わかっているのに変えられない日本社会

今日のお話は「迷っている」というものである。情報発信としてはかなり伸びているのだが、それは同時に問題解決から遠ざかるということを意味している。これをどう折り合わせて行こうかと思っているわけである。

朝、投稿を終えてからメールをみたら深刻そうな問い合わせが入っていた。外国人だが職場いじめられているという。まず本当のことかはわからないし、メールだけでは詳細なことはわからない。書き言葉の日本語は堪能である。

一応、本人にはメールを書き、QUORAにも相談を載せたのだが、どちらからもレスポンスはなかった。つまり、当人は「わかった」とも「がっかりした」とも言わないし、周囲の人からも有益な情報は得られなかったわけである。以前ならがっかりしたり憤ったりしていたと思うのだが「ああ、やっぱりな」と思った。(本当のことを書いてあると仮定して)相談してきた当人はレスポンスどころではないだろうし、日本人は個人での協力を嫌がるので具体的な問題を提示すると逃げてしまうのである。

日本社会はこのように閉塞した状態にあるので相談してきた本人が「ああ、相談してよかった」というようなアドバイスは書けないだろうなと思った。普通なら、できるだけいじめに対処してそれでもダメなら転職を考えろくらいの話になると思うのだが、外国籍の場合スポンサーシップの問題がある。つまり、日本人ほど転職は楽ではないかもしれないのだ。日本は経済的にも未来のない状態なので、外国籍があるなら、在日韓国人・朝鮮人のように実質的に日本社会に居場所を求めざるをえない場合を除いては没落しつつある国にこだわる必要はないとさえ思うが、それも書くのはためらわれる。

プライバシーがあるのでメールの詳細は書けないし書かないのだが、これについて書こうと思っているのはそろそろ年頭からやってきたことをまとめようと思っていた矢先だったからだ。村落の問題から始まって組織されない「群衆」の問題にまでたどり着いた。構造はなんとなくわかってきたが、閉塞感の背景はわかっても理由はあっても解決策はないだろうことも明白になってきている。日本人は個人に自信がなく、社会を信頼していないので、根本的に社会の問題解決に向かわない。しかもその状態に直面したくないのである。

閉塞感が自分たちに起因していることは認めたくないので、社会問題に構造を与えることで「他人や社会が悪いのだ」という主張には需要がある。だが、問題を作り出しているのも日本人なので原理的に問題が解決できない。日本人はという大きな主語はこの点便利にできている。実体はあるが、そこから自分だけを取り除くことができる。

例をあげると安倍政権が信任される理由はわかってきた。有権者が何もしないことを好んでいるからである。背景には「もう何をやっても日本は衰退して行くばかりだし、自分たちはなんとか逃げ切ってきたのだからこのままでいけるだろう」という意識があるのだろう。そして、安倍政権を首相に選んでいる日本人は馬鹿だと主張してもその中に自分が含まれることはない。

しかし、介護やいじめなど問題の当事者になった場合には事情が全く変わってしまう。根本的な治癒方法が見つからないので病変として切断されるかなかったことにされてしまう。これはいじめ、差別、介護の問題で私たちが日常的に見ている光景である。いじめはなかったことにされ、あったという事実認定に数年かかるのが当たり前である。しかも「当人が自殺した」という取り返しのつかない状態にならない限りいじめが認められることはまずない。女性のレイプ問題も同様で海外のプレスに英語で自分から情報発信するくらいのことをやらなければ社会にもみ消されてしまう。

今回の問題もいじめなのだが、組織としては「なかったこと」にするんだろうなと思う。一応公的な窓口があるわけだが、これがどこまで外国人の見方になってくれるかはわからない。あるいは「日本の恥」と認識されてしまうこともあるわけで、その場合には社会が総出で「問題をなかったこと」にするのだろう。

本来ならば、これについて「どうするべきだろうか」と相談したいところなのだが、これまでのコメント欄の反応などを見ていて、提案はないだろうなと思う。外から問題を語りたい人はたくさんいるのだが、中から問題を解決したいという人はこの社会にはいないと考えてよい。

日本人はすることよりもなることを好む。だから、個人の意見で「こうすればよい」という提案が来ることはないだろう。それは責任に直結するし、責任は社会から切断される危険を伴うからである。だが、流れを掴んで訴えかけるようにすれば「なった」ことになり閲覧は増える。一転して「切断する」側に回れるからである。

