都立町田総合高校SNS炎上事件とルールの相対化

QUORAで都立町田総合高校事件に関する質問があった。そこで背景を調べていたのだが、社会が根底から破壊されそうな構造があり面白かった。キーワードはルールの相対化である。




事件は先生が生徒を殴っている動画から始まる。当然「暴力はいけない」ということになり先生が処分されるのだが、後になって先生が嵌められたことがわかり、生徒は罰しないのかと騒ぎになったという事件である。背景にあるのは「こんなことがまかり通れば学校教育が成り立たなくなる」という世間の焦りだろう。「最終的に誰が悪いのか」という話になるのだが、今までのスタンダードを当てはめると生徒を罰することができない。認知的不協和が発生するのでコメンテータにあれこれ言わせているのだ。

これを定型化すると「結果的な不都合(社会秩序が破壊される)」を防ぐために一般的なルールを作ろうとすると、その他のルール(この場合は体罰は絶対にダメ)とコンフリクトを起こすという問題になる。ルールは「秩序維持のために誰かを罰するためにある」ということと「結果から逆算されてルールを設定している」ということが重要だ。

普段、経緯から逆算してルールが作れるのは、我々が固定的な社会に住んでいるからである。つまり、だいたい村で起こることは決まっているので、その場しのぎのルールを作って見せしめ的に罰すれば、だいたいそれで賄えてしまう。だから、村落社会には民主主義のような面倒で一般的なルールは必要はなく、経験的にたいていのことは処理ができるのだ。

しかしながら、今回の事件ではこれが成り立たなくなっている。随分と「枠」が揺れているのである。第一に学校が合併してできているという事情がある。さらに学校内だけで判断していたのに、SNSによって枠が拡張されてしまったという事情もある。

テレビの報道では学校名がわからなかったのだが、この学校は偏差値的に公立校の中位からやや下にある学校のようだ。そこで同じような事件を思い出した。このブログでも暑かった大阪府の懐風館高校だ。こちらも複数校の合併によって新設された学校だったのだが、茶髪の生徒を黒髪に染めさせたとして裁判になった。

懐風館高校の場合、学生の品位を守りとにかく就職させることが学校の目的になっている。しかし先生たちも「上位校に行けなかった」人たちなのであまりやる気がない。だから、生徒に基本的な価値観を教え込んで品位を守らせようとはしない。そこで体裁だけを整えて品位を守らせようという「学生のモノ化」が始まる。そこでもともと髪の毛が茶色かった生徒を「一般的な規格品」として黒髪にしようと「品質管理」を試みて裁判になった。その子は最初から髪の毛の色が明るかったのだ。

ワイドショー(フジテレビ)によると、今回の町田の学校の騒ぎの元々は「生徒がピアスをしている」ことにあったようだ。先生たちは「あの子は病気である」として笑い者にしていたが生活指導の先生だけが熱心にピアスをやめさせようとしていたということだ。もともとルールはあったが先生たちもそれを守らせられるとは思っていなかったということになるだろう。この生活指導の先生は「ルールだからとりあえず守らせよう」として「つい暴力に訴えてしまい」「それをSNSで拡散された」ということになる。先生がルールを信じていないのだから、実はルールは守るべきだという原則もかなり揺らいでいる。ワイドショーで安藤優子はこの点を指摘していたがなんとなくスルーされていた。

明確に説明もできないし守らせる気すらないルールで組織を統治することなど不可能だし、有害である。

生徒の側は「社会のルールというのは誰が見るかによっていかようにも変わってしまういい加減なものなのだ」ということをありのままに受け入れてしまっている。学校という閉鎖空間であれば隠蔽可能だがYouTubeなんかに流して騒ぎになれば大人たちは屈服させられるということも知っているのだ。だから彼らは動画を拡散して相対化したルールを破壊した。今後この学校では咎められなければ何をしてもいいが、見つかったら怒られる。でもSNSで炎上すればルールそのものがどうでもよくなるという、新しい秩序のもとで運営されることになるだろう。別の言い方でいうと学校は無秩序状態になるだろう。

その背景にあるのは「校則などと言っているが、誰も納得させられる合理的な理由付けはできないし、先生たちもそんなものを信じていない」というニヒルな感覚だろう。そして炎上を引き起こした学生の向こうには、ルールには大した意味もないが面倒なのでとにかく従っておこうと考える人たちがいるのではないか。これが偏差値中位の「普通の日本人の感覚」なのだ。

この事件を防ぐためには都立高校から「ピアスなどせずに学生らしく振る舞う」という実行不可能な校則をなくしてしまうしかない。結果的に就職率は下がるかもしれないが、それはもう受け入れるしかないだろう。実行できないルールは組織を破壊する。

町田のケースはとても極端に見える。だが、彼らが荒れては見えるが偏差値的に中位である。つまり、社会のルールというのは形骸化していてずるく振る舞えば乗り越えて行けるのだという了解は意外と根深く存在するかもしれない。そう考えてくると安倍政権が支持される理由も見えてくる。誤魔化せるなら嘘をついても構わないという価値観はかなり広く浸透しているのだろう。

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村落主義的な日本はどうして海外からの移民を受け入れないのか?

