スウェードの革靴の色落ちを修復する

なぜか政治系ブログに共存している生活ブログです。今回は色落ちしたスウェードの靴の色を補修します。

準備したのはなぜか片方だけ色落ちしたスウェードの靴です。

準備したのは片方だけ色落ちしたスウェード靴です。水濡れに弱いことはわかっているのに靴箱が外にしかなく片方だけ濡れ続けたせいだと思われます。これは悲しい。で、ABCに行ってきたんですが「今のスウェードは色落ちを防げず、色落ちしたら新しいのを買うしかない」と力説されました。靴が売りたいからだと思うんですがいい加減なことを言いますよね。

で、東急ハンズに行ったらなんと二つの製品をオススメされました。「靴屋にはそんな品物はないといわれたのに東急ハンズって品揃えすごいですね」というと、静かな顔で「東急ハンズではこれが当たり前ですから」と言われました。渋いです。で購入したのがコロンブスの補色ミストダークブルーです。価格は1000円とちょっと高めかなと思います。

このスプレーのいいところはガス式ではないところ。ローズヒップが入っているということでほのかにいい香りがします。新聞紙がうっすらと青くなっていることから色がついていることがわかります。

1日置いたもの。奥が補色したものです。

一晩置いてみました。肉眼で見ると違いがわかるのですが、遠目からはわからないくらいには改善できました。ちなみに色落ちしていないところも局所的に白くなっているところがあり、それも補修できます。

スウェードの靴が痛むのが怖くてあまり使えないという人もいると思うのですが、こういう補修のやり方を知っているともう少し稼働が増えるかもしれません。まだ履けるのに色落ちしてしまったからといって捨てるのはもったいないです。こういうやり方で補修してみてはいかがでしょうか。

建前と本音の分離すらできなくなった日本の議会制民主主義の混乱




アメリカでハワード・シュルツが炎上している。独立系候補として大統領選挙に出ようとしたことが反発されているようだ。

アメリカは民主党と共和党の中でコンテストを行い、最後「ガチンコ勝負」で最終決戦をすることになっている「二大政党制」の国である。キモになっているのは衆人環視の中で戦うということである。つまり、裏ネゴができない国なのだ。

イギリスも同じようなところがある。議院内閣制なので大統領選挙はないが庶民院は単純小選挙区制なのだそうだ。最近では選択肢がないということで比例代表制が必要だという人もいるようだが、これはイギリスでは難しいのではないかと思う。

イギリスは(国政レベルでは)まずマニフェストを決めてその良し悪しを2つ絞って良し悪しを決めさせるという制度になっている。そしてこの約束には極めて強い拘束力があるようだ。例えばリファレンダムで「EUから離脱したい」と決まったら、とにかくその結論は大切にして条件交渉をし、その条件交渉が決裂したら「とにかく決められた通りにEUを離脱する」という流れになりそうである。一旦決めたらやるのがイギリスなのだ。

アメリカの事例だけを見ていると、アングロサクソン系は裏ネゴができないのではなくしないだけなのでは?と思えるのだが、イギリスは本当に土壇場の当事者間調整ができないらしい。

Newsweekによるとイギリス議会はEU離脱議論では膠着状態に陥っており、このまま2019年3月29日にハードブレグジットやむなしという状態になっているようだ。ブレグジットはこのまま突き進めばかなりの不都合が予測される。確かにリファレンダムの結果はあるが、それが通らないとなれば当事者間でまあまあなあなあにしてもよさそうである。でもイギリスはそれができない。議会が一向にまとまらないのである。

ここから次のようなことがわかる。

  • イギリスは表の契約を重要視し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は、あとで不都合がわかっても遵守される。
  • 個人の決定が重要視されるので、政党執行部主導によるインターナルな議論(裏ネゴ)がまとまらないことがある。
  • アメリカまで含めると、候補を二つに絞って民意を問うのが一般的。選択肢を多様にしすぎると民意が割れて最終的に割れなかった人たちが票を総取りすることがある。するとまとまれなかった多数派が不満を持ち社会が不安定化する。

同じように「個人主義」と見なされがちなドイツでは違った方法が取られる。ドイツは表だった契約で選挙が行われるが、そのあとで連立交渉が行われる。ここで政策の妥協が起こるのだが妥協の結果は公表されている。つまり、イギリスのようにいったん結論を決めたらそのまま突っ走るというようなことはせずに「結論を決める枠組みの交渉」に時間をかけるのだ。アングロサクソン式とは逆になっている。ロイターによると妥協はポストの配分で決まるようだ。BBCによると、どうしても納得できないことがあると、連立離脱を行うとのことである。

  • ドイツも契約を重要し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は大枠を決めるだけで、細かい点については妥協と調整が行われる。この妥協も公表される。
  • 表の約束が維持できなくなると、再び選挙が行われる。
  • 有権者は多数の候補の中から自分にふさわしい人たちを選ぶ。

ここから現代の日本について考えてみたい。自分たちの国なので細かいところが目に入ってしまうのだが、割り切って丸めてしまいたい。日本は表向きの約束(マニフェスト)と裏の調整(利権配分)を分けて考える傾向にある。また、多数派が利権配分権を握ってしまい少数派が排除される。すると少数派は意思決定に携わる意味を失ってしまうので、意思決定の妨害を始める。このため本質的にアイディアのコンテストができない。

  • 日本は契約を重視せず、表の議論と裏の議論を分ける。
  • 表向きの議論は意思決定の正当化のためのキレイゴトという役割を持ち、受け手もそれがわかっており、裏の利害交渉とは明確に区分される。
  • 裏の議論はかなり緻密に行われる。
  • 裏側では長期的関係性を配慮した妥協が起こるが、違いが表面化すると妥協ができなくなり、膠着状況に陥る。
  • 個人の意思決定は重要視されず、個人は組織の損得(組織としての裏の決定)に支配される。
  • 有権者は自分属する集団の利益に基づいて判断し、表の議論を信用しない。日本人は利益集団以外の公共や社会を信じないし、内心がないので公共の名の下にまとまることはできない。

