津田大介に見る表現の不自由と議論の不在問題

あいちトリエンナーレの表現の「表現の不自由展・その後」が炎上した。最初は変な問題でモメるなあと思っていたのだが瞬く間に延焼し1日で大問題になった。Twitterでは現代芸術に興味がなさそうな人たちが吹き上がっていたのが印象的だったのだが最終的に日本人はこのレベルのcontroversyを扱えないのかと思った。表現の自由ではなく、議論が不在なのである。日本人はとにかく議論ができない。




この問題は、表現の自由・テロへの脅威・検閲(政治家の表現への関与)・SNSの侵食というような問題がヘドロのように塊を作っている。これを一挙に白黒つけるのは誰にも無理だろう。だが不思議なことにこの議論に参加する人は勝手に心象を作り出してそれを他人にぶつけるか当惑している。情報が飛び交っており正確でないものもあるかもしれないが、一つひとつ見て行こう。

テロに屈した・あるいはテロを言い訳にして表現への介入を避けようとした

最初に考えたのは、慰安婦像を持ち出したくらいで「ガソリンを撒くぞ」というのはいかにも不自由な世の中だなあというものだった。大村知事は慰安婦像の評価を避けつつ「安全確保」を理由に逃げたのかなあとも思ったが、結果的に「テロを許容するのか」ということになってしまった。津田によると「電話で文化を潰す」行為だ。

実際に脅迫に屈したならそれはそれで大問題だ。だが、政治家(名古屋市長)が彼の価値判断で中止を要請し、菅官房長官が補助金について仄めかしている。この線で中止したとなると憲法が禁止する検閲になってしまう。そこで京アニを引き合いに出したのだが、今度は電話をかけた人に屈して展示を中止したことになってしまった。これは威力業務妨害だと言っているのに等しい。ということで、これが一つの議論の塊を形成している。

津田さんは反響の大きさに驚いたと言っているが、Twitterでは遊びですんでいることも現実世界では大変なことになる。トリエンナーレという場所で表現の自由ごっこをして炎上したから強くなって逃げたのだと言われても仕方ないだろうと思う。河村名古屋市長も「朝生」のつもりで発言したのかもしれない。

政治家が簡単に表現を恫喝するが誰も反応しない

菅官房長官は補助金について仄めかした。この人はこれが政治家の恫喝になることにまだ気がついていないようだ。韓国との間でもこれで失敗している。自民党の内部で横行する仄めかしによる恫喝は自民党の外では通用しない。つまり自民党の反社会性の現れになっている。

ホワイト国と徴用工の問題を仄めかしたことは韓国の反発を呼び国際社会を呆れさせた。官邸は相手が吹き上がってから「いやそんなつもりではなかった」などと言い繕っているのだが、もう手遅れだろう。今回の件も芸術に政治が関与したと批判されることになるかもしれない。

国内問題で済めばいいが追い詰められた側が話をエスカレートさせれば「日本は言論統制国家だ」ということになりかねない。自分たちの心象に固執し、外からの眼差しが全く欠けているのである。

140文字で簡単に炎上する国

次の問題は芸術と文脈である。日本は右翼左翼という枠組みで簡単に炎上してしまう世の中になっておりTwitterが大きな役割を果たしている。前回「Twitterがなぜ炎上しやすいか」について観察したのだが、問題に対して耐性がなくなっているところに刺激ばかりが増えて中毒を起こしているのだろう。慰安婦はその記号になっている。140文字で語れるのは記号の良し悪しだけだ。

140文字で「政治や表現について語れた」と勘違いする人も大勢いるんだろうなあと思った。撤退に追い込んだことで満足感を得た人もいると思うのだが、慰安婦像を否定したのではなくガソリンを撒くぞという暴力を肯定しているに過ぎないのだが、それでも「実質的に慰安婦が否定された!」と意気込んでいる人を見かけた。

今後、日本では「芸術展」という限られた場所でじっくり考えるということがこの先できなくなるのかもしれない。SNSが芸術展を侵食しているというのは、例えていえば映画館に右翼の街宣車が乗り込んでくるようなものである。つまり我々はTwitterレベル以上のことを社会で考えられなくなるということである。

この乱暴さを示すエピソードがこの騒ぎには内蔵されている。それがご尊影を焼いたという話である。実際には文脈があるので、それを説明した上で展示すべきだ。多分、美術展の中ではそういう工夫がされていたのではないかと思う。

ところがこれが韓国KBSで抜かれたようである。問題はそれをさらにTwitterが抜いてSNSで背景なしで拡散されてしまったという点である。一般参加者には映像をとるなと言っていたようなのだが、マスコミにも絵を抜かせてはいけなかった。津田は安易に逃げたことで、結果的に文化行為そのものを破壊しようとしている。

「お芸術」から抜けられなかった日本の表現と言論プロレスから抜けられなかた論壇という痛々しい光景

高度経済成長時代の中流家庭には百科事典や美術全集が置かれていた。こういうものをおくのが「ゆとりのある文化的な生活だ」と考えられたからである。日本人は憧れとして美術を捉えているのではないかと思う。「愛知にも先進的な文化生活を」というわけである。こういう「オシャレな文化事業」でコントロバーシャル(議論が分かれるような)な問題を取り扱うことはできないということはわかった。

