政治的な黄昏を生きる我々は安倍政権批判も政府批判もしなくなった

昼間のワイドショーがおかしなことになっている。もともと「韓国が日本に逆らっている」という話だった。それが「韓国のスキャンダル隠しだろう」ということになり、そのスキャンダルとはチョ・グク氏の疑惑だということなった。




ただ、チョ・グク法相候補の国民審査会(要は記者会見のことだ)くらいから疑惑そのもの報道するようになり、記者会見や野党の審査会の話をやりだした。ある人は韓流ドラマのようだといい、別の人はなぜこんなものに日本人は関心を持つのかと困惑している。メディアが視聴率に編集権を譲り渡したために自分たちが何のために何を報道しているのかがわからなくなっている。

この絵面がロッキード事件に似ているなと思った。小佐野賢治の「記憶にございません」が流行語になるほど注目された事件なのだが、視聴者は事件そのものではなく右往左往する関係者たちを楽しんで見ていたのだろう。この手のワイドショーを見ているのは高齢者なので昔のようなニュースを懐かしんでいるんだろうなあと思った。例えていえばサザエさんを見ているような感じである。

ではロッキード事件時代と今の違いは何だろうか。ロッキード事件が騒がれたのは政治家や国のリーダーは清廉潔白でなければならないと信じられていたからである。つまり政治家に期待値がありそれが裏切られたから騒いだのだ。だが今の人たちは安倍政権にそのような期待は抱かない。いろいろやってみたが「結局ダメだった」から行き着いたのが安倍政権だからである。我々は政治に期待しなくなったし日本の先行きに確信を持てなくなっている。

もともと、ワイドショーの目的は世間の敵を作って処罰することにある。つまり報道ではなく人民裁判ショーか古代ローマのコロシアムだ。ただ、そのためには次から次へと敵を作り出さなければならない。ただ、それができるのは「自分たちの生活はまともに機能しており、これからも機能し続けるはずだ」という確信があるからだ。

例えば高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたとする。テレビはこれを悪者として裁こうとするのだが、考えれば考えるほど扱いが難しくなる。老いて行く自分たちを見つめなければならなくなるからだ。視聴者の不安と番組の中の出来事がリンクしてしまうと、ワイドショーこのコロシアム性がなくなる。つまり観客席とコロシアムの間の敷居が消えてしまうのである。

最近、統計不正について報じなくなった。国民の側に「頑張ればなんとなかる」という見込みがあれば政府批判をしているはずである。ところが「この先日本には見込みがない」という認識を持っているとそれができない。「落ち目の国に暮らす」という現実を見ないためにはテレビの電源を落とすしかない。だからテレビはこの話題を扱わなくなった。

最近、アルゼンチンでまたデフォルト騒ぎが起きているそうだ。アルゼンチンでは統計のごまかしが横行しているという。だが、そうした国はアルゼンチンだけではない。日本もよくあるありふれた罠にはまっているだけだ。特別な国ではなくなってしまったのである。

もっともこうした強引な統計手法の駆使は、トランプ氏が先駆けというわけではない。中国政府は、GDPを引き上げ、公害汚染関連データを押し下げる方向で算出していると長らく批判されてきた。さらに最近は、民間機関が不動産価格や景気動向のデータ公表をしないよう指導しているもようだ。インドやトルコ、アルゼンチンの当局も、統計を良く見せるため計算方法を変更したと後ろ指をさされている。

コラム:恣意的な統計作成に潜む「危険な罠」

外交も行き詰っている。ロシアを訪れている安倍首相がプーチン大統領にへつらうような発言をしたがプーチン大統領は薄ら笑いを浮かべただけだったそうだ。さらにプーチン大統領は歯舞の式典にわざわざビデオで参加したそうだ。歯舞の人口だけを見ればロシアから見てそれほど重要な地点とは思えない。日本を挑発するためにわざとやったのだろう。日本などどうでもいいとロシアは考えており、我々もまた「あの総理では仕方がないな」と考えるのでそもそもニュースにならない。

だが、これを特に報じた新聞社が二つあった。読売新聞と産経新聞である。

安倍首相はプーチン大統領と親しいというが、会談を重ねた結果がこの仕打ちである。島を返さず、日本から経済的実利だけ引き出そうとするプーチン政権の正体を認識しなければならない。安倍首相は首脳会談など開かず、さっさと帰国した方がよかった。

【主張】日露首脳会談 どうして席に着いたのか

朝日新聞や毎日新聞は「外交の安倍」などという言葉は信じていないのでこんな書き方はしない。日経新聞も含めて淡々と建前の会話を伝えているだけである。逆に産経新聞は外交の安倍という言葉をまだ信じていて日本に国力や外交交渉力があると信じているのだろう。だから席を蹴って帰れと言った。つまり批判は期待の表れである。だが、もうすぐ産経新聞もそれを言わなくなるだろう。

最近の世代は「中高年はなぜ政府・政権批判ばかりするのか」と反発しているという話をよく聞く。それは実は日本には実力がありそれが発揮できていないと感じていたからである。つまり日本に期待があったのだ。

しかし、日本に期待がなくなると何も言わなくなる。言っても無駄だからである。現在の世代はそもそも「日本が衰退する」という予言に呪われて生きているので批判が受け入れられない。あるものは政治に全く関心を寄せなくなり、あるものは極端な擁護に走る。我々は政治的な黄昏という新しい時代を生きていることになる。民主主義に何の期待もしなくなった社会である。

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日本の高齢化をまざまざと見せつけられた韓国報道の過熱

週刊ポストが炎上した。「韓国はいらない」という見出しを打ったところ、執筆者たちが「もう小学館では書かない」と言い出し謝罪したのだった。ハフィントンポストが経緯を詳しく伝えている。「誤解が広がっている」というのはいつもの言い分だが、売れると思って打ったのだろう。見出しだけでなく中身もひどかったようだ。10人に一人が治療が必要なレベルと書いた記事もあったという。




ちなみに「これがなぜいけないのか」という問題を先に片付けてしまおう。日本は戦争を煽って新聞の購読数を伸ばした歴史がある。気がついたときには取り返しがつかなくなっており、戦後に朝日新聞などは盛んにこれを「反省」した。つまりビジネスヘイトは歯止めがきかなくなりやがて深刻な対立を引き起こす可能性がある。日本人は戦前の歴史をきれいに忘れてしまったらしい。

韓国人が火(ファ)病に侵されているというなら、日本人は群衆の病と忘却の病の持病を抱えていることになる。多分ジャーナリズムが細かな村にわかれており業界全体として検証作業や人材の育成をしてこなかったために、戦前の貴重な知見が蓄積されていないのだろう。

ところがこれを観察していて全く別のことに気がついてしまった。

サラリーマンが出勤前に見ているようなニュース情報番組はそれほど韓国について扱っているわけではない。彼らには生活があり従って様々な情報を必要としている。ところが中高年しか見ていない昼の情報番組は盛んに韓国を扱っている。つまりヘイトというより老化現象なのだろう。

このことは残酷な事実を私たちにつきつける。テレビは中高年に占拠されており、中高年は他人を叩くしか楽しみがないということだ。こういう番組をみんなで楽しく見ているとは思えないので少人数(一人かあるいは二人)が次から次へと「けしからん他人」を探しているのだろう。