もちろん、利益共同体が崩れてゆくに従って日本にも社会を作るべきだという機運はあった。そこで、日本にも表向きの約束事に沿った選挙をしようという動きにつながってゆく。それがマニフェスト(コトバンク)である。

しかし実際には有権者は「絵空事である公共」のマニフェストを読まず、民主党の藤井裕久氏も「どうにもならなければごめんなさいといえばいいじゃないか」と吐き棄てた。大蔵省出身の官僚であった藤井は選挙の約束など単なる飾りごとであり実質的な意味はないと考えたのだろう。確かにそうなのかもしれないが、それは言うべきではなかった。

もともと、日本人は表向きの約束を信用しなかったが、かといってそれを無意味だと思っていたわけではなかった。すくなくともリチュアルな意味合いはあった。しかし、あからさまな約束破りが起き、野田佳彦が「結局消費税しかない」と言ったことで儀式的な神聖さもなくなった。その時にはわからなかったが、この6年で劣化はさらに進んだ。

なんでも言っていいなら何を言っても良いということになり、マニフェストは壮大な願望リストになった。そればかりかその願望リストに現実を合わせるようにさまざまな嘘が強要され、あるいは自発的に嘘をつく官僚まで出てきて現在に至っている。

今、国会で安倍首相が「日米関係は私とトランプ大統領の個人的な信頼関係に基づき未だかつてなく強固なものになった」と読み上げている。これに合わせた形で様々な官僚のステートメントが書かれ、現実の不具合は全て語れなくなってしまった。また、北方領土という言葉は使わないとロシアに内密に約束してしまったため、国会で安倍首相はそれが言えなくなっている。このように表向きの言葉が利害調整を阻害し、利害調整のための言葉が表の言葉を縛る。そしてその証明のしようのない嘘を「嘘だ嘘だ」と騒ぎ立てる野党が国会の時間を限りなく浪費しているという具合である。

このようにして、表の議論が裏を縛り裏の議論が表を縛るということが起きている。我々は本音と建前の分離を旧弊でアジア的な後進性だと思っていたわけだが、欧米式の「進んだ」国家統治方法を取り入れられるわけでもなく、かつての「旧弊な」組織運営すらできなくなりつつあるのである。

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日本人には内心がない

このところ「日本人には内心がない」という話を書いている。後述するように内心という概念を入れると厚生労働省の不正の問題の議論は簡単に整理ができる。だが、みなが功利によって動いているので、国会運営は部外者から見ても見ても大混乱している。だが、日本には内心という言葉がないので、議論が混乱していることにすら気がつく人は多くない。




「内心」についてもうちょっといい用語がないかなとは思うのだが、思い当たらないので具体的なことを説明することにした。

小学校か中学校かの英語の授業で先生が怒っていた。英語のテストでRとLを混ぜて書いてきた人がいるのだという。何の単語かは忘れたがrabbitとlabbitみたいに書いた人がいるのだろう。最初は何を怒っているのかよくわからなかった。先生の説明するところによると、テストは自分の理解力を計測するものであってスコアを競うものではないのだから、自分が「信じているもの」を書くべきだというのだ。この先生は英語圏のシスターだった。

この「自分が何を信じている何かに基づいて行動する」というのは英語圏の人たちによくある指向性である。英語はこれをfaithと表現することが多い。だが、このfaithには日本語の適当な訳語がない。辞書には複数の訳語が載っている。ラテン語由来なのだそうだが「相手への信頼」と「自分への忠実さ」という意味を合わせて持った概念である。

6年+3年はこれが当たり前だと思っていたのだが、県立高校に入ってそうではないということに気がついた。日本の教育だとテストでは「より良い点数を取ること」が目的になる。だから「わからなければ保険をかけておいてRとL」を混ぜこむということは容認されるのではないかと思う。日本人は「個人の内心の忠実さや正直さ」はあまり重要視されず、したがって相手が「自分らしくあること」も許容しない。代わりに求められるのは「結果を出すこと」であり、それがチームの結果だとなお賞賛される。

ここに、いつも戦争反対を唱えており、授業で白土三平を勧めてきた現代社会がいた。しかし、彼の頭の中にもfaithはない。そこで「憲法では保証されている」とか「欧米の進んだ国ではそうなのだ」というように外の権威を持ってきて民主主義の正当性を説明することになる。今にして思えば「日教組的な」思考だと思うのだが、自己の選択を肯定するにおいても外側にある権威を持ってこないと語れないのが日本人なのだ。

しばらくはこれは特殊な経験なのだと思っていた。カトリックのミッションスクールと世間は違うはずだからである。が後になって、これが英語圏で一般的な思考なんだなと思うことがあった。

英語で受けたの倫理の授業で、doing things right と do the right thingの違いを話あった。経営の世界にはまず「物事をきちんとやる」というマネージメントの「doing thing right」があったが、やがてビジョンを持ったリーダーという概念が生まれる。マネジメントとリーダーシップの違いについては日本語でも解説記事が出ている。

英語だとこの二つについて議論が成り立つ。人によって理解は様々である。もちろん、どちらが正しいというわけではなく解釈も人それぞれのようだが、これは「何をすべきか」という内心がないと成り立たない議論だろう。マネジメントの文脈ではこの後「何をすべきかという倫理観がなければ組織運営は成り立たないが、それは暴走することがある」という話や「社会正義はときにコンフリクトする」という話が出てくる。このレベルになると、心理学や哲学の知識が必要になる。さらに、エンロン事件の反省から企業の社会責任(コンプライアンス)への理解が強化されて現在のような倫理学体系ができている。