保守は国費で不適切な表現を扱うのかとまるで国家権力が完全に自分たちの自由になると勘違いしているようだし、津田の側は税金さえ入らなければ何を言っても自分たちの自由ですよねと言わんばかりである。

そもそも自動化された慰安婦像を持ち出して手軽なコントロバーシャルを作ろうとしたところに「手軽に炎上させて注目を集めよう」という軽さが見られるし、検閲に当たるという自覚もなくそれに介入した政治家というのも痛々しい。ここまではテレビ論壇の言論プロレスだ。自分たちが現実世界でどのような影響力を持っているかということに気がつけなかったことになる。いずれにせよ、江川紹子さんが指摘しているようにジャーナリズムのテンションとTwitter言論プロレスでは緊張感が全く異なる。

この一連の出来事がパフォーマンスアートだったのだと考えれば、それは言論の不自由さを証明したわけではないと思う。単に議論の不在が浮き彫りになっただけである。我々は居間に飾ってある印象派の画集から抜けられず、テレビ的な言論プロレスからも抜けられず、さらにはTwitterの140文字の枠を超えて思考することを自ら禁じようとしているのだ。

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主語のない言語 – 日本語は情報を通して把握していない

スーパーで、東京オリパラ2020、いよいよ1年前!というポスターを見つけた。このポスターを読んで違和感を持ったので「これおかしいですよね」と書いた。違和感があるとか、下手なコピーであるというようなコメントはあったが「文法的に間違っている」という人は、一人を除いていなかった。その一人は日本人だが英語が堪能で今はドイツに住んでいる人だった。




このポスターがおかしいと感じるのは、これを文章として捉えているからだろう。「東京オリパラは今から1年後です」が正しい文章だ。つまり文法的に間違っているのだ。

ではこれをおかしいと判断していない人は、なぜおかしいと感じないのか。それは東京オリパラ2020年。今はいよいよその一年前!と分けて読んでいるからなのだろう。つまり日本語には英語のような「センテンス」がそもそもなく、語句の集合体なのだ。文章はこの語句にジョイントをつけているだけなのである。

このポスターが通じるのは日本人なら誰でも東京オリパラが今から1年後にあると知っているからである。経験を同じくする人たちの間では「いよいよ一年前!」というと、隠れた主語が「今」であるとわかる。多分、経験を同じくする人たちの間で鹿話されてこなかった日本語には主語が要らないのはそのためだ。

この文章において東京2020オリパラは「主題」であって「いよいよ1年前!」というのは単体の語句だと考えればいい。そして文章としては「今はいよいよ1年前!」が正しい日本語の読み方なのである。だから「東京2020オリパラ」のフォントと色を変えればよかったのにというコメントがついた。別々の文章であると明示すれば矛盾はなくなる。また「前」は前向きだが「後」は後ろ向きというコメントもあった。正確さよりも感じの良さが優先されるというのは仮説としてはとても面白い。

英語やドイツ語といった印欧語には主語と述語があり位置関係で役割が決まる。当然東京2020が主語でいよいよ1年前が述部だということになる。するとこの文章は間違いということになる。つまり、英語話者は単語から文章を「作ってしまう」ことになる。

そもそもこの文章は英語に訳せない。英語にするには「今は東京オリパラまで一年」としなければならない。世紀の文法では形式主語を立ててnowを補足に使うことになるのだろう。関係でなく距離を使わないと文章にならない。関係で記述しようとすると、2020年と2019年という二つの軸ができてしまうので文章も二つになる。

だから日本語で発想する人の英語には限界が生じる。日本語はそれぞれバラバラの単語や単語の塊がありマーカーをつけて連想して記述できる。構造を意識しなくてもいいので、構造に落とせない文章が出てきてしまうのである。日本語の方が自由度は高いがその分正確さにかける文章も書けてしまうということになる。

よくQuoraで句点が多く読みにくい文章を見かける。高齢者が連想的に文章を作っているようだ。日本語ではこういう文章が書けてしまうのだなあと思う。連想的に作られる文章の主題は「いい悪い」という感情なのでそれがすなわち心象藪ということになるのかもしれない。

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なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか

最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。




れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。

維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。

ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。

そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。

それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。

やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。

モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。

適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。

気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。

Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。

さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。

問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。

情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。

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議論できない日本人と大衆扇動者

Newsweekの記事を参考にQuoraでれいわ新選組を左派ポピュリズムと書いたところコメントをもらった。心象藪の典型だと思うのだが、さすがに引用してネタに使うのははばかられるので引用はしないことにする。ただ、心象藪について書いた後だったのでコメントの混乱ぶりがとても面白かった。




この文章は、右派左派という分け方が昭和的だという指摘で始まる。昭和的とは「時代にあっていない」という意味なのだろう。そして、右派の教祖として崇められていた小林よしのりが安倍首相かられいわ新選組の応援にシフトしようとしているのだかられいわ新選組は保守だと続く。時代は進歩しているのだといいつつも、左派というラベルに違和感を感じていることがわかると同時に、彼にとって政治的ラベルは単なる悪口なんだなということも読み取れる。