ワイドショーで面白い話を聞いた。村八分裁判の話である。日本の村がどのような原理で統治されているのかということがよく分かる話だった。




退職後に憧れの田舎暮らしを始めたのだが、自治会から追い出され、ため池の水を止められてしまった。発達障害の息子は施設に戻らざるをえず、高いお金をかけて直した家にも住めなくなった。結局村を出て行かざるをえなくなったということだ。場所は大分県である。(朝日新聞

この件について解説している人の話が面白かった。日本の村落共同体が新参者を嫌う理由の一つとして入会地の権利があるのだという。入会地は村の共同財産だ。この入会地の存在は日本で公共という概念が成り立たない一つの重要な要素になっている。日本人はすでにある共通の財産を守るためには団結するが、新しく共通の財産を作ろうとは考えないのだ。

よそから人が入ってくることによってこの権利が「減る」と考える人が多いのだという。

もう一つが序列の崩壊である。よそから入ってきた人は、まず村の駐在さんなどに「誰の所に最初に挨拶に行くべきなのか」ということを聞かなければならないという。都会から入って行く人は「地域の人は全て敵である」と考えて気を使ったほうが良いというような話をしていた。これも序列が共通の財産のようになっているということを意味している。この序列秩序を侵されることを日本人は嫌うのだ。

このことから日本の村落共同体が基本的にゼロサムの世界を生きていることがわかる。誰かが入ってくるということは自分たちの取り分が減るということを意味する。さらに意思決定は村の複雑な人間関係によって成り立っているので、それが崩されると全てが破壊されてしまうのである。だからよそ者は排除されることになる。今回の裁判では実はこの序列に新参者が挑戦したことが諍いの原因になっている。

日本人の気持ちの中にはこの村落的な態度が染み付いていて、合理的な判断に優先する。例えば日本人が「年金や医療といった共有財産が侵されることなく自分たちを助けてくれる働き手が外から来てほしい」と望むのは極めて自然なことである。年金や健康保険などの共有財産は「入会地の権利」のようなもので、外から人が入ってくるということはそれが減ることを意味する。日本的なゼロサムの村落社会に生きている人には「よそから人が入ってくると損をする」というのは極めて自明なのである。だから移民ではなく「テンポラリの労働者を限定的に住まわせる」という政策が発明されてしまうのだ。

公共共有財産は自分たちが増やすことができるものなのだが、閉鎖的な村落コミュニティにおいては共有財産のイメージは「限られた」あるいは「減る可能性がある」ものだ。一番イメージしやすいのは田畑を潤す水源の水である。水源は限られているので、人が増えると水が枯れてしまう。漁村においても魚は限られており採り過ぎればなくなってしまう。意外とこういう農村・漁村的な考え方が今でも日本の意思決定に大きな影響を与えている。

日本人の多くが、個人が協力して作る「西洋的な公共」を想像できず、想像したとしても「伝説上の麒麟」しか思い浮かべられないということは明らかなのだが、日本人が「入会地」のような概念を理解できなくなっているという点も問題かもしれない。自分たちの政治的イメージに大きな影響を与えているのだが、それがどんなものなのかがわからなくなっているということになるからだ。これは日本人が自分たちの概念を言語化しないということと、近代化の際に「日本的なものは劣っている」として意識から消してしまったことが影響しているのではないかと思われる。

面白いなと思ったのは「日本人は序列と入会地にこだわる」ということを指摘している人が、地方ぐらし数十年というプロのよそ者であるという点だ。この人はいろいろな地域を転々としているので、田舎に特有の日本人性を客観視することができたのではないかと思われる。

もともとこの話は外から越してきた人が「自治会の運営のあり方(お金の使い方)」に異議を申し立てたところから始まっているようだ。入ってきてから10年も経っていない新参者がそんなことを言うのはおこがましいとなったらしい。西日本新聞に少し詳しい経緯が載っている。つまり原因は発言権という財産である。村には言語化された意思決定基準がなくその場の損得でやっていいことといけないことを解釈してきたのだろう。だからよそから「民主的な方法論」を持ち出されると、それに対抗できない上に、自分たちを丸ごと否定された気分になる。だから、水を抜いて村八分にしたのだろう。Twitterでよく見られるように異議申し立てをなかったことにしようとしたことになるのだが、つまり「異議をどう処理していいかわからないからとりあえず布団をかけてしめころそうとした」ことになる。

移民を連れてきて日本に住まわせると「まあまあなあなあ」で成り立っていた日本の意思決定システムは機能しなくなるだろう。これが薄々わかっている上に「自分たちの地位が相対的に低下する」と考えるから、日本人は外国籍の人に地方参政権を認めさせようとは思わないのだろう。だが、日本人の中にも異質な人たちは増えている。この「外形民主主義と村落主義のデュアルシステム」を再検討しない限り、日本はいかなる意思決定もできなくなってしまうはずだ。

日本の民主主義は「これを取り入れないと世界という村に入れてもらえないから」という理由で採用されているところがある。だから、経済を閉鎖してしまうとこれが村落的な状態に戻ってしまうのだろう。実際に、経済的に勝てなくなった日本では徐々に民主主義が失われ村落的な「古臭い自民党政治」が復活してきている。外から見ると何が行われているのかよくわからない上に説明もグダグダという「例のあれ」である。