ただ、日本にはこうした議論がない。そこでコンテクストを隠して質問をするとこのような「議論」になる。

3名の回答者のうちドラッカーを読んだことがあるがうろ覚えだった人は「英語の訳し方が間違っている」とコメントで批判してきた。ここから日本人のネトウヨがどのように誕生したのかが見えたように思えた。西洋にある民主主義の正解がわからない人がその恥ずかしさを隠しすために始めた議論がネトウヨ議論だと思うのだが「正解がわからない」というのは日本人にとっては絶対に隠しておかなければならない秘密なのだろう。そこで知っていて理解ができる「事実」を並べ立てて対抗するのである。

もう一人はちょっと深刻なのかなと思った。彼はキリスト教の牧師である。faithを信仰としてくくってしまってもなんら問題はないと思うのだが、日本人は個人の正義はわがままだと捉える。だからこの人はマイケル・サンデル(とNHK)という正解を持ち出して、正義感を整理する方法について語り始めた。日本人は個人の正義は社会という装置に通さないと「わがまま」担ってしまうと考えるのだろう。そして、必ずしもfaithという概念がキリスト教由来ではないことがわかる。これは多分極めて欧米的な考え方なのである。

「日本人に内心がない」といった時、それは空想上の麒麟や哲学上の難しい概念を扱っているわけではない。だが、個人の信条を単なるわがままと考える日本人にははこの内心を語ることはできない。日本人は集団なしには個人が成立しないと考える国なのだ。

例えば統計の議論は次のように整理できる。そもそも統計をきちんと取るという「doing things right」があった。そして統計の職員は個人の倫理観を頼りに「正しく」ことに当たるべきであった。そしてガバメントはその「正しくことをなす」人を応援すべきだ。ところが、規則に沿って正しく統計を取っていてもその規則が「正しく」設計されていないと全体としては機能しないし、結果は「正しく」解釈されるべきである。これはマネージャーではなくリーダーの仕事になる。これが「doing right things」になる。そして有権者は「自分たちの信条や心情」を反映した政治家を「できるだけ正確に」見極める必要がある。

この議論があってはじめて「ではその正しさ」は絶対に揺るぎのないものなのかという議論が生まれ、その先にマイケル・サンデルのような「正義には幾つかの組み立て方がありそれはコンフリクトすることもある」という議論が出てくる。だが、これはもともと「正しいことをなすべきだ」という最初の動機があって生まれる議論である。日本にはこの「個人の信条や心情」がないので、議論がそこから先に進めないのである。

この統計の問題から日本社会の劣化を語ることもできる。もともと戦前の日本の統計は恣意的でデタラメなものだった。経営でも統計の重要さを認識した人はいなかった。最近語られるようになった吉田茂がアメリカの指摘により統計を見直したという話(日経新聞)とデミング博士の指摘により統計に基づいた経営が行われるようになったという話はリンクしている。つまり、日本は「きちんと測る」ことを覚えたことで高度経済成長が可能になったのだ。

しかし、日本はこの後に入ってきた「ビジョナリー」という経営哲学を学ばなかった。1980年代・1990年代といえば日本の経営が世界からうらやましがられていた時代であり、多くの人が「もう欧米から学ぶことはない」と考えていたのである。だが、この慢心から劣化が始まり、個人の信条を基に正しいことをなすということができなくなり、やがて結果も出せなくなる。

すると、結果として戦後に体得した「正しい統計を出す」ということすらできなくなりつつある。つまり、doing right thingsができなくなった先にあったのはdoing things rightの喪失だったのだ。

この内心のなさは普段はそれほど問題にならない。すでに見てきたように、問題になるのは結果的に勝てなくなった時である。全ては結果によって正当化されるのだから、結果が正当化されないと行動がすべて正当化されなくなってしまう。正解がわからなくなるとどうしていいかわからなくなるので、なかったことにしたり、泣き叫んだりということが起こる。

そして、国会で起きている選挙をめぐる争いは「内心」のなさから泥沼化しつつある。

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DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

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子供に最初に教えるべきは大人は絶対に信じてはダメということなのでは?

野田市で小学校4年生の子供が殺された。手にかけたのは父親だそうで、世も末という感じがする。




この事件を巡っていろいろな「議論」が起こっているのだが、認知不協和をなだめるのが目的になっていて、子供の保護には役に立っていない。Twitterでは各所から「お金が足りない」という悲鳴が聞こえてくる。児童相談所も人員不足らしいし、弁護士も互助的な仕組みでセイフティネットをまかなっているそうだ。みんな一生件目にやっているのだろうが、この件で子供に最初に教えるべきなのは大人は絶対に信じてはダメということだと思った。

経緯はWebRonzaで途中まで読むことができる。子供が必死に助けを求めたのに、大人が自己保身のために親に全て話してしまったという事件である。中心になって子供の保護をするコーディネータのような人がいないという問題がある。法律が組織に紐付いているので、やることがどうしても縦割りになるうえに大人は組織の保全しか考えない。朝日新聞によると小学校に至っては問題が大きくなるのを恐れて父親に校長名の念書まで出したそうだ。

検証作業も始まっているがこれが事件の再発防止につながることは絶対にありえない。記事を集めて読めば、この事件を防ぐためには関係者が集まって「もし〜が起きたら」という未来を予想して対策をとることができる組織を改めて作り直す必要があることがわかる。だが、実際に起こっているのは「過去に起きて確定したことの是非を判断して担当者を処罰する」行為だ。正解蓄積型の日本社会は個人に権限を与えて可能性に対処する組織は絶対に作れないのだ。

このように、認知的不協和を癒すためのジャーナリズムと、他罰的な後評価と、組織保全と自身の安全しか眼中にない大人しかいない状態で、組織的な「弱者保護」が起こるなど信用できない。

