政治の最前線はパソコンとスマホの中にあった

4月ごろからQuoraで政治系のスペースをやっているのだが、最近やたらと中国関連のポストが多くうんざりしていた。とにかくアジアの蔑視感情を持った人たちが政治ポストを荒らしたがるのだ。だが、考えてみるとこれが最前線なんだなあと思いちょっと見方が変わった。あまり人と交流するのは好きではないがこういうのもやってみると意外な発見があるものだ。




最近もっともうんざりしたのが「ウィグル虐殺などない」というポストである。中国系カナダ人が現地に行って調べてきたが、ウィグル人は平和に暮らしているから何の心配もいらないというのである。英語の元ポストをみたら「大手マスコミは嘘つきだ!」というコメントがたくさん付いていた。すべて中国系のファミリーネームである。わざわざこのように荒れることがわかっているポストする方もセンセーショナルな記事を掲出して露出を増やしたいんだろうなあと思う。

個人攻撃は禁止しているので「お前は嘘つきだ」というポストは付かないのだが、今度は黙って「中国はウィグルでこんなにひどいことをしている」というURLがシェアされた。ここで反応がないと絨毯爆撃的にシェアが増える。

後でわかったことだがこの人たちは承認欲求があるようだ。つまり自分たちが正義だと思っていることを披瀝して誰かに丁重に扱われたいのである。だから慇懃に接すると落ち着き「お前も反省したようだな」などといってくる。政治議論というよりみな「正義」について語りたいのだろう。Twitterにうんざりしている人は「承認欲求」が何か悪いことのように語られる日本社会でほとんど唯一の承認欲求の捌け口がSNSの政治議論になっているということを知っておいて損はないと思う。認めてもらいたい人は多いが人を認めようとする人は少ないという程度の話であるが、人間は誰でも認められたい。

こういうポストに腹がたつのは「政治系のポストは<中立>でないとみんなうんざりして読んでくれなくなる」と思ってしまうからである。イメージとしては池上彰式のドライな事実だけを「お店にきれいに」並べたいという感じである。承認欲求のために店を荒らす不良のお客さんに怒るのと同じ感覚だ。

だが、Twitterをみていてそういう気分が吹き飛んだ。香港に独自政府ができたというTweetが流れてきたからだ。もう「池上式」は無理なんだろうなあと思った。この変化は受け入れる必要がある。

これがどれほど確かなのかはわからないし、どう広がってゆくのか(あるいは行かないのか)もわからない。だが確実に言えるのは民意に影響を与えたいという人たちがいてそれぞれの宣伝活動に励んでいるという点である。

日本と大きく違っているのが彼らが「主権」をかけて宣伝活動をしているという点である。日本は国民主権ということになっているがおそらくそれを信じている人はそれほど多くない。誰かが何とかしてくれるとみんなが思っている。だから政治は承認欲求を満たすための道具にしかならない。だが主権者意識を持っている人たちにとってこの宣伝活動は「ガチ」だ。

我々はかつて東西冷戦というしっかりとした構造を生きていた。だから政府が作ってマスコミが「正しい」と考える情報を受け止めていればある程度のことはわかったのである。お客でも良かったのだ。あとは社会設計通りに生きていればそこそこの暮らしは保障されていた。SNSはまだなく2chなどは「感想を言い合う場所」でしかなかった。

ところが現在は状況が全く違っている。しっかりとした構造はなくなり民主主義が必ずしも絶対的な正義としては語られなくなっている。民主主義はたいていの社会では分断されており問題の解決ができなくなっている。その上で情報の流れが完全に逆になった。民意はまずSNSの上で作られそれが政治に影響を与え、最後にそれをマスコミがまとめるということになっている。

最初「荒れている」と思っていた両者がぶつかり合う世界は実は現在の正常であり何も嘆くことではなかったのだ。我々はただそれに慣れて行かなければならないし、その気になればいろいろなことが発見できるのだろうなあと思った。

ただその荒れ方の中身は見たほうがいいと思う。承認欲求のために荒れている人もいれば主権をかけてガチで争っている人もいるのだが表向きこの二つは同じ混乱にしか見えないからである。

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原発と人権問題という最悪の組み合わせ

関西電力の問題は思わぬところに飛び火したなと思う。まず人権問題に飛び火し、つぎに政界に飛び火した。稲田朋美元防衛大臣の地元が福井県ということがあり献金を受けていたというのだ。実際の献金額は36万円とたいした額ではないが返金を検討中だという。




こうして関連する問題が増えると群がる人も増えてくる。与党支持者にも野党支持者にもアイデンティティの一部を問題に固着させている人がいるからだ。

原発反対派は何が何でも原子力発電所の後ろ暗いところを見つけたい。反核運動は護憲派左派野党の最後の砦の一つである。また「稲田朋美」という名前が出てきたからには安倍政権を攻撃したい人たちもこの問題に熱心に取り組むだろう。

一方、保守の人たちも「野党は人権団体とつながりがあるからこの問題を一部隠して報じているのだ」とするに違いない。彼らはマイノリティ利権という言葉に敏感でありそうした特権が「善良で普通の人たち」から何かを盗んでいると信じている。

世界情勢の変化について行けなかった日本人は現実の安全保障問題を解決できなくなっている。だからこの話はタブーになりかけている。北朝鮮のミサイルをアメリカが黙認しているという事実について尋ねると政治に関心がありそうな人たちほど沈黙する。中には「まず憲法改正だ」などという人がいるが、日本の憲法を変えてもトランプ大統領の頭の中は変わらないだろうし、朝鮮民主主義人民共和国が開発したミサイルが消えてなくなるわけでもない。現実に対応できないからこそ、ありもしない問題の方が重要になってしまう。かといってそんなさなかに軍隊を全く持たないという選択肢もおそらくはもうない。アメリカの軍隊に期待できないからだ。