メールにはそのことが端的に書かれていた。「日本人の構造はわかるのだが、自分が抱えている問題についての解決につながりそうもない」というのだ。いじめは閉鎖的な空間で起きているわけだが、その閉鎖性が個人を苦しめ、中期的には組織も閉塞するということは目に見えている。まともな文明社会から来た人は「で、あればなんとかすべきではないか」と思うわけだが我々の社会ではこれが通用しない。

このため理不尽に突き当たると大変悔しい思いをすることになる。我々にできることは、これが個人の問題ではないということを認識することと、ありふれているということを自覚することくらいかもしれない。「自分だけが苦しんでいる」と考えてしまうとどこまでも追い込まれる。そして問題を発信すればするほど切断される側に回るリスクが増える。だから、回復したら立ち上がって、また普通の側に立って歩き出すしかないのである。

もちろん、自分の問題について情報発信し続けることには意味がある。普段からそうした情報に接している人は、いざ自分がその状態に直面した時に「自分一人が孤立しているわけではない」と考えることができるからだろう。例えばTwitterには、体が不自由で動けなかったり、普段から介護についてつぶやいている人がいる。日本の介護事情は細かく理不尽な規則のためにとても大変な思いをされている人が多いようだし、逆に自分の好きなことを見つけて精一杯に楽しんでいる人もいる。いろいろな選択肢があり一人ではないことは少なくともわかる。こういう人たちは「誰にも理解されないし、社会の役に立っていない」と思うかもしれないが、実はパイオニアになって同じ問題に直面するであろう人を先達している。杉田水脈流にいえば「生産性」があるのだ。

だが、やはりなんらかの問題に直面している人たちにとっては「問題ばかりみつめても何の役にも立たなかったな」というがっかり感の方が強いかもしれないなと思う。いくらあなたは一人ではないと言ってみたとしても、役に立つと説得してみても、問題は一人ひとりに違って見えるものだし、その時に協力を求めても同じ境遇の人はそれほど多くはない。さらに、自分が「生産性がある」と考えない限り他人からどう言われても嬉しくもなんともないにちがいない。

そうしたがっかりされるリスクを受け入れるべきなのかということについてはやはり躊躇がある。どうしても「問題を解決して有能だと見られたい」という意識が働いてしまうからである。

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「いい人」が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

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承認を待ち望む人々

先日来、政治を離れて「マーケティング」について見ている。まず、韓国人がインドをマーケット捉えるところを観察し、かつては日本にも同じ様な時代があったことを確認した。つまりよい製品があっても現地のマーケティングに受け入れられなければ意味がないので、現地のマーケット事情を学ぼうという姿勢が大切であり、日本もかつてはそうしていたということを確認した。マーケティングとしては極めて自然なアプローチであり、K-POPもホンダのバイクもカップヌードルもこのやり方で成功している。

日本すごいですねマーケティングの失敗をなんとなくにらみ「自分たちの製品は優れているがその本質を理解できるのは日本人だけ」という姿勢が日本製品の海外進出を難しくしているのだろうなと考えた。なんとなく当たっている様な気もするが、どうしてそうなったのかはわからない。

次にZOZOTOWNを見た。オペレーションはデタラメだがZOZOTOWNはそこそこ成功するだろうと考えた。若者の認知率が高いからである。この認知率の高さはインターネットからの流入に支えられている。コンシューマーが作ったコンテンツで認知度をあげるという戦略なのだが、これがうまくいっているわけである。これはリーマンショックの前に提唱された概念でUGCと呼ばれる。

アメリカ型のUGCは個人の意見表明に支えられている「発信者主体」のメディアだが日本はそうではなかった。ZOZOTOWNはそのことに気がついたのだろう。個人が確立しないままで自己責任社会に突入した日本では「相互承認」こそが重要なのだ。このためWEARには顔を隠した人たちが大勢掲載されている。彼らは承認は欲しいのだが人前に顔を晒すのは嫌なのだ。

つまり、日本のUGCを支えているのがユーザー間の「いいね」である。自分の露出を高めるために仲間のコンテンツにもいいねを押すことが習慣化していて、それなりの社会的承認が得られる仕組みができている。そしてこれがコンテンツになりZOZOTOWNの流入を支えている。かつて私鉄に乗って渋谷のPARCOにおしゃれをして出かけたようなことがインターネット上で行われていることになる。アパレルは衣服を売っているわけではなく、自己承認の機会を売っているのである。