そんな中で弱者を守ってくれるのは人々の他罰意識だけである。大声て指差して「この人を罰せよ」ということだけが世間を動かすのだ。世の中には他人を罰したい人が溢れていて、中にはお金を払ってまでそういう読み物を読みたがる人もいる。

最近では広河隆一というフォトジャーナリストのセクハラについての読み物(文春オンライン)が良く流れてくる。このリンクも有料記事につながっているのだが、金儲けでないと世の中は良くならない。内心のない国では善意や社会正義は自己保身に走る人たちを飾り立てるファッション以上の意味はないからだ。。

しかし弱者の側も負けてはいない。彼らにも内心はないので結果的に自分たちの他罰感情が満たせるならなんでもやってしまう。こうした中でSNSや商業史を使った「一発逆転」を狙うことが多くなっている。実際に組織に守られており外面の良い人ほどこの一発逆転の見世物が面白いことになる。

最近、これで明石市長が辞職に追い込まれた。ハフィントンポストによると会見はAbemaニュースが独占したそうだ。これも2017年の出来事なので「最も効果的な選挙前」の時期を虎視眈々と狙っていたのだろう。いつ出すかも作戦の重要な一部ということで、悪意を感じる。だが、悪意意外に問題が解決する見込みがなかったということを考え合わせると、この悪意を一方的に避難するわけにもいかないなと思えてくるのだ。

町田総合高校では、教師を挑発し体罰を誘導してそれをビデオに流すということが行われた。確かに酷い行為ではあるが、普通のやり方で抗議をしても決して表沙汰何なることはなく、高校生らしくない格好をしているお前らに落ち度があるという話で終わっていただろう。女性の性犯罪ですら「自己責任論」が飛び出す世の中だ。だが、内心を持たずこうした世界に慣れた高校生たちは意図も簡単に「こんなことまではしないだろう」という線を飛び越えてみせた。だが、組織がお互いをかばい合うなら、こうした対抗策しかありえない。しかし、その結果生じるのは秩序の破壊だ。

だが、欲と他罰性で相手を巻き込んで騒ぎを起こしたら結果的に社会正義が実現するということが普通になったら、誰も社会正義などというものは信じなくなるだろうし、法律なんか守らなくなる。その結果生まれるのは、いつ誰に密告されるかわからないという東ドイツ顔負けの世界である。しかもそれが政権や独裁者と言った主体なしに自発的に起きている。シュタージはいないが「善良な市民」がその役割を担うのだ。それは、いわば社会正義という見えないビッグブラザーが実現する監視型恐怖世界なのかもしれない。

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アイヌ系日本人という議論

今回はあまり細かいことがわからずに書いている。小林よしのりという漫画家の人がアイヌ系日本人は認めていいがアイヌ民族を認めないといっているそうだ。これにアイヌ民族擁護の人たちが噛み付いていた。




これもいわゆる議論の自動化の類である。

この小林の議論自体は議論を作り需要を喚起するというマーケティングの一環だと思う。解決すべき問題があるわけではなく、戦うことそのものに価値があるのだ。が、議論の根本になっているところは面白いと思う。それは民族国家というあまり使われなくなった概念だ。

もともと西洋から近代国家の概念が入ってきた時、その国家とは民族国家だった。ここから出発すると日本という枠組みに参加できるのは日本民族だけということになる。

日本は帝国として拡大する過程で普通の国とは逆の経路をたどることになってしまった。よその国は民族という概念が曖昧だった時に帝国が形成され、その内部に民族という塊を作ってゆく。だが、日本は民族概念と帝国概念を同時に作る必要があった。そして、結果的に日本人が何かということも天皇が何なのかもうまく定義できなかった。

日本がアジアの民族をまとめる国になり天皇がそれを主導するのか、それとも朝鮮民族を日本民族に統合するのかということが決められなかった。そこで今でも日本に住んでいるが多くの日本人と民族的に違うという意識を持っている人たちをうまく扱えない。だから「なかったこと」にしたいのだろう。

前回、伊勢崎市議の「人権は相続権だ」というめちゃくちゃな議論を見た。これによると、先住権が支配民族であるという要件になる。がこれをアイヌ人に認めてしまうと日本は日本民族だけの国ではなくなってしまう。ということで、あの界隈の人たちはアイヌ系というのは日本人の亜種であり、民族ではありえないと言いたいに違いない。結論に合わせて都合の悪いデータを消してしまうというのはリベラルに言わせると「隠蔽体質」だが、保守の人たちの「理解可能なものだけを取り扱う」という情報処理上の特性を考えるとこう考えるしかなかったということになる。

しかし、彼らがどのような理論武装をしようと、日本は日本人だけのものではなくなりつつある。相撲では日本人はモンゴル人に勝てなくなり、日本出身横綱という苦し紛れの区分が作られる。テニスでは明らかに見た目が異なり日本語もあまり十分ではない大坂なおみ選手が「日本人初の」というタイトルで語られた。だが、日清食品は彼女の異民族性を消そうとして、彼女の肌の色を白く塗ってしまった。工場には中国人労働者が溢れ、工事現場では聞いたことのない言葉が飛び交っているが、我々はこれを見て見ぬ振りをしている。安倍総理はいままでと何も変わりませんと説明し、自分を世話してくれる介護人材がいなくなることを恐れている高齢者は安倍政権を支持し続けている。

もし仮に、小林支持者に議論を挑まれたとしたら、私は勝つ自信がない。知識も十分ではないし、彼らのように嘘をつき続けなければならないというある種の切実さも持っていないからである。さらに彼らはすでに決まった結論を持っていて不都合なデータは決して受け付けようとせず、次から次へと様々な問題を持ち出しては大騒ぎを続けるだろう。検索可能な情報は豊富にあるのだから、ありとあらゆる嘘がつける。