この話は皮肉な入れ子展開になっている。おそらく本土日本人は心の中で沖縄を捨て石にしていると思うのだが、アメリカは日本を捨て石にしている。朝鮮民主主義人民共和国のミサイルが日本に届いて日本が攻撃されれば日本に被害が出る。しかしアメリカはそれを口実に朝鮮民主主義人民共和国を攻撃できる。そうすればアメリカは無傷で助かるのである。実際にロシアが沖縄に対してそれを仄めかし琉球新報が伝えている。つまりロシアもわかっていて情報戦を仕掛けているわけだ。

この問題はまだ現実になっておらず従って明確な敵がいない。すると不安は広がるが現実の脅威に対抗して一つになるべきだというような動きも起きない。不安に耐えられなくなった人たちはいろいろな問題を見つけては「議論」したがる。しかし、現実の問題ではないので解決策はなく従って泥仕合いになる。巻き込まれる人は増えてゆくが誰も幸せにはなれないだろう。

すでに<M氏>が持っている資料を洗いざらい世間に公表すべきだなどと言い出す人が出てきているのだが、これは遺族を巻き込むことになる。皆忘れているようだが彼ら家族は「人権問題」の当事者である。すでに家族の一人が検事であるというような情報も出てきている。

私たちはこうした扱いが難しい問題に蓋をしてなかったことにしてきた。人権問題の当事者の中にはひっそりと事実を隠して生きていた人たちもいるだろうし、アウトサイダーとして既存のモラルや社会規範の外側で生きざるをえなかった人たちもいた。これを我々は世間一般の常識ではかることはおそらくはできない。前回見たナイジェリア人のハンスト餓死者もそうだった。同じような人たちはまだたくさんいてそれを閉じ込めている。

入管庁によると、退去強制令書を出され、6月末時点で入管施設に収容されている外国人1147人のうち、約75%に当たる858人が送還を拒否している。858人中366人が薬物事犯や殺人、性犯罪などで有罪判決を受け、うち84人が仮放免中の犯罪だった。ハンストは6月1日~9月25日、198人が行い、うち36人が9月25日時点で続けている。

収容外国人ハンストで死亡 入管施設で初、報告書公表

大村では食料がきちんと供給されている施設での餓死という明らかに異常な事態が起きて問題が表面化したのだが、扱うマスコミはおそらくほぼないだろう。これを突き詰めてゆくと外国人集団の問題に突き当たり、外国人集団の問題は外国人の待遇の問題に突き当たる。疲弊した地方がそれを抱えることができるのかという問題を考えなければならなくなってしまうのである。この問題の裾野はそれほど広い。

こうして不都合な事実は隠蔽される。私たちが「枠外に人を置く」ということはやがて管理不能な何かを生み出すということである。今回の高浜町の話も原発誘致の時には「管理ができる」と思っていたのだろうが、結局どうにもならなくなり表沙汰になってしまった。と、同時に高浜町が抱えていた長年の闇も表に出てきてしまった。経済的な繁栄が隠蔽してきた問題が衰退期に蒸し返されたと言えるのかもしれない。

関西電力の問題はおそらくは通常の企業の不正問題として分析されるべきで、そこから問題を取りだそうなどと考えないほうがいいだろうが、多分誰かがそれを掘り出そうとするに違いない。掘り出そうとする人は自分たちが何を扱おうとしているのかをきちんと考えて目の前の変化と衰退という問題を正面から捉えたほうがいいだろう。

特に人権問題という観点で高浜や大村の問題を扱いたい人たちはそれ相当の覚悟を持つべきである。善い人に見られたいという理由で語れる問題では恐らくなくなっているように思えるからだ。

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M氏と呼ばれた男はなぜ関電幹部を巻き込んだのか

関西電力の問題がヒートアップしている。本来は私企業と私企業の間の話なので贈収賄などは成立しないはずなのだが、関西電力側が説明を躊躇したせいで問題が大きくなった。ここでわからないなと思うのは、なぜ森山栄治さんが関電幹部を巻き込んだのかということである。もともとは合法的なお金なのだから好きに使っても良かったはずなのだ。




この問題が「贈収賄にならないのでは?」とされていた時には、あまり世間の注目を集めなかったが、お菓子の下に金貨が敷いてあったという強力な前近代性のある話が出てきて一気に盛り上がりを見せはじめた。だが、いろいろ調べて行くうちに「小判だけが前近代的なのではないんだな」ということがわかった。そろそろ週刊誌にも後追い報道が出るようだ。

最初に注目したのはこの森山栄治という人が90歳の高齢だったという点である。1928年の生まれなのだそうだ。そこで「戦後の混乱期を知っているからお金以外のものは信頼できなかったのだろう」と思った。そこで人物を調べてみたのだがWikipediaに生涯がまとまっていた。この文章に「人権」という文字がある。関西に近い北陸圏で人権といえばもうそれは「あの人権」しかない。ああ、これは新聞やテレビはできないだろうなあと思った。

松本清張ならこれで一冊の推理小説が書けるだろう。戦後の混乱期になぜか故郷を離れて京都府庁に就職した若者がいた。やがて財政が逼迫しているからという理由で請われて故郷に戻ってくる。裏には「地域の<事情>」に詳しいという理由もあったのかもしれない。なぜか彼は強権的に振舞い出すが誰も口出しができない。バックに大企業と町がついているからである。彼はそうやって地位を確かなものにしてゆき誰にも止められなくなる。関西電力もおそらくはこのことを知っていたに違いない。「人権教育」ということで「先生」と呼んでいたからである。そして事情を知っている役場は彼をMと呼び続けた。