ところがこれを見つめているうちに不都合なことが見えてくる。今回のチョ・グク法相候補はほぼ一人で11時間以上の会見をこなしたようだ。日本の政治家(正確にはチョ氏は政治家ではないのだが)にこんなことができる人はいないだろう。最終的には記者たちも視聴者たちも疲労困憊してしまったようだ。大谷昭宏さんなどはうっかりと「羨ましそうな」表情を見せていたし、辺真一氏も「少なくとも記憶にございませんとはいわなかった」とどこか誇らしげである。つまり韓国には自分の言葉で釈明が出来る政治家がいるが、日本にはそんな人はいないということが露見してしまった。民主主義が機能していないと笑っていたはずなのにいつのまにか「なんか羨ましいなあ」と思えてしまう。

しかし、この「かわいそうな老人のメディア」としてのテレビが見えてしまうと不都合な真実はどんどん襲ってくる。例えば最近のアニメは中年向きに作られている。2019年8月末のアニメの視聴率(関東)をビデオリサーチから抜き出してきたのだが、新しく作られたものはほとんどない。「MIX」は知らなかったがあだち充の作品のようである。目新しい幼児向け番組は「おしりたんてい(絵本は2012年から)」だけである。サザエさんなどは昭和の家庭を舞台にしている。我々が昔水戸黄門を見ていたようにサザエさんも昔のコンテンツと思われているに違いない。

タイトル視聴率(関東)
サザエさん9.0%
ドラえもん6.7%
クレヨンしんちゃん6.2%
MIX・ミックス5.8%
ちびまる子ちゃん5.8%
ワンピース4.6%
おしりたんてい4.3%
ゲゲゲの鬼太郎4.2%
アニメおさるのジョージ3.3%
スター・トゥインクルプリキュア3.1%

特にテレビ朝日は「ファミリー層を排除しようとしている」と攻撃の対象になってしまった。アニメを土曜日に動かしたのだそうだ。テレビ局も新しいコンテンツを作りたいのだろうが視聴率が取れない。最近の若い人は高齢者に占拠されたテレビを見ないのだろう。

アニメだけでなく音楽にも高齢化の波が押し寄せている。TBSは関東ローカルでPRODUCE 101 JAPANの放送を開始する。吉本興業が韓国のフォーマットをそのまま持ってきたようで、制服やショーの構成がそのままだ。ところがこれをみてショックを受けた。韓国版ではイ・ドンウクが練習生の兄貴(とはいえ三十代後半のようだが)として国民プロデュサーに就任していた。この視線で比較してしまうと日本版の国民プロデューサ(ナインティナイン)が老人に見えてしまう。ASAYANが放送されていたのは1995年だということで「昔の若者」が倉庫から出てきたような感じである。

ナインティナインが普段老人に見えないのは実は日本の芸能界がそのまま老化しているからなのだ。しかもこの番組も夜のいい時間には時間が確保できなかったようである。確かに老人が見てもよくわからないだろう。もはや歌番組は深夜帯のサブカル扱いなのである。

嫌韓本が広がる仕組みを見ていると、出版取次が「この本は売れるはずだから」という理由でランキングに基づく商品を押し付けてきているという事情があるようだ。高齢者であってもAmazonで本を買う時代に本屋に行くのは嫌韓本を求める人たちだけということなのだろう。テレビの動向を合わせて見ると、最終的に残るのは「昔は良かった」と「ヘイト」だけだろう。まさにメインストリームが黄昏化している。

幸せな生活を送っている人たちがヘイト本を見てヘイト番組を見て日中を過ごすとは思えない。結局見えてくるのは、高齢者が潜在的な不満と不安を募らせながら、他にやることもなくヘイト本を読みヘイト番組を見ているという姿である。つまりなんとか生活はできているが決して満足しているわけではない人たちがヘイトを募らせていることになる。

こうした人たちが韓国との間で戦争を引き起こすとは思えない。そんな元気はないだろう。多分、テレビに出ている人や雑誌で書いている人たちが心配するべきなのは民主主義の危機ではない。深刻な老化なのだ。

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たまねぎとしての保守思想・反たまねぎとしてのリベラル思想

演歌と保守について考えている。演歌は古びた流行歌をリパッケージしたものであるという仮説をおいた。この仮説を置くと後になって「演歌とはなにか」が説明できない理由がわかる。つまり「よくわからないが、なんとなく演歌というものはある」という感覚を説明できるのだ。




ここから、もし演歌が純化運動を行えばそれは演歌の破壊になるだろうという予測が立つ。もともと寄せ集めなので純化すると自己否定につながってしまうだろう。ゆえに演歌は演歌の枠の中で新しいものを見つけ転がり続けるしかない。

今回は保守と演歌は同じものであるという仮説を立てている。ここから考えると保守が純化運動に走れば保守が崩壊するだろうという予測が立つ。

ここでは日本の保守はGHQが持ち込んだ民主主義に対して、古びてしまった戦前の党人政治家がでっち上げた擬似思想であると考えている。日本の保守政治が目指すのは国家社会主義の再構築である。戦前の議会政治よりは優れており戦後GHQが持ち込んだ民主主義よりは古びている。民主主義を信奉している人たちが保守の純化運動を戦前回帰・戦争への道だと考えるは当たり前のことであるが、当人たちは多分そうは考えていないであろうということもわかる。

演歌の担い手たちは実際にはジャズなどを基にして作られた西洋音楽である演歌を「日本の心だ」と信じている。同じように保守を信奉する人たちは戦時下の国家社会主義体制を「日本の心」だと信じるだろう。どちらもそのようにリパッケージされているからである。つまり日本の心は建前であり本音は自分たちの正当化だったということになる。だが生き残るのは建前の方なのだ。

現在の保守政治には西洋的な一神教志向が織り込まれている。しかし、その体制に戻ったとしても日本が再び偉大になることはできない。国家社会主義体制はその当時の状況に合わせて作られており、現在はそのような状況にないからだ。そもそも核になる主張がないのだから純化運動は失敗する。

保守は長い権力闘争の中で憲法改正をその核だと誤認するようになった。もともと保守合同(護憲派保守と改憲派保守が合同した)で始まった自民党は小泉政権下で「もともと改憲派だった」と信じ込むようになったと言われているそうだ。このように一度作られた箱は一人歩きする。実際に行われたのは官僚出身の政策通議員を駆逐し党内抗争が得意だった人たちが政権を掌握したということなのだが、一度勝利してしまうと今度は「本来やりたかったこと」を前に進めるしかない。

ところが核がない運動を維持する方法もあるにはある。外に敵を作ればいいのだ。

テレビを見ると嫌韓運動が様々なテレビ局で展開されている。その担い手たちは多分高齢者なのだろう。彼らは自己肯定感を求めて保守思想にシンパシーを持つのだが自分たちの根を探しても保守思想には行き着かない。彼らはありもしないものを探しているから敵が必要になる。

もちろん韓国に問題はある。韓国は日本との講和で得た金を元手に戦後復興を図った。ところが戦後復興を行ったのが軍事政権であり地域にも格差を作ったためそれに抵抗する運動ができた。彼らは当然うまく行かない理由を保守軍事政権に求めるだろう。それを投影して日本を攻撃する。実はこちらも対抗運動なので核がないかもしれない。そして、実はこういう運動はドイツ側でも起きているようだ。経済不調と不満がその根底にある。

