どうせわかってもらえないと諦めるリベラル

Twitterで「日本がIWCを脱退したので海外から批判が集まりオリンピックが大失敗するだろう」というTweetを複数見かけた。一方、Quoraでは実際に捕鯨に対する反感が集まっており日本人に「なぜ日本人はクジラを殺すのか」という質問がぶつけられているので「日本語でちまちまとTweetするなら英語で反論してほしい」というようなことを書いて引用Tweetした。




実際には「日本人がクジラを食べたがっているわけではなく、安倍さんと二階さんの地元だと説明してほしい」と書いた。すると「自民党政権を政権につけている日本人が非難されるだけだ」という反論が戻ってきた。

この返答を見ていつかのことがわかった。まず日本人が世間とか世界を持ち出すとき実際に気にしているのは村の上下関係であって、村の外には実はあまり関心がないということだ。だが、それはすでに観察済みであってそれほど目新しいことはない。

この人は過去Tweetを見ると反自民党系の人らしい。アメリカ人に実際に説得してこういう答えが返ってきたのでなければアメリカ人がどう反応するのかは知らないはずだ。ということは、どこかから既知の「でもみんなが自民党を支持している」という答えを持ってきたはずである。つまり、普段からネトウヨに言われていることを気にしており、自分でもそう思っているのだろう。

日本のリベラルは自民党政権には勝てない。何を言っても「実は俺たちが何を言ってもみんなは賛成してくれない」と信じ込んでしまっているからだ。

前回「韓国が居丈高に対応するのは実は日本が怖いからではないか」と書いた。同じことが日本のリベラルにもいえる。つまりリベラルはすでに議論に負けているという自覚があるからより強い主張を繰り返すことになるのだろう。止まった瞬間に「自分が間違っていること」を認めてしまうことになる。

ただ、今回のリアクションを「リベラルの負け犬の遠吠え」と揶揄するつもりはない。自民党の支持者たちも2009年には同じようなメンタリティを持っていた。彼らは自分たちのどこが間違っていたのかと内省することはなく、公共工事にも良いものがあると言いつのり、天賦人権のために自分たちは政権を追われたと被害者意識を募らせてあのひどい憲法草案を作った。リベラルも「なぜ自分たちは支持されなくなったのか」と反省することなく被害者意識を募らせることになるだろう。

鬱積した気持ちという意味では韓国の「恨(ハン)」に近いのだが、日本の場合はこれが上から目線で語られる。自民党支持者は、今度はアメリカと戦争すれば負けないと思い、憲法という大きなルールを支配すれば勝てると信じる。民主党支持者は民主主義という正解にこだわる。これが負けた側の鬱積した感情を素直に表現する韓国人と大きく違っているところである。日本人は自分こそが本物の権威とつながっているという水戸黄門幻想を持っているのである。

日本人にせよ韓国人にせよ「上下関係」や「多数決」を気にする。みんなの意見が自分の意見より強い「集団主義的な」社会だからだ。自分たちの考える正義が空気に負けた時に屈折した感情として恨が生まれるのだ。だが、アメリカ人はそうではない。自分の意見や立場を伝えることが大切な社会である。そして「アメリカ人みんな」は存在しないから、言ってみないとどんな反応があるかはわからない。

実際にQuoraで「日本人がクジラを食べたがっているわけではない」などと言ってもそれにUpvote(いいね)がつくことはない。なぜならば質問をしてくるアメリカ人はもともと反捕鯨に関心がある人たちだからである。一方、アメリカ人がみんな日本人に反発しているわけでもない。人によって関心ごとが違うのだ。

反捕鯨の人たちが「日本人全体」を主語にしている間、彼らは日本全体を説得しようとするだろう。しかし、誰が原因なのかがわかればそれなりに対応するはずであり、どう行動するかは彼らの問題である。「私を捕鯨問題で説得しても仕方がないですよ」と説明することだけがこちら側の責任である。

トランプ政権で入管施設で子供が複数人亡くなっている。これに反発する人は多いだろうが、だからといってアメリカ人全体が移民の子供を殺したがっていると考える日本人はあまりいないだろう。つまり「アメリカ人全体がトランプ大統領のやっていることを全て承認している」とは思わないはずなのだ。しかし、もし仮にアメリカが日本の人権状況に文句をつけてきたら「アメリカだってこんな残酷なことをしている」と言い出すはずである。

ここからもう一つ面白いことがわかる。日本人は「自分が何かやりたくないこと」があるか、自分がやっていることに介入されて不快になると、「どうせそんなことは無駄だ」と言ったり、意見ではなく人格を否定する。「その人のいうことを聞かなくても構わない」ということを証明しようとするのである。これは、その人の人格を認めてしまうとそれは空気の一部になり「従わなければならない」と重荷に感じてしまうからだろう。つまり、人格と意見が不可分であり「人それぞれにいろいろな考え方がある」ということが理解できない上に、普段からやらない理由を探しているのである。それだけ自分の意思決定権に強いこだわりがあるのだ。