とはいえ自民党の村人たちもこれを言語的には説明できないので、憲法という体系を使って政治を自分たちが理解できるところまで引き戻そうとしたのかもしれない。しかし、その結果生まれたのは単なるデタラメな憲法もどきである。

自民党の人たちが現実に即した憲法を作るとしたら「揉め事はその場その場で話し合って決めるが、誰がどの程度の影響力を持つかはその場のしきたりによって決める」というものになるはずだ。附則として「ただし俺のことは尊敬すること」ということになるのだろう。

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立憲民主党が支持を取り戻すにはどうしたらいいのかQuoraで聞いてみた

立憲民主党が支持を取り戻すのはどうしたらいいのかをQuoraで聞いてみた。安倍政権はひどいと思うのだが、それでも野党への支持は一向に集まらない。これは日本の危機だ!というわけである。ただし、立憲民主党としてしまうと限定されてしまうので「旧民主党系」とした。すると、意外な回答がいくつか戻ってきた。




そもそも、立憲民主党に何とかして欲しいのは「安倍政権が暴走してもらっては困るから」である。だから「当然政権をとって欲しい」と思っているわけだ。だが、Quoraの回答者たちは「抵抗勢力」を欲しているようなのである。つまり、政権が取れなくても構わないと思っているようなのだ。

日本人は議論による問題解決を望んでいないというのが、これまで政治について扱ってきた中での結論である。もともと二大政党制は表面的には「日本を良くする複数のアイディアをコンペしよう」というような考えで始まっていると思う。が、実際にはそんなことは起こっていないのだし、誰もそんなことは期待していないようである。日本人が暗黙の前提にしているのは、限界があり成長できないゼロサムな村落なので、自民党政権がいい思いをすると他の人が損をする。だから村人を好き勝手にさせない「邪魔をする」野党が求められているのである。

ところが、これだけだと議論は行き詰まる。今、野党は与党の邪魔をしているだけだが支持は集まっていないからである。政治に求めるものが他にあるのではないかと思った。いろいろ探してみてたどり着いた答えがある。

沖縄の問題でハンストをしている人に「なんだラマダン方式かよ」と揶揄する人がおり、それに「ラマダンの本質を知らない」とカウンターを返している人たちを見つけた。とても不毛な議論だが、考えてみればこの「突出している人を許せない」という気持ちや、それについて反発を覚えた人たちが表面的な知識で応戦するというのは実はよく見られる光景である。保守が僻んで言っているのはまあ仕方がないとして、カウンター側が「自分たちの意見も聞いてもらって当然」と言えないところにある種の屈折を感じる。日本人は社会承認を受けることを自らに禁止しているのではないかと思う。

たまたまPinterestで「夫が風邪を引いて寝込んだのを見るとイライラする」という記事を見つけた。画像は途中までしかなく、なぜそんなことでイライラするのかがわからなかったのでリンク先を読んでみた。

妻が腹をたてる理由は実にくだらない。夫が寝込んだら私に面倒をみてもらえるのに私は少々風邪を引いても我慢しなければならないということに腹を立てているようなのだ。ただ、その怒りは彼女の人間関係の本質になっている。くだらないからといって放置していいというわけではない怒りなのである。夫婦の解決策は「本当に思っていなくてもいいから思っていなくてもいいから大丈夫と言い合う」という対処療法的なものだった。

日本社会は「経済的に勝てなく」なっているので、無駄な労働がなくならない。そして無駄な労働は決して褒めてもらえない。結果主義の日本人は成果を伴わない労働を自らにも他人にも認めようとしないのである。だから、勝てなくなり成果を伴わない結果的に無駄な働きが増えて行くと「世間から放置されている」という気分になるのだろう。

群れで生きてゆく動物としてのヒトは無視を痛みとして感じる。科学的な研究も出ている。(無視は本当に痛い?)だが、人々はもう根本的な解決を諦めてしまっているのだろうと思う。もう家族であっても他の人のことを気にする余裕はなく、その状態も薄々わかっている。だから「思っていなくてもいいから」という言葉につながるのだろう。つまり、とりあえずお互いを叩くのをやめましょうということである。

誰もが報われないという痛みを抱える社会では、ハンストをする人たちが注目を集めてしまえば「彼らだけが世間的に評価されている」ということになってしまう。それは「本来は自分が注目されるべきだったのに」という痛みになるのだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話である。

同じようなことがNGT48の山口真帆さんの時にも起きた。「売名だろう」と簡単に切ってしまっている人がいた。これも自分だけ名前が売れるのは許せないという気持ちの表れになっているのではないかと思う。つまり「誰かが成功するのは許せない」という気持ちが国中に蔓延しており、誰かが注目されると彼らの痛みではなく「自分が注目されなかったこと」が思い出されてしまうのである。

そもそも野党支持者になっている人は「自民党政治で豊かになる人が増えるのは困る」と感じている人たちだ。実際に安倍晋三という嘘の政治家は人々の異議申し立てを無視し「あんな人呼ばわり」して日々人々の痛みを刺激し続けている。あれは痛みを感じている人をさらに叩いているのと同じなのである。だが、痛みに敏感な人は野党が政権与党に返り咲くことも好まないはずだ。多分野党は政権党になれば彼らのことは忘れてしまうだろう。自分が勝てないなら誰も勝たせてはならないという縮み思考があるわけである。