彼らは例えば論敵を醜く描くことで誰かを貶めることには成功するだろう。だが、彼らが議論に勝ったからといって、日本が外国人依存に陥りつつある状態が変わるわけではない。もはや「日本民族」だけでは、日本人が大好きな競争に勝ち続けることができなくなりつつある。それは彼らにとっては負けだが、鏡を見ない限り彼らは決して負けない。

こうした議論は昔から行われているが着地点がない。それは我々が日本人の中でだけ議論をしているからである。自己意識というのは他者との比較の中で芽生えるのだから、我々の中でいかに理想のわたくしたちという像を作ってもそれはファンタジーにしかなりえない。恐ろしいのは「内心(自己内処理)」を意識しないあまりに、無意識の前提として取り入れた「民族国家」という概念が今も「伝統」として錯誤されているという点だろう。主権国家=民族自決という原則は今ではそれほど実効力のある概念ではなくなりつつある。にもかかわらず日本にはまだ民族国家論を前提にして不毛な論陣を形成し、無駄に他の人たちを傷つけようとしている人たちがいるのである。

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外国人参政権を早急に検討しなければならないわけ

今日は地方の外国人の参政権付与に賛成ですか反対ですかと質問してみたい。多分、二通りの典型的な答えが戻ってくるはずである。




一つ目は外国人の参政権付与に賛成という意見だ。これはすべての人には基本的人権(自然人権・天賦人権)が認められるべきであり、当然外国人にもそれが当てはまるべきだという「リベラル」な意見である。

もう一つは外国人の参政権付与に反対という立場である。参政権は国から与えられる特権であり、その特権を外国人にも分けてやるのは反対という立場になる。

あなたはこの二つの意見のうちの「どちらに」賛成だろうか。それともこれとは違う意見を持っているだろうか。

さて、今回は「内心」について考えている。あまり注意しないで扱ってきた概念だが、「情報処理」の問題が含まれていることがわかってきた。つまり、今回の質問も結果が同じであっても理由付けが違っている可能性があるということになる。

外国人参政権に反対する意見は、そもそも人権を「国が与える特権」と理解している。さらに「特権は誰かに与えると自分の持ち分が減ってしまうに違いない」という見込みがある。だから彼らは自分たちだけの特権を人に分け与えることに抵抗し、リベラルな人たちはこの一連の思考のセットを攻撃する。だが、ネトウヨの人たちは内心を意識しないので「これしか考えようがなく、正解は一つしかない」と当惑し反発するのだ。

しかしながら、本当に参政権のような人権は特権なのだろうかという疑問がある。意思決定に参加するということは、その結果に縛られるということをも意味している。つまり、権利と義務が一体になった概念であり、参政権はそもそも特権だけではないはずだ。投票するということは「あなたたちが決めた約束に私は従いますよ」と宣言していることになるし、投票権があるのに投票しないということは、何を言われても従いますからどうぞご自由にと言っているのと同じことなのである。

参政権を特権と捉える人はこの権利と義務の関係も間違えて捉えている。よく知られているように、税金を収めたからその恩恵として特権である選挙権が与えられると考える人が多い。だが、これは権利と義務を誤解して捉えているに過ぎない。ここでいう権利と義務は一体であり交換できる概念ではないからだ。

我々が外国人を意思決定から排除するということは、逆に政治に従わなくてもすむ人たちを大量に生み出すということだ。例えば大陸の中国人は自分たちで政治リーダーを決めたことがないので、政治リーダーが決めたことに従う道義的責任はない。彼らがルールに従うのは結果的に豊かさがもたらされているか、怖いからかのどちらかだろう。安倍政権が外国人労働者への依存を強めているのだから、我々は次の数十年の間こうした人たちと一緒に住むことになる。確かに「非正規住民」とは嫌な言葉だが、権利で区別しても居住地域を分けることはできない。

我々は日々こうした外国人と接することになるのだから、日本にいる外国人にルールを守らせるためには政治的な啓蒙をした上でルール作りに参加させたほうがいい。持ち家しか建てられない地域(確かに賃貸が禁止されている地区はある)以外の人たちはかなり近い将来にこれを実感することになるだろう。

数が少なければゲスト住民たちは黙っているだろうが、法務省によれば平成29年度には256万人になったそうである、この中の30%近くは民主主義の経験すらない中国人なのだそうだ。彼らに「街のルールや法律は自分たちで決めたものなのだから守らなければならない」と説得して見せたところで何の意味もない。民主主義の経験のない彼らには自分たちが決めた法律を守るという知識はないし、日本の法律を守る道義的責任もない。さらに見つかれば中国に逃げ帰ればいいだけである。それで破壊されるのは企業ではない。我々の暮らしだ。

日本はすでにこれで失敗している。経営に参加する権利を特権と捉え非正規雇用を増やして正規雇用の既得権を守ろうとした。その一方でマネジメントスタイルは変えなかった。日本の雇用は終身雇用で経営者と一体であるがゆえに従業員の忠誠心が高いということに依存する構造になっていた。従業員が企業の成長のために時に自らを犠牲にすることがあったのはこの一体化のおかげだった。これを破壊し、役割分担を明確にした経営スタイルを取り入れなかったことで、日本の企業の競争力は大幅に低減することになり、正規非正規が分断されることで職場環境はかなり窮屈になった。

今にして思えば、日本の企業は非正規雇用にきちんとした経営参加のインセンティブを与えるか逆に従業員を信頼せずに経営リソースだけで成長できる企業文化を作るべきだった。そもそも非正規職員などと呼ばせるべきではなかった。もし今対策しなければ、同じことが今度は地域社会で起こるだろう。非正規住民という嫌悪感を伴う言葉を使っているのはこのためである。

日本の治安の良さは為政者に心理的に近い(あまり定義ははっきりしないが「民度」が高いなどと言われる)住民によって支えられているのだが、これからはそうも言っていられなくなるだろう。参政権のない外国人に日本のルールを守るインセンティブはない。もちろん、参政権を付与しただけで地域社会に参加するようになるだろうというのは楽観的にすぎる見方だが、それでも何もしないよりよっぽどましであろう。