関西電力には言えないことがいくつかある。多分、電源開発する過程で反対派の抑え込みをしているはずで、その経緯を関西電力は知っているはずだ。これをバラされると困るという事情があるのだろう。ダイヤモンドオンラインにそれを指摘するコラムを見つけた。窪田順生さんはこれを「ヤクザも真っ青」と言っているが、その詳しい中身は書けないだろう。検索すればそれを指摘する記事も見つけられるのだが、リンクするのははばかられる。

アンタッチャブルには「手をつけてはいけない」という意味があるのだが、それ以外にも意味がある。彼はいろいろな意味でアンタッチャブルな存在になった。そして関電はそんな彼を利用して「自分たちだけはきれいな」ままでいようとした。おそらく財政に逼迫していた町も知っていてそれを容認したのだろう。

この話はネットメディアでも取り扱っているところがあり、週刊文春や週刊新潮も後追い記事を出すようだ。おそらくこうした運動体を危険視する内容になるのではないかと思う。最初の差別があり、それを自分たちの営利に利用し、亡くなってから都合が悪くなるとまた切り捨てて化物呼ばわりする。まさに昭和の闇が令和になって蘇った風情がある。

ここからMと呼ばれ続けた人がなぜ関電幹部を巻き込んだのかもわかってくる。なんとなく戦中戦後の混乱を経験した人が「お金や金(きん)しか」信頼できなかったということはわかる。彼らはこれを身分保障のようなものと考えており、それに連座する人を増やしたかったのだろう。だが、既存のシステムに期待することができない「守られていない人たち」にとってはこの行為はそれ以上の意味を持っていたのかもしれない。つまり、自分たちに危険なことを押し付けて自分たちはきれいなままでいるのかという気持ちである。

日本は危険な原発を地方に「押し付ける」過程でかなり無理をしてきた。その原資になっているのは一人ひとりの電力使用料金だ。その意味では我々もこの厄介な問題に加担していることになる。差別とは恐ろしいものだと思う。

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ナイジェリア人男性が日本の入管施設で餓死するまで

ナイジェリア人の男性が6月に入管施設で亡くなった。これを受けて入管側が「自分たちの措置に問題はなかった」とする報告書を出した。このニュースに反応する人たちがいて「国際問題になる前に」人権状況を改善するべきだと言っている。




このニュースに反応している人たちは「餓死するとはかわいそうだ」という印象を持っているのだと思う。ところが調べて行くとこのナイジェリア人が単にかわいそうな人でなかったこともわかる。とはいえ人間が意志の力で餓死するというのはやはり大変なことだ。それほど強い「帰れない」という気持ちがあったか、閉じ込められているうちに他のことが考えられなくなっているのだろう。人権問題として取材するなら背景情報を掘り下げたほうが良いだろうと思える。

薬物の常習性を隠して伝えた朝日新聞

まずわかる点から整理していこう。この男性は2000年にナイジェリアから日本に来た。それが難民申請だったのかそうでないのかは不明である。日本にもナイジェリアコミュニティがあり合法的に入ってくる人たちはいる。また入管施設とあるように大村の施設は収容所ではない。出国が前提になっているがそれを拒んでいるといる人を「日本国内に戻さないようにする」ための施設である。ハフィントンポストは彼の犯罪歴として「窃盗」しか書いていないが発表によると薬物事案でも捕まっていたようであり、少なくとも当局側は常習性(薬物の常習性なのか犯罪の常習性なのかはわからないが)があったと言っている。つまり朝日新聞は情報を隠していることになる。

朝日新聞が情報をマスクしたのは「薬物事案」となると「人権問題としての餓死」という側面が議論されなくなるからなのだとは思う。しかしこうした一連の配慮が朝日新聞を信頼できない新聞にしているのも確かなことだろう。情報を隠蔽していると取られかねないからだ。

ナイジェリア

ナイジェリアはアフリカでは最大の約1億9000万人の人口を抱える国である。2006年から2014年ごろまでには6-8%程度の高い経済成長を実現していたがこのところは成長が鈍化していた。JETROが2018年の状況をまとめているが石油価格によって国の経済が大きく左右されるという事情がある。一方で、確かに輸出の90%を石油に依存しているが内需はそれなりに伸びているというレポートもある。またECOという新通貨を作って西アフリカに3億8500万人の統一市場を作ろうという動きもあり人口が多いナイジェリアはその中の主要国になるだろうことが予想される。ナイジェリアは一言では語れない国だ。

国内にはハウサ人・ヨルバ人・イボ人という異なる三つの民族集団がいる。しかし、人種が地域間対立の原因になり内戦まで起きている。このため人口調査ができないようだ。さらに話される言語が500語あり、キリスト教とイスラム教という対立もある。一つのアイデンティティでまとまるということはできそうにない。日本の常識では語れない国なのである。

このため北部を中心に治安が悪化している。有名なのはボコハラムである。グローバル化へのイスラム抵抗運動だがかなり非人道的な行為が横行しているようだ。人身売買や虐待も常態化しているようで、最近も「拷問の家」から人々が救い出されたというようなニュースもあった。さらに女性を拉致してきて子供を産ませて労働力として売り払うということも起きている。レイプもひどい話なのだが国内に奴隷市場があるということがほのめかされた記事だと思う。この「赤ちゃん工場」は首都近くの話なので北部だけでなく全土で統治がうまくいっていないことがわかる。

ハフィントンポストの2017年の記事はビジネスセクターには優秀な人たちが揃っていると書いている。アメリカに留学した人が多いためだそうだ。ただ官には人材がいないという。石油さえあれば経済が回ってゆくという国で官僚に意欲がなくなるのは当然のことである。政府の規範意識は民政化によって崩壊し汚職が蔓延しているそうだ。石油を売れば金が入ってくるわけだから富国強兵に務めるより手っ取り早く石油の上がりを掠め取ったほうがよいのだろう。

今回の問題を朝日新聞のように「かわいそうな収容者が餓死した」と括りたくなる気持ちはわかるのだが、実際にはそんな生やさしい話ではない。政府が全く信頼できない国からやってきた人たちすべてが日本人と同じような遵法意識を持っているとは思えない。仲間を頼って生存競争を勝ち抜かなければならない。

