日本人はどんな具合に議論が苦手なのか – シンクライアント方式の場合

日本人は議論ができない。これを読んでいるあなたも私も議論ができない。あなたはダメ人間だ。そんな話を書いている。




今回はシンクライアントについて考える。いまや「シンクライアント」と言われると多くの日本人は「証拠が隠してしまえる怪しいシステム」と思っているはずである。私もそう思った。「安倍政権が情報隠蔽のためにシンクライアント方式を画策したのだ」と……

ところが、テレビのワイドショーに文書管理を担当していた元総務相の官僚が出ていて、彼の説明を聞いて考えが変わった。どうもそうではないらしいということと、導入が始まったばかりなので内閣府が全部このシステムに移行したのかというのも実は確かではないようだ。

私がシンクライアント方式は悪だと思ったのが、私の嫌いな安倍首相がそういう説明をしているからだ。これは正確にはシンクライアントシステムに対するある一つの印象なのだが、日本では多くの人に同じ情報が共有されるとそれが事実として扱われることがある。つまりシンクライアント=情報隠蔽は私に取っても事実だし、Twitterのみんなもそう言っている。だから悪いに違いない。

ではなぜそういう印象がついたのか。それは安倍首相やその取り巻きの人たちが文書管理の実業務に興味を持っていないからだろう。設計思想がわからないのでシンクライアント導入の意図を説明できない。安倍保守というのはおそらく仲間内の認識を優先して他者を理解しないという現象だからこれは当然のことだ。議論をするためにはその辺りを忖度して自分で問題意識を持った上で調べる必要があるが「問題意識」を日本人は持てないのだろう。

シンクライアントは悪いシステムなのだろうか?

シンクライアントシステムは大手ITベンダーが長い間官公庁に売り込もうとしていたシステムである。2006年のThinkITに記事を見つけた。随分と古い記事だ。

NECのマーケティングページにはシンクライアントシステムのメリットが4つ書いてある。このうち今回関係があるのはその2つである。「評価」という観点から要点を2つに刈り込んだ。

  • 情報漏洩が防げる
  • 運営コストが低減できる

官公庁のメリットはおそらく「情報漏洩が防げる」ことである。情報の持ち出しが難しくなるのだ。これは国家機密管理という意味では妥当な判断だし住民情報を扱う地方公共団体にとってもメリットだろう。問題は安倍首相がこれを理解しているかどうかである。

ここまで刈り込むと、今回の問題は本来の利点を「安倍政権のために私物化」したことが問題になっているということもわかる。つまり議論が最初からねじれているのである。だから安倍政権の言い訳を聞いていても議論ができない。実際には「もともとはこういう意図だったのにその説明は違いますよね」と言ってあげなければならないのだ。実に面倒だが議論するならそうする必要がある。

つまり、本来なら国の情報やあなたの大切な情報が他人に盗まれないために導入したシステムを「あなたに代わって行政を監視する」はずの野党議員から隠したのが今回の問題の一つですよねということだ。シンクライアントシステムの利点を悪用しているのが問題であるということで、問題が一つ解決した。

問題意識を持てば情報を刈り込むことができる。情報を限定すれば考察がしやすくなる。すると問題が一つ解決する。あとは「国家機密を守りつつ情報の透明性を高めるにはどうすればいいのですか?」と質問して、問題意識を共有する人たちで話し合えばいい。実に簡単なことなのだ。

ところが日本人は「安倍=シンクライアント=隠蔽」と思ってしまうので、シンクライアントシステムに「後ろ暗い印象」をつける。あるいは安倍首相が推進する最新鋭のシステムだからいいことに決まっているという印象で話す。お互いに違った印象を持っているからあとは河原で合戦してもらうしかない。我々はそれを遠巻きに見物するだけだ。

2009年当時の民主党政権は公共事業が悪いという単純化を行い、多くの国民もこの単純な図式を支持した。今後野党が支持されれば「シンクライアント導入計画を止めて政府情報透明性確保」というような過度の単純化が行われるはずである。こうして印象ベースの議論はどんどん「いいか悪いか」の議論に落ちてゆく。