日本や韓国ではどうやら集団の雰囲気が個人の意見に大きな影響を与えているようだということがわかる。だが、言動ではなくちょっとしたリアクションを通して集団に対する恐れが時折ほの見えるだけで普段は全く意識されていない。

アメリカは自分の意見を表明し相手を説得しようとする社会である。だから合意された空気よりも合意形成のための意思決定プロセスを知りたがる。このため欧米型の異文化コミュニケーションの本は「意思決定プロセス」に強い関心がある。一方で他人の目を気にする日本人は世界で認められている日本に関心があり「日本人論」を書きたがる。最近Quoraで日本人は中国人のことをどう思っているのかということを聞かれることが増えた。その意味では他人の目を気にして承認されたがる文化は東洋に広がっているのではないかと思う。

自分の意見を述べることに慣れているアメリカ人はその人が何を言っているのかがわかれば何を目標にしているのかがわかる。しかし、集団の空気を読んで自分の意見を屈折させてしまう東洋的な人たちの政治的な意見は主張だけを聞いていても、彼らが何を気にしているのかが実はよくわからない。だから「リアクション」を観察することが重要なのである。

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Twitterをやらなくなったという話

この一年で「SNSの選択肢が増えたな」と思っている。システムとしてそれほど新しいものが出ているというわけではないのだが、人が居着いた感じがある。YouTuberという言葉は定着し、インスタグラムのインフルエンサーなどという言葉も補足説明なしに使えるようになった。と同時にTwitterで過ごす時間が極端に減った。




Twitterは荒れた印象で問題解決にはそれほど役に立たないのだが、質問サイトやファッションサイトなどは建設的でやっていて楽しい。建設的な空間ではある程度の協力関係も築けるし、何よりも達成感がある。

一方、2018年の始めには「2ch化しているな」と思ったのだがTwitterはかなり荒んできた。Twitterが荒れ始めたのは皮肉にも世論形成に役に立つということが認知されたからだと思う。多分、お金をもらってやっている人や、嫌韓本を売りたくて極端なことをいう人がいるのだろう。ダウンタウンが荒れてお金持ちが郊外に流れるのに似ている。

Twitterの不毛な政治議論に嫌気がさした人が異議申し立てをしてTwitterを離反するというようなことはないように思う。知らず知らずのうちにTwitterを覗かなくなった。他に楽しいことがあり、そのためには準備も必要だからである。地上波のテレビを見ることも減った。やることがないからテレビをつけようという機会が減ったからだ。YouTubeやストリーム系の韓国ドラマを見るのに忙しく、わからない単語を調べるのも面白くなってきている。ワイドショーはなんとなくフォローしていたのだがバラエティは完全に視野から外れた。ダウンタウンが芸人を閉じ込めて炎上したという話もYahoo!ニュースで見たきりで全くフォローできていない。「どうせつまらないんだろう」と見なくなると予告も見なくなるので視野から消えてしまうのである。

しかし、SNSで活動するのは難しいという人もいるかもしれない。やりたいことがないととてもつまらないのだ。例えばインスタグラムが楽しいといってもそれはやりたいことがある人の話であって「何もやりたいが流行について行きたい」という人にはとてもつまらない場所だろう。中にはSNOWなどに手を出してイタイおじさん化している人もいるかもしれない。Twitterは井戸端会議としては面白かった。取り立ててやりたいことがなくてもなんとなくつながっているという感覚が得られる。あるいはTwitterが流行したのは日本人の受身的な姿勢にあっていたからなのかもしれない。なんとなく「Twitterが荒れてきた」という現実に目を背けてきたのだが、やはり他に面白いことができると心の中の専有率は下がってくる。

SNSツールの数が増えるのはいいことだと思う。日本人の中にやりたいことがたくさんありそれなりに表現方法を身につけた人たちが増えているということを意味しているからだ。やはり日本人のITコミュニケーション能力は上がっているのである。

WEARにも写真の技術を積極的に覚えて自分なりの表現方法を身につけている人が大勢いる。これも出始めの頃には「ショップの店員が細々とやるだけなんだろうな」というような印象だったのでずいぶん育ってきた印象がある。プロとアマチュアの中間という意味ではカラオケに近い。