「今日までドイツから大戦中の残虐行為への適切な賠償を受けていない」。ポーランドのモラウィエツキ首相は8月、独紙のインタビューで断言した。正式な請求はしていないが、議会の委員会が1日にも被害額の試算を公表する。地元メディアによると、8500億ドル(約90兆円)との試算が出る可能性もあるという

独・ポーランド、賠償で論争=侵攻80年、90兆円試算も

ギリシャで7月に就任したミツォタキス首相が29日、ベルリンを訪問してメルケル独首相と初めて会談した。ギリシャはドイツに対し、第2次大戦中のナチス・ドイツの占領下で受けた損害に対する巨額の賠償金を求めている。ミツォタキス氏は、経済危機からの脱却に必要なドイツからの投資を求める一方、国内でくすぶる「戦後補償問題」の進展にも期待感を示した。

ギリシャ首相、ナチス占領の賠償金に期待 独首相と会談

日本は保守運動(具体的には憲法改正)が進捗しない憤りから目を反らせるために嫌韓を利用するつもりだったのだろうが相手の「ど真ん中」に爆弾を放り投げてしまった。多分、ドイツの政治家はもっと冷静に見ている。一線を引いて反省を続けないと収拾がつかなくなるだろうということがわかっているのだろう。ただ、ドイツにもポピュリズムはある。いつまでも同じような「謙虚な態度」が続くかどうかはわからない。

さて、この一連の「保守の暴走」を見て民主政治が破壊されると危惧する人がネットには多いように思える。だがそれも心配しなくても良い。戦後の民主主義勢力というのは反政権である。彼らもまず「反政権」で箱を作って、そこに憲法や民主主義という理由付けをしているに過ぎない。彼らは自分たちを社会主義者・革新主義者・リベラルと自称してきたが、立憲主義はその最先端の実態のない箱の名前に過ぎない。どちらもありもしないものをあたかもあるようにして集まっている。それは虚空に響く反響のようなもので終わりがない。

今回収拾したのは「玉ねぎの皮をむいていたら実は皮が本質だった」というような話である。つまり何もないのだから何かが壊れる心配はしなくても良い。単に新しく作ればいいだけの話である。極めて単純な話なのだ。だが、運動に没頭する当人たちにはそれがわからない。その結果、ありもしない問題に時間を浪費することになってしまうのである。

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演歌の誕生 – 日本人にとって理論化とは何か

政治問題を扱っていると「保守とは何か」という疑問にぶち当たる。「だいたいあの界隈ね」ということはわかるのだが、本質を抜きだそうとしても抜き出せない。本質が抜き出せないためにそれに対抗しようとすると対抗運動も崩壊する。




「日本の保守が害悪だ」とするとそれを潰したいわけだが、それが潰れない。だからいつまでたっても我々の社会は停滞したままだというのがこのブログの考えている行き詰まりである。そしてそれを我々は野党がだらしないからだと説明している。でもそれは説明になっていないし何の解決にもならない。

こんな時にはどこか別のところからヒントが降りてくることがある。今回のそれは演歌だった。後付けだが歌謡曲の保守思想である。この演歌というジャンルは1970年にはすでに存在しており「昔からあった」ような印象がある。ピンクレディーが奇抜な歌謡曲を歌っていた時「昔からずっとやっている歌手」が「日本の伝統である演歌」を歌っていたという感じなのだ。

Quoraで回答するためにその演歌について調べた。回答そのものはいい加減なものになったが調査の読み物はとても面白かった。演歌は実は昔からあったジャンルではない。1970年代に新しく作られたジャンルなのだ。

もともと演歌の演は演説の意味だった。川上音二郎が元祖とされているそうである。ところが政府が政府批判を認めなかったこともあり政府批判を基盤とした演歌はなくなる。そして、大衆音楽の中に溶け込んだ。個人としての日本人は社会や国家などは扱わせてもらえなかった。個人で自由に表現できるのは個人の心情だけだったのである。小説の世界では自己を確立して外に打ち出すこともなく、心情を扱う私小説が流行したりしている。

大衆の歌は流行歌と呼ばれたようだが、これとは別に艶歌と呼ばれる一連の歌モノがあったようだ。楽器を使って街中で歌本を売り歩くような人たちを艶歌師と言っていたようだ。艶歌はプロモーションの一環であり歌は売り物ではなかった。

戦後、流行歌は次第に西洋音楽を取り入れて変わってゆく。基地まわりをする人たちが西洋のジャズなど取り入れて新しい流行歌を作った。高度経済成長期になると、都会に出てきた地方の人たちが望郷の念を募らせ歌を聴くようになった。ニーズを持ったユーザーの集まりも生まれた。しかし、グループサウンズやフォークなどが出てくるとこうした歌は「古臭い」として嫌われるようになってゆく。時代が急速に変化しアメリカから新しいジャンルが次から次へと出てきていたのである。

そんな中、五木寛之が1966年に「艶歌」という小説を出して「艶歌の再発見」をした。つまり西洋音楽に乗らない日本人の感情を歌ったのが「艶歌である」と言ったのである。「演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間」によると、もともと西洋音楽と日本の音楽を雑多に混ぜ合わせた「流行歌」というジャンルから再構築されたのが艶歌である。そして1950年代からこうした歌を歌っていた人たちが演歌を自認するようになってゆく。春日八郎がその最初の一人であろうとWikipediaは言っている。

ここで「艶歌」という名前がなぜか「演歌」に変わっている。この「演」という言葉がどうして再び出てきたのかという説明をしている人は誰もいない。おそらく昔からあって文字が簡単だったのでプロモーションに使いやすかったのではないかと思う。この時点で演歌は昔からあったということになっているのだから、もはやもとの「演説」という意味を意識することはない。その実態は古びた望郷の歌だったのである。

まず正当化すべき内容がありそのために正当化に使えそうな箱を見つける。そしてあとはその箱の中で好き勝手にやりたいことをやる。これが日本的なジャンルの作り方なのである。ただ、これだけだと例が一つしかないことになる。J-POPについても見てみよう。

演歌を古びた地位に追いやった一連の音楽は歌謡曲と呼ばれるようになる。これも意味があるようなないような不思議な名前だ。だがやがて若者は歌謡曲に飽きて洋楽を聞き始める。昭和の終わり東京に英語で音楽を流すJ-WAVEというFM局ができた。ちょうどテレビでMTVなどをやっていた時代だ。

WikipediaのJ-POPの項目をみるとJ-WAVEがこれまでの歌謡曲と違った新しいポップスにJ-POPという名前をつけたことになっている。1988年から1989年にかけてのことだ。ちょうど平成元年頃の出来事ということになる。J-WAVEは日本の歌謡曲の中から「洋楽と一緒に(つまり英語で)紹介しても」遜色がない音楽を集めてJ-POPという箱を作ったのだ。古くさいと思われていたものをリパッケージ化したのである。

だから、あとから演歌とは何かとかJ-POPとは何かと言われると実はよくわからない。平成の最初の頃の洋楽っぽい音楽もJ-POPだが「AKB48」も「モーニング娘。」もジャニーズが歌う演歌っぽい音楽もJ-POPである。単に正当化の道具なので誰もJ-POPがなに何なのかということは考えない。

面白いのは平成元年頃に作られたJ-POPという音楽が今でも使われているということだろう。これに代わる新しい言葉はできていないわけで、それはつまり新しい音楽の聞き手が現れていないことを意味するのだろう。邦楽は30年もの間J-POPから進化しなかった。アメリカから流行を取り入れるのをやめてしまったからだろう。

