはり村落共同体が崩れかけた現代ではコミュ力は有害に働くのではないかと思える。

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Twitterからヘイトアカウントを駆逐するにはどうすべきか

Twitter社からアンケートの依頼が来た。ランダムにコミュニティの運営についてアンケートをとっているらしい。「攻撃を受けたことがあったか」というのが質問の内容だった。他の人たちがどうなのかはわからないのだが、政治的な課題を扱っている割にはあまり暴力的な攻撃を受けたことはない。かつて例外的に東浩紀という人から絡まれた記憶がある。ずいぶん前(つまりTwitterが荒れる前)なので炎上対策のセオリーに従って放置した。しばらくは彼の取り巻きのような人たちが閲覧していたようだが、やがて治った。ネットでは有名な人らしいのだがこの類の人たちの書いているものは信頼しないようにしている。炎上を起こして話題を作るというのが彼らのやり方なのだとは思うし、フリーランス的な傾向の強い人たちはそうしないと食べて行けないという事情も分かるが、信頼性は損なわれると思った方が良い。

さて、アンケートは面倒だなと思ったのだが、やってよかった。Twitter社が何を気にしているかということがおぼろげながらわかったからだ。

彼らが気にしている点は二つだった。第一に暴力的な個人攻撃が起こることを気にしているようだった。場が荒れると広告プラットフォームとしての魅力がなくなるからだろう。が、これはあくまでも個人と個人の話である。つまり、朝鮮系の当事者が「朝鮮人は黙っていろ」と言われたらこれは暴力なのだが、当事者ではない人がそこに参加することは想定されていない。例えば「日本は単一民族国家だからアイヌ人などいない」というのはヘイトスピーチなのだが、これに声をあげるべきなのは当事者である。

すでに書いたように、ネトウヨ攻撃に対して個人攻撃はやめるべきだと思う。カウンターのほうが暴力的だと取られてしまう可能性が高く、抑止に実効性がないからである。ヘイトスピーカーは個人の政治的態度を主張するという形で情報発信をするので、それにメンションをつけて「黙れ」と言ってしまうと逆に政治的意見の抑圧に取られてしまう可能性が高い。他者の人権を否定するのは表現の自由ではないが、あくまでも反論する権利があるのは当事者だけなのだ。仮に参加するとしたら、攻撃された方を応援するなどの支援に止めるべきだろう。

次にTwitter社が気にしているのはフェイクニュースの発信のようである。アメリカではFacebookがフェイクニュースの発信源になっており対応が遅れたことが社会問題化した。広告収入に影響があり株価にも影響したようだ。

アメリカ人は日本人が考えるほどには国際化されていない。関心事は国内のことだけで国際情勢には理解もなく無関心である。そして日本人ほど社会正義には実は関心がない。彼らの関心事はお金である。だから国内で安倍政権がどうであろうと彼らにとっては「知ったことではない」と考えて良い。日本で外資系企業に勤める人たちはこれを知っており、自分の与えられた職務は全うするが、決してこちらからそれ以上のことを働きかけたりはしない。Twitterではフェイクニュースのほうが頻繁に扱われるという統計も出ており対策は講じなければならないのだが、そこに日本人的な倫理観を持ち込んで、日本支社のトップをつついても意味はないのである。

もしヘイトアカウントを閉鎖したいなら、アメリカ人の意思決定者がどのようなことを気にしているかということを考えた上で権限のある人に伝えなければならない。このアンケートから見ると、当事者が人権侵害を受けたならそれは報告すべきだが、そうでない人は事実誤認の指摘に止めるべきであろう。

ヘイトアカウントを執拗に攻撃している人を見ると弁護士とか学者などが多い。どちらも社会問題を取り扱っている。彼らは常に他人の問題に介入しているので、つい「正義があれば自分の意見が通る」と感じてしまうのだろう。こうした人たちが第三者の支持を得られないことはすでに観察済みだが、マーケティング的な視点もなく自分たちの意見をピッチできない。その意味ではネトウヨの人たち同様に村落に住んでおり自分たちの事しか見えていないのだろう。

今回のBBCの番組Japan’s Secret ShameでもYouTubeに権利処理なしにアップロードされたものが削除されているのをみて「安倍政権が隠蔽を図っている」と叫んでいる人がいた。多分権利処理のような実務に疎いかなんでも安倍政権に結びつければよいと安易に考えているんだと思う。実際にはプレゼンテーションが多くの人に認知されるようにするためにはどうしたらいいかなどということには興味がないのだろう。プロフィールを見たら大学を退職した研究者だった。

結果的に日本の人権リベラルの人たちの意見は通りにくく、ヘイトスピーチやポピュリズムを野放しにすることにつながっている。

Twitterも他のプラットフォームと同様やがては荒れる運命にあるのかもしれない。mixiのように過疎化したままそれなりの平和を保っているプラットフォームもあるようだが、すでに2ちゃんねるやはてななどがそうなっている。

