無敵の人と取引不能の世界 – 岩崎隆一が変えてしまったもの

登戸の駅前で通り魔事件があった。将来のある聡明な小学校六年生の女の子と外務省に勤める有能な男性が亡くなった。カトリック系の学校ということで「神様って本当に理不尽なことをするものだな」と思った。




刺された子供達は何も悪いことをしたわけではない。にもかかわらずこんな目にあっていいはずはない。最初に感じるのは怒りだ。では、我々は何に怒るべきなのだろうか。

そう考えながら事件報道を見ていて、番組担当者たちが戸惑っているであろう様子が印象に残った。いつもの「あれ」が全く通じないのである。

事件報道に限らず実名報道は「国民の知る権利を担保するため」ということになっている。日本新聞協会の「実名と報道」というリーフレットによると、報道の自由は民主主義社会を健全に保つためにあるという。

だが、それがもはや単なる「お話」でしかないことを我々は知っている。少なくとも事件報道において、報道の自由は「悪いものを探して勝手に裁くため」にある。報道の自由は「正義の側にいる人たち」がその報酬として間違った人たちを「無制限に叩いく」権利を行使するために事件報道は奉仕しているのである。

報道が気にしたのは「学校に非難が向かないようにする」ということだったようだ。学校はやるべきことはやっていたと繰り返されている。まさにその通りだとは思うのだが、背景には「怒りの矛先が犯人に向かわないので、世論が学校を代理で叩きかねない」という懸念があったからだろう。彼らはそれくらい「怒り」を意識して番組を作っている。うまく使えれば商売のいい焚付けになるが、間違えると自分たちが焼かれかねない。

学校に非難が向きかねないのは、岩崎隆一容疑者が読者や視聴者に「叩きがいのある素材を提供」しなかったからだ。だからこの事件は恐ろしい。

「川崎市在住51歳の岩崎容疑者」は、社会との接点がほとんどなかったようである。職業も今の所わからないし、そもそも働いているかどうかもわからない。さらに家族(親戚だったようだが)彼には興味がない。つまり、住所と名前と年齢を報道することができてもそれ以外の「叩ける」情報がない。今唯一伝えられているのは「近所の家に怒鳴り込んだことがあるらしい」という情報だけであるが、それを叩いたところでインパクトに欠ける。

ではなぜ我々は容疑者や犯人を叩きたがるのか。それはカウンターの意見をみるとわかる。「包摂すれば良い」というものだ。これは全く異なるアプローチのように見えて実は同じことである。恫喝かあるいは懐柔かという取引なのだ。世間は何か問題を起こした人と様々な取引を試みる。そこに後付けで理由をつけるのだが、本質的には「理不尽さが怖いから」だろう。

原因追求をしたいというのは遺族にとっては切実な欲求だろう。ある日突然愛していた家族(娘や父親)を失ったのだ。それは人生で起こり得る最大限の理不尽であり、なんらかの理由付けがなければ受け入れるなど到底不可能である。

だが、それ以外の人々にとっては、原因解明は理不尽さの解消とは何の関係もないことである。包摂が大切だとわかったとしても、彼らは自分たちの隣人に優しくしたりしないだろう。

彼らが報道や裁判を通じて犯人や容疑者の言い分を知りたがるのは、それを否定することで犯人や容疑者を「裁く」ためであり、ある種の取引である。しかも、それを裁いただけでは飽き足らず、犯人や容疑者の社会的生命や生命を奪うことで「全能感」を味わう。

ところが、今回の場合「最初から奪えるものがない」。彼の人生には社会的にはほとんど見るところがなかったようだし、悲しむ家族もいなかった。自殺してしまったので死刑にもできない。なんらかの取引ができないと、我々は「どうしていいかわからない」という感覚を得るのだ。

いわゆる「無敵の人」の恐ろしさはそこにある。逆に「一人で死ぬべきだと発信すべきではない」という意見(藤田孝典)も取引の一種でしかない。残念なのだが「次の凶行を生まないためでもある。」という一文は取引そのものである。