音楽では演歌はただ忘れ去られてゆくだけだ。誰も演歌に不満をいう人はいない。保守に対して文句をいう人が多いのは実はそれに変わる新しいものが現れていないからなのである。

もともと保守にも実態はない。それは戦後の民主主義思想に乗り遅れた人たちがこれこそ日本の伝統であったという再評価をして自身を正当化しているに過ぎないからである。そしてそれに対抗する人たちも、社会主義・革新・リベラルという名前をつけて正当化を図っているに過ぎない。保守という実体のないものへの対抗運動なのでさらに実態がない。つまり、保守やリベラルをどんなにみつめても課題や問題点は見つけらないことになる。

音楽の流行は西洋音楽によって作られる。日本でこれが起こらないのは、多分日本人が新しいものを作ろうとはしないからである。なので、西洋から新しいものが入ってくるまで日本人は今の状態に文句を言い続けるはずだ。

面白いことに一旦箱ができてしまうとそれは人々の気持ちを縛る。多分演歌界の人たちはファンも含めて「これが演歌である」という経験的な合意がある。それに合わないものは「伝統にそっていない」として排除される。保守にせよリベラルにせよ「我々はこうあるべきだ」という思い込みがありそこから動けなくなるのだろう。

平成というのは西洋から新しいものを取り入れるのを諦めてしまった停滞と安定の時代だったということになる。停滞に文句は言っているが実はそれが日本人にとって居心地の良い状態なのだ。

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日本が独自に民主主義を作ればそれは何もしないための仕組みになるだろう

連日韓国のニュースをやっている。「韓国はうまくいっていない」と主張することでうちは韓国よりもマシだという気分に浸りたい人が多いのだろう。みんな安心して騒いでおり目を背けたいニュースがそんなにも多いんだなという気分にさせられる。




Quoraでは、韓国とは断交したいが中国や北朝鮮のトクになるのは困るという質問を見かけた。日本人は民主主義という概念は理解しないが、誰か他の人がトクになると悔しく逆に誰かが困っていると自分が嬉しいという「細かな社会的会計」の概念を発達させている。このため意思決定に時間がかかり結局何もしないことを決めてしまうのである。小さな集団では機能する社会的会計だが集団が大きくなりすぎると予測が人間の脳の容量を超えてしまうのかもしれない。

ワイドショーを見ていて「面白いな」と思ったことがあった。「大統領が変わるたびにこんなに政策が変わっていいのか」という戸惑いの声だ。有権者が方針を決めたらそれによって劇的に変わるのが「民主主義だろう」と思ったのだが、日本人には受け入れられないらしい。

民主主義は意思決定の仕組みなのだが、日本人が求めるのは継続性と安定である。つまり日本人が意思決定の仕組みを決めると「何もしない」ことを選ぶ可能性が高い。多分日本人が決める憲法は「みんなでよくよく話し合って何も変えないために誰にも権力を持たせないようにしよう」というものになるだろう。

これを考えていて、面白い問題を見つけた。それが英語入試改革である。2013年頃に楽天の三木谷社長が「日本人は実用的な英語ができないから試験をTOEFLにしたらどうか」と言っている記事を見つけた。この線に沿って受験の改革も進められたがどういうわけか現場が大混乱しているらしい。なぜなのだろうかと思った。

Quoraで聞いてみたら「入試が変わって学生が戸惑うのは当たり前」と受験生の事情を切断した上で「何のための改革なのかわからない」と戸惑う大学の教授の回答がついた。この教授は英語教育には自分の考えがあるようだ。そもそも高校の先生が英語を話せないのに「試験を変えたからといって高校生が英語を話せるようになるはずがない」と言っている。そこまでは確かにその通りである。ただそこから教育方針を決める会議が「企業と一部の大学関係者に限られている」という不満に流れてしまった。つまり彼には彼の言いたいことがあり、その他のことはどうでもいいとは言わないまでも優先順位が低い問題なのである。逆に三木谷さんから見るとアカデミズムがどう考えていようと自分の会社の成果さえ上がればいいわけだ。つまり、日本人はお互いに他の村のことを聞く気持ちがない。

企業は英語が話せる即戦力がとにかくほしい。どうしていいかわからないから入試を変えたらと提案した。ところがもともとの目的が伝わらずどういうわけか「入試を変えたら」という話だけが一人歩きし、おそらく民間英語テストの利権確保などの話も加わり、かといってそれでは評価できないから旧来のテストも残そうということになり、最終的に混乱に至ったということになる。

そして、その間の全体像を知っている人は誰もいない。よくプロジェクトマネジメントがないというような話を聞くが、文部科学省も決められた通りに会議を行っただけで全体を通して物事を調整しようという気持ちにならなかったのだろう。そして官邸も自分たちの考えを学生に押し付けることに関心はあっても、日本の教育そのものには関心がない。

ふらふらと散策しながら日本人が決められない理由を探してきたのだがもう3つも見つかった。どういうわけか日本人は「目標を立ててそのために制度を変える」のがとても苦手なのだ。

  1. 誰が損をして誰が得をするかわからないから意思決定ができない
  2. そもそも急激に何かが変わると不安だ
  3. 目的意識を共有しようという気持ちが全くない

ここで韓国との比較は面白い。韓国は権力構造が変わると処遇が変わるという国だった。最初から中央集権化が進んだからであろう。中央集権化が進んだのはおそらく中国が大きすぎる敵だったからだろう。ところが日本は最後まで完全な中央集権化は進まなかった。藩を単位とした小集団が作られその中で比較的自由に意思疎通ができた。それでよかったのだ。韓国のような強い敵がいなかったため、小さなグループがお互いを牽制しながら全体としては何も変えない仕組みを作ったのだと思う。それが藩の生き残りに有利に働くからだ。狭い空間で争って滅ぼされるよりも相手に干渉しないほうが生き残れる確率が高かったのだ。

日本人は小さなグループの中で自治的な関係を保つことを好み、あまり他者から干渉されたくない。中で小さな変化はあったとしても大きな変化が外からくることを本質的に嫌うのである。

また、同質な他者が集まる関係の中で取り立てて個人主義を発達させる必要もなかったのだろう。現代の民主主義は個人主義との相性が良くしたがって日本人が民主主義を理解できないのは当たり前である。

このため日本人が最初から民主主義をデザインするならば藩レベル(つまり県よりも細かい)の集団主義的な民主主義になるはずである。そしてその目的は藩の維持、つまり何も変えないことだ。

実際に日本の経済は成長と発展から取り残されてしまった。ところが皮肉なことに成長がないから格差も広がらない。停滞と安定は同じことである。これはこれで良さそうな気がするが、戦後日本が手を染めた自由主義経済は成長を前提にしている。つまり成長を前提にした仕組みと成長しない仕組みが軋轢を引き起こす。

ポピュリズムが日本ではまだ流行らないのはなぜか?静かに迫る「民主主義の危機」はそのような筋立てになっている。社会保障制度は成長を前提にしているため、これが崩れるだろうといっている。現代の日本は動きが止まった人間ピラミッドのようなものだ。すなわち重みに耐えかねた下の方から疲労骨折で圧死する社会である。ただ圧死者は少ししか出ないので全体としては格差が少ないように見える。しかし社会保障の仕組みはある日突然破綻するだろう。その衝撃はかなり大きなものになるはずだ。