カラオケは単なる遊びではないかと思われるかもしれないが、実は少しずつコンテンツにお金を払おうという機運も生まれている。これもTwitterだけをやっていると気づかないのではないだろうか。もちろん、生計を立てるというところまではいかないのだろうが、取るに足らないコンテンツで稼いだ金でコンビニのコーヒーなどを飲むと不思議な気分になる。何もないところからお金が湧いてきたような気分になるのである。もちろんYouTubeのように大成功者が出ているプラットフォームもある。YouTubeもテレビの人たちから見ると「所詮カラオケ」だったのだろうが大衆の力というのは恐ろしいものだ。

やりたいことがあり表現方法を身につけたい人にはネットはとても楽しい場所になりつつある。それは同時に、やりたいことが見つからない人にとってはとてもつまらない場所になりつつあるということでもある。建設的な人は別のSNSに流れてしまい、お金をもらって極端なことをいうような人しか残らないからだ。お金をもらって人を不快にする人とその人たちに不快にさせられるという人がいる一方で、やりたいことをやっていたらお金が回ってきたという人が共存する世界なのだ。

この変化は永遠に続くと思われた閉塞的な世界が少しずつ変わりつつあることを意味しているのかもしれない。2008年(リーマンショック)から2011年(東日本大震災)までのあの停滞しきっていた時代から少しずつ立ち直り始めているということのように思える。暗闇の10年が過ぎ去り新しい光が見えはじめているのかもしれない。

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演じる家族 – 花田家と安倍家の共通点

元貴乃花親方の息子である花田優一さんがテレビに出まくっている。どうやらマスコミはリスクのある政治報道よりもこの若者を叩くほうが報道価値があると思っているようである。世も末だ。だが、この一連の報道を見ていてとても気になることがでてきた。それは家族と道徳的価値である。

元貴乃花親方は新興宗教と関係を持ち独自の道徳感を持っている。だが、それに社会的価値が全くないことは明らかである。誰一人追随者がいない。彼の道徳は彼が作り出したファンタジーだがそういうことはよくある。日本人の男性は「育てる」ということにあまり関心を持たない。興味があるのは競争だけである。人は競争だけをして生きて行くわけではない。

一方息子である花田優一さんが道徳的観念を持っていないこともまた確かなようだ。納期はすっぽかし、奥さんとは早々に離婚し、両家の親に報告もしなかったようである。にもかかわらず、花田優一さんは臆せずにテレビに出まくった。爽やかなルックスでよどみなく流れるように話す様子から彼が一連の報道に大した罪悪感を持っていないことがわかる。まだ23歳という若さを考えると大胆というか異様と言って良い。彼は道徳的規範の代わりに「爽やかな若者を演じる」術を身につけており、テレビもそれを好意的に受け止めているのである。雑誌ではこうした「爽やかさ」は伝わらない。

父親である元貴乃花親方は「このままでは大変なことになる」と他人事のようにこれを週刊誌にぶちまけているというところから、この人が「自分も子育てに三角すべきだ」という意識を一切持っていないことがわかる。雑誌にそんなことを書けば息子にどんな批判が集まるかは容易に予測できたはずなので、もう常軌を逸しているとしか思えない。だが、この人は貴ノ岩にも同じことを言っていたし「花田勝氏」にも同じことを言っていた。正しくないと思ったものを容易に切断できてしまう人なのであろう。

さらに河野景子さんもテレビに出て「貴乃花の言っていることもわかるし息子の言っていることもわかるが、間に立ったりはしない」と言っている。母親もまた「家族」を切断してしまっているようだがそれに違和感は感じていないようだ。こうして演じる一家が作られ、テレビはそれを歓迎する。本物の家族より演じている方が本当に見えるのだ。

人間が社会規範を受け継ぐ時、家庭はとても大切な役割を果たす。しかしながら、元貴乃花親方にとって家族というものは取り立てて省みる価値がないものだったのだろう。だが、さらに重要なのはテレビを見ている人たちも「家族が価値観を育てる」ということにさほど関心を持っていないということである。彼らがみ違っているのは勝利に向けて邁進する貴乃花とそれを支える健気で華やかな家族の姿なのである。

この「正しさ」と「結果としての勝利の全面的な正当化」への固着は極めて男性的な日本ではよく見られる光景だ。それを陰で補正してきたのが女性だった。だが、女性は一人で子育てをしているわけではなかった。問題は、常に外に触れている「相撲部屋」としての貴乃花部屋と、プライベートとして孤立してしまっている家庭の絶望的な乖離である。これは群れで子供を育てる「共同養育」という習性のあるヒトとしては極めて異常な状態だ。

先日NHKで育児ノイローゼについての特集をやっていた。母親が不安を感じやすいのはヒトが群れで子供を育ててていた名残なのではないかという説があるそうだ。戦後の核家族化には「共同養育環境」が阻害されるという決定的な問題がある。

鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。 
なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。その大きな溝が、いわゆる“ママ友”とつながりたい欲求や、育児中の強い不安・孤独感を生み出していると考えられています。

https://www.nhk.or.jp/special/mama/qa.html

この花田家を見ていて安倍晋三を思い出した。彼も実家が政治家であり、子供の頃は選挙一色の暮らしをしていた。選挙に勝つことが家の至上目標だった。安倍晋三も子供の頃に寂しい思いをしたという。彼の規範意識のなさが、選挙にかかりきりになる家と孤立した家族から来ているのではないかと思った。政治家の二世・三世も演じることを強制された人たちなのである。ただ、ここでは孤立した家とは言わずに「独立国家の共同体」と表現されている。心理的な正当化が起こるのだ。

「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)

洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140

花田優一さんが生まれる前から花田家は常にマスコミに注目されていた。河野景子さんや花田優一さんは後援者らがいるパーティーで「形式的に正しい家族」を演じることに慣れてしまった。お母さんはそれを使って講演活動までしているし息子も靴を売るためだと言って父親のパーティーで営業活動などをしていたようである。しかし、形式的に正しさを演じているということは、内心の正しさなど何も意味がないのだということを意味になりかねない。同じようなことが世襲の政治家の家庭でも起きているのではないかと思う。選挙で受けがよければ裏で何をしていても構わないという虚構の家族である。

選挙に勝ち続けるということは有権者からみて正しい家族像を演じ続けるということだ。この結果ばかりに注目し本来持つべき道徳心をないがしろにすることは、社会が個人に与える刑罰のようなものだ。内心など何の意味もないとして個人の道徳心を絞め殺してしまうのである。安倍首相は嘘を嘘と思わない虚の政治家であり、教育や子育てへの投資には極めて無関心である。お友達にも、外面的な規範である教育勅語的を復活させれば世の中の道徳の問題は全て解決するという人たちが多いようだ。ある意味元貴乃花親方に似た思想を持っている。

花田優一さんは、元貴乃花親方が予想するようなことにはならないかもしれない。23歳の修行から上がりたての若者に立派な靴など作れるはずはないが、彼の元には新しい靴の依頼がくる。「あのテレビに出ている花田優一が作った靴」に価値があるからだろう。また、マスコミも彼らのおもちゃになってくれる便利な人形を求めている。普通の家族の日常には商業的価値はないが、演じる家族にはその価値がある。一部では花田優一さんは多弁なのでお父さんより政治家に向いているのではないかとさえ言われていた。あながち皮肉でもなさそうである。これが日本人が欲しがっている「リアル」なのである。

安倍晋三さんも今の所「大変なこと」にはなっていない。大変なのは嘘に振り回され続ける国民である。ただ、それも選挙民が聞きたい歌だけを政治家に要求し続けた結果なのかもしれない。安倍晋三は岸信介の孫を演じていればいいわけだし、麻生太郎は吉田茂の顔真似をしていればいいのだ。

ただ、こうしたいびつな演じる家族は日本の未来を危機にさらしているように思う。孤立家族で育ったが経済的には恵まれていた安倍晋三が首相であり、自分のために小学校が作られたという極めて特殊な家庭に育った麻生太郎が副首相である政権が「あたたかな子育て環境」に積極的になれる可能性はほとんどない。彼らが熱心に取り組んでいるのは演技を賞賛してくれる周りの人たちに恩恵を与えることであり、国の未来にも個人の内心にも全く関心がないのである。

韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

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ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。

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ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

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日本人が国際的に非難される理由について考える

タイトルは大げさだがそれほど大したことを考察するわけではない。Quoraを見ていて慰安婦問題が国際的に非難される理由がわかったみたいな気がするというだけの話である。




Quoraで面白い質問を見つけた。日本では女性を性的に扱ったアニメコンテンツが多いというような内容だった。外国の人の質問らしい。これについて続々と反論が寄せられている。

よくこのブログでは「日本人は文脈にこだわる」というようなことを書くのだが、アメリカやヨーロッパにも文脈はある。この場合、「欧米に比べて人権的に遅れているので反省してはどうか」という言外の含みがあるのだろう。さらに東洋人の男性というのは全て女性を下に見ていて未だに隷属支配しているという思い込みも含まれていると思う。

ところが日本人(答えた人はほぼ男性だったが)はこの文脈がわからない人が多いらしく様々な回答を返していた。日本人は自分たちの文脈にはとことんこだわるのだが、他人の文脈には極めて無関心のようだ。

  • 確かにそうだがビジネスなので仕方がないという回答は人権を無視してビジネスにしていると捉えられる。金儲けなら何をしてもいいのかと非難されるわけである。
  • そんなことはないという回答は問題意識がなく疎い人だと捉えられる。
  • そうかもしれないが欧米だってそうだという回答は欧米の問題があるからといって日本の問題は正当化されないという反論を呼ぶ。たいていこのような質問をする人は欧米の状況も非難するはずである。