だが、それでも良識のある在野の人たちはこうした世間知らずの人たちに先導されないように気をつけるべきだろう。学者や弁護士は正義さえ主張していれば本や名前を売ることができるのかもしれないのだが、一般人の生活は息苦しくなるばかりだ。一方的な正義を叫んでいても安倍政権が全く影響を受けなかったこの5年間について我々は深刻に受け止めるべきなのではないだろうか。多分Twitterでヘイトアカウントを指摘した人たちが一時凍結されることと、アンチ安倍人たちがなかなか受け入れてもらえないことにはなんらかの共通点があると思う。

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日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

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そのツイートが次世代のテロリストを生み出す

先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。

この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。

日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。

日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。

こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。

「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。

よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。

現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。

前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。

これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。

同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。

彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。

日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。

だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。

このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。

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ワールドカップロシア大会に見る日本人とルール

先日来、リベラルについて考えている。一環として日本人とルールについて考える。日本人はどのようにルールを理解しているのだろうか。

フットボールのロシアワールドカップで日本チームが「フェアでないプレイで16強に勝ち上がった」という悪評が立った。驚いた日本人も多かったようで戸惑いや正当化の議論が盛んに行われた。日本人は一生懸命に西洋社会から認められようとして頑張ってきたのに「本質を理解していない」と言われたことに戸惑いがあったのだろう。木村太郎は「これは人種差別だ」と言い切った。

だがBBCの記事を読むとイギリス人の反発には理由があることがわかる。イギリス人はフットボールをフェアにやってもらいたいのである。このため、消化試合を避けるためにグループごとに試合が同時進行するように運用ルールが改正しており、イエローカードの枚数で優劣を決める今回の改正もその一環だった。日本はこれを通信機器で「ハック」することでルールの背景にある精神を踏みにじったと見なされた。ルールを変えるべきではという指摘すらなされたようだがFIFAはルールを変えるつもりはないと言っているそうだ。

背景には日本人とイギリス人のルールに対する考え方の違いがある。イギリス人やFIFAはフットボールを健全に保つためにルールを作っている。目的はフェアな試合だ。だが、日本人は本質ではなく「ルール」という外形を保つことによって良いコミュニティのメンバーであるということを見せたがる。だから、ルールで決まった範囲なら「何をしてもよい」と思ってしまうのである。

面白いことに日本のマスコミは海外で西野監督の決断が問題視されていることは伝えたが「ヒホンの屈辱」とその精神について取り上げたところはなかった。日本人は自分たちがどう見られているかは気にするが、どうやったらコミュニティを健全に保てるかということにはほとんど関心を示さない。見た目だけを気にしているのである。

西野監督の決断は、日本の政治で横行するルール破りについて考察するよい材料になる。安倍首相がやっていることと非常に似ているからだ。

日本人は決まったことを守ることがよいコミュニティメンバーの条件であると考える。だから、決まりにはチャレンジしない。決まりを変えることでコミュニティに対する異議申し立てをしていると見なされたくないからである。これは西洋のコミュニティがメンバーの合意で成り立ち恒常的な貢献で保たれるという考え方が日本にはないからだろう。村人を縛る村落をメンバーがあえて保つ必要はない。

例えば憲法第9条が変わらないのはこのためであろう。日本人は憲法はルールを守るという意識はあるが、その向こうにある「主権国家が協力して国際秩序を守って行くべきだ」という理念にはあまり関心を持たない。国際社会でいい子であればそれで満足なのだ。そして憲法第9条を「縛りである」と理解する。

このように窮屈な村落観を持つ日本人は「決まりは相手を牽制するためにも利用できる」と考える。体面のために決まりを守らなければならないし、それを押し付けることで相手を牽制できると考えるのである。ルールの範囲内で「ハッキング」する「ズルさ」はある意味大人の条件だ。だが西洋ではこれは単なるズルにしか見えない。こうした違いが文化摩擦を引き起こすことがあり、今回の西野采配もこれに当てはまる。

この「ちょっとずる賢く立ち回ったほうがいいのではないか」という考え方は、「大人な有権者」に広く受け入れられており、今回の自民党総裁選挙でも大きな影響を与えるかもしれない。

最近野田聖子さんや石破茂さんらが安倍首相を公然と批判し始めている。総裁選で「フェアな政治」を求めたほうが有利だと感じているからだろう。だが、これは野田さんや石破さんに不利に働くかもしれないと思う。なぜならばサイレントマジョリティである日本の男性は「日本が国際的に有利にやってゆくためにはまともにルールを守っていては損だ」と感じているかもしれないからである。こうした人たちは「ちょっとしたズルをする安倍首相」を大人だと感じるだろう。実際に石破茂さんには「あの人は真面目すぎて国会の筋論にこだわる」という評判があるそうだが、これは悪口である。女性も男性のように尊大に振る舞う事で「器が大きくなった」と見なされる事がある。その意味では野田さんは「女性的」すぎる。野田さんを支持しない人は「きれいな水に魚はすまないというではないか」と感じるかもしれない。