社会が包摂的になるのはテロを防ぐためではない。優しい社会が誰に取っても住みやすいからだ。藤田さんはこれが社会に受け入れられないだろうことを予測してこの文章を書いているのだろう。そして、包摂によってこの種の事件がなくなるのかといえばそうではない。共生型の社会であれば競争に参加することすらなく切り離された人というのが少なく済むはずと思いたくなるが、共生型のノルウェーでも拡大自殺的なノルウェー連続テロ事件が起きている。だったら包摂なんか意味がないと考えるのなら、そもそもそれは包摂型社会ではない。単なる取引である。

岩崎隆一容疑者が提示した問題はそこにある。社会にいる「もはや何の取引も望んでいない人」が理論上の存在ではなく実在しているということだ。そして取引がない以上社会はそれに対処できないのである。

例えば、高齢者が運転する自動車でも同じような理不尽は毎日起きている。誰からの助けも求められない(あるいは求めたくない)人が車に乗って通行人に突進してゆくという社会現象である。こちらは技術的にはいくらでも対応が可能だが、それでもそれをやろうという人はおらず、高齢者や家族が非難されるばかりである。解決が可能な問題でも対処せず取引で済ませようとするのだから、そもそも取引ができない問題に対処することなどできないだろう。

社会はしばらくの間「かつてあった安心・安全が取り上げられた」ことに対して怒りをぶつけられるものを探してなんらかの取引を試みるだろう。だが、現実問題としてはもはや理不尽な危険に対処するしかない。社会は変わってしまったということを我々は受け入れるしかないのではないだろうか。

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PRODUCE X 101 と韓国の競争社会

PRODUCE X 101を見始めた。5月に始まり7月に終わる予定である。一本が2時間ある上に出てくる人が多いので予習復習に忙しく、ワイドショーを見る時間がなくなりつつある。




とはいえ、地上波を見ても小室圭とフォーダム大学のことしかわからないので、モニターを地上波にセットする時間が少なくなりMacMini専用になりつつある。

PRODUCE X 101と日本の地上波を比較してわかるのは、日本が長期停滞社会にあるということだ。

ワイドショーを見ていると誰かを追い落とすことに皆の関心が高まっている様子がわかる。社会の問題を誰かのせいにしたいのかもしれない。

例えば小室圭さん問題の基本は羨望と粗探しである。あれも気に入らない、これも嫌だと言って有資格者を落として行くのだ。皇族の数は減っていて数世代でいなくなってしまうかもしれないのだが、それでも「あれは嫌だ」「これは嫌だ」といい続けている。

過疎の村がますます衰退してゆくのに似ている。村は消えてゆくということがわかっていても新しい住民は受け入れられない。仮に受け入れたとしても「あれが気に入らない」「これが嫌だ」などと言って追い出してしまうというのが今の日本である。ワイドショーには長期停滞だけでなく、過疎化する国としての日本の姿が映し出されている。

さらにAKBグループはもっと悲惨なことになっているようだ。“不適切”動画投稿 NGT加藤美南 研究生へ降格処分 「裏アカ」も認めるという記事を読んだ。なぜかSNSの蔓延がいけないという話になっているが、管理が行き届かず選抜もいい加減なのだろう。もともとAKB48は実力が足りない子を集めてきてそこそこの商売をしようとしたというのが出発点なのでこうなっても何ら不思議はない。日本社会は「お前たちは大したことないんだからせめて愛嬌でも振りまいていろ」と自尊心を低く育てる。その結果が今になって出てきているのだろう。

もともと「そこそこビジネス」なので運営側の関心は人件費の抑制だろう。彼女たちがまともなレッスンを受けているとも思えないので、やがては荒んで行ってしまうのだ。日本は「実力を押さえつけられ集団で我慢する」ことを強いられた国になっている。NGT山口が暴行問題を指摘したことで組織にいられなくなったのはその最も端的な表れだ。そしてこのことがAKB離れにつながっている。隠蔽体質の組織に応援すべき価値はない。