しかし日本人は他者の文脈的背景がわからないので、割と平気にこういう回答を返している。そしてみんながそのような答えになるのであまり違和感を感じないようだ。「日本人は全体として人権意識が低い」という印象を与えるのでかなり危険である。

ここから、組織が組織防衛に走る時にも同じような現象が起こるんだろうなと思った。このブログでは散々村社会が炎上する様子について観察してきた。我々は情報消費者として外にいるから、さまざまな体育系の団体や学校が「この問題は大したことはない」とタカをくくっている間に炎上している様子がわかるのだし「何故中にいる人たちはこんなことにも気がつかないのか」などと不思議になる。だがアニメ擁護議論を見ていると、こうしたことはどこにでも起こり得ることがわかる。

日本人の男性は駅売りのスポーツ紙に女性の裸に近いような写真が載せられていたとしてもなんとも思わない。そしてそれを女性から指摘されても「そんな小さなことに目くじらをたてるな」という。外国人から指摘されても同じようにいうのだが、これが場合によって炎上することになる。例えば伊藤詩織のレイプ事件はかなり重大な人権蹂躙だが、BBCが報道するまで「大した問題ではない」と思っていた人が多かっただろう。インサイダーは問題を過小評価してしまうのだ。

例えばインドではプロポーズを断った女性の顔を科学的薬剤で破壊するというような行為が起こる。これをインド人の男性が「そういうこともあるさ」などと回答すればかなり人権意識の低い国と見られかねない。もちろん、英語ができるインド人は欧米人がどのような眼差しで自国を見ているのかを知っているので「政治的に正しい」回答をするはずである。

この件について過小評価せずにきちんと「政治的に正しい対応」をするためにはどうしたらいいのだろうと考えた。つまり「国内的には大した問題ではない」という認識を持ちつつ距離をおいて「政治的に正しく」回答するためにはどうしたらいいのだろうか。

欧米で日本的なアニメコンテンツが問題視されるということを知るためには、まず欧米の人と直接会話したうえで、自国文化についてある程度客観的な説明ができなければならない。つまり、外との交流と言語化が必要なのである。

さらにそれに加えて「日本文化を否定されることは自分の恥になる」という一体化は避けるべきだ。例えば捕鯨の問題では欧米から非難されると「捕鯨は日本伝統の文化で」などと言い出す人がいるはずだが、その人がクジラ肉がないと生きて行けない人であるとは限らない。こうした一体化は思いもよらない反発を招きかねない。

Quoraは最近質問をテコ入れしており参加者が増えてきた。このためちょっとした国際摩擦を引き起こすかもしれないという面白い問題が生じている。Quoraはある意味教習所のようなところなので、問題はそれほど大きくはならないとは思う。だが、それを欧米的な議論だと思ってはいけない。同じような議論を公共の場でやると間違いなく叩かれる。

例えば従軍慰安婦問題で同じような主張をすれば非難されるはずだし、捕鯨の脱退問題でも同じようなことが起っているはずだ。日本人がこうした問題で国際的にうまく立ち回れなかったのは、多分自分たちの文化を客観的に見ることができていないからだろう。

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3G停波の後も手持ちのiPhoneを使い続けることができるのか

2022年の3G停波について調べている。今の所一番安く乗り換えができるのは中古の電話機を買って格安スマホに乗り換えることのようだ。だが、スマホの中にも使えなくなるものがあるらしい。




全部覚えるのは面倒なのでよく知っているiPhone について調べてみた。簡単だと思ったのだが、どうやらことはそれほど単純ではないらしい。iPhone5s/iphone5cあたりが3G停波で使えなくなるようで、しかもキャリアによって対応が分かれる可能性があるらしい。

iPhone4sとiPhone5はCDMA(3G)端末なので3G停波の後は使えない。しかしiPhone5cやiPhone5sはLTE端末(4G)ということになっているので使えそうに思える。ところが、auはすでにiPhone4s,5s,5cは使えなくなりますよというアナウンス(ライブドア・iPhone Mania)を出している。

この世代のiPhoneは3Gと4Gを切り替えて使うように設計されているそうだ。だが、auは2022年までにこの方式を完全に廃止してしまうということである。NTT DoCoMoに至ってはまだ切り替えタイミングも対象端末についても情報が全くない。

  • auの三種類の端末
    • CDMA 1X WIN端末(ガラケーで使えなくなる)
    • au VoLTE非対応端末(スマホで使えなくなる)
    • auVoLTE対応(スマホで使える)
  • NTT
    • FOMA(W-CDMA)(ガラケーで使えなくなる)
    • XiのDual端末(スマホで多分使えなくなる)
    • XiのLTE端末(スマホで多分使える)