例えば、ナイジェリア系日本人のボビー・オロゴンさんは現地で経済系の大学を卒業しているようだ。現地で言えば10%のエリートなのである。今では日本語で投資哲学について講演したりしている。このように教育を受けていたり留学経験があるナイジェリア人もいれば現地で生き抜くのに精一杯というナイジェリア人もいるのだろう。こうした人たちを一緒くたにして語ることはできない。そして現実問題としていろいろな国からいろいろなバックグラウンドの人が入ってくる。今後外国から人を受け入れればもっと状況は複雑になるはずだ。

どうしても白黒はっきりつけたがる日本人

この記事はもちろん「移民問題など面倒だから入管に押し込めておこう」というのが問題の根源になっている。現地に戻ることも難しく定着教育にも多額の費用と人的リソースが必要になるだろう。周囲のサポートが必要だが日本は社会システムが複雑化しすぎていて余所者が入り込める隙間がない。すると日本人は判断停止に陥り問題をなかったことにしてしまう。この場合長崎県大村という場所にそうした人たちを閉じ込めているわけである。

入管施設は事実上の収容所と化している。日本の学校教育ですら自殺者がでているのだから、管理されて先が読めない施設で外国人たちの精神状態が極めて近視眼的になってしまうのは無理がない話である。食事があり医療施設もある空間でみんなに知られながらいきたいという本能に争ってお腹を空かせて死んでゆくというのは極めて異常な精神状態だ。

一方で「収容者=かわいそうな人たちだ」といって騒ぐのもまた反対側の思考停止である。朝日新聞が「薬事事案で逮捕歴がある」ことを報道できなかったのは、彼らもまた「薬事事案=けしからん人たちだ」という偏見を持っていたからだろう。しかし、それが報道できなかった気持ちもわかる。入管の人権問題を探っているうちに例えば六本木のナイジェリア人支配の話を取材しはじめると多分議論の質は全く違ったものになってしまうだろう。どうしても白黒はっきりした話を好む日本人に向けて「味付け」がなされてしまうわけである。

つまりよく考えてみるとどちらも思い込みで思考停止しているだけだ。そして白黒はっきりしないと考えること自体をやめてしまうのだ。しかし日本人が考えるのをやめても問題そのものはそこに存在し続ける。もし再発防止や人権問題についてきちんと分析したいならこのナイジェリア人の男性がどこから来てどんな人生を送ったのかということを正確に伝える必要があるのだろう。

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成田市議会エコボトルといじめの構造

成田市議会でマイボトルが禁止された。特定の人を狙い撃ちした陰湿なイジメだなあと思った。日本の閉鎖的な村落的構造がよく表れている。日本人は話し合いができないばかりか議論の空間をいじめに利用してしまうことがある。古い日本人にとっては問題解決より体面の方が重要だからだ。




発端はアエラの記事だった。記事は「市民からの苦情」でペットボトルはみっともないということになったと伝えている。ところが、結果的にペットボトルの飲み物で統一されてしまった。これは一貫性のないおかしな議論だ。途中でマイボトルの話も出てきているが「色や形が統一できない」という理由で却下されている。

この記事は中空がぽっかりと空いている。新聞は事実しか書けないので証明できないことは書けないということなのだろう。日本ではこれを「炎上」が埋める。中空が明確であるほど炎上が起きやすくなる。今回の「炎上」は「これって明らかにいじめですよね」ということだ。

まずこの議員さんは緑の党というところに所属している。マイボトル・エコボトルはこの議員にとって中核的なテーマだ。他の議員は利益誘導に興味があるのだろうからおそらく市民団体系の人とは話が合わないだろう。さらに、この議員さんはコンパニオンを呼んでお酒を注がせることを何回も注意してきたらしい。個人ブログで見るとそれがよくわかる。これが男性中心の議会の気持ちを逆なでしたんだろうなあと思う。

成田市議会の構成を見ると女性が3人しかいない。一人は与党・一人は共産党・そしてもう一人は緑の党である。共産党は仕方がないが古い男性社会で女性ができることは二つある。一つは男性のマスコットになる道で、もう一つは男性以上に男性らしく振舞って許しを請い続けることだ。つまり女性であるということはそれだけで「いけないこと」なのであり、それを払拭するためには男性以上に尽くさなければならない。

「この市民団体上がりの女性」議員が浮いていたんだろうなあということが予想できる。

こういう人に「ガツンという」にはどうしたらいいか。みんなでルールを作ってその人の大切なものを奪ってしまえばいいわけである。俺たちは認めないぞという意思を示すのだ。そして、異議を申し立ててきたらそれを無視しつづける。男性社会を賞賛する女性以外は必要ないということを見せ続けなければ大変なことになるし、相手の苦痛を見るのも楽しい。

こうした「聞こえません・異議は認めません」攻撃も政治課題と称した少数者いじめではよくあることだ。Twitterでは韓国人をいじめたり、アイヌ語などないといって批判者をあぶり出して狩るという行為が常態化している。こういうのは理不尽であればあるほどよい。

古い男性社会も「コンパニオン」のような問題に正面から反論するのは難しいということはわかっている。だからこそ政治的正しさを押し付けてくる面白くない人に対する意趣返しにいじめを利用する。ここでできる最大の防御は感情的に反論しないことだろう。

誰が考えたのかは知らないがそのプロセスは念入りだ。意思決定はできない古い日本人にとって何も決めないといういじめは得意分野である。市議たちが「あの女はけしからん」「なんだあのいけ好かないボトルは」という話になったのかもしれないのだが、そうは言えないので「市民から苦情があったということにして」「みんなで決めたことにしよう」となったのかもしれない。ルールを決めて動かさないことにしてしまえばいいのである。