スマホがこの「いいね」の核になっていて、人々はLINEやその他のメディアで承認したりされたりすることで認知欲求を満たし、それを持ち歩いている。「スマホがないと死んでしまう」のはそのためである。学校では個人を殺して先生の意見を受け入れることを強要される上に、自分をどう表現していいかは習わない。だから自己承認は成績を上げて学校に褒めてもらうか、クラブ活動で成果をあげるか、仲間同士で慰め合うかの三択になってしまうのである。

かつての人々は読んだ本やイデオロギーなどを個人の核にしていたのかもしれないのだが、今では商品のプロモーションに紐づけられた相互承認によって自己を満たしているという可能性がある。

なぜ人々があれほどまでに「モテ」にこだわるのかがよくわからなかったのだが「モテ」こそがその人の価値を決める指標なのではないかとさえ思える。モテとはより多く承認が得られる状態のことだ。

ただし、この「モテ」には正解がない。個人の美的感覚が優れていても「モテない」ファッションには全く意味がなく、そのモテもマーケティングの関係で移り変わることになっている。ここにキャッチアップする人もいるだろうが、できない人もいると考えると、モテに乗り遅れたであろう人が確実に出てくることがわかる。

他の人たちが相互承認を得ているのに自分だけは得られないと考えた人が、「信念を持て」などと言われても「よくわからない」と思うのではないだろうか。信念を持ったり自分なりの学習で何かを極めたとしても「モテ」なければ全く意味のないことだからだ。モテない人生はないも同じである。モテるためには消費しなければならないし、消費するためには稼がなければならない。

しかし、こうした不確実な状態に人はどれくらい耐えられるのだろうとも思える。より簡単なのは誰かを貶めることでこうした不確実な状態に形を与えることなのではないかという仮説が成り立つ。クラスにおいては誰でもいいから一人をつまみあげて悪者にしていじめればよい。そうすることで「自分はかられる存在ではないので正しい側の人なのだ」という確信が得られるだろう。また政治においては問題解決は面倒だが、在日韓国人や同性愛者を叩いて「自分は正常な存在なのである」と言えれば、それで承認の問題は解決する。アカウントに日の丸を付ければ、正当な社会の一員となれる。保守というのは居心地のよいバッジだがそれについて理解する人はない。だから消費行動のないモテには犠牲が必要なのだ。ひどい話なのだがこれで説明できることはたくさんある。日本の政治はこうした犠牲の元に支持を集めている。

問題なのは消費者も自己承認を求めているのに、メーカーも自己承認を求めていたということだろう。かつてドルチェアンドガッバーナなどに取り上げられて「日本すごいね」の象徴だった岡山と広島のジーンズ産業は低迷期を迎える。イタリアのメーカーがジーンズに飽きてしまったからだ。そこで彼らは日本の顧客について研究する代わりに「自分たちがいかに優れているか」を宣伝する様になった。それは男性に捨てられた女性が過去の恋愛について自慢する様なもので、とうぜんジーンズブームはこなかった。現在ではてレビ番組を使って100円均一商品がヨーロッパで人々を驚かせているという様な番組を作って悦に入っている。

例えばホンダのバイクを作っている人は「このバイクには自信がある」と考えていただろう。ただ、アプローチの仕方がありそれを研究しなければならないと考えるわけだ。またインスタントラーメンにも自信があるわけだが「箸と丼がない国の人に得るためにはそれなりの工夫が必要」と考える。同じ日本人なのにこれほどまでの違いが出るのは、一度出た正解に固執するからなのかもしれない。

日本人は勝てるゲームが好きなので、正解がないときには一生懸命に正解を模索するために協力する。しかし、一度正解ができてしまうと仲間内から「なぜ面倒な試行錯誤をして時間を浪費するのか」という声が出る。こうして日本は勝てなくなってしまうのではないだろうか。いずれにせよ他人からの承認を求めようとすると相手が見えなくなりますます泥沼にはまりこむ。