ネトウヨの人たちがこの問題を過小評価しているのは、在日韓国人・朝鮮人を扱った経験によるのかもしれない。在日韓国人・朝鮮人は戦前に日本に流れてきたか、戦後の混乱期に難民として日本に入ってきた人たちだ。当然数は増えない上に帰化してしまえば日本人になってしまう。韓国から来た中長期の滞在者を加えても50万人に届かない社会の少数者だった。彼らは固まって自分たちの権利を主張するようなこともなかったし、数が増え続けることもなかった。さらに本質的には日本社会から(国家ではなく)承認されることを望んでいたので社会に対して無責任な態度をとる人は多くなかった。だから彼らを少数者として差別していれば「問題は解決」していたのだ。

ところが中国は経済が成長し日本にも多くの中国人が入ってきている。その数はすでに朝鮮・韓国系の人たちを超えているがもともと母数が多いのでこれは理解できる話である。このブログを始めた当時、日本が高度移民を受け入れず成長を諦めれば中国やインドと競争することになるのだから人件費は中国並みになるだろうなどと冗談めかして書いていたのだが、まさか本当に中国人たちを連れてくるとまでは思わなかった。予測は正しくても想像をはるかに超えることが起こる・

大陸からきた人たちは民主主義の経験はないのだが、数としてはまとまっているので、いつ権利を主張する運動を始めてもおかしくはない。さらに、定住や社会参加のインセンティブもなく「単に稼げればいい」なら、なんでもやるだろう。もちろん人権を無視して彼らを全て収容所に入れた上で工場労働だけをさせるということは技術的には可能だろうが、それが国際的に許容されることはないはずだ。

ネトウヨにはこの問題は扱えそうもないが、逆に「市民として温かく迎えてあげればきっとわかってくれる」というわけにも行かないのではないだろうか。日本人とは考え方が大きく違う。自分たちの権利を筋道を立てて主張する上に、出身地域ごとに集団を作って自己主張をするからである。彼らは我々と違った思考をすると主張すれば「自称人権派」は人種差別だと騒ぐはずである。このブログ記事も外国人差別を助長すると批判されるかもしれない。

安倍政権はこの数年で多分我々が思うより多くの社会的変化を作り上げた。もう安倍政権批判をしても仕方がない。我々は新しく直面するであろう問題に対処しなければならない時期に来ている。そのためには自動化された議論は無意味だし有害だ。我々は踏み出してしまった未来に対して有効な対策を考える必要がある。

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内心を持たないので問題の共有も解決もできなくなった日本に外国人労働者が溢れる

ネットの政治議論について見ている。日本の政治議論には目的がなく自分を正当化することだけが目的なので議論がプロレス化しやすいのでは?と考えた。これを防ぐためには議論に目的を作ることが必要というのが仮説である。




しかし自分だけで考えていると見落としがありそうなのでQuoraで聞いてみた。ネトウヨとパヨクの議論には何が欠落しているのかという質問だ。

この質問のもともとのきっかけは中国の名前を持っている人と新疆ウィグル自治区について考えたことである。彼は都合の良い情報を持ってきて結論を組み立てているという意味ではネトウヨ的なのだが、そこに至るまでにきちんとした情報処理をしていた。議論そのものに納得したわけではなかったが、あらためてこれが議論だよなと思った。

そこから思い返すと日本人の議論は少し変である。ネトウヨの議論には結論と情報はあるのだが、それをどう内部処理しているのかということが全く見えない。なので論拠の羅列になってしまうのである。Quoraにも韓国を見下すような論壇ができつつあるのだが、ここにある意見はたいてい論の羅列だけで「話に筋道」がない。

質問にはいくつか答えが返ってきたが思ったような答えは戻ってこなかった。もちろん、多くの人が「結論がすでに決まっておりその結論に都合がよい材料だけを集めてくるのがいけない」のだろうという点までは指摘している。ところがインプットとアウトプットの間にあるであろう内部過程について触れた人は一人もいなかった。どうやら「インプットとアウトプットの間に何があるのか」などということは考えないようである。

このプロセッシングが「内心」の全部ではないにしても一部なのかなと思っていたのだが、日本人がここまで「内心」を持たないとは思っていなかった。つまり一人ひとりで感じ方や考え方が違うのではないかという可能性を(提示されない限りは)そもそも考えないということになる。

これは大変恐ろしいことなのではないかと感じているのだが、そもそもそれが恐ろしいという感覚が何なのかも全く伝わらないかもしれない。

一つ目の恐ろしさは「真実は一つしかない」と思い込んでしまう点にあると思う。情報が内部処理なしで結論になるなら、誰が情報を処理しても同じ結果が得られる「はず」である。つまり、正解は一つしかないことになる。だが実際には偏見によって情報が加えられたり、理解できないものを取り除いたりという情報操作は行われている。そもそも物事の解釈は立場によって違うはずで、例えば同じ行為がいじめに見えたり教育に見えたりする。内心を意識しないということはこれが理解できないということになる。つまり自分自身を絶対化しているということになってしまうのだ。

その結果、南京大虐殺はあったとかなかったとかというように「歴史の事実は一つしかないはずだ」という議論が生まれる。確かな真実がここにあるのに相手が折れないとしていつまでも抵抗する人が後を絶たない。なぜ事実は一つしかないと思い込むのだろうと不思議に思っていたのだが、内心や内部処理のプロセスがないと考えるとその謎が解ける。

もう一つの問題点は相手の言っていることが理解できないという問題だ。例えば今国会では根本厚生労働大臣がなぜ国民が怒っているのかさっぱり理解できていないという問題があり、解決のめどが立っていない。これは根本大臣を替えても解決しないだろう。