ここまでが本筋なのだが、今回シンクライアントシステムを調べていて別の懸念も見つけた。おそらく運用側の大手ベンダーにとってみればシンクライアントシステムは「都合の良い」システムであった。次の問題意識は「これは果たして利用者にも都合のよいシステムだったのだろうか」というものだ。2006年の文章を再び読んでみる。

私が知る限り、シンクライアントという言葉が世に出たのは1990年初頭であり、シトリックス社がマイクロソフト社のシングルユーザOSであるWindowsをマルチユーザで利用するために、Windows上で動作するサーバソフトウェア(WinFrame)とマルチユーザにアクセスするためのクライアントソフトウェア(ICAクライアント:Independent Computing Architectureクライアント)を開発しました。

シンクライアントの歴史

今度は少し追加調査が必要なようだ。実はシンクライアントというのは平成初期に考えられた仕組みである。昭和の大手ベンダーは大きなホストコンピュータを社内で運営しそのリソースを貸し付けるというビジネスモデルを持っていた。Windows95が出るちょっと前の話である。レガシー(古びた遺産)と揶揄されていたIBMはそれを新しいビジョンで転用しようとしたのだろう。汎用機を持っていた国内メーカーはおそらくその流れに乗ったのだ。

平成前期はパソコン全盛時代だった。OSはMicrosoftのものであり日本の大手ベンダーには旨みがない上に客先のパソコンにすべてOSをインストールしなければならないので極めて効率が悪い。本来なら組織的学習をやり直さなければならないがそれをやらずに「楽に売り込める先」を探したのだろう。

日本の大手ベンダーは家庭やビジネスへの浸透を諦めてすでにパイプを持っていた官公庁に取り入る戦略に転じたのではないだろうか。シンクライアントならホストコンピュータ型のビジネスがそのまま展開できて「ベンダーにとってコスト効率が高い」。ベンダーのメリットなのだ。

家庭やビジネスがこれを導入しないのはおそらく使い勝手が悪く割高だからだろう。そのあと、平成後期に入ると家庭や企業はパソコンを使ってクラウドにデータを預けるという、スマホとクラウドコンピューティング型の事業が一般的になる。国際スタンダードが英語圏に握られていて日本のベンダーが苦手な分野だ。

シンクライアントもクラウドも同じ「サーバー」を使うのだが、小さなコンピュータに分散できるクラウドのほうがシンクライアント(正体はホストコンピュータ)よりもコスト効率が高くまた使い勝手も良いだろう。多くの開発業者が参加して便利なシステム作りを競っている。

つまり、政府はガラパゴスなシステムを押し付けられている可能性が高いのだが、おそらく日本の世論がここにたどり着くことはないと思う。そもそもシンクライアントすら満足に説明が出来ていない。

ガラパゴスなシステムであるということが評価できない人たちが官僚や政治家として日本のIT行政を支配しているのは明らかに弊害である。例えば教育も「世界では通用しない日本独自のシステム」を押し付けられる可能性が高い。そしてそんな教育を受けても世界では使い物にならない。

ただ、かつての日本の政権はこの辺りをわきまえていて実務は評価ができる官僚に任せ、自分たちは説明だけを担当していた。だが、これが安倍政権に入って破壊されてしまったようだ。

テレビのワイドショーでは未だにこのお花見問題を扱っているのだが、ジャパンライフとの絡みで出演を見合わせている(と一部で噂される)田崎史郎さんの枠が空き、総務省で文書管理をしていた元官僚が頭を抱えながらシンクライアントシステムについて説明していた。業務に精通していた官僚は遠ざけられ安倍政権に取り入った政治的には強いが実知識がない人たちが残っているようである。つまり日本にも「評価できる」官僚はいたが遠ざけられてしまっているのだろう。