一方、K-POPは輸出拡大が進んでいる高成長分野なので競争原理が働く。こちらは実力よりもやや高めを求められるという成長社会である。

見ていてわかるのは、韓国人がもともとかなりシャイだということだ。その意味では日本人とそれほど変わらない。だが「恥ずかしがっていて」は商品になれない。そこで殻を敗れた人だけがまずスタートラインに立てるということになっている。なので「殻を破」ったり「猛練習」ことがテーマの一つとして取り扱われる。

スタートラインに立ったからといって成功できるとは限らない。今回のプロジェクトではアイドルの出戻り組と数ヶ月しか経験のないほぼ素人が同じ階級にいる。中には一度他分野で成功したのに戻ってくるという人もいるようだ。再挑戦も大きなテーマだ。

少しづつ限界を上げててゆくこと、再挑戦すること、協力することなどが語られるショーになっているのが、日本の少しづつ抑制され、再挑戦がなく、足を引っ張り合うという日本の状況と対になっている。

ステージを見ていると素人から見ても「ああ、これはダメだな」ということがわかる人たちがいる。声が悪ければ歌では成功できないし、さらにルックスだけで上位に行ける人もいるというかなり不公平な社会だ。さらによく考えてみると、やっていることは「かなりチャラチャラした」アイドルというジャンルである。ものすごく無駄に思えることを一生懸命にやっているのだ。

問題も起きている。大手事務所は活動が制限されるPRODUCE X 101には人は出したくない。SM(の音楽部門)はオーディションへの参加者がいなかった。しかしYGは脱落組が参加しており却って「YGってこの程度なのか」という印象を与えた。JYPに至っては過去の素行問題が明らかになり番組から降板する事態になっている。

韓国経済は日本よりも単純な産業構造であり市場規模も大きくない。中国が伸びるとそれにつられて伸びるが中国経済が停滞すると真っ先に影響を受けるという運命にある。韓経:韓国の経済成長率、OECD22カ国中「最下位」という記事があった。このため財閥系企業や芸能界といった限られた分野に人が殺到する苛烈な競争社会になっているのだろう。

さらにリベラルな文在寅政権が最低賃金を上げてしまったことで低所得者が却って仕事をなくすという状況も生まれたようだ。なぜかスポーツソウルが韓国で「最悪」の経済格差が…“所得が低い人”ほど給料も働き口も失うのはなぜ?にまとめている。わずか100円最低賃金をあげただけで最低賃金層が失業してしまうような国なのだ。

日本のテレビがくだらないからと言って日本社会が全て悪いということにはならないのだが、それでもやはりお互いが否定しあい潰し合う様子を見るよりも、協力しながら成長して行く物語の方が見ていて面白い。

いずれにせよ韓国の番組を見ると日本社会のこともよくわかるようになると思うし、それ抜きで見てもショートして面白い。PRODUCE X 101はCS放送とインターネットテレビで視聴することができ、YouTubeの動画を合わせて立体的に楽しむこともできるようにもなっている。

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高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。

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道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。

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政治議論をすればするほど堕落してゆくという可能性について考える

ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。




ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。

農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。

いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。

しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。

東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。

今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。

いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。

日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。

Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。

多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。

実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。

このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。

「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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上級国民

天から落ちてきた人を叩く

飯塚幸三元工業技術院長が轢き逃げ事件を起こし(日経新聞)た。母子がなくなっており夫の無念の会見が印象的だった。しかしこの件では全く別の件が大きく取りざたされることになる。それが「上級国民」という悪意のあるキーワードである。




飯塚さんが逮捕されなかったことをうけて「上級国民だから警察が忖度しているのではないか」と話題になったのだ。J-CASTが面白い分析をしている。日本では推定無罪原則が無視されており、逮捕が社会的制裁と捉えられている。しかし、上級国民であればそうした制裁を免れることができるのではという疑念が国民の中に渦巻いているというのだ。あるいはそうなのかもしれない。

よく衆愚主義などというのだが、その行動動機は社会正義の追求である。ただあまりにも「勝ち負け」にこだわりすぎるので最終的にはリンチ担ってしまう。もともと法の下の平等も推定無罪の原則も建前としか思っていない国民だが、政府に反抗することはできない。だからそこから落ちてきた人を執拗に叩くわけである。