このブログではついつい話し合って問題解決をすべきだという西洋的な理屈で議論をしてしまう。だが、日本人はそのようなことは期待しておらず、俺だけが我慢させられるのは許せないから周りも同じように苦しめばいいと思っているのかもしれない。

これを防ぐ方法も実は簡単だ。つまり、誰かを貶すのではなく支持者たちを褒めて褒めて褒めまくればいいのである。下手したらポピュリズムに陥ってしまう手法なのだが、多分勝てなくなった日本に今一番足りないのは「社会的承認」なのだろう。

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コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

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山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

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日本人男性はなぜセクハラ発言をやめられないのか

Quoraでまた面白い経験をした。外国人女性に「大人っぽいね」と英語で言うにはどうしたらいいのか?というのである。年に触れるのはいけないのかといっているところからなんとなく歓迎されていないことはわかっているらしい。外国人=英語としているところから少し年配の人だなと思った。この歳の人たちにとって外国人というのはアメリカの白人のことである。




Quoraが面白いのは思考過程がわかるところだろう。これが結論だけをぶつけて平行線に陥ることが多いTwitterとの違いである。この場合「ある年代の日本人のおっさん」の典型的な思考がわかる。彼らは相場を作ってその中で競って勝ちたい。そして絶対的な善悪の基準がない。そして村の経験が世界で通用すると思っている。さらに主題ではなく人格に反応する。

これについて、対象化という話を書いた。対象化というのはwikipediaのobjectificationを勝手に和訳したものである。日本語のエントリーがないところからもわかるように、英語圏では一般的に使われるものの日本ではあまり馴染みがない概念だ。この言葉は特に男性が女性を性的な対象物として従属的にみなすことを非難する文脈で用いられることが多い。

だが、回答を書いている途中に、日本人のこの男性はこの「対象化」という概念を受け入れられないだろうなと思った。これがプリンシプル(原則)概念だからである。日本人には原理・原則を受け入れない人が多い。内心がなく善悪の基準を持たないからである。が、なぜ善悪の基準を持たないのかということはよくわからなかった。

日本人は自分たちが民主主義を理解していないと言われると腹をたてる。経験上は「外国の事例を知っているからといって上から目線で反発する」とか「原理原則にこだわるお堅い人だ」といわれることが多い。原則の問題は人格の問題に置き換えられ、人格攻撃が始まるのが日本の議論の特徴だ。今回も「少しシニカルすぎるのでは?」と言われた。

理解できないと言われるとそのことに反発心を覚えるが「何が共有できていないのか」について聞き返してくることはない。日本人は個人としての相手には興味がなく集団の相場観で動きたがる。そしてその相場観はその人の経験値に過ぎない。例えば、このブログには執拗に独白的なコメントを書いてくる人がいる。感覚としてはアフリカにいるキリンの話をしているのに、想像上の麒麟について書いてくるように聞こえる。

今回もいろいろな人が「大人っぽいななどと言わないほうがいいですよ」と書いているのだが、それは全然響いていないらしい。つまり聞いたことを自分の経験でフィルターして合わないものを落としてしまうのである。しまいには、ゴージャスとかセクシーとかも言ってはいけないのかと重ねてきた。プロフィールを見ると1981年に三井物産に入社してバブル期を経験しているらしい。ちょうどバブル崩壊期に30代前半だったというような人であり男女機会均等法(1985年成立/1986年施行)以前の入社でもある。「ああ、これはダメだな」と思った。

この時代の駐在員の人たちは現地コミュニティとかかわらず村を作っていたので、現地の状態をよく知らないまま海外を理解していると思い込んでいる人が多い。また、女性がお茶汲みと呼ばれていた時代の入社なので「職場の女の子」にちょっかいを出しても構わないと思っている人たちだ。

別に釣っているわけではないのだがついに「毎回ベッドに連れ込めているわけではないが」などと言い出した。つまり俺はうまいことやったと自慢したいのだ。「これはTwitterとかで炎上するやつだろう」と思ってしまうのだが、日本人男性を相手にしているという気安さから打ち明けてきたのかもしれない。この回答が全世界に向けて公開されているということをすっかり忘れているようだが、こういうメンタリティの人はTwitterでは珍しくない。

自分の実名を出した上でベッドに連れ込んだことがあるということをほのめかしてマウンティングしているというのはどういうことだろうかと思った。大学生が女性経験を比較しようと友達に話を持ちかけるようなメンタリティがある。お前はひどい目にあったのでは?と書かれたので「素敵な武勇伝をありがとう」と返しておいた。

日本ですら女性を上から目線で評価して釣り上げたなどということは社会的に容認されなくなりつつある。ただそれは原理原則なので「抜け穴があってうまいことやっている人は大勢いるはずだ」という意識が働くのだろう。ただ行動原理はそれだけでもなさそうだ。多分、勝手に相場観を作った上で「自分はそこよりちょっと抜け出ているから偉いのだ」と自慢しているのである。競争の意識が働いているのだと思った。