もともと全体として議論が苦手な上に知識があった人たちが排除されてしまったとしたら、政治には「損か得か」か「いいか悪いか」という乱暴な議論しか残らないだろう。

安倍政権の後の政権が問題意識を持って官僚機構を立て直せば物事は再びスムーズに動き出すだろうが、次が安倍政権が利用した仕組みを使って専制に走れば事態はさらに悪化するように思える。おそらく民主党系の政権の方が「安倍政権の独断」を引き継ぐ可能性が高いのではないかと思える。知識に乏しく政権運営経験がないので官僚との協力関係を構築できないからだ。

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日本人はIT時代の読解力を持っていない

テレビで「日本人の読解力が急落して文部科学省が重く受け止めている」というようなニュースをやっていた。日本人の日本語力が急に悪化するわけはないのだからテストの内容が変わったんだろうと思った。つまり騒ぎすぎだと思ったのである。




これについてQuoraでいろいろ聞きまわってみて、日本人に議論ができない理由がよくわかった。そして、おそらくそれが改善することもないだろう。事態は極めて深刻だが問題を深く受け止める人はおそらく多くない。原因は「自分で考える教育」を見たことも聞いたこともないという点にある。

読解力調査では、インターネットで情報が行き交う現状を反映し、ブログなどを読んで解答を選んだり記述したりする内容が出された。文科省によると、日本の生徒は、書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、文章の中から必要な情報を探し出す問題が苦手だった。情報が正しいかを評価したり、根拠を示して自分の考えを説明する問題も低迷した。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

教科書は読めるがネットは読めないということらしい。つまり書いてある内容をそのまま覚えることはできるのだが、それを応用することができないのである。急落については端的に指摘が出ているので、これをそのまま読み解けばいい。

OECDのシュライヒャー教育・スキル局長は「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とみる。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

ここでいう複雑な文章とは何だろうか。それは教科書のない世界のことである。教科書がないので自分で情報を取捨選択して刈り込む必要がある。そしてそれを人と共有しなければならない。日本人はその基礎となる刈り込みそのものができないのである。

教科書がないにもかかわらずSNSが発達しているので情報が飛び交っている。情報の取捨選択ができないということは教科書が作れないということなのだが、なぜか巷には「俺が言っていることが正解だ」と叫ぶ人が大勢いる。だがそれを共有しようという人は誰もいない。自分の教科書こそが正しいと主張し、相手の言い分を聞かないのである。おそらく日本人は誰か外国人が新しい正解を提示するまでこの教科書闘争を続けることだろう。ことによったら数世代の間そんな状況が続くかもしれない。

日経の記事は明後日の方向に行っている。シュライヒャー教育・スキル局長の言葉をスルーして「ITを活用ができていない」と言っているのだ。これは日経新聞が経済界の意向を忖度しているからだろう。先行して「学校パソコン、1人1台に」と言っている。家庭用パソコンで負けてしまったので世論の力を使って学校に売り込みたいのだろう。

産経新聞はさらに深刻だ。ITではなく本を読まないのがいけないのではという結論にしてしまっている。道徳的に「本を読む=賢い」というレベルに落とさなければ産経新聞の読者への「わかりみ」が深くならないのかもしれない。

新聞であっても日本人は情報の刈り込みができないのだから質問サイトで聞き回ったくらいで刈り込み賢者に会えるはずはない。この場合は「取捨選択ができないことが問題だ」と具体的な指摘が提示されているのだが「実際に触れるもの」を媒介させないと思考ができないのである。おそらく日本が製造業からサービス業に移行できなかったのは思考力に限界があるからなのだとさえ思ってしまう。

つまり、日本人の読解力のなさというのは子供に限ったことではない。Twitterには因果関係がめちゃくちゃな政権批判が並んでいる。情報は豊富にあるのだがここから必要な情報を「たとえ」や「実体の媒介」なしに抜き出せない。一般有権者だけでなくマスコミも政治家もこのような調子である。

問題意識を持って質問をするととてもわかりにくい長い文章が返ってくることがある。常々「何かが足りない」と感じていたのだが、考え直してみると彼らは教科書を書いているということがわかる。日本人は問題意識を共有できないので、人に何かを教える時に「全般的に使えるような」教科書を書く。万人向けだが誰にも帯に短し襷に長しになってしまうのである。