それでも我々は小さなグループに閉じこもり何もしないことを選ぶのである。

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トウモロコシで安倍政権はまた一つ嘘を重ねる

日本がアメリカからコーンをたくさん買うことにしたという。ところが日本側の報道をみてもどんな合意があったのかさっぱりわからない。やっとAERAの電子版が「あの説明は嘘だろう」という記事を出してジャーナリズムを批判した。新聞の政治部は安倍政権から人事関係の情報をもらいたいので政権が嫌がることは書けないのだろう。だから週刊誌の電子版という離れから批判するしかないのだ。




アメリカ側のニーズは明確である。トランプ大統領の関税戦争に報復するために中国は支持基盤である農家を狙い撃ちにしているらしい。ロイターによると大豆・豚肉などの被害が大きいようだ。しかし、被害がどれくらい出るかはよくわからない。それくらいアメリカは揺れている。トランプ大統領は補償を打ち出したが、6月にすでに多くを使い果たしているという報道もある。つまり今回のトランプー安倍ディールはアメリカ政府の補償の肩代わりの役割を果たすことになる。

To compensate for lost sales to China, the U.S. government has offered $28 billion in aid to U.S. farmers, of which about $8.6 billion had been doled out as of the end of June.

Factbox: From phone makers to farmers, the toll of Trump’s trade wars

Quoraで聞いてみたがやはり安全保障上アメリカがパートナーであり中国とは敵対しているという安全保障に関連する見方がでた。つまり、安倍政権は安全保障上トランプ大統領の支持者を支えているのだろうという説である。日本から見ると出てこない姿勢だなあとなんだか感心させられた。

しかし、そもそもこの話題に興味を持った人は少数派だ。英語版ではトランプ大統領がアメリカの農業を破壊するという質問には関心が集まっていた。しかも向こうで勝手に文脈が作られた説も流布している。全てロシアが関与しているのだという説にたくさんの高評価が付いていた。

日本のトウモロコシはほとんどが輸入されているそうだ。65%は家畜用の飼料で20%はコーンスターチとして加工されているという。もともと9割はアメリカから買っている。しかし、このコーンは穀物としてのトウモロコシだ。野菜としてのトウモロコシは別扱いだ。こちらは意外なことに自給率が99%もあるそうである。さらには今回病害虫の被害が出ているという葉っぱや茎を食べさせるトウモロコシもあるそうだ。整理するとこうなる。

  • 野菜としてのトウモロコシ:(遺伝子組み換えだと騒ぎになっている。どうせ飼料用のトウモロコシに混ぜて使うんだろうという強者までいた)
  • 飼料用穀物トウモロコシ:(すでにアメリカから買っていて今後追加で買う)
  • 飼料用の葉と茎を利用するトウモロコシ:(軽微であるが病気が南九州で見つかっている)

飼料穀物としてのコーンを追加輸入する可能性が高いのだがそもそもアメリカから買っているため「単に数百億円の余剰のコーンが増えるだけ」ということになる。ブタが突然二倍のトウモロコシを食べるようになるとは思えないから余剰在庫になるのだろうし、そもそもいつまでも買い続けるわけにはいかない。

一方でTwitterで出ているように日本人の食用のトウモロコシが遺伝子組み換えに侵されて健康被害が増えるということもなさそうだ。遺伝子組み換えトウモロコシが栽培されれば生態系には影響は与えそうだが、今回は輸入種が入ってくるだけである。そもそも家畜の餌になっておりそれが二次的に我々の口に入るに過ぎない。

新聞はあてにできない。アメリカの世論も混乱しているし日本でも環境派が騒ぎ出している。そして日本政府の説明もデタラメである。こんな時は原典を当たってみるに限る。きっと有益な情報が見つかるのではないのだろうか。

トランプ大統領の発言がホワイトハウスにあったので読んでみたのだが。ほとんど何も言っていない。全てが感覚的な言葉で彩られ「何を大筋合意(agreed in principle)したのか」がさっぱりわからない。言っているのは「全ては自分たちの思い通りに行った」ということと「国連総会(UNGA)の時に合意することができるだろう」ということだけである。曖昧なのに最後に全部で合意したとまとめている。

PRESIDENT TRUMP:  So, thank you very much.  We’ve been working on a deal with Japan for a long time.  It involves agricultural and it involves e-commerce and many other things.  It’s a very big transaction, and we’ve agreed in principle.  It’s billions and billions of dollars.  Tremendous for the farmers.
And one of the things that Prime Minister Abe has also agreed to is we have excess corn in various parts of our country, with our farmers, because China did not do what they said they were going to do.  And Prime Minister Abe, on behalf of Japan, they’re going to be buying all of that corn.  And that’s a very big transaction.  They’re going to be buying it from our farmers.
So the deal is done in principle.  We probably will be signing it around UNGA.  It will be around the date of UNGA, which we all look forward to.  And we’re very far down the line.  We’ve agreed to every point, and now we’re papering it and we’ll be signing it at a formal ceremony.

Remarks by President Trump and Prime Minister Abe of Japan After Meeting on Trade | Biarritz, France

終わりの方でも念押しをするようにコーンについて安倍首相に語らせようとしている。選挙キャンペーンに協力するような画を撮らせたかったのだろう。安全保障の問題で「北朝鮮の短距離ミサイルは日本の問題だから」と言って何も語らせなかったのとは全く人が変わったようである。

表向きは病害虫の件を持ち出したようだが、先に調べたように日本のトウモロコシはアメリカの飼料用コーンとは関係がなさそうだ。安倍首相がよくわかっていなかったのか、あるいは事務方がごまかしたのかはわからない。国会運営でおなじみの不用意なことをいって後の対応を菅官房長官に丸投げするという構図である。この後野党が嘘だ嘘だと騒ぎ立て国民が疲れて終わりになるのだろう。

トランプ大統領にとってはそもそも記者会見が大切だったのだし、日本も当座のメンツは立つことになる。ただ、後の説明はいつものようにおざなりである。安倍首相は国民への説明などどうでもいいと思っているのだろうなあと改めて思わされる。

冒頭に述べたように、日本のメディアはほとんどこの件について触れていない。取材が難しいのか何かに遠慮しているのかはわからない。日本政府がメディアを検閲しているとは思えないのでメディアがなんらかの事情で自粛しているのだろう。

そこで自分で調べてみるとSNSでは様々な情報が飛び交っている。その意味では新聞の政治報道は自殺を図っているのだろうなあと思う。人事という情報を「自分たちがいち早く知る」ためのゲームに奔走し、国民にとって何が一番重要かを考えることを忘れ、必要な情報を正確に早く伝えることを放棄しているのだ。

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政治的対立をこれ以上激化させないためにはどうしたらいいのか

このところ日韓対立をもとに「どうしてこうなったのか?」ということを考えてきた。




もともと国内政治の矛盾を隠蔽するために「対立を利用しよう」とする動機が日本にも韓国にもあった。これがお互いに呼応する形でエスカレートして行き誰にも止められなくなってしまっている。これをどちらかだけのせいにするのは難しそうだ。お互いの政権二同じようなニーズがあったと考えるべきだろう。また、アメリカは地域の調停に興味を失っておりこれも対立に拍車をかけている。