日本は偏差値別に編成された学校で学び、同じくらいの実力のある人たちがちょっとした差異で競い合うという社会である。こうした経験を数十年積み重ねてしまうと外の世界のルールがわからなくなり、善悪の基準が自分で判断できなくなる。そしてちょっとした違いの中で勝つことが自己実現につながるのである。普段こうしたことを進んで開陳してくる人は少ない。その意味で彼らの思考形式がわかるというのはとても面白い。

日本は女性の社会進出が進んでいないと言われるが、それはこういうおじさんたちが社会の中枢にいるからだろう。つまりダメと言われるとそれに挑戦したくなるのである。コメントには「愛があれば問題にならない」とも書いている。よくセクハラ・パワハラの報道などでこういうセリフを聞くことがある。相手が裁判を起こすほど怒っているのに「愛のある指導のつもりだった」というのが典型例だが、あれは言い逃れではなく本当にそう思っているのだなと思った。周りがカンカンに怒っているのにそれに気がつかず、自己愛と顕示欲を満たそうと自分の愛の定義を押し付けようとするのだ。

このおじさんは「女の子をモノにしたいがどこまでだったら言っても良いのかということを知りたがっている」ということだ。日本のように集団圧力の強い国では、おじさんたちが勝手に「ここまではOK」で「ここからはダメ」だろうと決めてそれを職場の女性に押し付けても構わない。例えばインターンの女性を押し倒しても官邸とつながっていれば無罪放免になる上に武勇伝として仲間に喜んでもらえるというそんな社会である。

こうした考え方が蔓延しているので、日本では西洋式の民主主義が成り立ちにくい。民主主義とか人権というルールは西洋では守るものだが、日本では挑戦して破るものなのである。そしてルールを守って不利益を被った人には「うまいことやらなかたお前が悪い」と指摘して競争意識を満たすのだ。西洋ではカンニングは絶対悪だが、日本人は「やってもいいカンニングがある」と思っていることになる。そして、あまり悪気がなくそれを素直に披瀝してしまう。

イギリスが住民投票で決めたEUからの離脱を「決まったことだから」として進めようとしている。日本人から見るとそれは馬鹿げている。空気を読んで解釈を変えればいいじゃないかと思うからだ。だが、それは原理原則を重んじる人から見ればカンニングでしかない。

日本でセクハラがなくならず女性の社会進出が進まないのは、バブル経済を知っている世代のおじさんたちがいるからなのかもしれない。彼らは強烈な成功体験を持っていて「それが今でもなんとか成り立つのでは?」と信じつづけているのだろう。彼らは「今の時代はもうそういう時代じゃないんですよ」と言っても全く聞く耳を持たず執拗に抜け道を聞きたがる。そして周りの人を呆れさせるか怒らせてしまうのである。

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辺野古基地問題の意外な広がりに驚く

辺野古の基地の問題が面白い展開を見せている。ハワイのロブ・カジワラ(ロバート梶原)という人がホワイトハウスに請願をかけたところで相が転移したようだ。軍事問題から環境問題に変わったのである。ついに世界的ロックバンドのブライアン・メイが署名を呼びかけるところまでゆき、これまでに20万人以上が応じているそうである。(東京新聞




この問題を日米同盟と中国の軍事的脅威の話だというフレームで見ている人から見ると「環境のような感傷的な問題にダウングレードするとは何事だ」と感じるかもしれない。また搾取される沖縄の象徴のように捉える人も「単なる環境問題」に落とし込むのは抵抗があるのではないだろうか。自分で書いた過去のエントリーを見ても「環境問題」としては捉えてこなかった。ところが後述するように環境問題というのは一定の地域ではかなりプライオリティの高い問題になりつつある。

安倍首相が絡んだ問題は、森友・加計学園問題も、韓国の哨戒機レーザー照射問題もこの辺野古の問題(沖縄タイムス)もすべて「言った言わない」の泥沼になってしまう。対人関係に誠意が感じられず後先考えない発言が多いからなのだろうが、リーダーとしての資質を著しく欠いている。相手の期待や価値観を踏みにじるという共通点があり触れた問題すべての感情的なしこりが残る。今回は沖縄と本土という対立に加えて、環境対開発という別の感情にまで触れてしまったことになる。これまでは国内問題だったが、最近では海外に延焼する事例もでてきている。この辺野古の問題と一年以上続くカルロスゴーン裁判は海外の高い関心を呼ぶだろうし、現在の日本政府は海外のレピュテーション管理は苦手である。

いずれにせよ、いったんフレームが切り替わると伝達速度が変わってしまう。まず海外セレブをお手本にした活動を行っているローラさんが賛同し、今回ブライアン・メイさんも賛同した。イギリス出身の元教師であり、天文学の博士号を持った動物愛護家ということなので、環境問題にも造詣が深そうである。

どうやら我々が考える政治的な問題は「異なるステークスホルダー間の対立(利害関係)」と「みんなの環境・人権問題」の二つに分かれてきているようだ。そして、環境や人権の問題は「みんなにとって大切な問題」であり、このエリアに限っていえばセレブは積極的に影響力を行使するべきだということになってきているのだろう。政治問題と言っても一緒くたにはできないし、利害対立を環境問題に変えると広がりが大きくなる。