その違和感の正体は次にわかる。「変化に抗っていると1970年代のようなLove & Peaceのような状態になってしまうだろう」という記述があるからだ。つまり、左派運動に対して「社会の責任を取らない無責任な運動」という印象を持っていることになる。つまり、昭和的な左派像を引きずっているのである。

ところがここで突然話が大きくなる。政治課題というのは大きくて重いテーマであり、それを扱っている自分も大きくて重いということになるだろう。Foreign Affairでアメリカは衰退する同盟国であるイギリスや日本とどう付き合うかという論文が掲載されており、時代はアジアにシフトしている。アジアは日本をスキップしアジアで経済圏を作ろうとしているようだとまとめられている。

まず、この人の文章が経験から培った「良いもの・悪いもの」という心象に彩られて彼オリジナルの世界観を作っていることがわかる。日本人は俯瞰的な視点を一切持たないのでこの枠から出ることはない。ここで彼に言えるのは彼の心象を理解して「そういう理解をお持ちなのですね」と曖昧に微笑むことだけである。

この人はれいわ新選組には親和的だが左派は嫌いなようだ。なのでこの二つが重ねられるのが嫌なのだろう。ただそれを言えないので「時代遅れである」というラベリングで乗り切ろうとしている。

次にわかるのは、それぞれの論理が俳句のように構成されているという点だ。その中での理論構成はあるが次のフレーズに引き継がれていない。それどころか「話を大きく偉大にしなければ」という別のドライブが続き連想的に話題が移り変わってゆく。

れいわ新選組は左派であるということを否定するのに時代遅れだというフレーズを使っているが、左派は無責任だというのも昭和の印象である。ただ、これが「論理として破綻している」と思うのは、読み手である私がこの文章から一連のロジックを読み取ろうとしているからに過ぎない。

彼が言いたいのは「れいわ新選組は良い」ということである。彼にとっては「小林よしのりもいい」のだから彼の側から見れば一貫したロジックはある。彼は良いものという主題で文章を綴っていることになる。つまり、政治的議論ではなく政治を季語にした連作俳句なのだと思って鑑賞するのが良いのだ。逆に左派はLove & Peaceで悪いものなのだろうし、政治は大きくてえらいものなのだろう。心象の吐露だと考えれば他人を傷つけているわけではなく特に問題はない。

心象藪とは心の中にある「良いもの」と「悪いもの」の表のようなものかもしれない。なのでドメスティクな人と政治議論をしてはいけない。

ところが全く別のところで、別の心象藪を見た。Quoraで「とりあえずビール」について聞いた。すると「とりあえずビール」が成り立つためには誰にでも飽きられないビールの味の追求があるのだという指摘があった。そこで嫌われない味を作ったんですねと書いた。つまり、味からこだわりをなくせばどんな食事にも合うビールが作れるからである。それが気に入らなかったらしい。「日本人の食を研究した結果である」と返ってきた。つまり「日本のビールは無難」というのがこの人にとっては「悪い」ラベルだったのだろう。

ゆえにドメスティックな人と議論をすることはできない。日本人が求めるのは心象俳句に対する情緒的な同調だけである。「何が良くて何が悪いか」は外から見てもわからない。誰にも嫌われない=どんな食事にでも合うというのは両立する価値観である。

山本太郎の話に戻る。Newsweekの記事はヨーロッパの流れを踏まえて山本を左派ポピュリズムと呼んでいる。背景には格差の拡大や変化などの問題がある。つまり、パターンに当てはめることで分析ができるようになる。

れいわ新選組は社会からこぼれ落ちている人たちの不満をすくい取るために、左派的な運動体を利用した。だからTwitterでは「初めて涙がでた」と表現されたのである。つまり、あの文章で重要なのは実はれいわ新選組ではなく「日本にもこぼれ落ちた人々がいて政治的なプレゼンスを持ち始めたらしい」という点なのである。

れいわ新選組の候補者の中にもあの記事に噛み付いた人がいるようだ。面倒なので引用はしないが「れいわ新選組は左派ポピュリストではなく無縁者の集まりだ」と言っている。どういう自意識を持つのかはそれぞれの自由なのだが議論には役に立たない。問題は当事者の心象ではなくどういう社会状況かという点だからである。

ここまで日本人は心象藪から出られないという視点で問題を見てきたのだが、ここで気になることがある。心象藪の中にいる人は他人を動かせない。では山本太郎はどうして政治的ムーブメントを作れたのかという疑問が出てくる。すると、彼は藪の中から這い出てきたのではないかという仮説が生まれる。

ここで重要なのは山本太郎がどのような立ち位置で自分たちを見ているかである。同じ左派運動でも福島瑞穂などは自分の心象風景しか語らなかったので大衆から離反されてしまった。心象藪をでて鳥瞰的な視点を持った人はムーブメントが作れるのだが、同時に大衆から一歩距離をおいた扇動者になる可能性があるということでもある。これは今後の注目点かもしれない。

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日本のテレビは勝手に大本営発表を流すところまで追い詰められている

日本のテレビとアメリカのテレビ(正確にはストリーミングだが)を同時に見ていて不思議な気分になった。日本のテレビは延々と韓国についてやっていた。「日本は何も悪いことはしていない」のに韓国がWTOに提訴すると息巻いているという話である。細川昌彦さんという目だけが笑っていない元官僚が出てきて「今騒ぐと損ですよ」と触れて歩いている。この間世界で何が起こっているかという報道はおやすみである。