いずれにせよ承認を与えてやることは無料な上に力強いマーケティング効果があることは間違いがなさそうだ。安倍政権はここに着目しており問題解決よりも「あなたたちは正しい道を進んでいる」と言い続けることで若者への支持を獲得しているわけだし、ZOZOTOWNも「いいね」を提供することで若者への認知度をあげている。人間を常にどっちつかずで曖昧な状態に置いておくことで、自分のアイディアを買わせることができる。これが良いことには思えないのだが、現実的にはその様な状態があるという結論になった。

もっともこれが個人主義が確立しないまま自己責任社会に突入した日本特有の問題なのか、ありふれた問題なのかはよくわからない。かつての日本人は市場に学べていたわけだから、今回は「日本人が」という主語の使用は極力控えた。なんとなく「最近の若い人は」という主語を使いたかったが、これも控えた。メーカーの関係者もまた自信を失っており周りが見えなくなっていることが多いからだ。

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ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

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学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

https://www.youtube.com/watch?v=Szdx3WOUF9w&list=WL&index=4&t=1873s

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

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日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。

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日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまり女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

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新潮45と中年の危機

先日来、杉田水脈さんの差別発言から日本の政治の問題を考えている。多様性を許容できない人たちが「差別できるような自分より下の存在」を探しているという問題だと考えた。ここでは視点を変えて新潮社の立場からこの問題を見て行きたい。最終的に見えてくるのは「アサーティブネス」と「新潮45の読者が抱える問題」の対比である。アサーティブネスは自分の意見をしっかり持ちそれを他者に伝える技術のことだった。

新潮社はもともと小説の出版社だった。日本の小説は私小説がメインストリームだった時代がある。実生活では自己実現できない人が夢の世界で物語に耽溺するというのが普通の小説だとすると、それも叶わずに鬱々とした感情をそのまま伝えるのが私小説である。戦後になって新潮社は週刊誌を成功させた。1956年だそうである。新聞がカバーできない領域をカバーするのが週刊誌の役割だ。その後バブルの時代にFOCUSを成功させる。これはきらびやかな芸能界の表向きの姿の下にある芸能人の赤裸々な私生活を暴いたものでありこれも「裏メディア」だった。もともと新潮社はエスタブリッシュが取り損ねた人たちを狙った「傍観者向けの裏的」な位置付けの会社だということがわかる。そして、当事者たちが作る本格的なサブカルが出てくると衰退してしまうメディアを抱えている。そこで、新しい「弾」を準備して生き残るという戦略である。

例えば今私小説が流行らないのはTwitterをみれば十分だからだろうし、FOCUSよりも刺激的な記事はネットでいくらでも見つかる。が、新潮社としては次さえ見つかればそれで構わない。問題は新潮社が次の弾を見つけられなくなっていることくらいだろう。

この中で45歳以上をターゲットにした雑誌が新潮45だそうだ。Wikipediaには最初から「保守・反人権」的な立ち位置だったと書いてあるのだが、保守が反人権と結びつくとは考えにくいので「変化を拒む守旧派」を狙った雑誌だったのだろう。これも政治問題の当事者というよりは傍観者を狙った雑誌だ。一時は女性を取り込もうとセックス特集などを増やしたが成功せず「ジャーナリズム路線」に戻ったのだという。

では彼らがターゲットにする45歳以上とはどのような人たちなのだろうか。現在の45歳といえばちょうどバブルに乗り遅れた世代である。大学時代までは右肩上がりの経済成長が(少なくとも見かけ上は)続いていたのだが、それが蜃気楼のように目の前で消えてしまったという体験をしている「失われた世代」だ。

日本の終身雇用は若い時の丁稚奉公があとになって報われるという仕組みだ。だが、この世代の人たちには下がいない。さらに上の人たちは老後の不安を抱えておりポジションを手放さない。直近の先輩たちは「バブル世代に雇われた無能な」人たちなので尊敬はできない。成果をあげろとは言われるが経済成長期のようには行かないし、後輩も入ってこないので役職にもつけず、マネージメント経験もできない。これより下の世代はそもそも経済成長を知らないので会社に過度な期待はしないから自分のためにならなければついてこない。

50歳にもなれば諦めてしまうのだが、まだ諦めきれないが自分の人生が何だったのかよくわからないという年齢域である。他人から良いと言われた進路を真面目に選択したのにちっとも報われないという人が「自分の人生って何なのだろうか」と考えることを「中年の危機」と呼ぶ。つまり、新潮45が今回たまたま掘り当てたのは「真面目なのに認めてもらえず達成感も得られなかった中年の危機にある人たち」の受動攻撃性だと考えられる。