こうしてどんどん何もできなくなってゆくが、それは市議たちにとってはどうでもいいことなのだろう。自分たちは選ばれた議員様なのであって、市民の問題など市が自己責任で考えればいい。この成田市議会はおそらく「女性の働き方や育児」のような問題も「環境問題」も扱えないだろう。

何も決めない議会ではわけのわからないルールだけ増えてゆく。「市が用意したペットボトルから紙コップで飲む」というルールだ。こうしたわけのわからないルールはやがて一人歩きして修正が効かなくなる。ところが我々はこうしたルールに慣れてしまう。そして自分で何かを考えようとするのをやめてしまうのである。

つまりこの成田市議会のデメリットは新しい価値観に対応できなくなり自分で考えようという気持ちを奪うという点である。そしてその結果被害を被るのはリーダーたちではなくおそらく一人ひとりの市民だろう。彼らは体面を守るために市民を犠牲にしている。

さらに議題ではなく人に注目するというのが閉鎖されて時代に取り残されつつある人たちの特徴だということもわかる。閉鎖空間に居続けたおかげで周りの価値観が受け入れられなくなり自分たちの短期的な体面の問題しか考えられなくなっている。おそらく様々な政治議論と称されるいじめが個人攻撃なのはそのせいだ。

今回はペットボトルについて扱っているように見えるが、おそらく市議たちの関心はこの「けしからん女性議員」にあるはずで、おそらくプラスチックや環境をまともな政治問題とは捉えていないだろう。彼らが気にしているのは国の補助金をどう支持者に配るということと自分たちの威厳だ。村で生きて行く以上それ以上に大切な政治問題は彼らにはない。議会という村が居心地がよいものであるならば、外の世界で何が起きているかなどどうでも良いことなのだろう。

今回は成田市の問題を見たがおそらく日本にはこうした村がいくつもある。閉鎖的な村の病は人々に取り付いて意欲や活気を奪うのだ。

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日本人は正義を語ってはいけない – トロッコ問題

毎日新聞の記事で面白い話を見つけた。ある小中学校で「トロッコ問題」が大問題になったというのである。倫理学をいい加減に扱う日本人は正義を語ってはいけないなと思った。




トロッコ問題というのは、マイケル・サンデルのこれから「正義」の話をしようでも有名になった倫理学を学ぶための問題である。多分知っている人が多いはずだ。功利主義という「得をする人が多いのが一番いい選択肢である」という考え方がある。しかし、その考え方を取ると犠牲者がでる場合がある。多数派のために少数派が犠牲になればいいという議論になるからだ。トロッコ問題はそれを考えるために出される問題なのだが、最近の「民主主義=多数決」という偏った議論を考え直すためには良いツールになる。

ところが日本人はこの問題を「面倒で厄介な問題」と考える。そこで集団で圧力をかけて「考えないように」してしまうのである。これは「悪いことを考えるとそれが起こる」のでそれが起こらないように考えないようにするという言霊信仰である。「ご迷惑をおかけしました」という呪文を唱えると問題がなかったことになる。

今回は学校の校長たちが保護者に「不安を与えて申し訳なかった」と謝罪して終わりになっており、新聞もそれについては論評していない。日本人はトロッッコ問題が扱えず、したがって多数決で出る犠牲者の問題を考えることはできない。だから日本人に正義を語らせるのはやめたほうがいい。そもそも概念的な問題を扱えないからだ。

ところがよく見て行くとこの記事にはもっと恐ろしい問題が隠れている。このスクールカウンセラーはそもそもこのトロッコ問題を「よくわからない問題」と丸めているのだ。それを不安に思ったらカウンセラーに相談して欲しいという意味で使ったと言っている。これは恐ろしい告白だ。

もともと「意思決定をめぐる難しい問題を突き詰めて考えましょう」という問題をこのカウンセラーも取り扱ってみたのだろう。だがよくわからなかった。ただ心情的に「悩んだら誰かに相談しよう」ということは理解できる。ところがこの二つが結びつくと「自分で責任が取れそうになかったら誰かに相談して責任や罪悪感を分散しましょうね」と仄めかすことになる。集団主義へ生徒を誘導しているのだが、多分スクールカウンセラーはそのことに気がついていないだろう。

例えば原子力発電所の問題は一人が決めたら独裁だが、周りの人にいろいろ相談してやったから誰も責任を取らないでもかまわないということになっている。福島の漁師は犠牲になっているがこれは東京というもっと大きな消費地を助けるために仕方がなかったことであるというのが功利主義的な考え方であり、集団主義なので誰も責任は取らない。日本は犠牲者が出たら「運が悪かった・仕方がなかった」で済ませる国だが「本当にそれでいいんですか?」という議論はしないで「みんなで考えたから仕方がなかった」と置いてしまう。実はカウンセラーがやっているのはそういうことなのだ。

カウンセラーはおそらく「よく知られている問題」だから権威があるのだろうと考えていてその理解が中途半端なまま自説「自分たちに相談してください」に結びつけている。権威を利用しようとしているわけである。

ではこのカウンセラーが知的に劣っているのかと言う疑問が出てくる。実はそうでもないのではないかと思う。例えば教育勅語は「天皇はすごいんだから従うべきだ」と言う主張を補強するために四書五経の徳目を集めてきて「天皇は父親だからなんでもいうことを聞かないとね」と結びつけている。わかっていなくても、最後の「天皇に従えだけ」がわかっていればよいわけで、それが悪用されると「片道切符で敵の戦艦に飛び込んでね」ということになってしまう。戦争はみんなで決めたことで誰かが責任を取るものでもない。でも俺たちは助かりたい。だから仕方がないからお前が犠牲になってくれということである。

最初にこの話を聞いた時「トロッコ問題」を概念的に扱えないから日本人は正義について語れないのだと思った。ところが毎日新聞の記事にはトロッコ問題に関連する議論がリンクされていた。