そこにあるのは弱者叩きの快感だけだ。テレビは一応「この事故を繰り返さないように議論が進むものと思われます」などと言っていたが「嘘つけよ」と思ってしまった。誰かを叩くコンテンツは売れる。だから流しているわけで、問題解決など実はどうでもいいという姿勢があまりにもあけすけだった。

見たくない現実は実は目の前にあった

先日、石窯のあるパン屋に立ち寄った。イートインスペースがありそこで100円シュークリーム(コーヒー付き)を食べていると、次々と高齢者が入ってきた。食事を作るまでもないが何かちょっといいものを食べたいくらいのニーズを持っている人たちがパンを買いに訪れるのではないかと思う。

ここのところ本当に杖をついている人をよく見かけるようになったのだが、彼らが運転してきていることにまでは気がつかなかった。外にあるイートインスペースからは駐車場が見えるのだ。

一人で買いに来ているお年寄りもいたし、あるいは夫婦揃ってという人もいた。夫の方が足が悪くて「運転は男がするものだ」という気持ちが強いのではないかと思う。そして無理を重ねた結果事故を起こすのだ。このことからも「弱者に転落」することを恐れた天国の住人が最終的にとんでもない加害者として人生を終えることになるという悲劇があるように思える。

皮肉なのは飯塚さんが官僚だったということだ。つまり政府の一員も国が助けを必要とする人を救済するなどということを全く信じていなかったことになる。自分で外出できなければ自分も粗末に扱われるだろうという確信があったのだろう。

それでも失敗した人を叩き続ける社会

このようにみな漠然と落ちてゆく不安を抱えており、なおかつ現実に落ちてきた人たちを容赦なく叩く人たちも多い。

ただ、本当にそれでいいのだろうかと思った。なぜならば自分も、加害者家族になるという可能性があるからだ。そこで、家族に免許返納させたことがある人はいますか?」と聞いてみた。案の定答えはつかなかった。さらに「加害者の関係者になる可能性もあるのでは?」と回答もしてみたが、やはり飯塚さんや家族の責任を問うコメントがついた。

日本人は「弱いもの」と認定されるのを嫌い、また「弱いもの」は無制限に叩いて良いという社会である。そしてどうしたら勝てるかを冷静に見ているので決して政府に改善を訴えかけたりはしない。このようにして私たちは毎日息苦しい社会を自分たちで作っている。その間問題解決は「おやすみ」になる。こうして問題ばかりが積もってゆく。

ただ、あまり世の中を嘆いてばかりもいられない。最近は忙しくて余裕のなさそうなお母さんや高齢者の運転が増えている。携帯電話で連絡を取りながら車を運転している人も珍しくない。だから、車を見たら運転席を覗き込むようにしている。向こうから「どうぞ」と言ってくるまでは絶対にこちらからは(たとえ信号が青でも)渡らないようにしている。

社会が弱者叩きに邁進し問題解決をしないのだから「自分の身は自分で守らなければならない」のである。多分、今回教えるべきだったのは「車は絶対に信用してはならない」「青信号を鵜呑みにしてはいけない」ということなのだろうと思う。

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努力しても報われない社会 – 上野千鶴子が投げかけた疑問

野千鶴子が東大で行った演説が話題になっている。上野さんのような人が東大にいると日本の民主主義は崩壊するだろうと思った。




全部読んだわけではないが、東大生は頑張れば報われる社会を生きてきたのだが、彼らが今後直面する社会は必ずしもそうはなっていないということを言っているようだ。これを聞いて「キリスト教的民主主義の伝統がないと、人はこういう疑問を持つんだな」と思った。やはり日本に民主主義は無理なのかもしれない。