最近日本のテレビを見ていると「見たくないものから目をそらすために忙しいふりをしているんだな」と思えるものが多い。

参議院議員選挙で話し合わなければならない問題はたくさんあるのだが、誰もそのことには触れようとしない。

例えば年金が2000万円足りないという問題やかんぽ生命をめぐる一連の騒動は「高齢者が老後の資金を安定的に管理できずしたがって消費が停滞するであろう」という大問題である。だが、これを認めることは老後不安と対面すしなければならない。個人で直面するにはあまりにも大きな問題である。

金融庁には金融庁の危機感がある。彼らは彼らの植民地である地銀を守りたいという気持ちがあるのだろう。独自の正義感が暴走するという意味では「関東軍」に似ている。金融庁の焦りは「政治家はちっともわかっていないから自分たちがなんとかせねば」というものなのだろう。支援されないが有能でやる気がある集団の暴走はとても恐ろしい。やがて倫理観が麻痺してしまうからである。

マスコミはこの問題に対して「年金を守るためにはどうしたらいいのか」という自己防衛説話を流し始めた。公共や国家が信頼できない時できるのは自己防衛だけだ。マスコミには「国はあてにできないが表立っては抗議できない」という確信だけがあるのだろう。

こうした地殻変動は外からもやってくる。日米同盟がもう当分あてにできないだろうという情報がSNSでダイレクトに飛び込んでくるようになった。

アメリカの今の状況を見ていると、選挙キャンペーンのためにはなんでもありの状態になっている。ABCのニュースはアメリカもまた「閉鎖的な動物園の熱狂」にさらされていることを伝えている。アメリカは移民によって成り立っている国なので、人種や出身地についての屈辱的発言は最大の政治的タブーのはずだ。だが、トランプ大統領はそれを軽々と超えてくる。そしてそれに対して感情的に抗議する大勢の人がいる。

今後この件は日本の安全保障・エネルギー問題・憲法改正問題にリンクしてゆくだろう。多分、外交・防衛部局の人達はアメリカのニュースを見ながら大いに慌てているはずである。彼らが政治家に支援も理解もされていないと考えた時、どのような暴走をするのかと考えるとちょっと暗い気持ちになる。おそらくその暴走も我々を不安に陥れるだろうが、マスコミは見て見ぬ振りをして「自己防衛」を呼びかけるだろう。

日本の議会政治はあまりあてにならなかったが、官僚システムと日米同盟という二つの地殻は割と盤石だった。ここにきてそのどちらもが揺れているように思える。だが、その振動があまりにも大きすぎて「もう笑うしかない」という状態になっている。

日本のテレビ局は、国からの恫喝やそれを支援する人たちの抗議に怯えて参議院議員選挙がまともに報道できない。それは仲間のテレビ局が政府からの干渉に一緒に抗議してくれるであろうという確信が持てないからだろう。そうなると何かもっと重要な問題で時間を埋めなければならなくなる。韓国の話題はそんなテレビ局が取り上げられる唯一の「政治のお話」まmpだ。

誰もが韓国は日本より序列が下だと感じているので視聴者からの抗議はない。だが、テレビ局は「今が安心」というメッセージ以外は流せない。だから、テレビ局は細川昌彦さんを呼んで「日本は悪くない」「この戦争は絶対に日本が負けない」というようなことを説明させている。元インサイダーに語らせておけば取材もいらない。いわば大本営発表を垂れ流しているのだが官邸が関与しているとは思えない。テレビ局が元官僚と組んで自発的に大本営発表を流さなければならないほど日本のジャーナリズムは弱体化し追い詰められ価値をなくしている。

ジャーナリズムはもう何を知るべきかという指針を示してくれないし、本当に知りたいことは何一つ取材できない。さらに官邸も暴走気味にこの問題を煽ってきたのでマスコミは官邸の指示も仰げない。

ここから想像する未来は単純だ。日本は地滑り的な変動が起きているという認識を持てないまま状況の変化に流されてゆくということになるだろう。

例えば、バブルが崩壊した時も我々は構造的な変化が起きているということを認められず、したがって構造的な変化を作れなかった。社会的な取り組みができないのだから、我々に残された道は自己防衛だけだ。

日本の企業は終身雇用のなし崩し的な破壊と金融機関からの依存脱却という「自己防衛」に走り、「いわゆるデフレマインド」という長期的な沈滞に陥った。背景にあるのは徹底した公共や社会に対する不信だろう。そして不信感を持てば持つほどそれは自己強化されてしまういまいましい予言なのだ。

実は日本のマスコミは社会や公共というものを全く信じていない。それは単に彼らの思い込みだと思うのだが、多分既存のメディアがその殻を破ることはできないだろう。なぜならば彼らの思い込みは彼ら自身を縛り、なおかつ視聴者も縛るからだ。

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ニューヨークタイムス紙によると日本は独裁体制を彷彿とさせる国らしい

The NewYorkTimes(ニューヨーク・タイムズ)が面白い記事を書いている。望月衣塑子記者を官邸と戦う記者としてフィーチャーしているのだ。「記者が日本でたくさん質問をする。それは日本では普通ではない」というようなタイトルである。