このことは格安スマホで特に問題になる。正式にはMVNOというようだが、NTT DoCoMoとauではコネクションに違いがあるようだ。(IT Media)その上で多分auは自社顧客には案内を出すだろうがMVNOの顧客は救済しないだろうから大混乱が起こる可能性もないとは言えない。今でもMVNOのページでauのSIMについての説明はわかりにくい。どうやら提供されているSIMの種類が違うようでこれが問題になったりするのだそうだ。auからの端末にはSIMフリー化してNTT DoCoMoに乗り換えないと使えないものがあるようである。

ということで、今後の可能性としてはいつかが考えられる。知っている人は知っているどうでもいい情報だと思うのだが規格名がキャリアによって違うためにここまで調べるのは大変だった。OSが古くスマホとしては使い物にならないiPhone5cあたりはかなり安くヤフオクで売られているのでこの際買っておこうかなと思ったのだが、あまりにも不確実なのでしばらくは様子見をしようと思う。

  1. NTT DoCoMoもiPhone5s, iPhone5cを足切りしてしまうので使えなくなる。
  2. NTT DoCoMoがiPhone5s, iPhone5cを足切りしないので今まで通りに使える。
  3. auのiPhone5s, iPhone5cがハードによって電波方式を切り替えておりSIMを取り替えても足切りの制約を受ける。だから使えなくなる。
  4. auのiPhone5s, iPhone5cがSIMによって電波方式を切り替えておりSIMを取り替えればNTT DoCoMoの電波を使って引き続き使い続けることができる。この場合は使える。

可能性としては「4」の使えるが高い気はするのだが、NTT DoCoMoがどのような形でLTEのネットワークを構築するかがわからないために「なんとも言えない」というところである。今の所iPhone6sは引き続き利用できそうだが、これもNTT DoCoMoが発表するまで本当に使えるかどうなるかはわからないということになる。この場合は逆にauの電波でMVNOが使える。

オークションなどはのことがわかっているようで、iPhone5sとiPhone5cが6000円程度で入手できるのにiPhone6は10000円以上の値段で取引されている。auのiPhone5s,iPhone5cは値段すらついていなかったりする。

ずいぶんややこしい話だが、3G停波までにはまだ3年以上の時間がある。この間に五月雨式の情報が出てくることになる。それぞれの情報は全く独立しているために、ニュースだけを読んでも何が書いてあるのかがわからない。だから受け手側で情報を組み立て直して「ああ、これはこういうことなんだな」と解釈する必要がある。たかが電話で振り回されるとはと思うと腹が立ってくる。

地デジの場合には「アナログ」と「デジタル」が分かれていたのでそれでもなんとかなったのだが、救済策としてテレビにつけられる簡易型のチューナーが発売された。今回の携帯電話の場合、auは逃げ切った形だが後に残されたNTT DoCoMoは救済策を準備せざるをえなくなるのではないだろうか。公衆電話が撤去され続けており、インフラとしての携帯電話は誰かが準備しなければならないからである。フランスの場合安いディーゼルエンジン車を買い換えられないという人が黄色いベスト運動を起こしたが、日本でも同じようなことが起こらないという保証はない。

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あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります……

あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります。そんなDMを突然受け取ったらあなたはどう思うだろうか。実はそういう話がそろそろ出始めていて、知っている人は知っている。そして知らない人には何のことだかさっぱりわからない。




3G停波という言葉がある。要するに今使っている携帯電話が使えなくなるということだ。NTT DoCoMoは2020年代前半と言っているが、auは具体的に2022年という数字を出したようだ。このタイミングで5G向けに設備替えが行われるので3Gは使えなくなることになっている。例えて言えばテレビがアナログからデジタルに変わりブラウン管テレビが全てゴミになるようなことが2022年に起こるのだ。

だが、この3Gが何を意味するのかがさっぱりわからない。そもそも高齢になると「携帯電話というのはずっと使えるものだ」と思い込むようになる。自分が今使っている携帯電話機は6年目だがほとんど使わないので、電池パックを一度も入れ替えていない。携帯電話会社にも1300円ほどしかし払っていない。

何もわからない状態で「もうじき使えなくなる」と言われるととても不安になる。特にNTT DoCoMoは「ほぼ役所」なので、これについて問い合わせてみても「今あるメニューから選んで言い値で支払え」という立場だ。巷で言われている言葉とNTT用語の両方を覚えないと話ができない上に、操作担当、料金担当、ハード担当と別れており何人もと話をしてみて結局誰も答えを知らなかったという笑えないことが起こる。