我々は民主主義・自由経済社会を生きていると考えている。人々が平等であるのは当然善であると考え、なぜそうあるべきなのかということはブラックボックスに入れて考える。特に最近の中国バッシングを見ていると一党独裁は最初から悪で民主主義こそが正義だと考えていることがわかる。その一方で日本の民主主義には誰もが不満を持っている。自分の思っているような社会がおのずから作られないからだ。だからこそそうでない社会を叩き、自分たちは善であると思い込もうとするのだ。だから日本人は政治的問いかけが自分たちに向くのを極端に恐れるようになった。

このようなことになるのは欧米型の民主主義国の支配体制が終わり非民主的な国が経済的に成功してきているからである。実は、日本人が持っていた民主主義に対する感覚を我々自身が疑い始めているのだ。

民主主義というのはキリスト教の考える「愛とか平等」から神様というエッセンスを除いたものだと考えられる。結果的に経済的に繁栄したために「まあ、この考え方に乗っておけば問題はないだろう」ということになった。

もう少し突き詰めて考えるとキリスト教が「愛」と呼んでいるあのふわふわしたものが経済発展に良い影響を与えているということはわかるだろう。つまりまずお互いに信頼して経済のプラットフォームを造ることで我々は破壊ではなく生産に専念することができるようになったのだ。また「多様性」を認めることで、それぞれが持っている才能を経済発展と繁栄に活かせるようにもなった。

その背後にあるのは、実はかなり楽観的な世界観だ。キリスト教では我々が生きられるのは神様からの恩寵があるからだと考える。そして特にこれを感じることができるのは実は失敗を経験したことがある人なのではないかと思う。

「もうここまでだろう」と思って全てを諦めた瞬間に回復に向かうということが人生には確かにある。水の中でバタつくのをやめたら実は浮いていたというあの感覚だ。この浮力をキリスト教では奇跡と言ったりする。キリスト教の実践は、助け合いの輪に加わることによって「こうした奇跡」を身近に感じるということでもある。実は助け合いを通じてその環境を作っているだけとも言えるのだが、実践と参加が需要な宗教である。

シスターも上野と同じようなことをいうだろう。「東大生は特別に恵まれている」という言い方はキリスト教的には「普遍的に存在する奇跡」によって守られているということになる。だから、感謝してそれを周囲にも広げて行かなければなりませんというというのが多分教会的なメッセージになる。

だが、日本にはこうしたキリスト教的な伝統はないということが上野の発言からわかる。日本はまず自由主義経済から受け入れたがその時にたいした疑問は持たなかった。戦後民主主義が入ってきた時もアメリカが戦争に勝てたのだからきっとそれはいいものに違いないと考えた。だから、今になってジタバタと闘争を始めると、実はその根底にある楽観を理解していなかったということに気がつくのだ。そして「溺れるかもしれない」と思うともっと体を激しく動かすことになる。

日本人は極めて苛烈な競争意識を持っているので溺れた人を助けない。それどころか叩いてもいい存在と認識して群衆になって叩き始める。すると人はもっとバタつく。日本人は弱者が認められることがない社会だ。社会に弱者が存在することも認められないし、身内にいることも認められない。そしてついでに自分の中にもそういう弱者がいることも認められない。だから溺れている人もそれを見ている人も実は恩寵や奇跡を実感できなくなる。

本来民主主義・自由主義経済は「通貨などという形のないものをみんなで信頼するところから始めよう」という極めてあやふやなところから始まっている。「自分が使った金が自分のところに戻ってくる」と考えるのはかなりおめでたい人だ。管理する人が誰もいないのに経済がおのずとうまく回り人々は豊かになれるなどというアダム・スミス理論はキリスト教的には神の恩寵でも日本人にとっては妄言でしかない。つまり、民主主義・自由経済はかなりおめでたい理論なのである。

神の奇跡が本当にあるかという保証はどこにもない。神は人間をこの世界に送り出す時にメーカー五年保証のようなものもつけてくれなかったし、契約条件も新約聖書で無効になってしまった。人は十戒の世界を追放されて、イエス・キリストによって「ただ信じなさい」と荒野に放逐されとも言えるのだ。