この対立は何も日韓関係だけではない。相似形はいろいろなところにある。例えば香港と中国の間に対立があり、インドとパキスタンにも対立がある。さらにイランとイスラエルも直接対決を始めたようだ。中国とアメリカも対立しており株価や経済に影響が出始めている。局所的にはインドネシアの西部(パプア)でも地元住民との間で対立が深まっているようである。これを全てアメリカのせいにすることも難しそうだ。どういうわけか対立は連鎖する。

背景にあるのは国内の経済的な困窮や不安などがあるのだろう。この不満が仮想敵を見つけてしまうとどこまでも燃え上がる。政権側がこれを利用して気を逸らそうとする場合もあるし、民衆側が仮想敵を見つける場合もある。

香港は経済上の地位の低下が不満に結びついたようだ。インドはヒンズー主義の台頭が原因になっており、インドネシアは国粋主義的な団体がパプア系に心ない言葉を浴びせたのがきっかけのようだ。パプアはイスラム圏のインドネシアにあって唯一キリスト教が優勢であり民族構成も頭部とは大きく異なる。イスラエルは首相の進退をかけた総選挙を控えており米中対立もトランプ大統領の選挙キャンペーンが原因だろう。

こんななか対立を抑制する方法にも見通しがついた。日本人は歴史教育は受けるが歴史の分析や討論の分析は行わない。かなり教育水準が高いはずの日本で、こと歴史・政治議論が先鋭化しやすいのは政治・歴史問題が「個人の印象」以上のところに持ち上がらないからである。つまり問題を社会化すれば解決の糸口が見つかる。

政治議論を観察していると、印象から作られた自分のポジションに都合が良い材料ばかりを集めてくることがわかる。この過程で「本音と建前」という二種類のロジックを使い操作しているのではないかという仮説も作った。綿密に文脈を作れてしまうために、却って元あった形が見えにくくなってしまう。このため社会で問題を解決するのが難しくなり議論が膠着するのだ。

「議論ができない」理由がわかれば対策が立てられる。つまり日本人は解釈をあまりにも重要視するので、元あった議論の形がわからなくなると大変不快な状況におちってしまうのである。ここから脱却するためには本音も建前も実は後付けのロジックであり、物事には多面性があるということをあらためて捉えなおさなければならない。

人間が理性的になれるのは感情的にフラットな状況にある時だけである。例えば戦争責任の問題は最初から「日本は反省しろ」とか「いや反省しない」という状態になっている。確かに長年謝ってこなかったのだから相手が苛立つ気持ちもわかる。しかし、よく知りもしないことに対して「とにかく謝れ」などと言われて不愉快に思わない人はいないだろう。まずは心理的に追い詰めないことが重要なのではないかと思う。

もう一つわかったのは、今の政治的議論は偏りが大きいと考える人が意外とおおいということだった。「公平に物事を見たい」というニーズがある。ブログはどちらかに偏ったタイトルをつけないと読んでもらえないことが多いのだが、実名制の質問サイトでは必ずしもそうはならない。政治議論に参加している人たちは声が大きくどちらかの陣営にコミットしていることが多い。このため自分の意見を決めかねているサイレントマジョリティも多いのかもしれない。ただ彼らも物事には真実があると思いこでいる節がある。歴史の教科書では出来事の解釈は一つしかないのが当たり前なので、解釈と現実がごっちゃになってしまうのだ。

問題解決の糸口は「物事の単純化」と「多面性の容認」であることはわかった。しかし、世界の情勢を見ていると経済的に追い詰められている人たちが多く「理性的になれ」などと言ってみてももうどうにもならない地域も多い。

私たちができるのはこうした対立を見て、感情に任せた議論ばかりしていては取り返しがつかなくなるということを知ることだけなのかもしれない。人間はどこまでも理性的でいることはできないのである。

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本音と建前 – 日本人が歴史議論を苦手とするわけ

最近面白い発見をした。Quoraで政治議論をしてくる人に対して瞬時に議論を終わらせるワードがあるのだ。それが「ああ、そうなんですね」である。意外なことにこれで済んでしまう議論が多いのだ。




長い間、嫌韓議論が苦手だったのだが、GSOMIAの件は韓国政府の対応がひどいなあと思ったので参戦してみることにした。高評価はつかなかったが攻撃もされなかった。

まず、韓国人と日本人の間には人間関係の取り方に違いがありこれが誤解の元になっているというラインを作った。つまり攻撃対象を韓国でなく仮説にすればいいと思ったのだ。

そもそも、もともとそれほど嫌韓でない人間が韓国政府の批判にまわるというポジションはあまりない。ポジションが非典型的であるというだけで人々は攻撃の対象とは考えなくなるようだ。このブログでは「政治議論運動会仮説」と呼んでいる仮説で説明がつく。紅組でも白組でもない人は運動会には加われないということである。攻撃しても面白くないのだろう。

日本の議論は保守・リベラルに分かれている。保守の人たちには韓国人に対する差別感情と韓国人をどう扱っていいかわからないという嫌気が共存している。一方でリベラルはこの差別感情が許せない。普段から「あしらわれている」という意識があるからなのかもしれない。そこで自然と嫌韓を巡って運動会が繰り広げられる。目の前に運動会があればとにかく参加してみるのが日本人だ。

ところが実際に参加してみると、結局「私には〜という印象がある」とか「私は〜を認めるつもりはない」と言っているだけだということがわかってきた。だから相手を刺激せず「ああ、そうなんですね」というと議論が終わってしまうのだ。

典型的には「朝鮮半島経営は植民地支配だったか開放だったのか」という議論がある。これは両方の側面が整理されていないという問題なのだが、保守は開放であってほしいという前提を置いた上で補強する数字を一生懸命に集めてくる人がいる。これは「そういう資料を集めてきていらっしゃるんですね、ご苦労様」で終わってしまう。実際には両方の側面があるので開放的側面があったからといって支配の事実が消えるわけではない。

ここまでわかると次はどうしてそうなるのかという問題が出てくる。第一の理由は感情と論理の分離のようである。本音と建前などと言われている。

日本人は本音と建前を分ける。論理は「建前」が担当しているとまずは考えられる。これは皆が合意しやすく反発されにくい解釈をまとめたものである。ところが日本人は本音も漏らす。この本音の機能が謎だった。実は本音も純粋な感情ではなさそうだ。

菅官房長官は「韓国への報復」を仄めかしつつ「表向きは貿易品の管理問題ですよ」という説明の仕方をした。つまり「報復という本音をにじませた」のである。WTOのルールに違反しないよう「本音をほのめかす」ことでメッセージを伝えようとしたのだろう。この本音はメディアによって様々に再解釈されることになった。産経新聞は菅官房長官のラインにそって「日本はルールに従って正々堂々とやっているから韓国はさぞかし困るだろう」と書いた。ここで産経の読者は満足する。菅さんの作戦は成功したのだ。

ところが今度は韓国がこの本音を利用し始める。文在寅政権は朴槿恵政権の決定を覆したかった。これに気がついた日本は「あくまでもこれは貿易品の管理問題である」と建前の方を強調し始めた。本音と建前の位置を逆転させた。あとは解釈の問題なのでこれで折り合いがつかなくなった。