この経験から、今回の停波ではシンプルなプランと電話とSNS意外はできないが価格が抑えられた端末を提供できたところが勝者になるのではないかと思った。

今回の3G停波では「FOMAが使えなくなりスマホだけになるんでしょ」などと思っていたのだが、実際にはスマホの中でも旧世代製品は使えなくなるようだ。ハードオフで調べてみたところ今売りに出ている端末はiPhoneを除いては、全て3Gのみか通話は3Gを使うものばかりだった。2022年に全てこれがゴミになるのかと思うとちょっともったいない気がする。もっともハードオフにはたくさんのアナログテレビがまだ置いてあって単なる在庫と化している。廃棄すると莫大な費用がかかるのだろう。

ご存知のように現在の端末料金は分かりにくい。10,000円で購入できますというキャッチコピーを信じてシミュレータを操作して行くと30,000円ですと言われたりする。なぜ「3倍も値上がりしたのだろうか」と思うのだが、実は毎月の通信料に値引きをかけたうえでそれを実質的に携帯電話料金の値下げというように説明していることから起こる誤解なのだ。だから端末料金を一括で支払うよりローンの方がトクというわかりにくいことが起きる。

ところがこれが変わりつつある。菅官房長官の「携帯電話料金が下げられます」発言から春に見直しが検討されている。だが具体的なメニューが全く出てこない。そこで「様子をみよう」として店頭から客足が途絶え、それを挽回するための売り文句として「2022年に止まるから今のうちに買い換えてください」というDMがきたのだと思う。

このため店の人は困惑するばかりで、auもNTT DoCoMoも「コールセンターではクレームになっているでしょうね」と、客足が途絶えた店頭で呆れていた。しかし新しいプランが「トク」を煽る頃には逆転して大混雑が起こるだろう。

自民党政権は選挙の時に「自民党のおかげで電話料金が下がった」と言いたい。キャリアは売り上げを落としたくない上に代理店に毎月の売り上げ目標を課しているから毎月何らかの施策を打つ必要がある。携帯電話メーカーは切り替えのチャンスに高い端末を売りつけたい。この混乱状況は計画経済が失敗して生産設備が誰も買わない高価な製品に張り付いたソ連の末期と同じである。違いは賃金上昇が見られないという点だけである。ちなみにソ連は賃金を上昇させたためにひどいインフレが起きたが、日本ではそれがないので金融緩和政策をとって企業を助けてもインフレにはならない。

こうなると、格安の会社が俄然魅力的に思えてくる。例えばイオンモバイルは「この端末を準備してくれれば、500MBまでならいくらで使えますよ」と教えてくれる。調べたところiPhone 4(もしくはiPhone3GSのシムフリー版)なら4Gで使えるようである。これが一番わかりやすいので中古を探してあったらゲットしておこうと思っている。国内製のスマホはいろいろな製品が混在していて分かりにくい。

単純なプランを準備している会社だと、NTT DoCoMoで数人と1時間以上話をしてもわからなかった問題が即座に解決してしまう。これは社会主義に慣れきってしまっているNTT DoCoMoが情報を複座にすることで顧客から選択の意思を奪っているからである。ブランデンブルグ門になっているのは顧客の「よくわからない携帯電話会社は怖い」という心理だけなのだ。

多分、選択肢を少なくして「とりあえずこれだけ払ってくれれば最低限のことはできますよ」と言えた会社が高齢者の心をがっちり掴むのではないかと思う。顧客が欲しがっているのはスーパーコンピューター並みの端末ではなく「とりあえずこれだけあればいい」という安心感なのだ。ビジネスインサイダーの記事は「本当に必要なのは「安さ」だけではなく「わかりやすさ」?」とクエスチョンマーク付きで伝えているが、クエスチョンマークはいらないと思う。多分2022年にはNTT DoCoMoは嫌という程自分たちの文化を反省するはずだ。

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なぜ上沼恵美子騒動は日本のお笑いのある終焉を暗示しているのか?




本日は上沼恵美子とM-1の騒動が日本のお笑い界の行き詰まりを象徴しているということを書く。日本のテレビとお笑い界は相撲のような閉ざされた村になっている。こうしたトラブルは村が閉塞感に支配されていることを示している。ゆえに今後、ファン離れが起きテレビのお笑いは急速に過去のものなるだろう。

騒動は、一言でまとめるとM-1グランプリというお笑い番組の審査員だった上沼恵美子が「感情的な審査をしている」と批判されたというものだ。前回のチャンピオン他一人がYouTubeで酔っ払いながら「更年期障害」などと騒ぎ立てたので炎上した。上沼は「なんとも思っていない」と言っているが本当のところはわからない。特徴は周りの芸人たちが腫れ物に触るように上沼に接しているという点である。