フェミニズムや環境保護といった戦いが自己証明を始めるとそれは闘争になってしまう。例えば捕鯨運動や菜食主義などは欧米でも批判が根強い。「なぜ神は我々を愛してくれないのか」という代わりに「肉は食べないから私を愛してください」というのは実はキリスト教的ではないのである。モーゼのように神の言葉を聞けない我々が新しい契約条件を作ることはできないのだ。

努力しても報われないかもしれないという疑いはおそらく合理的なものだろう。が、合理的に接している限り永遠の闘争が続いてしまうのだ。叩き合いはもうおまけみたいなものである。多分、この叩き合いに疲れた人たちは独裁という「確かな政治」を求めるだろう。自由からの闘争は多分何度でも起こり得る。

西洋流の民主主義や自由経済には突き詰めてゆくと根拠のない領域がある。それは信仰と個人の理想という日本人に取ってみると極めて曖昧なものに支えられた実にあやふやなものなのではないかと思う。

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豊洲市場の殺人エレベーター事件

豊洲市場でターレに乗った男性がエレベータに挟まれるという事故が起きた。このニュースについて取り上げるのだが、取り上げるのは豊洲の問題そのものではない。日本人の問題解決能力についてである。日本もついに「アメリカ型」になったのかと思ったのだ。




この事件を最初に知ったのはTwitterだった。が、Yahooニュースにも出ていなかったのでフェイクではないかと思った。やがて本当だったということがわかり、Twitterでは程なくして大騒ぎになった。毎日新聞は発見から5時間後に死亡が確認されたと書いているので最初のつぶやきはややフライング気味ということになるのかもしれない。

Twitterには豊洲コミュニティができており、それ以上に意見が広がることがない。そこでQuoraで世論に訴えられるような環境を作ってみようと思った。が、掲出するときにすでに「でも当事者たちはコメントを書かないだろうな」と思った。理由はよくわからないがこういう洞察はなぜか当たる。

程なくして「豊洲の問題ではないのでは?」というコメントがついた。これもQuoraではよくあることだ。質問は「Twitter世論」を受けて質問は小池都知事を非難する内容になっている。するとそれを察知した人がほぼ本能的にバランスをとって「大したことはないのでは?」と収めようとする。これが今の日本社会だである。

小池さんではなく安倍晋三さんでも同じことが起こるし、例えば過剰労働やレイプ事件の問題でも同じ反応が見られる。なぜか日本人男性はこうした騒ぎが起きると「それは問題ではない」と言いたがる。本能的に集団が揺れることを嫌うのだろう。

その一方で、Twitter組は閲覧には来るが(外部からの閲覧者は増えている)書き込みはしない。これもあらかじめわかっているのだが理由がわからない。Twitterは集団の中で「そうだそうだ!」という群衆になれるのだが、Quoraだと最初の一人になってしまうからなのかもしれない。これも本能的な反応だ。

ところが事件はどんどん悲劇的な方向に展開してゆく。エレベータにフェイルセーフ装置がついていなかったことがわかってきた。これはエレベータにはあって当たり前の装置なのだが、闘争状態になっているために「これすら社会に訴えなければ振り向いてもらえない」というマインドセットになっているのだろう。つまり自分たちから「当たり前」のラインを下げてしまっていることになる。そしてそれを見た周りの人たちは「そんなの騒ぎすぎだろう」といってそれを反射的に打ち消してしまうのだ。中には親切心からか「監視を強めては」などという人も出てきた。

だが、区役所に設置しているエレベータがお年寄りを「食った」らどんなことが起こるか想像してみればいい。業務用であろうと一般用であろうとフェイルセーフ装置があるのは当たり前のことで「監視員を置こう」などという人はいない。そもそも騒ぎ立てるような問題ではないはずなのだ。

この問題はすでに「ヒヤリハット」な事故が相次いでいることがわかっており未然に防止することができてたはずの事故でもある。だが、この対応も極めてずさんだった。貼り紙対応だったそうだ。

しかし、共同通信社は「取材して初めてわかった」と悠長な書き方をしている。知っていたが一生懸命に言い立てる人がいなかったせいで、マスコミは知っていても伝えてこなかったということである。この事故が起きてからも市場は「ルールを守らなかった人が悪い」というような発表をしているようだ。よくある自己責任論である。