例えば歴史で重要なのはそこからどんな教訓を学ぶかということなのだが日本人はそれができない。だから年表を覚えることを歴史を学ぶことだと思い込んでしまう。一事が万事そんな具合だ。

全く訓練を受けていない人は印象に流れてしまうし専門家は教科書を書きたがる。問題意識を抽出して概念的なビジョンを作って共有ができない。今までもしてこなかったしこれからもやらないだろう。そしてそれは実は「訓練された人」ほど重症なのだ。つまり教育者が一番危ないという厄介な状況になっている。

日本人がバカだからということではなく「考えて掻い摘む」教育を見たことがないからだろう。像やキリンを口だけで説明できないのと同じように日本人に「考えさせる教育」は説明できない。

このことから、豊富にある情報の中から必要なものを抽出する「IT時代の読解力」の基礎になっているのは「問題意識」だということがわかる。これはパソコンを1人1台あてがってもどうこうなる問題ではないだろうし、英語教育を施しても使い物になる英語は身につかないだろう。道具立の問題ではない。考え方が違うのだ。

今回はいろいろ聞きまわってみて「日本人には理解が不可能なんだろうな」ということがわかった。説明不能なのだから「どうやったら成長に結びつく思考が身につくだろうか」などといちいち考察するのは時間の無駄だと思った。適当に相槌を打っておく方が楽である。

よく日本人は議論ができないなどというのだが、実際にはそれ以前の問題なのかもしれない。

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うちらの世界の強みと限界 – なぜ安倍支持者はヤンキー化するのか

日米防衛について考えているとき、安倍政権退陣と絡めた感情的なリアクションが多かった。なぜこうなるのかと考えていて「安倍信者がヤンキー化する理由」というタイトルにまとめることにした。




多分きっかけは、多分「桜を見る会」だ。お花見の私物化で安倍政権が危ないかもしれないという背景に過敏に反応したものと思われる。彼らは攻撃には強いが防衛力は弱いのでキレてしまうのである。いつもは政権が提案していることを「正しいのだ」と言い張っていればいいのだが、弁護はそうはいかない。自分なりのロジックを組み立てる必要がある。彼らにはそれができないのだろう。

そこにトランプ大統領が在日米軍駐留経費を4倍にしたというニュースが重なったことで彼らはそれを同一のニュースだとみなした。彼らは心理的に米軍に依存してしまっているので米軍は無謬でなければならない。「このままでいい」という彼らにとってトランプ大統領は不都合な存在である。なかったことにしたいのではないかと思う。今回河野太郎大臣が否定発言を出したので「NHKと時事通信社発のフェイクニュースだ」というコメントがついた。トランプ大統領にも見られるリアクションである。

よく考えてみれば在日米軍経費の件は合理的に交渉すべき問題であって特にすぐさま安倍政権の転覆には結びつかないし、トランプ大統領の気まぐれでいちいち政権が代わってもらっても困る。

この「力関係には敏感」で「現状を好み」なおかつ「自分の言葉で語れない」というような気質はよく「ヤンキー気質」と言われる。「うちらの世界」が好きな人たちなのだが、実際のそのうちらの世界はコンビニの前だったりするというニュアンスである。つまり、彼らはうちらの世界は作れないのである。ただ心情的にそれがあるふりをしなければならない。ヤンキー気質にはそうした遊離がある。

しかし、かつての自民党支持者はそんな人たちではなかった。例えば、麻生政権時代の支持者たちは建設など特定の業界の人が多かった。当時は公共事業悪玉説が出ていて「世間の風当たりが強かった」ので彼らが機嫌が悪かったが、一般の人たちと空気を共有していたわけではなかった。

だが、どういうわけか今の支持者は安倍政権と自分たちの心情をリンクさせている。理由はわからないが、自分たちが築き上げた村のようなものが「インテリ(彼らから見ると何もしない人たちである)」に屈辱され・否定され・傷つけられるのが嫌なのであろう。実際にはそんなものは最初からなかったのかもしれない。意外と安倍政権の危うさがヤンキーたちの支持を集めている理由なのかもしれない。そこはかとない不安である。