日本人からみると取るに足らないと思える環境問題は意外に深刻な問題に発展しかねない。例えばカリフォルニアでは新しい対立が起きている。経済的に恵まれている海岸沿いの人たちは環境問題に敏感だ。経済的に少し不利になっても環境を守りたいと考えている。一方、企業誘致が難しくなり税金も高くなることに反対の人たちもいる。このため、カリフォルニアを分割する運動やアメリカから分離する運動などに発展しているのだそうだ。(Wedge)東西対立がなくなった今、環境は大きな政治課題なのである。

当初この署名活動を見た時には「日本政府を飛び越えてアメリカに話を持っていっても仕方がないのでは?」などと思っていたのだが、予想外に健闘していると思う。タイミングとしても美しいサンゴ礁の海がブルドーザーで汚されるというわかりやすい写真の方が安倍首相の嘘よりも伝わりやすかったのかもしれない。

問題は相手にぶつけてみるまではどんな反響があるかわからない。また、相手に響く文法は相手に聞いてみないとわからない。沖縄県知事たちがアメリカを訪れて地道に訴えてきても広がらなかった運動が別の視点から広がり始めたということの持つ意味は大きい。我々は、村の中でいろいろ言い合っていても外に伝わらなければ意味がないということに気がつくべきなのかもしれない。

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テレビ局があなたの視聴データを盗む?

テレビ局が取得している番組視聴のデータを共有するとしてニュースになっている。IPデータ単位で誰が何を見ているのかということがわかるようになるということで「視聴者行動の覗き見」になるのではとTwitterで少し話題になった。(共同通信社




この件について眺めているとなぜ日本がIT技術に乗り遅れたのかということがわかる。理解が曖昧なままでわかったふりをしているうちにどんどん時代に乗り遅れてしまっているのだ。多分共同通信社の人も発表したテレビ局の人も自分たちが何を言っているのか、また何がしたいのかがわかっていないと思う。だからどこがダメなのかも当然わからないのだ。

このニュースの最初の「一部の」というところがあいまいだったので調べてみた。試しにデータ放送のメニューを探してみた。テレビ朝日とフジテレビはすぐに「ログ送信の中止」というメニューが見つかった。わかりにくかったのは日本テレビだ。ログインというわかりにくい項目の所にログ送信の中止メニューが隠れている。どうやらこの3局は視聴データを集めているらしい。

一方、テレビ東京とTBSではログ送信中止のメニューが見つけられなかった。テレビ東京には項目そのものがなく、TBSはログを収集することがあり警察などには提出することもありうるがプライバシーには配慮しますというようなことが書かれていて、一瞬たじろいだ。

共同通信社の記事にはどの放送局がデータを集めているのかを書いていない。だから、ログ送信の中止というメニューがわかりにくいところに隠されている(あるいは存在しない)のかログをとっていないからメニューそのものがないのかがわからないのである。特にTBSは報道ではリベラルさを唄っている放送局なので、もし勝手にログを取っていて中止操作もできないのならボイコットしろなどと書きたくなってしまう。だが、実際に視聴のログをとっているのかがわからない。画面をよく読むと「データ放送のアクセスログ」と書いており、視聴データを取っているとは書かれていない。

よく考えてみると、一部のテレビ局の一部の端末から番組視聴データが取れたとしても、それが何かの役に立つとは思えない。統計を問題解決に生かそうと考えれば、データ収集設計からはじめなければならない。「ここにデータがあるから持ち寄って何か使えないか調べてみましょう」というようなことはできないのである。依頼された方も困るはずだ。

Twitterでよく安倍政権の支持率調査が行われているが、ネトウヨの統計では安倍首相が熱烈的に支持され、パヨクの統計では安倍首相はすぐにでも退陣しなければならない。これは統計に応じた人たちにバイアスがかかっているからで、実際の支持率がどうなっているのかはよくわからない。仮にフジテレビを見ていたIPアドレスが日本テレビに移ったとして、そのIPアドレスが同一人物かはわからない(テレビが2つあったら別のテレビかもしれない)し誕生日などのデータもあったりなかったりするはずである。

一方、Googleは個人単位の情報が欲しいので「セキュリティの高いメールアドレスを無料で配る」という利便性を供与する(当然費用もかかっている)ことで情報を買っている。これは彼らがインターネットはIPアドレス単位の情報しか補足できず、そのままでは行動解析には役に立たないということを知っているからである。テレビ局はこの「IPアドレス単位のデータは役に立たない」ということが理解できない。多分、IPアドレスとアカウントの違いもわからないかもしれない。

日本の「偉い人たち」がIT技術についてよくわかっていないということは驚くには当たらない。しかし、実際には統計についてもちゃんと理解していないことがわかる。にもかかわらずわかったように発表してわかったように書いて、モヤモヤ感だけが残るような記事ができてしまうのである。

こうしたことが起こるのは彼らが自分たちが作ったのではない既得権益によって守られているからだろう。データが取れるらしいしGoogleなんかはそれで大儲けしているわけだから「自分たちもリスクを取らないで儲けられるのでは?」などと思ってしまうのだろう。テレビ局は成功した村なのだが、成功しているが故に徐々に時代から取り残されつつあるのかもしれない。

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もう日本人が戻れる村はなく、かといって夢想している正解も存在しない