ところがこの問題実は「自動運転」の議論に結びついてしまっている。つまり日本人はこの問題を「概念」ではなく「具象」に注目してしまうようなのだ。つまり実際に自分がハンドルを握るという想像をしてみないとこの問題が考えられない。そしてそれを行っているのが、かなりいろいろなことを知っているはずの新聞記者たちによって行われているところに病理があると言える。経験に強くとらわれる傾向を長年教育によって刷り込まれてきた日本人はトロッコ問題を原発ではなく自動運転に結びつけて考えてしまうのである。

日本人は正義について考えることができない。ここで考えただけで三つも理由が出てきた。おそらくここから脱出することは不可能だから諦めたほうがいい。

  • 具体論に落として自分の経験の範囲でしか考えられないという、具象と経験の誤謬。
  • よく語られるとかよく知られているとか、みんなが言っているという権威に頼ってしまう、権威の誤謬。
  • 不安なことを考えるとそれが起こってしまうと考える、因果関係の誤謬。

本来この話はここから功利主義批判になりコミュニティ論になるはずだ。それが政治哲学者の考える「予定」である。4つの政治哲学で今後の働き方をひもとくという記事にはそのことが書かれている。最終的にはコミュニティや共通善という話になり、日本国憲法の「公益」に関しての議論になるはずである。the common goodは憲法第12条の原文にも書かれている概念だからだ。

もちろん「功利主義などは西洋の考え方が基礎になっているから我が国は我が国独自の哲学体系で考えるべきだ」という主張は可能だし、憲法が真面目にコミュニタリアンの考え方に沿っているのかというのは検討しても良い疑問だとは思う。

だが日本人が「独自に考えよう」とすると具象化の罠に陥ってしまい概念化に失敗することが多いように思える。経験が同じような人たちが集まっているので概念化しなくてもなんとかなってしまうという事情がある。

だから日本人は本質的に憲法批判も再構築もできない。自分たちの思想を体系化して落とし込むことができないからだ。経験則に体系はないのでこれは当然のことである。

ゆえに正義が語れない日本人は憲法を自分たちの手で作ることはできないだろう。日本人にできるのはわかっている部分を経験から得られた心情に結びつけることだけで、この先混乱と形骸化が進むはずである。一部教育の問題(これは十分改善できる)が含まれているわけだから、惜しいといえば惜しい話である。

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他人と適切な距離が取れない人たちとその対処法

最近Quoraで疲れるなあと思うことが増えてきた。コミュニティが小さいのでどうしても普段接触する人が限られてくる。これが疲れるのである。そこで疲れた時の対処法も含めていろいろ考えてみた。




人が自分の意見を押し付けてくるのはその人が多様な価値観を理解できないからだ。押し付けを拒否するためには自分は異なった考えを持っているということをあらかじめあきらかにしておけばいい。

どうやら多くの人は「個人の考えは様々ある」ということはわかっているらしい。つまり完全に意見が合致する人などいないということが頭ではわかっているのである。だが、それが認められない人が結構いる。わかっていてもその前提で行動しないのである。

例えば、世の中はリアリズムであると考えている人がいる。それはよいのだがアジア人や社会主義に対して強力な蔑視感情を持っており、この部分だけコンパスがおかしくなる。つまりバイアスがかかっているのだ。私は白人・ヨーロッパ社会・資本主義経済を盲従して劣等感をかかけている日本人もたくさん知っているので、盲従する人と威張りたがる人がペアに見えてしまう。なので、そこには賛同できないわけである。

交流期間が長くなるに従って彼らは「韓国は民主主義の機能しないおかしな国であり中国共産党は悪の帝国である」という信仰告白を強要してくるようになった。確かに韓国の民主主義には問題があるが、アメリカやイギリスの議会の混乱も相当なものなんだけどなあなどとかわしているうちに相手は苛立ってくるのだ。

ではなぜ苛立つのだろうと考えてみた。第一の理由は私があまり自分の歪みを相手に伝えていないからなのだと思った。日本人はなぜか自分は中立だと考えることが多い。だから、中立そうに見える相手に自分と同じ歪みを強要してしまうのである。

今回この解決が簡単だったのは最初からキャラを作っていたからである。つまり最初から変な人だということがわかっていれば相手も納得しやすい。若年者が高齢者に対して「その考えは古臭い」という理由もわかった。線を引いて村を分けているのだろう。中には最初から「私は不思議ちゃんです」などといってかわしてくる人もいる。

次にこうした歪みは支配感情に基づいていることが多いようである。自分ひとりではおとなしいのに、民族や国家を代表すると急に体制側に立った物言いをする人がいる。支配側に立っていると思われたいのだろう。そしてそれを否定されると「自分の支配者としての資格」を疑われていると感じてしまうのだ。

こういう人はスーパーマーケットで観察できる。一人だとおとなしいおじいちゃんが妻を連れて買い物に来ると途端に乱暴な言葉遣いになるというのをこの前目撃した。支配欲というのはある種の人間にとっては本質的なよりどころなんだなあと思った。もちろん女性も同じような支配欲は持っているだろう。

第一の点は克服可能である。つまり自分で「私は中立ではありませんよ」と宣言して仕舞えばいい。第二の点はどうしようもない。これは問題を引き起こすだろうが関わらずに放置するしかない。

村には価値体系が一つしかないので「みんなと同じことを考えていること」が中立の価値体系である。日本から見ると中国共産党は「異質な悪」なのだから「良かれと思って」あれは悪だと言ってくるわけである。彼らにしてみればお掃除をしている感覚なのだろう。汚れた思想があればそれは取り除かれなければ安心して暮らせない。

