登戸の駅前で通り魔事件があった。将来のある聡明な小学校六年生の女の子と外務省に勤める有能な男性が亡くなった。カトリック系の学校ということで「神様って本当に理不尽なことをするものだな」と思った。
刺された子供達は何も悪いことをしたわけではない。にもかかわらずこんな目にあっていいはずはない。最初に感じるのは怒りだ。では、我々は何に怒るべきなのだろうか。
そう考えながら事件報道を見ていて、番組担当者たちが戸惑っているであろう様子が印象に残った。いつもの「あれ」が全く通じないのである。
事件報道に限らず実名報道は「国民の知る権利を担保するため」ということになっている。日本新聞協会の「実名と報道」というリーフレットによると、報道の自由は民主主義社会を健全に保つためにあるという。
だが、それがもはや単なる「お話」でしかないことを我々は知っている。少なくとも事件報道において、報道の自由は「悪いものを探して勝手に裁くため」にある。報道の自由は「正義の側にいる人たち」がその報酬として間違った人たちを「無制限に叩いく」権利を行使するために事件報道は奉仕しているのである。
報道が気にしたのは「学校に非難が向かないようにする」ということだったようだ。学校はやるべきことはやっていたと繰り返されている。まさにその通りだとは思うのだが、背景には「怒りの矛先が犯人に向かわないので、世論が学校を代理で叩きかねない」という懸念があったからだろう。彼らはそれくらい「怒り」を意識して番組を作っている。うまく使えれば商売のいい焚付けになるが、間違えると自分たちが焼かれかねない。
学校に非難が向きかねないのは、岩崎隆一容疑者が読者や視聴者に「叩きがいのある素材を提供」しなかったからだ。だからこの事件は恐ろしい。
「川崎市在住51歳の岩崎容疑者」は、社会との接点がほとんどなかったようである。職業も今の所わからないし、そもそも働いているかどうかもわからない。さらに家族(親戚だったようだが)彼には興味がない。つまり、住所と名前と年齢を報道することができてもそれ以外の「叩ける」情報がない。今唯一伝えられているのは「近所の家に怒鳴り込んだことがあるらしい」という情報だけであるが、それを叩いたところでインパクトに欠ける。
ではなぜ我々は容疑者や犯人を叩きたがるのか。それはカウンターの意見をみるとわかる。「包摂すれば良い」というものだ。これは全く異なるアプローチのように見えて実は同じことである。恫喝かあるいは懐柔かという取引なのだ。世間は何か問題を起こした人と様々な取引を試みる。そこに後付けで理由をつけるのだが、本質的には「理不尽さが怖いから」だろう。
原因追求をしたいというのは遺族にとっては切実な欲求だろう。ある日突然愛していた家族(娘や父親)を失ったのだ。それは人生で起こり得る最大限の理不尽であり、なんらかの理由付けがなければ受け入れるなど到底不可能である。
だが、それ以外の人々にとっては、原因解明は理不尽さの解消とは何の関係もないことである。包摂が大切だとわかったとしても、彼らは自分たちの隣人に優しくしたりしないだろう。
彼らが報道や裁判を通じて犯人や容疑者の言い分を知りたがるのは、それを否定することで犯人や容疑者を「裁く」ためであり、ある種の取引である。しかも、それを裁いただけでは飽き足らず、犯人や容疑者の社会的生命や生命を奪うことで「全能感」を味わう。
ところが、今回の場合「最初から奪えるものがない」。彼の人生には社会的にはほとんど見るところがなかったようだし、悲しむ家族もいなかった。自殺してしまったので死刑にもできない。なんらかの取引ができないと、我々は「どうしていいかわからない」という感覚を得るのだ。
いわゆる「無敵の人」の恐ろしさはそこにある。逆に「一人で死ぬべきだと発信すべきではない」という意見(藤田孝典)も取引の一種でしかない。残念なのだが「次の凶行を生まないためでもある。」という一文は取引そのものである。
社会が包摂的になるのはテロを防ぐためではない。優しい社会が誰に取っても住みやすいからだ。藤田さんはこれが社会に受け入れられないだろうことを予測してこの文章を書いているのだろう。そして、包摂によってこの種の事件がなくなるのかといえばそうではない。共生型の社会であれば競争に参加することすらなく切り離された人というのが少なく済むはずと思いたくなるが、共生型のノルウェーでも拡大自殺的なノルウェー連続テロ事件が起きている。だったら包摂なんか意味がないと考えるのなら、そもそもそれは包摂型社会ではない。単なる取引である。
岩崎隆一容疑者が提示した問題はそこにある。社会にいる「もはや何の取引も望んでいない人」が理論上の存在ではなく実在しているということだ。そして取引がない以上社会はそれに対処できないのである。
例えば、高齢者が運転する自動車でも同じような理不尽は毎日起きている。誰からの助けも求められない(あるいは求めたくない)人が車に乗って通行人に突進してゆくという社会現象である。こちらは技術的にはいくらでも対応が可能だが、それでもそれをやろうという人はおらず、高齢者や家族が非難されるばかりである。解決が可能な問題でも対処せず取引で済ませようとするのだから、そもそも取引ができない問題に対処することなどできないだろう。
社会はしばらくの間「かつてあった安心・安全が取り上げられた」ことに対して怒りをぶつけられるものを探してなんらかの取引を試みるだろう。だが、現実問題としてはもはや理不尽な危険に対処するしかない。社会は変わってしまったということを我々は受け入れるしかないのではないだろうか。