朝日新聞は好意的に書いており記者クラブ制度については触れている。ただタイトルだけ読むとThe NewYorkTimesが政権批判したと読み取れるのだが実際に批判されているのは新聞そのものである。また、朝日には削った箇所がある。それが「男性中心の秩序に挑戦している」という部分だ。彼らは日本人は英語が読めないであろうと考え印象操作してしまっているのだが、あるいは自分たちの認知不協和を癒そうとしているのかもしれない。

サンケイスポーツはずいぶん煽った書き方をしている。望月記者は国民的英雄であり独裁政権のように振る舞う政権に挑戦していると言っている。逆に反発心を煽ろうとしている感じがする。

だが記事が「独裁体制を彷彿と(reminiscent of authoritarian regimes)」と言っているのは確かである。

記事は東京新聞の望月記者の攻めた報道姿勢は市民の間に支持者が多いと言っている。国連報告者のデビッド・ケイもその姿勢を「意味のあることだ」と積極的に評価する。この辺りは、反政権的な姿勢の人たちにも好意的に受け止められそうである。だが記事はそこでは終わらない。

東京大学の林香里さんは「望月記者は男性中心社会を攻撃している」と言っている。つまり望月記者は「報道の自由」だけでなく「男性社会に挑戦する」ヒロインと捉えられているわけである。これはアメリカ人が持っている典型的な日本人像である。つまり日本は女性が男性に従うだけの封建国家であると考えられている。

記事を読むと「日本はアメリカ占領時代に作られた憲法があり報道の自由が守られた民主主義国」のはずだが、男性中心の古臭い人たちがそれを拒もうとしていて、女性差別もその一環であるというような印象で書かれているように思える。

記事をだけを読むと、日本の報道は男性の絆で維持されたジャーナリズムは封建的な(これは記事には出てこない言葉なのだが)体制の維持に協力してきた協力者であるという印象を持つだろう。記者クラブは地方の警察署のような小さな組織から首相官邸まで記者クラブがあり会員以外を排除しようとしているというのはアメリカ人から見れば言論統制だからだ。

外国人記者は記者クラブ制度に入れてもらえない。そのため外国人特派員協会を作ったり記者クラブ制度の廃止を訴えている。ジャーナリストといえどもやはり「中立」にはなりえないということがよくわかる。ただ、これだけでは不十分なので「抑圧された女性」という別の視点を入れて記事を補強しているのだ。伊藤詩織さんの時もそうだったが「旧弊な体制に立ち向かう勇敢な女性」というのは心情的にわかりやすい。だからこそ記事になるのだが、それだけ危険でもある。

これは日本人が中国や香港の民主化運動を極端に持ち上げるのに似た姿勢だ。日本も自分たちは中国よりマシな民主主義国だと思っている。そこで「中国の人民は無知ゆえに騙されているのだろう」と考えると同時に、体制に反抗する人たちを過度に持ち上げてしまうことがある。アメリカ人は民主主義や民衆の知る権利を至上のものと考えており、そうでない社会が崩れて変わってゆくことを求めている。ある種のスーパーマン願望を持っているのだ。

多分、この記事を日本語で読むと日本人の中には嫌な気分になる人が多いに違いない。例えば政府に対して疑問があっても「日本は男性社会であり」という部分に抵抗感を持つ人もいるだろうし、アメリカ占領時代に民主主義を与えてやったのに権威主義的な体制を維持しているという上から目線の論調に辟易する人もいるだろう。

実はアメリカでもこうした「上から目線」にうんざりした人たちが増えているのではないかと思う。The NewYorkTimesはアメリカでは有名なクオリティペーパーだが、同時に「エスタブリッシュメントの代表」だと思われている。オバマ大統領は立派なことを言っていたが結局何もしてくれなかったと考える人が、わかりやすいトランプ大統領になびき、バーニーサンダーズ大統領候補のわかりやすい言葉に親しみを感じている。

つまり彼らが高邁な理想主義を掲げれば掲げるほどそれに反発する人が出てくる。スーパーマンはもうヒーローではいられなくなってしまい今度は批判の対象になるのである。

朝日新聞もある程度まではこの記事や望月記者にシンパシーを持つだろう。記者クラブは政府の広報機関になっており自分たちの正しいはずの理想主義が共有されないという苛立ちはありそうだ。しかし、それでも彼らは男性中心の編集姿勢に踏み込まれれば反発するだろう。みんなに感謝されるスーパーマンが家では抑圧的な男尊女卑主義者だったというのは彼らには受け入れられないだろう。だから朝日新聞は記事のその部分を紹介しなかったのかもしれない。

ということでこの記事は全文読んだ上で分析するとなかなか面白い仕上がりになっている。The NewYorkTimesは登録すると毎月何本かの無料記事が読める。

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我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。

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秋田県民を非国民呼ばわりする人たち – 他人を縛る喜びを知ってしまった日本人

先日から承認欲求について考えている。今回はイージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかにについて考える。