ただ、そうでない人も増えている。だからこそ余計に村人気質が浮き上がって見えてくるようになった。

SNSに一定数いる彼らは遊牧・放浪型と言っても良いのではないかと思う。つまり移動を前提としている人たちだ。移動を前提としている人たちは意見の相違は恐れないしそもそも気に留めない。情報交換は旅を続ける中で危険を察知するためには重要だが価値観を全て一つにする必要はない。つまり情報交換に広がりが感じられるがお互いに縛りあいはない。なぜならば自分が移動できるからである。定住型から見ると逃げ場があるということになるが、移動型の人にはそんな感覚はないだろう。

この移動を前提とするかしないかというのは大きな違いを生み出しているようだ。そして私が「日本人はXXだから」と決めつける時、定住型と移動型について語っていることがあるんだなと思った。日本人の日本性というのは突き詰めれば「移動を前提としていない」ということなのかもしれない。島国の狭い居住空間で暮らす人たちの智恵である。

彼らには「私は村には住んでいないし偏った考え方を持っている」と宣言しておけばいい。どうせSNSは村にはならない。彼らは困った時には面倒を見てくれないからだ。日本はもう村ではない。

ここまでは合理的に説明ができるのだが、欲求としての「支配欲」は日本人の古層に残る。日本の村は強力なリーダーによって統制されているわけではなく村人の相互監視によって成り立っている。そのため日本の民主主義はそれぞれの家の長が支配者意識を持って集団を相互監視しているという姿になりやすい。普段はこの縄張り意識が表面上の治安の良さを作っている。みんなで空気を読んで当たり障りのない暮らしを作っているとも言えるわけである。

これがある種の感情的危機にさらされた時に硬直して様々な問題を起こす。例えば反日探しというのは民衆レベルの支配欲が暴走した形である。まとまりたいがまとまりを作れないので身内に敵を探し出し「純化」を試みる。これは日本だけでなくまとまりを作れない国ではよくあることで、アメリカでは日系人・共産主義者・イスラム教徒(非キリスト教の人たちだ)などが槍玉にあげられ純化の対象になってきた。その都度反省しているが決してなくならない。

日本の場合はさらにこれが内向きになる。たまたま読んだ「愛玩子」と「搾取子」は支配欲が家族をどう崩壊させるかについてかについて観察している。息子・娘を支配したい親が好きな子供には報償を与え嫌いな子供には罰を与える。それを通して家の中で支配者として振る舞うというのである。

父親や母親が「なぜ支配欲を持って子供にしがみつくのか」という理由は語られない。つまりメカニズムはわからない。ただ、外から見ると「支配被支配」関係を明確にしておきたいと欲求だけは明確にわかる。おそらくは支配欲を通じて子供にしがみついているのであろう。子供には逃げ場がなく中には精神的に病んでしまう人もいるようだ。

本物の村を知らない日本人はおそらく原型になるエデンの園のような村のイメージを持っているのかもしれない。そしてある人は政治議論にしがみつきまた別の人たちは自分の持ち物である子供にしがみつくことによって理想の村を再現しようとする。だが、それが身を結ぶことはない。理想の村の像はおぼろげで再現することができないからだ。

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タワーマンションの混乱 – 民主主義ができない困った人たち

面白い記事を見つけた。タワマンの「一斉老化」が止められないという記事である。面白いのは他人事として観察できるからである。日本人は議論ができないのでコミュニティ管理ができない。つまり日本人は「民主主義ができない」のだ。




この話は貴重なサンプルだ。日本人が民主主義ができないというと犯人探しに変わってしまうか、そんなのは決めつけであるという反発をうむ。<右傾化>著しい日本ではよくあることである。問題が切実になればなるほど「他人に変わって欲しいが自分は何一つ変わりたくない」と考えるのが日本人だ。言い換えれば日本人は自分が先に動いて損をしたくないのである。だから外から日本人の行動様式についてみないと我々日本人は日本人を観察できない。

この記事を読むと日本人ができないことがわかる。

  • 日本人はまとまれない
  • 日本人は話し合えない
  • したがって、日本人は決められない

今回ご紹介するのは、タワーマンションが老朽化すると運営が立ち行かなくなるところが出てくるだろうという記事だ。その内容を見ると「決められない住民」という言葉が出てくる。では何故決められないのか。

タワーマンションは管理費の中から将来の改修費用を積み立てて行く。これが税金のような役割を果たしている。ただ、当初の見通しが甘く「税金」だけでは足りず将来行き詰ることが予想されているのだという。政治家が票を買うために甘い見通しを立ててあとで有権者が困って揉め始めるというのはよくある話だ。この場合は票ではなくマンションを買っている。

いずれにせよ甘い見通しを信じて人生設計した住民はどうしていいかわからない。それでもタワーマンションは上と下で収入格差があり意見がまとまらないようだ。記事には書かれていないのだが恐らく普段は上の方が偉いという上下意識があり下の人は反発しているのではないかと思う。当然「金持ちが多く負担すべきだ」という話になるだろう。また最下層には店舗も入っておりこれもまとめられない。村を原型に社会を組み立ててきた日本人はお互いの気持ちを慮りながら言語化して話し合いをすることができない。

ここで調停を求めるのだが、管理組合は「最終的には決めるのはオーナー様ですから」というような言い方をする。これは政治家や司法関係者が最終的に何も決めないのによく似ている。最終的には同じようなバックグラウンドの人たちだけであつまってバラバラに意思決定をするということが起こっているようだ。つまり、低層と高層で村が分かれてしまうのである。

もともと規制緩和でできた高層マンションにはまた運営のノウハウがない。そこで筆者は「国が入ってなんとかしてほしい」といっている。

国交省は、容積率を緩和し、補助金を投入してタワーマンションの建設を後押ししてきた。「都心回帰」の旗を振った責任があるのだから、一日も早く、ガイドライン作りを始めてほしいものだ。