東京都の運営がずさんだとは思うのだが、我慢して引いてみてみると、全体的に「集団思考状態」が起きていることがわかる。誰かが状況を整理してなんとかしてくれるはずだとみんなが信じている。だが、誰もその勇気ある一人にはならないという状況である。

Twitter人たちは被害者なので「なぜ外に出て世間に訴えかけないのか?」と問い詰めるわけにもいかないし、当事者ではないのでどっちかに肩入れして騒ぐこともはばかられる。できるのは訴えられる場所を作ることだけである。

それでもやはり重大事故が起きてから責任のなすりつけあいをするまで問題は解決できないんだなあと思う。過労死の問題も女性のレイプの問題も同じような経緯をたどって結局犯人探しだけをして終わりになってしまうことが多い。問題解決ができないのは誰も問題解決に向けて動き出さないからだ。

いろいろ考えたのだが、結局のところ、当事者たちが理路整然としかも継続的に問題を他人に説明できるようにならなければならない社会になったんだなあと思った。これが、20年前のアメリカ社会とそっくりなのである。

アメリカも地域コミュニティが崩れて自分のことに忙しく誰も助けてくれなくなった社会である。なので、問題を察知した人は継続的に問題を訴えて行かなければならない。このことがよくわかるのが2000年のエリン・ブロコビッチという映画だ。法律を正式に学んだことがない女性が公害問題で訴訟を起こすという筋だが、映画の中では最初問題を取り合ってもらえないというシーンが出てくる。

アメリカ社会の状況を知ったうえでこの映画を見て「アメリカは大変だなあ」などと思っていたのだが、いつの間にか日本もそんな社会になりつつあるようだ。ただ、集団の中で「丸く収める」のを良しとしていた日本人が最初の一歩を踏み出すのはかなり大変なんだろうなあとも思う。アメリカはまだ助け合いの精神がある共和国的な風土があるのだが、日本人はともするとお上の側に立って他人を裁きたがる人が大勢いる。

豊洲のこの事件は人が亡くなっても「エレベータでは死ぬことがあるので気をつけましょうね」で終わってしまうかもしれない。だが、それを見て「我慢しろ」と言っている人たちも実は命の危険がある設計のよくない設備で溢れた職場で働いているのかもしれない。声をあげたり他人を助けたりしないことでどんどん自分たちの環境を貧しいものにしてしまうのである。

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大きな政治と小さな政治

わけあってQuoraの政治議論をまとめている。ここで人々が政治を語るときに大きな政治と小さな政治を分けていることに気がついた。




政治というトピック付けをされている話題を見てみたが、日米同盟や中国の台頭、財政のサステナビリティ、選挙制度や野党に対する懐疑的な見方など「大きな話題」が政治にタグ付けされている。一方で、身近な話題は政治とは分けて議論されている。例えば人権やまちづくりは政治課題とは考えられておらず、それぞれ別のトピックになっている。つまり、人々は大きな政治と小さな政治を分けて考えており、それぞれ別物と認識しているのである。そして、日本人は小さな政治はあまり重要視しない。

政治問題を捌く上ではとても面白い視点だと思うのだが、エンドユーザーにはあまり興味のわく話題ではないかもしれない。ここにメディアとしての政治論評の難しさがあるように思える。人々の認識を変えるのはとても難しいのである。

安倍政権を退陣に追い込むためには安倍政権を罵ればいいのか?という直球の質問がありこれに「罵ることは逆効果である」という回答を書いた。すると、たくさんの「高評価」をもらった。お気付きのように昨日書いた塚田国交副大臣の辞任についての記事を焼き直したものである。これが「あたる」かはわからないのだが、安倍政権にうんざりしている人が多いが野党には当面期待できそうにないという人たちの「聞きたい歌」だったからだろう。

これも大きな政治議題の一種であると考えられる。やはり人々は枠組みに興味があるのだ。だが、この道路が必要かという議論だとどうなっていただろう。あまり興味を引けなかったのではないだろうか。つまり日本の政治議論には三種類ある。