前回は個人の承認欲求について考えた。日本人は個人の承認欲求を悪いものだと考える傾向が強い。一方で、日本人は集団を通じて理不尽な要求を突きつけることがある。

例示したの理不尽さにはいろいろある。体育会の理不尽な指導、意味のわからない拘束、ハイヒールの強要など、我々の暮らしは理不尽に満ちている。日本人は理不尽さで人を縛ることで「支配している」という実感を得る。合理性は屁理屈とみなされ何の役にも立たない。

個人の承認欲求は罪悪感と結びつけられこれが集団での支配欲に誘導されていると考えるとわかりやすい。一種のフレーミングではあるが、これで説明できることは多いと思う。

例えば、就職活動でハイヒールが強要されるのは「私は自分でものを考えず理不尽なルールでも従う従順で従属的な大人です」ということを顕示している。フラットヒールの靴を履くことは異議申し立てであり、これは日本社会では危険分子である。その危険分子の名前は「自分でものを考える人」である。天賦人権すら否定されかねない日本では、個人主義は危険思想なのだ。

ただその支配者は個人ではないし集団でもない。空気という名前をまとった一人一人の集合体である。ゆえに空気とは、個人でも集団でもない一人ひとりの集まりのことだ。群衆と言い換えても良い。

面白いことに、#KuToo運動には関係のない人たちからの反対がある。彼ら群衆は他人を縛る側に立つことで「自分も支配する側なのだ」という満足感を得る。ハイヒールによる抑圧に何の関係もない大人が多数参加するのは理不尽だが、理不尽なものを理不尽に押し付けるからこそ意味が生まれるのである。

テレビのワイドショーは芸能人の不倫を叩き、最近では小室圭さんの母親の借金について「人格がなっていない」と執拗なバッシングを繰り返している。この場合は視聴者という群衆がいる。テレビの前の人たちは団結して不倫叩きをしているわけではないのだが、結果的には大きな集団を形成しているように見える。

いったん「道を外れた」と認定されてしまうと、社会的な死に至るまでそのバッシングが止むことはない。「この辺りでやめようや」という指導者はいないからだ。叩いた側は理不尽に他人に有罪判決を下すことで「自分は支配している側にいるのだ」という満足感を得る。そこで「当事者たちはどうすればいいのだろうか」などと考えてはいけない。彼らは理不尽さの生贄であり集団の全能感を得るために屠られなければならない。

まとまりがないゆえに敵が必要なのだとも言えるし、村落・企業・家族といった集団に依存できなくなったから群衆化したのだとも考えられる。

村落共同体を失った我々は社会や公共を作るまで、目の前の敵を叩きながら群衆の中に身を置くしかない。それまで、空気として他人を叩く群衆は我々の目の前に立ち現れては消えてゆくことになるだろう。

秋田県の佐竹知事は「県民に対して説明ができない」から反対をしているわけでそれは合理的で政治的に正しい。さらに、イージス・アショアに対する政府の説明は不誠実だ。陸上イージスはハワイ、グアムは守れても日本は守れない?という記事ではそのことが論理的に説明されている。

政府が嘘をつかなければならないのは「国民を説得できるだけの信頼がない」ということを彼らが知っているからである。しかしそこで誰かが「信頼してもらえるように頑張ろう」などと集団を鼓舞することはない。群衆として「理不尽を地方に押し付けること」で権威を保とうとしてしまう。だから防衛省の幹部は居眠りをしても構わない。というより、居眠りをすることで理不尽さを演出しているのである。

麻生太郎副総理のように「あからさまに他人を挑発しても権力から降ろされない」ということを堅持し続けることが唯一の有能さの証になることがある。政権運営に失敗して引き摺り下ろされた過去のある麻生副総理は政策によって有能さを示すことができない。このように理不尽さは理不尽さを生み、化け物のように増殖してゆく。

佐竹知事や県によると、県のホームページなどを介し「非国民だ」という内容などの批判が寄せられているといい、知事は「(陸上イージスを引き受けず)『秋田には原発もなく、日本の何の役に立っているのか』『知事辞めろ』といっぱい来ている」などと嘆いた。

「イージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかに

日本は軍事的にはアメリカに依存しており「顔色をうかがわざるをえない」という情けない状態にある。これを忘れるためには理不尽に他人を貶めるしかない。こうして貶められたのが沖縄であり今その列に秋田が加わろうとしている。そしてそれはさらに広がってゆくのかもしれない。

日本人がものすごく悪意の側に傾いているとは思わない。おそらく個人の中にある「ちょっとした傾き」がこうした理不尽を生み出しているのだろう。雲を近くで観察しても触れることはできない。しかしそれを遠くから見ると太陽の光を遮る黒い物体に見える。群衆による理不尽の押し付けとはそういうものである。

日本はこれからトランプ大統領に「同盟破棄を持ち出され」「応分の負担」を求められることになるだろう。しかし話し合いによって解決できない日本人はますます「反日異分子」を国内に求めるようになるのではないかと思う。前回と違ってGHQは来ないのだから、私たち自身がこの雲に直面し「これはあってはならない」と考えるまでこの状況はなくならないだろう。

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承認欲求が個人で病化するアメリカと集団で病化する日本

承認欲求という言葉がある。英語ではdesire for recognitionというそうだ。Quoraを見ていて承認欲求が「日本では否定的にしか使われていない」ことに気がついた。違和感程度のものなのだが、これについて聞いてみた