根本厚生労働大臣は「厚生労働省がごまかしをした」というインプットがあり「でもそれは選挙には影響がない」というアウトプットにつなげようとしている。だが、ここに内心があれば「でも、それは国が誠実であるべきであるという価値体系とはぶつかるのでは?」と考えるはずで、それが罪悪感になるはずだ。だが、根本厚生労働大臣には「そんな内心はない」ので、あのようなすっとぼけた答弁になる。

かといって、根本さんがバカというわけではない。彼は選挙に不利な情報を出さないということだけを一貫して考えており、目の前にある問題を「選挙に有利か不利か」という観点から見ている。

これは厚生労働省も同じである。お手盛りで第三者委員会を作って調査しましたと言っていたのだが、野党が「いやこれでは納得できない」と言い出したので調査をやり直しているという。もし厚生労働省に「隠蔽は恥ずかしい」という内心があれば「内心忸怩たる思い」をするはずなのだが、そんなものはないのだろう。だから「納得しないんだったらやり直しましょう」といってまた嘘をつく。彼らもネット中継で見ると化け物かロボットに見える。

だが、これを展開してみると、野党も「まあ、どこでもごまかしはあるだろうが、これが露見したのが自分たちが政権を取った時でなくてよかった」くらいにしか思っていないかもしれないということになる。こちらは逆に厚生労働省や根本大臣が何を言っても納得しないだろう。彼らも選挙に勝ちたいだけだからである。つまり、国会では「選挙に勝つか負けるか」ということが優先されるあまり、国の統計はどうあるべきかということを誰も考えていないかもしれない。

だが、これを展開するともっと恐ろしいことになる。厚生労働省の不正に納得していますかと聞かれると多くの人が「いや納得できない」と答えるそうである。普通「政府は国民の信頼を裏切るべきではない」からそう答えているのだと思う。だが、それで内閣の支持率が変わることはない。つまり「嘘をついていいかと聞かれたからダメと答えただけ」なのかもしれない。つまり、内心や内部のプロセッシングは全くなく、単に「自動的に右から左」に回答しているだけということになる。

このように誰にも内心がなく単に右から左に情報がやり取りされているだけという図になる。こうした条件下では「消費税増税=下野」くらいの投票反応しか得られなくなる。これでは民主主義に必要な議論など起こりようがない。

一つひとつは大した問題ではないが、私たちはこうして身の回りの問題に対処できなくなりつつある。例えば、群馬県の鶴の尻尾だか頭だかに当たる地域は東京まで東武電車が通っている。そこで若者が東武電車に乗って東京に流れてしまう。地域の雇用を守るという約束で誘致したはずの工場はいつの間にか派遣労働者で溢れ、それでも人が集まらないとなると外国人ばかりになった。

こんな伊勢崎市で、「私たちの権利は誰にも奪われない」として「人権は相続権である」というめちゃくちゃな議論を続けることは可能である。結論は先に決まっているうえに、理解できないものは理解できるレベルに落としてしまい都合の悪い議論はすべてシャットダウンしてしまうから、彼らが議論に負けることはないからだ。

しかし、彼らが議論に勝っても外国人が街から消えることはない。外国人を呼び込んでいるのは彼らが心酔する安倍政権だ。そして、外国人を市民として受け入れない限りは伊勢崎市の不確実性は増してゆくだろう。地域にも溶け込めず意思決定にも参加できない人たちが増えてゆくが彼らの私生活を監視する人などいないからである。収容所に囲って不況になって用済みになれば返っていただくということをでもしない限り、不法滞在者も増えてゆくはずだ。工場は用済みになった外国人の首を切るだけで帰国までの面倒は見ない。堕落した日本の工場にとっては労働者もまた看板方式で管理できる部材なのである。

経験したことがない人はわからないかもしれない。工場地域のイートインスペースでは言葉がわからない外国人が昼ごはんを食べに集まってくる現場に遭遇したことがある。たまたま休日だったので日本人は休んでいたようである。たまたま派遣労働者の数よりも外国人が上回ったというニュースを読んだばかりなので「ああそうなんだな」と思った。彼らが日本滞在に満足してくれていれば我々も安心して食事ができるのだが、もし仮に「潜在的な不安を抱えていたら」と考えるとかなり恐ろしいことになるなと思った。何かの拍子にぶつかったとしても多分彼らは日本人が何を言っているのかわからないのだから、謝ったり説得したりということも、そもそも彼らが何に怒っているのかすらわからない。

問題は起きているが何が問題なのか共有できないという社会を既に我々は生きている。昭和から平成にかけて社会人になった人たちは正規雇用前提の職場が非正規雇用化して何が起こったのかを知っている。職場が分断され、様々な問題が「なんとかハラスメント」という形で表面化している。「なんとかハラスメント」はすべてマネジメントのイレギュラーケースなので、職場は問題解決能力を失っているということになる。

だが、我々はこれに対処できない。最近社会人になったくらいの人たちはそもそも終身雇用前提の時代を知らないので「なんとかハラスメント」が職場で解決されていた時代を知らない。だから、問題の発見も共有もできなくなった。したがって「なんとかハラスメント」が解決することはない。

我々はこうした社会の分断を今度は街中で目撃することになるだろう。多くの人たちが気分良く議論に勝っている間にもこれが進行する。表面上は戦争状態ではないが、敵が見えない分戦争よりもっと厄介かもしれない。これが内心を持たないことの恐ろしさの一つなのだろう。

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日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。

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中国はなぜ新疆ウィグル自治区を侵略したのではないのか?