今回は、韓国人が序列を気にしておりそれに逆らおうと「文句を言い続けているのでは」という仮説を書いた。そして、どうやら日本人も「集団の空気」を気にしており、空気と不整合があると苦痛を感じるようだ。




日本人も韓国人もこうした不整合からくる居心地の悪さを自覚していないようだ。こうした不整合を背景にした議論は人々に苦痛をもたらし出口がない。問題解決を目的としているはずの政治的議論が苦痛になるのは、そもそも人々が何を求めているのかがわかっていないからではないだろうか。

そんなことを考えてどうするのだろうという人がいるかもしれない。実際にTwitterでメンション付きで「コミュニケーションの裏側について分析してどんな意味があるのだろうか」というつぶやきを見つけた。確かに背景を分析しても問題は解決できない。が、そもそも我々は問題解決という入り口にまだ立っていないのではないだろうかと考えることでようやく前に進むことができる。解決策が見つけ出せるようになるのはその先である。

ここで重要なのは、私たちが「村全体が一つになっていて自分たちがその正義と同一化している状態」に居心地良さを見つけるということである。ところが民主主義社会において「みんなの意見が完全に一致すること」などありえない。常に意見の相違が存在する上に、二大政党制だと常に半数近い人が「正義の側ではない」可能性がある。かつてそのような村があったのかという疑問もあるのだが「もう村はないのだから後戻りはできないのではないか」という問いかけが生まれる。

いずれにせよ、もう村がないのに村の一体感を求めるという欲求は様々な問題を引き起こしている。Twitter上では常に「負けている方の半分」が文句を言っている。2009年頃には公共工事がすべて悪だとされていたので、自民党支持者の人たちは居心地の悪さを感じていた。彼らは常に攻撃的で「なぜ公共工事には良いものがあるのか」という説得力のないことを言い続けていた。そして、現在では民主党を支持していた人たちが自民党政治について文句を言い続けている。こちらは民主主義の理想が実現せず、安倍首相が戦争に向かっていると主張する。

立憲野党支持者と呼ばれる人たちはうすうす自分たちの言っていることには根拠も説得力もないということに気がついているはずである。せいぜい小沢一郎のとっくに終わった政治闘争二利用されるか、共産党の活動に使われるだけであることもわかっているのではないだろうか。しかしそれでも彼らは闘争をやめられない。

日本の場合、こうした屈折した感情は大きなものに結びつくという特徴もあるようだ。世界平和、民主主義、二千六百年の日本の伝統、家族の価値観というような「ありもしない」ものが、当然実現されるべきものだと誤認されてしまうのである。経験上それは避けられないことだと思うのだが、大きな用語を使いたくなったら少し用心してみなければならない。

家族の価値観とは家族同士が「大切にしよう」と思うから維持されるものであって、家族制度を復活させ父親である家長に大きな権限を与えたからといって実現できるものでもない。同じように日本人が自分たちで戦争を防いで行こうと思わなければ憲法第9条には何の意味もない。だが大きなものに陶酔すると日々のこうした努力が何かくだらないことのように思えてくる。

東京大学を出て家庭教師もやっていた「優秀な」平沢勝栄議員も家族がどのようにして維持されててきたのかということについて考えない。東大の教育が正解を教えることに特化しており自分の頭で考える術を与えてこなかったことを、あのLGBT発言はよく表している。彼らは単に「自分が知っている正解ではないから目の前から消したい」と感じているだけなのであり戦後教育の悲しい暴走とも言える。

我々はもう失われてしまった村をいつまでも懐かしく思い、ありもしない正解を捏造してそれに固執している。それが様々な苦しみや軋轢を生んでいるのではないかと思える。ただ、そこから脱却するのかそれともそこに止まるのかは個人の自由である。少なくとも、立ち止まらずに相手を非難し続けることには商品的な価値があり、街の本屋にはそうした類の本が溢れている。少なくとも喉の痛みや鼻水を抑える風邪薬のような効能はあり全く無駄とも言えないのである。

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LGBTばかりになると国は潰れるのか

平沢勝栄議員が「LGBTばかりになったら国は潰れる」と発言してニュース(毎日新聞)になっている。このニュースについて平沢議員を批判する立場から考えて行きたい。




第一にこの「ニュース」には怪しい香りがする。今後、議論が予想されると書いてあるところから「この毒にも薬にもならない議論で遊んでいてね」という含みを感じてしまう。本人は差別するつもりはないと言っており頭の悪さを感じる。自分が何を言っているのかわからないなら今後一切講演活動はしないほうがいいと思う。

第一にLGBTの割合は流行によって決まるようなものではない。だから社会がそれを容認したからといって数が増えたり減ったりすることは考えにくい。同性愛者は子供の時から「同性が好きかもしれない」と思うわけだし、異性愛者は放っておいても女性を追いかけるようになる。だから国家がLGBTを認めたからといってLGBTブームが起きてその結果みんなが同性愛者になるとは思えないのである。平沢さんは曖昧な情報をもとに話をしている。これは自分が「同性が好きだ」と感じた人たちにとって有害だ。社会に手本がない中アイデンティティを構築して行くことになるのだから、できるだけ「正しい知識」が必要なのである。特に自分は間違った性の認識を持っていると感じると自殺に行き着いたりすることもあるようなので、これは命の問題なのである。(一橋大学アウティング事件:Wikipedia