M-1グランプリは比較的歴史の浅いテレビ局のコンテスト番組だ。ただテレビ局が主催している賞なので、M-1をとった人は「すごいお笑い芸人」と認められて自動的にブレイクすることになっている。つまり、スターを作り出すためにハクをつける賞なのである。その意味では出版社が作家にハクをつけるための芥川賞・直木賞に似ている。だから、賞は権威のある優れた目利きが選んだことになっていなければならない。そのため上沼ら審査員は「触れてはいけない」存在になるのである。そして、それをYouTubeというテレビの枠外から批判したというのが今回の構成である。つまり、テレビとネットという二重構造がなければこの問題は生まれなかったのである。

つまり、テレビ局や芸能事務所の「外」にそれなりの経済圏ができているということが背景にある「事件だ」ということがわかる。テレビ映画の人が銀幕のスターを批判するようなもので、映画から見ると「一段下」から上を批判するなどあってはいけないことである。テレビを専らとするお笑いの人たちにとってYouTubeは「アルバイト」か「テレビ番組の宣伝」の場所であって、決してテレビを脅かすような地位を占めてはいけない。だが、一方で誰が上かを決めるのは実は業界の人ではないということが忘れ去られている。

テレビを主戦場にし吉本興行の主催する劇場に立ち続けている博多大吉にとって、この主従関係が崩れてしまうことは世界の崩壊を意味する。松本人志にとってもそれは同じだ。だからとろサーモンは「やらかし」であって、それを認めるわけには行かない。一方ビートたけしはこれを外から見ているので「大変なことになっちゃったね」と言っている。

お笑いを内側から見ている人たちには言いたいことがたくさんあるのだろうが、外側から見ている我々にとっては正直ドウデモイイ問題ではある。映画はスターを囲うシステムで大成功したが、無料で見られるテレビに圧されて衰退する。映画のスターシステムにどっぷりつかっていた人たちは沈みゆく帝国から脱却できなかった。テレビは一段低いものとされてそこに行くしかなかった人たちが結果的に次世代のスターになってゆく。

今回批判を繰り広げたとろサーモンが謝罪に追い込まれたのは、彼らもM-1の優勝で地位を獲得したインサイダーだからである。テレビを捨て去ってYouTubeで一からやり直すくらいの覚悟がないとこの世界からは抜けられないのである。しかし、彼らの言っていることは当たっている。上沼だけでなくその他の人たちが「本当にまともに審査しているのか」という問題や「視聴者を代表できているのか」という問題には業界は全く答えられていない。よく考えてみると、師匠がいないから礼儀知らずなのよねという旧世代感覚の上沼がYouTube世代のことがわかっていてお笑いを審査しているとはとても思えない。

M-1はテレビ局にとっては極めて効率の良いスター育成システムなのだが、それはシステムによるシステムのための王様作りになりかねない。そして、視聴者はわざわざこの閉鎖的なシステムに異議を申し立てたりはしない。黙ってテレビを見なくなりYouTubeで流行を作り出すことになるだろう。だからYouTubeの人たちはわざわざM-1を批判しない。もはやどうでも良いオワコンの権威づけだからである。

上沼がお客と同じ気持ちで審査できているかは証明できない。多分それは次世代のお笑いを支持するお客が残っていないからだ。だから上沼だけでなく他の人たちも過去の基準で審査することになる。だがとろサーモン(正確にはとろサーモンの一人)もそれが説明できない。だから酔っ払って非難することしかできなかったのだ。彼は自分が何に支援されていたのかもよくわかっていなかったかもしれない。吉本の小屋にくる人たちがお笑いが好きなのか、テレビで見たあの芸が見たいのかは実はよくわからない。ここが、この事件の一番残酷な点である。

例えばビートたけしはお客には支持されたが正統派ではないということで浅草の芸人仲間から抑圧されたようだ。さらにNHKの新人コンクールでは最高賞を取れなかったそうである。仲間内が審査するようなところからは新しい芸能人は生まれてこない。にもかかわらずビートたけしが世の中に出ることができたのは、当時はテレビの全盛期でヒットが生まれる素地があったからだろう。つまり、ビートたけしは浅草からテレビへの移行期の芸人だと言える。さらに、ビートたけしのような人が「出て来てしまった」のは、浅草が人々から飽きられ始めていたからである。おそらく浅草に通うような人たちの高齢化が始まっていたのだろうと思われる。

上沼が老害なのかということが問題なわけでも、とろサーモンが生意気だということが問題なわけでもない。問題なのはテレビが高齢化にさらされており新しい流行が生み出せなくなっているところにある。だが、テレビに代わって新しいお笑いのブームを生み出せる場所ができればそれも取り立てて大きな問題ではない。浅草が消えてもテレビにお笑いは残った。問題はYouTubeのようなところで新しい笑いが生まれるかどうかだ。それがなくなれば、演芸が日本から消えてしまうことになる。

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