  • 従来型の永田町の人間関係(政局報道と呼ばれる)
  • 大きな政治問題(枠組みと制度)
  • 小さな政治問題(人権やまちづくり)

ここに一つ問題がある。小さな課題を積み上げて行かないと安倍政権の後継政権ができないのだ。民主党系の野党の問題はそこにあった。彼らはテレビという大きな問題ばかりを扱うメディアで風に乗ってしまったので、政権が維持できず野党に転落した後も復活ができなかった。統一地方選の一報を見ながらこれを書いているのだが、どうやら立憲民主党も国民民主党も地方の政治課題をすくい上げることができなかったらしい。大きな問題を掲げる(そしてあまり中身のない)維新だけが政権維持に成功した。

メディアとしては大きな問題について取り上げないと読者や視聴者が集まらない。がそればかりを書いていては実際の問題解決につながらないばかりか空中分解につながってしまう。かといって既存のメディアは「政局」という村のいざこざしか取り上げてくれないし、有権者は大きな話題にしか興味がない。だからいつまでたっても実際の政治課題が解決できる新しい勢力が育ってこないのである。

その中でリベラル野党はほとんど期待されていない。どうやらリベラルは「自分たちの正解を押し付ける高慢な人たちだ」と思われているのではないかと思う。さらに彼らは自分たちの理想を仲間と語り合うことに満足してしまい、それをどう実現するのかということにはほとんど関心を向けない。お勉強会の成果をひけらかすばかりで他人の問題解決には興味を示さないのでいつの間にか孤立してしまうのである。彼らの掲げる個人視点というのは「大きなもの」を好む日本人には受け入れてもらえない。彼らの過ちは小さな問題を大きく語るということである。具体的にもなれないし、日本人の好みでもないのだ。

さらに現実的な野党も台頭してこない。こちらの人たちは自民党の失敗待ちになっているのだろう。日本の政治課題は有権者の犠牲なしには成り立たない。今一番の支出は年金であることは誰でも知っている。経済が成長せず少子化も進む以上、年金制度を諦めるか税金の負担を増やして年金制度を支える必要がある。2009年は民主党がリーマンショックの尻拭いをして大変苦労させられた。今度も同じ轍は踏みたくないと彼らが考えていても実は当然なのだ。

小さな政治課題(への認識)がないために、リベラルな野党勢力は「市民が支持する政治」を作れない。さらに国政と地方行政は「細かな利権構造」が異なるためにやがて離反する運命にある。東京、大阪、福岡などの都市圏ではそれぞれ自民党からの離反が起きているのだが、受け皿はリベラル系政党ではなかった。東京と大阪では改革できない改革政党が躍進し、それよりは経済規模が小さい福岡には中央のいうことを聞かない独立王国ができつつある。

北海道の与野党対決を自民党が制したことからわかるように自前で経済が回せない地方は自民党にしがみつくしかない。「分配する人とされる人」のうち「される人」ばかりが自民党にしがみつき、偉そうに負担を命じられる人は自民党本部から離反してゆく。実は日本でも欧米型の「都市対地方」という図式が生まれつつあるのだが、民主党も社会党も役割がもらえなかったというのが、今回の統一地方選挙の総括だろう。そして都市部は明らかにバラバラになりつつある。都市部の意見を集約するアメリカ民主党のような政権が日本にはできなかった。

日本は予算編成(地方では国の補助金の分配のことだ)に関われない野党は没落する運命にある。中央では野党の仲間割れが起こり、地方では共産党を除く総与党化が進んだ。中央の与党は多分ありもしない「市民が主導する立憲民主主義」という机上の理想論を追いかけ続けている。

この破滅の予感を救うのは、小さな社会改良の積み重ねと統合なのだとは思うのだが、日本ではこれは政治課題とは認識されず共有もされない。ここに行き詰まりの原因の一つがあると思う。政治テーマの議論を整理していて、個人的な問題と見なされがちな小さな社会問題をどう「国内政治課題」に格上げするのかというのが大きなテーマなのではないかと思った。

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