今回、同性愛の人たちが杉田発言に抗議行動を起こそうとしているのだが、これに対して冷笑的なコメントがついている。問題を認めないし何もしないという態度なのだが見ていると「受動攻撃性」という用語がぴったりなのだ。表面上は穏やかなのだが悪意と攻撃性に満ちている。

ハフィントンポストに受動攻撃性に関する記事があるので、対処方法などを見て行こう。

時にして誰もが受動的攻撃行動をとってしまうことがあるのだが、そこでしなくてはならないことは、あなたが最後に“ノー”と言いたかったのに“イエス”と答えてしまった時のことについて考えることである。受動的攻撃行動をする傾向がある人の中にはいくつかのタイプの人間がいる。衝突を避けたり怖がったりする人々は、自尊心が低く自信がない人ほど受動的攻撃性格になる傾向があり、ブラント博士によると、そういった人々は「感情、特に怒りの感情を持つことを許された経験がない」のだという。

つまり、自分が本当にやりたかったことをやらずに妥協をしてしまったことに憤っているのだが、それを怒りとして表出できない。そのために誰か代理で叩く人を見つけようとするのである。

ハフィントンポストの記事はこうした人たちに対処するためには「毅然と対応すべきだ」と書いてある。つまり、彼らがマイノリティを見つけ出して叩くことを決して許してはいけないということだ。つまり、もし当事者であれば「そのようなことは許されない」と毅然と対応すべきだ。

ただ、例えば同性愛の場合「この人生で納得している」という人は毅然と対応しやすいだろうが、そうでない場合には「承認されたい」という気持ちから弱腰の対応をしてしまうかもしれない。前回見た乙武さんの「自分で選んだわけでもないかわいそうな人生」という自己像は極めて危険である。こうした構造は学校でのいじめにもよく見られる。一見先生に従順な良い子が裏で弱い子供を執拗に攻撃するというケースである。そして、いじめられる側はなんらか自己肯定感の問題を持っているケースが多い。

さらに、今回の杉田発言に関する反論を見ていると「自分たちも見捨てられ不安を持っており」「このままでは大変なことになる」と慌てているようなものが多い。つまり非当事者が進んで獲物として議論に参加しているということになる。こうした感情の揺れは彼らを利することになってしまう。

この「世代論的理解」は意外と重要なのではないかと思った。この風潮を日本社会全体の風潮とみなしてナチスドイツと同一視するような考察がある。野党政治家の中にもそのようなほのめかしをしている人たちがいる。確かにアイデンティティクライシスの側面はあるのだがそれが全体に広がっているとは考えにくい。ドイツの場合は帝国が領土を失ったことにより民族全体に危機意識が芽生えた。さらに民主主義の体験が乏しかったために議会政治が無効化されることになってしまった。だが、日本にはそうした喪失経験は見当たらない上に、それなりの議会運営の実績がある。日本の近代議会運営の歴史はアジアでは一番長い。

ある年代に限ってみると、確かにナチスと重なる側面はある。だが、それが全体に広がることはないだろう。逆に「このままでは日本社会全体が大変なことになるのではないか」と怯えることは、彼らの感情的な餌になる。

個人的に興味深かったのは「村落共同体」との関連である。日本社会を概観するときに「村落共同体」的な構造が抱える問題と、村落がなくなってしまったが多様性に踏み出せない社会という全く異なった二つの問題がありこれが統合できなかった。だが、これを逃げ切った60歳台の人たちとその下の掴み損ねた人たちの問題と考えるとわかりやすい。掴み損ねた人たちは新しい行動様式を獲得する時間がなかったために「自分の権利を主張する」という非村落的な行動様式を獲得できなかった。だから怒りを誰かよそに向けるしかないのである。

受動攻撃性は自分の欲求を外にうまく伝えることができないために起きている。これを解消するのがアサーティブさである。改めて、杉田発言に抵抗する人たちを見ていると、ゲイの差別に同調するというよりは「あまり騒ぎすぎるとためになりませんよ」とか「そんなことより建設的なことを考えましょうよ」などと問題を無視したがるような発言が目立つ。多分、彼らは普段からそのようなことを言われており、自分たちの欲求が抑圧されているのではないかと思われる。

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多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

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杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

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