日本の政権は多数派をとっているので国内では「空気の解釈権」を支配することによって少数派を笑うことができる。本音をひけらかしつつ少数派が文句を言ってきたら「それはお前たちが勝手に言っていることだ」といって少数派をバカにすることができる。つまり本音と建前の分離はいじめに使える。

実は本音も建前もロジックである。日本の保守が韓国に苛立つのは韓国が日本の作ったロジック通りに動いてくれないからなのだということがわかる。だからこそリベラル側はこれに乗ろうとするのだろう。数が逆転できるかもしれないからだ。

本音も実は「感情的な論理」なのだが、一旦本音と建前を分離して二重思考の状態を作ってしまうと「実際の実際はどんな動機だったのか」がわからなくなてしまう。本音という解釈を語り続けることによって空気への帰属意識は芽生えるだろうが、深層にあったはずの本当の動機はわからなくなってしまう。これが本音と建前の危険性だ。

ところが問題はそれだけではないようだ。それが歴史教育の問題である。

日本の歴史教育は「古代から近代までをとにかく覚える」というゲームなっている。このため個々の歴史について分析したり議論したりすることはない。だから、それぞれが勝手な印象を持ったままで歴史教育が終わってしまう。現実世界でもこの方式で歴史や政治を分析したつもりになってしまうのだろう。それぞれが勝手な印象を持っているだけならいいが、それを語り出した瞬間に収拾がつかなくなる。

学校で分析のための議論をしていれば物事には両面があるということがわかる人が増えるはずだ。だが、受験に間にあわせるためには考え事などしている時間はない。とにかく限られた時間の中で近代までカバーしなければならないからだ。

よく日本人は英語ができないという。文法の細かな規則をカバーするのに忙しく、英語を話すことができない人を毎年量産し続けている。日本の英語教育が作っているのは英語が使える人ではなく、英語の細かな文法をたくさん知っている人だ。同じことが歴史でも起きているのかもしれない。年号を知っている人はたくさんいるが「歴史を話せる人」はほとんどいない。

感情と論理を人工的に分離する癖がついてしまっており、なおかつ歴史的経過を単に年号としてしか覚えないという人が大挙して歴史に語り出した結果、自分たちが本当に何を考えていたのかがわからなくなってしまった。これが日本の政治言論の正体なのだろうなあと思う。つまり、この議論は運動会としては楽しいが、何の智恵もももたらさないのだ。

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産経新聞がまた新しい願望込みの物語を投げ込んだ

面白いニュースを読んだ。トランプ大統領が安倍首相と会談した時「父親はカミカゼだったのか」と聞いたというのである。




トランプ大統領はカミカゼがなぜタンクを半分空にして特攻したかったのか知りたかったらしい。「お酒か薬の影響だったのか」と聞いたそうだ。安倍首相は「愛国心ゆえだった」と答えたそうだが、トランプ大統領は「愛国心でタンクを半分カラにして突っ込むとは」とジョークのネタにして支援者の集まる席でスピーチしたようだ。他国の文化を重んじるという気持ちが全くないある意味アメリカ人らしい態度である。

このエピソードがQuoraで紹介された。これに不愉快な思いをしたらしい回答者から「曖昧なことを言うならばソースを示せ!」と苦情めいた回答が入った。時期的に韓国と日本の間の軋轢が問題になっており、韓国人に対しては居丈高になるのにアメリカだと何も言えないのかという含みを持ちかねない話である。

こうした感情的な問題に関しては上から抑えてやるといい。つまり「日本人は英語ができないから知らないのは仕方がないですよね」と言ってやるといいのである。日本人は英語とアメリカ人に対してコンプレックスを持っているので「親切に教えてあげる」のがよいのだ。序列を気にする人には実に効果的である。

実はこのエピソードはニューヨークポストが元ネタである。もともと伝統のある新聞だったようだがタブロイド化し最近では過激な見出しで知られるという。英語版Quoraで調べてみたが評判はあまり芳しくはなかった。日本でいうスポーツ紙のような扱いらしい。ただし記名記事なので全くの作り話だと斬って捨てるわけにも行かない。

支援者たちはアメリカ人なので当然日本の戦争のことなどには大した関心はない。例えばアメリカ人はほとんど原爆について考えたことなどないだろう。だから特攻のような常識では考えにくい精神状態も単なるパーティージョークになってしまうことがある。片道切符で特攻するなど常軌を逸しているのだからお酒か薬物の影響だったのだろうと笑って終わりである。当然相手に対する共感もリスペクトもない。

英語で情報が取れる人なら誰しもアメリカ人は日本に対してさしたる関心がないことは知っている。だから日米同盟もその程度の確かさしかないということはよくわかっている。だが、英語で情報を取らない日本人はそのことが不安で仕方がない。ゆえにこういう話はなかったことにしがちだし、願望込みで解釈を加えがちだ。

韓国とのやり取りを見ていると「ちょうどその反対のこと」が起きている。韓国人が日本に反抗的な態度をとると、それを大きく拡大しいつまでも騒ぎ続ける。日本人は韓国人ならなんとかなると思っているからなのだろう。

日本人は心象による序列を作ってしまうところがあり対等な人間関係や同盟関係が作れない。だから政治家が絡んだ外交交渉で日本はいつも間違える。心象で目が曇っているので侮られたり不用意に怒らせたりするのである。

とはいえ、日本がアメリカ人から下に見られているのはいつものことだし相手はタブロイド紙なのだからそんなに気にする話でもない。ところが産経新聞の記事を見て驚いた。ニューヨークポスト電子版を引き合いにしているのだが、安倍首相の父親が特攻隊だと知ったトランプ大統領が安倍首相の説明に心を打たれたという感動秘話になっているからである。「トランプ氏、日韓首脳の「なまりある英語」を揶揄 安倍晋太郎氏が元特攻隊員と知り感銘」となっている。外国人が日本の心に触れて感動するという「日本スゴイですね系」の記事である。

確かにニューヨークポストはこのジョークの意味は書いていないのでトランプ大統領が特攻隊をクレイジーだったと言っているわけではない。だが、パーティーで気楽に話題にしているのだからリスペクトしたわけではないだろう。この話はネットですでに紹介されていたので産経新聞は「フォローしなければ」と思ったのかもしれない。彼らにとって安倍首相はヒーローなので「ヒーローが何も言い返せなかった」では困るのだ。

ただ、新聞電子版を読んでネタ元(ちなみに記名記事である)に確認も取らずに勝手に解釈を加えているわけで、これはもはや新聞記事ではない。願望込みのファンタジーだ。

ただこの件で産経新聞を非難する気にはなれなかった。産経新聞も自分たちのプリンスがトランプ大統領に相手にされていないことは知っているのだろうなと思った。だからこそ躍起になって物語を作ったのだろう。また朝日などの反安倍陣営の新聞も政治的な影響を失っていてこうした心象を正当化する記事を書きかねない状況になっている。こちらもインテリ層が政治に対して影響力を持てなくなったということを認めたくない。

一種のメンタルクライシスにある新聞が心象的創作物からは逃れられるはずはないのだ。

ただ、これが我々の政治的な意思決定にどんな影響を与えるかという点は気になった。日本人は本音と建前を分ける二重思考を社会的に容認している。このため自分が本当はどう考えているのかがわからなくなってしまうことがあるのではないかと思った。

産経新聞が本当はアメリカに相手にされていないことを知りつつ「安倍首相はアメリカに強い影響を与えている」と信じている限り、彼らは難しい判断から目を背け続けるだろうなあと思った。そうすると我々読者はますます自分たちが信じたい物語だけを信じることになるだろう。