競争に勝つためには女性を低く使ったり外国人労働者を安く使ったほうが有利だと考えている人は意外と多そうだが、それが表立って語られることはない。安倍首相の嘘に一定の支持が集まるのはこの「ルール内でのずるさ」が支持されるからなのだろう。民主主義的なプロセスさえ踏めば嘘をついても良いと考えるのが日本人なのだ。

そんな日本人でも民主主義にこだわる事がある。

1999年の小渕内閣で自民党は金権政治から脱却できていないという批判にさらされていた。田中角栄のロッキード事件の影響が払拭できず細川内閣で一度下野した。その後も単独で過半数が取れなくなり連立相手を変えながらなんとか生き残っていたという時代である。当時、より近代的でかっこいいスマートな民主党が台頭し始めており「このかっこよさを取り入れたい」という思いがあった。党首討論が導入されたのはそんな気分があったからなのだ。

党首討論はイギリスを真似てクエスチョンタイムと呼ばれた。「西洋流のかっこいい俺たち」を見せたかった民主党と俺たちも負けていないという自民党の利害が一致したのである。議事録を読むと議論は朝ごはんに何を食べたかという鳩山さんの問いかけで始まっている。当然鳩山さん流の洋食(とはいえピザなのだが)のほうがかっこいいわけで、小渕さんは少しためらいながら日本食だったと明かした。この後、鳩山さんはピザの話を政権批判につなげた。「具材が混ざってよく味がわからなくなった温め直したピザ」は連立相手を組み替えて政権にしがみついている自民党を揶揄している。この中に小渕さんが強がりから発したと思われる「冷たいピザも温め直せば美味しい」という発言が出てくるが、小渕さんはこの後「冷めたピザ」と揶揄されることになった。自民党は賞味期限が切れた政党と見なされてしまったのである。

安倍首相が様々なルールを破って党首討論をめちゃくちゃにした上で「党首討論の役割は終わった」と言い放った。それももっともな話だ。政権交代は失敗し民主党(主に鳩山さんだが)のかっこよさも見掛け倒しだということがわかった。民主党にはスマートな政治家が多かったがそれはたいていは意志薄弱さの裏返しだった。自民党はもはや強がってみせる必要がなくなってしまったのだから面倒な議論などしなくてもよいのだ。さらに「ちょっとルールを破ったほうが勝てる見込みが高まる」ということになると議論でもルール破りが横行することになる。

高度プロフェッショナル制度にそれほどの反発が起きなかったのは日本人の多くが「誰かが犠牲にならなければ今の豊かさは維持できない」という見込みを持っているからだろう。だが、自分だけはそこから逃げ出すことができるという楽観的な見込みも同時に併せ持っている。第二次世界大戦でも、日本人の多くが政府に取り入って儲けたいと考えた一方で、家族や財産を失うと想像できた人はそれほど多くなかったはずだ。ズルさを支持する裏にはこのような見込みの甘さもある。

西野監督や安倍首相を見ていると、日本人がルールを曲げようとしているのは負ける見込みがある時だということがわかる。だから、脱法的なルール運用が横行するようになったら日本人が逃げの姿勢をとっていると考えたほうがよさそうである。西野監督は自分のチームがポーランドに勝てると思えばあのような戦術は取らなかったであろう。また、試合を続行すれば選手が焦ってイエローカードをもらうという見込みもあったのかもしれない。西野監督は選手をうまく乗せて勢いづかせることができるという自信はあったのだろうが、選手をコントロールできているとは考えていなかったのであろう。

安倍政権を応援する日本人も「負けるかもしれない」という認識を持っているからこそ安倍首相を応援し続けるのだろう。もっとも安倍首相が西野監督のように客観的に状況を判断しているとは思えない。西野監督は試合後の会見で「本意ではなかった」と発言したのだが、安倍首相はルール無視をしている俺はかっこいいなどと主張してますます拒否反応を呼び起こしている。選手を西野ジャパンの試合後のインタビューを見るとかなりフットボールコミュニティを意識してい情報を集めていることがわかる。せっかく強いチームなのだからもっと好きにやればいいのにと思うくらいだ。これは国際的なプレイヤーが多くマイノリティとして自分の文化を客観視する姿勢が身についているからなのかもしれない。これが永田町と選挙区しか知らない政治家との決定的な違いだ。

今回の議論はリベラルとポピュリズムについて考えている。これをトピックに当てはめると、まず「まともにやっていても勝てる」という見込みがなければルール順守を訴えることは難しい。リベラルの人たちの人権と多様性を保護すればより豊かになれるという見込みは実は自信の表れであり、それを自信のない人たちに信じさせるのは難しい。もしかしたらリベラルを自認する人も自分に自信がないから騒いでいる可能性もある。ここを越えるのはとても難しい。

それに付け加えて「ルールはなぜできたのか」ということを考えるべきだ。日本の平和憲法はある理念の元に作られている。これを理解しないで単に平和憲法には指を触れるべきではないと考えていてはいつまでたっても平和国家を実現する事はできない。もし「平和国家日本」を守りたいならば、もっと外にでて多くの人と意見交換をすべきであろう。

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