Quoraで面白い質問を目にした。中国人のプログラマが新疆ウィグル自治区は昔から中国の版図なのになぜ侵略したと海外から文句を言われなければならないのだと聞いていた。ここで相手にされなかったので、さらに質問を重ねていた。これに答えたところ、彼から猛反発を食らった。




面白いなと思ったのは日本人との違いである。日本人は論が組み立てられないので、都合の良い論(つまり結果)を羅列した上で「みんなそう言っている」と逃げようとする。結果主義的な傾向が強い。一方、彼は政治の専門家ではないのだろうが、一応自分なりに論を組み立てている。日本語が極めて堪能なことから日本で生まれたか育った人なのかもしれないし、外国語としてここまで使えるとしたらかなり頭がいい人のはずである。

まず、問題になるのは国家観である。帝国主義だった清と多民族・理念国家である中国を接ぎ木している。クルド人と同じようにウィグル人は近代的国家として独立した経験がないので、これだと侵略されているという事実がなくなってしまう。が、ウィグルに異議申し立てをする人たちがたくさんいる以上「漢民族の侵略行為がない」と言い切るのは難しいだろう。ウィグル人はトルコ系のイスラム教徒だが清に服属する前はモンゴルに服属していた。

ただ、議論をしている途中で彼は「あなたの言っていることはよくわからない」などと相手を刺激することを言ってくる。よくテレビで見る中国人の議論の特徴と同じなんだなと思ったし、いわゆるネトウヨという人たちにも同じく相手を挑発してくる傾向がある。相手をイラつかせて揺さぶるのである。そこでついつい「彼の言っていること」に反論したくなってしまう。つまり、彼の論理に反論しないと議論に負けたことになるのでは?と思ってしまうのだ。なんとなく日中・日韓の問題が泥沼化する理由がわかった。テクニカルなところに入り込むと「相手の嘘を証明するのがお仕事」になってしまうので、本来解決すべき問題が見えなくなる。

しかし、よく考えてみると、1,000万人の人口しかいないウィグル人が100万人以上拘束されて「漢人支配から脱却したい」と言っているのだから、中国共産党の支配の正当性が揺らいでいるのは明から。彼が議論に勝とうが私が負けようがこれが変わることはないのである。

人々がついついこうした議論に陥りがちであるということがよくわかった。南京大虐殺、徴用工、慰安婦問題など様々な問題がこうした状況に陥っている。Quoraでの議論の途中経過を見ているとわかるのだが、こちらは「ウィグル人収容の問題」を持ち出すと相手が「スペインでカタルニア人が独立したがっているがあれも弾圧なのでは?」と言ってくるという具合である。

が、15分くらい考えて途中で「議論に負けてもいいな」と思った。まったく別のことがわかったからだ。議論の前段では民族自決の原則を持ち出して、中国共産党の非正当性を証明しようとした。だが、議論の途中でこれは無効になりつつことは明らかであるということもわかった。にもかかわらずウィグルの議論は「民族独立の問題」として扱われる。果たして、昔あった民族自決の議論と今の議論は同じ「民族問題なのか」ということを考えたのである。

普段ならこんな面倒なことは考えないのだが、異質さがぶつかる議論ではスウィッチが入るので1分くらいで議論がまとまることがある。これが本当の議論の効用なのだろう。

まったく別の現象としてアメリカの福音派の問題を思い出した。彼らはアメリカの成長について行けなかった人たちだが、実力では負けてしまうのでこれまでの民主主義では異議申し立てができなかった。成長と成果というキレイゴトを代表していたのがオバマ大統領だ。そこでトランプ大統領を祭り上げてスウィングバックが起きている。アメリカには民族はないが、プラットフォームとして福音派という宗教が使われた。内心を言語化する理論的支柱とみんなが集まる場所が「この類の運動」を支えているのである。

逆に北朝鮮ではいつまでたっても民衆暴動が起こらない。これも理由は明らかである。朝鮮半島は氏族ごとが集まって先祖崇拝する伝統はあるが教会がない。みんなが心を一つにして集まることがないと大規模な抵抗運動は起きにくい。大韓民国もそうだったのだが、国が豊かになると光州で地域暴動が起こって「新しい伝統」を獲得した。現代韓国ではここからくる流れを「革新」と呼んでおり、慶尚道と全羅道の対立という構図がある。

ここから、満人地域から共産党への異議申し立てが起こらず、チベットや新疆ウィグル自治区で民族自決の運動が消えない理由がわかる。つまり、宗教的伝統がある地域では人々が共通の価値観で集まることができるので「私たちは私たちのことを自分で決めたい」というアイデンティティが残るのである。いっけん、ウィグルの問題とアメリカの福音派の問題はまったく違っているように見えるのだが、アメリカは「民族」という概念が使えないだけで、実際には民族的固まりができていることになる。

こうした動きが起こるのはグローバル化が起こりその揺り戻しとしてのローカル化欲求があるからだろう。

加えて日本の問題ですらこれで分析できる。日本人は村落というつながりまでは獲得できたが宗教的な教会を持てないのでここから先のまとまりを作ることはできない。かといって公共も理解しないので理念国家も作れない。だから日本は未成熟な民族運動はあるが中に敵を見出せないので外に敵を作ろうとしている。かといってそれに対抗する人たちもグローバル化を推進しているわけではない。私たちは自分のことを日本民族だと思っているが、実際にあるのは日本語を話し、特定の内心を持たない、小さな孤立した村の集まりでしかないという絵が描ける。

中国共産党は様々な理屈付けで新疆ウィグル自治区の支配を正当化することはできるだろうが、それでもウィグル人の異議申し立ては消せないだろう。彼らは異議申し立てをする「少数者」を100万人も捕まえて「再教育」するしかない。ウィグル人は1000万人程度なので、1/10という割合は尋常ではない。議論や競争に勝つことはできても相手を納得させることはできないのである。

だが、多分それよりも重要な発見は、議論というのは特定の目的を持たない人たちの間に落ち込むと「言った言わない」の応酬になり膠着する可能性が高いということだ。それが楽しいならそこに止まればいいと思うのだが、抜け出したいならば、独自の視点を持たなければならない。

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