日本にはその意味では信頼できるジャーナリズムはないのかもしれない。誰もそんなものを求めていないからである。にもかかわらず日本人は政治的に中立でありたいと考え、中立な新聞やメディアを持ちたがる。中立とは「自分の意見とぴったり合っている」ということだから偏っているのだが、他人の意見を尊重できない我々はどうしても自分の中にある偏りは見たくないのであろう。実に不思議な光景である。

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日本はもうだめだおしまいだと叫ぶ人たち

Quoraで日本はもうダメだという話が出ていたので「20兆円も海外から利子収入が入ってくるのになぜ悲観論ばかりなのか?」と書いた。もっと冷静になって次世代投資について考えるべきであるという提案だ。すると最近にになく高評価がたくさん集まった。改めて日本閉塞論に息が詰まっている人たちがたくさんいるんだなと思った。閉塞感を意識化する機会は少ないので言語化すると喜ばれるのだろう。




このエントリーには面白いコメントが2つ付いた。

一つは「でたらめをいうなやはり日本はおしまいだ!」というコメントだった。国の予算が100兆円あり20兆円を海外からの上りで穴埋めするというのはおかしいと書いてきた。国と企業の収益がごっちゃになっているのだが、ポイントは自分の観測と違った意見が出ると感情的に否定してしまうという点だろう。楽観論も悲観論も感情の領域にあり合理的な政治の問題ではない。だが、実際に政治を動かすのは感情なのでこうした声を無視していいということににはならない。ただこの意見を合理的に否定するのは難しいだろう。否定されればされるほどかたくなになってしまう。

もう一つのコメントは「政府債務が溜まっているのは確かである」という点とそれでも「教育への投資が少ないのは確かに問題だ」という点を指摘してきたものだった。実際に研究者とお話をする機会がある現役世代の方である。つまり、極度の楽観論や悲観論のどちらも正しくないということを理解している人もいるのだ。

Quoraの政治板は短い間に950名がフォローするコミュニティになったのだが、感情的なレスポンスをする人、冷静な理解をする人、とにかく議論を吹きかけて勝ちたがる人とありとあらゆる人が集まってきている。1,000人というとミニコミ紙レベルだと思うのだが、新聞はもっと大変なんだろうなあと思った。民主主義になるとさらにこれが複雑に絡み合う。

今回の「楽観論」は「国際収支発展段階説」という説に基づいている。国際収支発展段階説によると、やがて債券取り崩し状態に入るのだそうだ。今の日本の段階を成熟債権国と呼ぶそうだが、この状態があと数十年続くという。なのでポイントはこの成熟段階をいかに長引かせ、あるいは若返らせられるかという点にある。当然これといった正解はない。

お金が湯水のように入ってくると言ってもいいことばかりではなく当然代償がある。「世界最大債権国」日本、直接投資急拡大の必然には「慢性的な通貨高に悩みその度に景気が悪化する」と書かれている。何らかの理由で景気が悪化すると新興国から資金が逆流して円などの安全資産に戻ってしまう。すると急激に交易条件が悪化して日本は製造業で稼げなくなってしまうというわけである。つまり、資産が製造業を圧迫するという皮肉なことが起こる。

同じことはアメリカでも起きている。アメリカは取り崩し段階に入り赤字が続いている。これは長年製造業が圧迫され中国などの人件費が安い国に転移してしまったからである。アメリカは意識して構造転換をしなかったためにラストベルトという工業地帯が取り残されそれが問題になっているのである。背景にあるのは構造的な問題なので中国にケチをつけたりFRBに文句を言っても工場がアメリカに戻ってくることはない。先日ご紹介したアメリカの通貨切り下げ策は実は債権国を降りてサイクルの最初に戻れということなのだ。それはつまりアメリカの金融市場を爆破してしまうということである。

債権国であると言っても喜べない事情がもう一つサイクルの外にある。それが膨らみ続ける国家債務だ。

金融市場の大崩壊が近い将来に起こりうる理由という恐ろし気な記事がある。リーマンショックが起きたとき各国政府が問題を吸収した。このため「表面上危機が収まっていたように見えていた」のだが、トランプ大統領がそれをぶち壊しにしようとしていると言っている。つまり、トランプ大統領が引き起こすであろう混乱はアメリカだけでなく金融市場全体に災厄をもたらすかもしれないということだ。

  1. アメリカ株式市場がリーマンショック級の3割を超す大暴落を起こす
  2. アメリカ株に連鎖して先進国、新興国が株価暴落を引き起こす
  3. 米中貿易交渉が決裂し、米中を悪性インフレが襲う
  4. 米国債が売られて金利が上昇、世界の債券バブル崩壊で新興国の債券が紙くずになる
  5. 新興国通貨が暴落しあちこちでハイパーインフレが始まる
  6. 地政学リスクが高まり、ドルが売られて原油、金価格が高騰

実は、日本も似たような状態にある。政府が国債を発行し実質的に日銀が引き受けている。これが破裂しないのは日本は債権国であり円が安定しさんだと見なされているからである。つまり日本政府の実力が過大評価され問題が先延ばしされておりどんどん大きくなっている。これが弾けた時の痛みは相当なものだろう。

日本はかなり厄介な時期に債権国になったのだなあということがわかる。企業がお金を貯めこみ政府に働きかけて税金を支払わなくなる。法人税が下がると節税のために人件費をあげようというインセンティブも失われ消費市場が冷え込む。足元の景気が悪くなるので、政権を維持するために国債を発行して危機を乗り切ろうとする。するとインバランスが蓄積して金融市場が混乱する可能性が高まるというわけである。

面白いのは、日本にはお金が有り余っているのだからそのお金を使って将来に投資すればいいではないかという観測と、インバランスが高まっているからかつてない恐ろしいことが起こるかもしれないという観測が同時に並び立つところである。これはどちらも事実であり、どちらかが正しければどちらかが間違っているというものではない。

ここまで冷静にわかれば「今はなんとなかっているのだからどうにかしてこの恩恵を長い間享受できるようにしよう」と考えるのが自然である。コラム:英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏によるとイギリスもかつて債権成熟国の段階を経験して今も先進国なのだから、イギリスに学べばいいのではないかと書いている。

また、英国が自国の特徴を生かしてサービス収支や所得収支の黒字体質を確立したように、日本にはもともとモノづくりや技術力に優位性があるため、過去の経常黒字で積み上がった多額の対外資産を活用すると同時に、産業の競争力回復を目指し、国際収支の発展段階説で言えば第四段階と第五段階を行き来するような形になるのが理想的と考える。

英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏

つまり日本も上がりを国内投資する体制さえ作れればイギリスのように長い間債権国としての特権を享受できるであろうというわけである。ただ、何に使うのかは国でビジョンを作るか、ビジネスコンペの体制を整える必要がある。競争させるなら地方分権にして地方ごと競わせたほうが良いだろう。

ところが実際にはそのような話し合いの素地はできていない。そればかりか各国でポピュリズムが横行し有権者が扇情的に煽られるばかりである。どうやら日本も例外ではないようだ。欧米に比べると静かではあるがポピュリズムが蔓延している。

我々は、実は解決策があるのに、極度の楽観論と悲観論の間を揺れ動きながらさまよっているのだ。

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