これまで村落や利益集団について観察し、次に日本人が話し合いできないという様子を見てきた。他人と話し合えないため日本人は村落(ずいぶん理想化されてしまっているとは思うが)のような居心地の良い環境を再構築できず、今の不安な社会があるのだということがわかってきた。

次に気になるのはなぜ日本人がお互いの違いを尊重しあえないのかという点である。そんなことを考えながらSNSを見ていて日本人が他人の自己顕示や承認欲求をかなりネガティブに捉えているのだなということがわかった。

アメリカで自己実現欲求が肯定的に語られるのは「個人が成長すべきだ」とされる個人競争社会だからだろう。社会的に自己実現欲求を肯定的に向かわせてそれを社会全体の成長につなげようという考え方がある。だが、日本ではそれが育たなかったので社会の成長はとまり日本人は自己肯定感の欠如に悩むようになった。子供の自己肯定感の低さはかなり深刻なレベルにある。

回答がいくつか寄せられたのだが、承認欲求という言葉が「SNSでの行き過ぎた行為」と結びつけられていることに驚いた。SNSでバイトテロをするのが承認欲求だというのである。正直どうしてこういう結びつきになるのかがわからなかった。インスタグラムに出てくるような「無害な承認欲求」は無視されてしまいこうした病的なものだけを心に止める人がいるのだろうなということだけはわかった。

ただ、自己承認欲求が否定的に取らられるのは日本だけの現象でもないようである。アメリカでも承認欲求がネガティブに捉えられるということがあるそうだ。英語にもValidation from othersという言い方があるという。

リースマンの「孤独の群衆」に他人志向という概念がある。第二次世界大戦後にアメリカの社会が流動化したとき、これまでの社会規範に沿って生きられなくなった人が「陥った」とされる状態である。コトバンクに解説が収録されている。この結果、アメリカでは自分の価値観をしっかり持って「他人に流されないようにする」のが良しとされるようになった。

今でもアメリカには自分の軸が持てない人が大勢いるのだろう。個人競争社会のアメリカではこうした人々は許容されない。他人依存の承認欲求がValidation from othersと呼ばれるのではないかと思った。

中には「動物愛護」という大義に頼る人もいる。これが行き過ぎると「他人の迷惑行為が病的に気になる」人たちを生み出す。例えばビーガンは肉食主義者を攻撃したり、捕鯨国を攻撃したりする。個人社会で自己顕示欲求が病化し攻撃性を帯びたのが彼らなのだろう。

そのように考えると、バイトテロが日本流の歪んだ自己承認欲求なのだということがわかる。こちらは攻撃が集団化している。

バイトテロの映像を仲間内で自慢すれば「あいつは度胸があるやつだ」ということにはなるかもしれない。そう考えると「外からは危険視されるが中では度胸が認められる」という集団の承認欲求ということになる。そしてそれは彼らなりの「支配に対する抵抗の形」なのだろう。世の中に空気のような規範があり「それに抵抗してみせる」ことで「まだ飲み込まれていないのだぞ」と示しているということだ。

こうした集団の自己顕示欲求は「空気の奴隷」に攻撃されやすい。最近では「自分に合った靴が履きたい#KuToo」ことすら社会運動になっている。あれは空気の奴隷の解放運動であり、空気に従属しつづけたい人たちから見れば「挑戦されているように」みえるのかもしれない。だから、#KuToo運動に否定的な見方をする人が意外と多い。

我々は「自己の成長による高次の承認欲求(マズロー)」というようなモデルを採用してしまっているので「自己承認欲求」をついつい高次の考えてしまう。しかし空気に飲み込まれそうな個人の抵抗運動も自己承認欲求になるのだろう。そして、空気の奴隷であることを選択した人たちからの攻撃を受けるのだ。そこにあるのは「彼らだけが解放されるのはずるい」という感覚なのかもしれない。

ではなぜ空気の奴隷からの解放運動は人々に反対されるのだろうか。

#KuToo運動で冠婚葬祭業のマネージャーがハイヒールを強要するのは「理不尽なルールを設定する側」に立つことで支配者は誰かを示すためである。こうした理不尽なマネージメント慣行は第二次世界大戦頃にはすでにあったのではないか。

軍隊に入った軍曹レベルの人たちが「平和ならば話すらさせてもらえなかった」ような高学歴の二等兵・一等兵に理不尽ないじめを行うのも理不尽による支配である。軍曹たちは理不尽な欲求を突きつけることで「誰が命令する側なのか」を顕示する。これが戦後の学校教育に導入され体育会のしごきや意味のない拘束につながった。社会経験に乏しく学校しか知らない人たちが行える唯一のコーチングが「理不尽による支配」だったのだ。

こうした理不尽さに従属し「従わせる側」に回ることで、我々は集団を通じた歪んだ自己実現欲求を満たすことができ社会から承認されたような気分になる。これは集団的に病化した自己承認欲求だが、意外と社会から肯定的な見方をされることがある。体罰容認論が未だになくならないのがその証拠である。