次の観点は多様性の容認だ。多様な空間には多様な人たちが集まる。だから同性愛者を容認したほうが社会が栄えるという研究がある。ただしこれは厳密には同性愛を容認しろという話ではない。同性愛者を社会の一員として認めるというのは他の多様性を認めるということである。いわば社会が開かれているというシグナルなのだ。こうした論調はすでに2000年代に語られている。クリエイティブ・クラスの世紀では、知的労働者は多様性を容認する都市に惹きつけられるというような主張がされている。異質な人たちの中には同性愛者だけではなく外国人労働者なども含まれる。だから渋谷区はその意味では先進地域なのである。

ところが日本全体では外国人労働者を社会の一員として認めるという機運もない。こうした社会がそもそも同性婚を認めるとは思えないし、多様な才能を受け入れることも、新しいアイディアを応援することもないだろう。だから、日本では魅力的なベンチャービジネスが生まれず、知的労働者は日本を目指さない。LGBTを認めることは多様性を認めることであり、多様性を認めるということは新しい可能性を認めるということなのであるが、平沢さんは「そういうのはよくわからないから考えたくない」と言っている。これはコンクリートに固執する自民党全体に言えることなのだろうが、自民党政権下の日本が成長しないのは、新しいアイディアを受け入れないからである。自民党政権が成長戦略に掲げるのは原発の輸出だが、原発はかなり旧世代型の技術であり、実はコンクリートの塊なので単純作業の多い公共事業型の建築と相性が良いのである。彼らは新しい価値観を受け入れないので、新しいアイディアもまた彼らをすり抜けて行くのである。

ここまではよく言われている話である。が、三番目はあまり語られていないのではないかと思う。自民党はとにかく考えることを面倒臭がるので「昔みたいなサザエさんの世界に戻せば問題は消えてなくなるんじゃないか」と思う人が多いようだ。ついでに自分たちが威張るために教育勅語を復活させようと考える人も多い。

ところがその家族自体がなくなってしまうかもしれないという衝撃の調査報告がある。マスオさんが見合い結婚したもののサザエさんに指一本触れないのでタラちゃんが生まれないという世界である。

日本では実は同性愛とは関係なく異性愛の方が危機に瀕している。相模ゴム工業が調査した結果、20歳代の童貞率が40%を超えたそうだ。若者のコンドーム離れという笑えない話があり、その基礎調査になっているのだろう。今回引用したリンク先には、男性が告白すると「SNSでさらされる」という話が紹介されている。恋愛どころか告白ですらリスクなのだから、結婚まで至るのはかなり難しそうである。

しかし、この調査はサンプル数が少ないので「何かの間違いかもしれない」と思う人も多いだろう。確かに確かめようがない。

去年から今年の初めまでの歌番組を見ていて面白いことに気がついた。女性が応援するジャニーズのアイドルは王子様的でありどこか中性的である。ところがこれがアニメになると男性らしさが前面に出てくる。2.5次元という新しいジャンルがあるらしく、キャラをかぶせると安心して「男性らしさ」が打ち出せるわけである。

これがどうしてなのかということに答えられる人は誰もいないのだろうが、男性らしさもある種のリスクになっている可能性があると思う。女性の社会進出が遅れている日本で女性が男性らしさを認めることは支配されることを容認することになってしまう。女性だけで子供を育てることも難しく女性のひとり親=貧困という現実もある。つまり、現実世界の男らしさはリスクでしかないのである。

この説明だと女性だけが男性らしさを忌避しているように思えるのだが同じことが女性アイドルにも起きている。アニメの声優がキャラクターとシンクロしているものが最新の流行らしい。もともとアイドルをヘタウマにしたのがAKB48だと思うのだが、高齢になるに従ってなまめかしさがでてきてしまった。端的に言えば指原莉乃は美人になりすぎた。そこで、年をとらないキャラクターが好まれるようになったのではないかと思う。

小林よしのりは「恋愛禁止」がAKB48を崇拝する理由だったと言っている。普通に考えると、一人に占有されずに「みんなの恋愛対象だから」アイドルとして成立しているのだと解釈したくなるが、恋愛がリスクだと考えると「トイレに行ったり恋愛したりする」ものはアイドルとしてふさわしくないと考える人がいたのかもしれないと思えてくる。

男女ともに肉体関係に踏み込んでこないものをアイドルとして消費している。男性と女性をくっつけておけばやがて子供が生まれたという昔とは違ってきている可能性があるのだが、なぜそうなったのが全くわからない。しかし一つだけ確かなのは波平さんは岩田屋での見合いまでは面倒を見られても夫婦の夜の生活までは指導できないということだ。

これは国家の危機だと言える。エンターティンメントはこの傾向をいち早く補足して新しいアイドル像を打ち出す。だが、ほのぼのとした年末の紅白歌合戦を見て「社会の危機だ」などと思う人はいないだろう。

その意味で、平沢勝栄議員はLGBTではなく紅白歌合戦について苦言を程すべきだった。韓流グループとLDH(EXILE系)を増やして男性らしさを流行らせるべきだったということになる。

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