タワマンの「一斉老化」が止められない…日本を蝕む「不都合な真実」

なんとなく気持ちはわかるのだが「規制緩和」というのは自分たちで判断するから好きにやらせてくださいということである。ところが日本人はここで「自分たちで判断しよう」というつもりにはならない。

住民には「主権者意識」がない。主権者はなんとかして物事をまとめて最終結論を出すという意思が必要なのだということがわかる。リスク評価と意思決定はしないのである。住民は希望は出すがあくまでもお客様気分であり経営のことは考えない。そして誰かに調停を求めていつまでもまとまらずに言い争いをする。裁定者は出てこない。誰も責任は取りたくないからである。だからいつまでも揉め続け、その間にも建物は老朽化してゆく。

多分一生に一度の買い物をした人も多いはずで、課題は切実なはずだ。しかし、それでも日本人はそうなる。本質的に「民主主義」ができないことがよくわかる。多分同じことはタワーマンションだけではなくいろいろなところで起こっているはずである。学級会くらいからやり直したほうがいいとは思うのだが、そもそも学級会運営のノウハウすらないかもしれない。

どうしてそうなるかはわからない。でもそうなるのだ。

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Twitterで絡まれたらまず3本の蛍光ペンを取り出そう

前回は政治議論のために、意見・証拠・反証・印象の4つを分析してみようという提案をしてみた。ただ、このままでは広まらないだろうなあと思う。建設的な議論をしたい日本人はそれほど多くないはずだからである。




日本人が好むのは「他人があたかもその人の意見かのように自分の意見を主張する」のを聞くことと「自分と異なる意見を持っている人がひどい目にあう」ことだけだと思う。社会が同質的な村から出発しており他者の存在を受け入れないのだ。

つまりこの3つの蛍光ペン理論を広めるために応用編を作るとすればそれは「自説を補強し」て「カラまれるのを防ぐ」ところにあるということになるだろう。特にTwitter論壇のコメンテータである我々にとって「カラみ防止」は喫緊の課題だ。なぜならばTwitterは我々の理想の村を再現してくれないし、場合によってはひどいストレスをもたらす。電車の中でスマホを読んでいて腹が立ったらまず心の中に蛍光ペンを取り出してみよう。

まず、相手の文章が「印象」なのか「エビデンスを含んでいるか」を分析する。もし印象だったら「折り合いをつけてもいいのか」「妥協できないのか」ということを決めよう。いったん飲み込んで見て数日置いてみるのも手である。反論には意外と新しい発見があるかもしれない。しかし「それでも折り合えないな」と思ったら特に相手にする必要はない。印象なので折り合うことはできないし多分説得も無理だろう。相手の経験とあなたの経験が異なっている。それだけのことなのだ。黙ってミュートボタンを押そう。

厄介なのはエビデンスを含んでいる場合である。この場合「反証」が含まれているのか、つまり批判を織り込んでいるのかということを見てみよう。もし、特定の立場を補強する証拠だけが集まっているとしたら、証拠そのものでなく取捨選択がその人の態度を表していることになる。その人の態度を変えることは難しいだろう。これは印象なので結局印象で話をしているのと同じ状況なのだ。これもミュートボタン対象だろう。

中にはわざと反論されやすい言い方をして相手を煽ってくる人がいる。その場合には「炎上商法」を問題にすべきであって、その人の歪んだ(あるいは経済的に困窮した)人格や証拠二反論しても意味がない。「嘘をついてはいけませんよ」というだけで十分なように「大切な問題をおもちゃにすべきでない」と言えばいい。これはミュートしなくてもいいかもしれない。だが、最近ではもっと派手なショーを望んでいる人がいて「裁判で訴えますよ」と一般人に脅しをかける人も出てきた。多分戦っている自分が好きなのだろう。相手するかどうかはあなた次第である。

時々、偏った情報を選択していてもそこに批判的な精神を持ち込んでいる人はいる。そういう人であれば「私とあなたの意見は違う」という地点くらいまでにはもって行くことができるかもしれない。最終的に折り合えないとしても議論ができるのはその時点からなのではないだろうか。この議論のメリットは実は相手の分析ではない。自分の意見をチェックすることである。相手の文章を分析する過程で実は自分の議論もチェックしなければならなくなる。

証拠と検討材料(法律用語では反証とは「嘘だと示すための証拠」という意味だそうなので「意見を検討するために考え直すこと」を反証と書いたのは適当でなかったのかもしれない)が含まれているとすれば導き出された意見には何らかの意味があるはずである。

あとは証拠の妥当性を評価すればいい。自分も証拠と検討材料を持っているはずなのでそれをすり合わせて行けばいいわけである。証拠そのものが重要なのであって、最終的な意見はそれほど重要ではないということと、ましてやそれを言っている人の人間性やバックグラウンドは意味がないということは覚えておいたほうがいい。

「最終的な意見」もそれほど重要ではないのはどうしてだろうか。それは議論を通して意見が変わることはお互いに十分考えられることだからである。そもそも意見が全く変わらないなら議論に意味はない。

「日本人は議論ができない」というのはこれまで諦めがちに扱ってきたテーマだった。学校教育が悪いなどと言いながらなかなかその実態がつかめなかった。だが、いったん仕掛けがわかってしまうとそれほど大した問題ではないし克服も簡単なように思える。

実は読書感想文的なアプローチ – つまり読んだものに印象をくっつけて行く – が問題なのであって、別に日本人の知性に問題があるわけではないからだ。

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四本の蛍光ペン – 日本人は議論ができないのだが解決策も簡単

4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。




1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。

まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。

がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。

白い紙を取り出して整理してみることにした。

一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。

ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。

この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。

突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。

自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。

  • 意見・主張・試論(これがメイン)
  • 意見をバックアップするための事実
  • 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
  • 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)

ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。

これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。

エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。

一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。

今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。

これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。

例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。

「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。

そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。

先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。

自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。

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