体罰も健康を損なう靴が肯定される。よく考えてみるとかなりおかしな社会を我々は生き餌いる。

ようやく村から解放された日本人は、空気という誰が作ったのかもわからない規範にがんじがらめにされ、あるいは進んで捕縛され、お互いを縛りあうようになった。こうした状態で「健全な個人の自己承認欲求」など育つはずはない。自己承認欲求は社会を発展させる起爆剤にもなれば、我々を縛る見えない縄にもなるということだろうか。

自由を諦めた方が楽な社会では「承認欲求は人を苦しめるからなくしたい」という切実な質問が生まれ、それを肯定する回答がつく。お互いが認め合うところから始めれば自己実現欲求を通じて建設的な社会が作られ、理不尽さで縛り合えば「いっそ奴隷になった方が楽」な社会が作られるということだ。

一応の整理が終わったので「インスタで自己実現してもいいですか?」という質問をしてみたが答えがつかなかった。いたって真面目な質問だったのだが、ふざけていると思われたのかもしれない。こうした自己実現はチャラチャラした芸能人に憧れる幼稚な思考であって決して真面目に捉えられるべきではないと考えられているのではないだろうか。

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税か国債か – ちょっとおかしな議論を展開してみる

最近、Quoraで展開しているお気に入りの理論がある。「税も国債も一緒」というものだ。なんちゃって議論としてとても気に入っている。ここから見えてくるのは「公共なき社会」が陥った袋小路である。




まず前提から確認して行きたい。「日本の企業は法人税を支払わなくなっている」という前提が本当なのかを検証する必要がある。

まず日本では直間シフトが始まっている。所得税と法人税が減っていて消費税が増えている。法人税がピークだったのは平成元年あたりである。つまりバブル崩壊と一緒に法人税の減収が始まっている。この直間シフトの裏に何があるかはよくわからないが、官僚の政治不信だと思う。政治に左右されず安定した税収が見込める一般間接税に移行したいと考えるといろいろと説明がつくからである。つまり官僚は政治家を信頼していない。

次に企業の内部留保は増えている。最近では企業の蓄積を「内部留保」とかっこ書きなしに使っているようだ。経常収支も黒字なので留保した金を使って海外に投資したり日本の政府に貸しているのであろうということがわかる。

ちなみに最新の資料では家計は1%程度しか国債を保有しておらず、海外の比率は10%を超えたくらいのようである。なので、企業が政府をファイナンスしているという言い方は間違っていないと思う。ただし、短期国債の7割は海外に買われているという。都市銀行は長期債から逃げているが地方銀行の保有は伸びている。

ということで政府債務を長期的に支えているのは日銀と企業(地銀含む)であると言えるし、海外に投資できない企業にとって政府は残された唯一の投資先になっているという可能性が見えてくる。

常識的に考えると税金は税金であり国債は国債だ。しかし、見方を単純化してしまえば「誰が誰に資金を融通しているのか」というだけの話である。税金は所有権が移転する資金移動だが、国債は所有権が移転しない資金移動である。つまり企業も政府を信頼していない。国債でファイナンスすれば少なくとも元本は保証されるということである。なので、利息が得られない低成長経済・過剰資本蓄積社会において、国債は税と一緒なのでそれほど問題にはならないということになる。

日本を閉鎖された経済系としてみると、税金として支払っても国債として貸し付けても、最終的には自分たちに戻ってくる。最終的に自分たちに還流してくることになる。ちなみに賃金として分配しても同じことである。自分たちの商品を買ってくれれば結局自分たちのところに戻ってくるはずだ。だがそうはしない。企業は従業員も消費者も信頼していない。ただ、結局国に貸しつければ国がばらまいてくれるのでこれも「まあ、言ってみれば同じこと」と言える。

ただ、問題は別にある。それは動機になっている不信感そのものである。

賃金を支払わないことで消費が冷え込んでいる。新しい製品やサービスも生み出しにくくなっておりイノベーションが阻害される。しかし弊害はこれだけではない。サラリーマンは失敗できずレールから外れることができないので労働市場が流動的にならない。こうしてますます不信感が閉塞感を生み出し、それがさらに不信感を増幅させてゆく。

最近の暴走する車問題を考えても「周囲に助けてもらうような存在になったらおしまい」と考えている高齢者が多いこともわかる。この先2,000万円か3,000万円を抱えて生きてゆく高齢者が増えることも予想される。不安は不安を呼び、それが消費の停滞につながり、経済がますます閉塞するというわけである。恒例になった日本人は運転免許も貯金も手放せないし、それにしがみついて生きてゆくしかない。

よく、北欧の国では「自分たちに戻ってくるから税金を払うのが苦にならない」というような話を聞く。共助が社会に染み付いている国はこのように公共に支出したものは自分たちに戻ってくるであろうという確信があることになる。逆にギリシャのように公共に信頼がない国は、レシートを発行せずに売り上げを過小に申告していた小売店が多かったというような話がある。

我々はまず隣人を信頼し公共という概念を再構築しなければならないというのがこの話の結論になるのだが、それを行動に移す人はそれほど多くならないだろう。日本はそれほど徹底的な社会不信がある<自己責任社会>なのだと言える。個人の競争もないので突出する人は叩かれる。そうなるともう他人を叩きつつ「自己防衛」するしかないということになる。

結局、閉塞感を生み出しているのは私たち一人ひとりなのかもしれない。

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