ヤンキーたちは自分たちの自尊心を「俺らルール」で守っているような人たちであるが、その自尊心は世間からは相手にしてもらえない。コンビニの前にたむろしていてもそれは「彼らの場所」にはならない。この「相手にしてもらえない」という感じが支持者たちの心情と重なるのかもしれないとも思った。

今回、たまたま沢尻エリカ騒動が起きている。繰り返し「別に」発言が流されているのだが、これは周りの大人なインテリたちが沢尻の苛立ちをなかったことにしょうとして納めてしまったという事件である。また沢尻の側も「自分が置かれている状況に関する違和感」を口にできないことで子供じみた攻撃性を露出してしまっている。このいなされた感じはいなされる側から見ると「まじむかつく」かもしれないのである。

おそらく、安倍支持者の主張というのも「別に」程度の話なのだろう。つまり、状況が変わってしまえばまた相手にされなくなってしまう。しかし、彼らの違和感を丸く収めようとしても、論破しようとしてもそれは無駄なことである。苛立っているのがわかっていてもスルーするしかない。合理的に説得しようとしても彼らはそれを理解しないからである。

重要なのは安倍支持者たちの別に発言にはそれほど意味がないということだろう。実際の問題の所在は提案能力を失っている議会や、「政治をはどうせ変わらない」という諦めにあるのだろう。つまり、安倍支持者に苛立つ時間があるのなら、自分たちの提案を検証してみたほうが良いのだと思う。

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SNSで「お前は政治の本質がわかっていない」といって他人に説教する人たち

Quoraで政治ネタを書いていると高評価が得られるものとそうでないものがある。「外国の民主主義の形状」について書いているものは割と高評価が得やすい。一方で、香港デモや中国の新疆ウィグル自治区のエスニッククレンジングについて書いている人もいるのだがこれは評判が得にくいようだ。個人のポジションが乗るとダメらしい。




日本語のTwitterでは政治的立場によってバイアスのかかった情報が飛び交っている。そんな中で「できるだけ科学的に見えて中立な」政治情報を欲しがる人が多いのは理解できる。例えば外国の通信社(ロイター・BBCなど)やマスコミが出している記事は信頼性が高いと思われるようだ。

ヨーロッパや中南米の出来事は受け入れやすいようだが日本と関係が深い中国とアメリカはそうはいかない。アメリカのことはよく「宗主国」などと揶揄して書くことがあるのだが、やはり心情的に近いと「公正さ」が失われると感じる人が増えるのではないかと思う。情報が多い分、感度が高くなっているのだ。

実際に中国政府や香港のデモ参加者をバッシングするような投稿を「無視」して進行しているのだが、彼らは確信犯的な闘争を深めることになる。逆にエビデンスを示せ!などと挑発的に書くと多分Twitterのような状態になるのだろう予想される。つまり、勝つ議論に移行してしまうのだ。勝つ議論は攻撃性が高く公正な情報を欲しがる人はそれを嫌う。

例えば「朝鮮は植民地だったのか」という<議論>がある。これは二つの意味で無意味な議論だ。第一に第二次世界大戦以前は植民地も侵略戦争もある程度大目に見られてきた。つまり、第二次世界大戦前に植民地や殖民地と書かれていてもそれ自体が犯罪行為ということにはならない。第二に日本人は朝鮮を内地として扱うか経済搾取の対象にするのかを決めておらず曖昧な立場をとっていたために、過去のドキュメントを見ても何もわからないのである。だが、これが議論として成り立ってしまうのは人々が勝つために争っているからである。

人々は情報を求めてはいる。これが面白いのはこの「知るための議論」が決して個人の領域を出ないことである。人々は公正な新聞は読みたい。しかし、その人々が語る政治論はどれも偏っている。つまり自分で判断を下したらそれが検証されることはなく、その意見の押し付け合いが始まる。なのでSNSには大多数のROM(読むだけの人)と自分の意見を押し付けあう兵士で溢れている。言論空間は闘争か黙秘かの二択なのだ。これがとても不自然に感じられる。

日本人は公正な情報はあると考えているがそれは必ず個人の心象と合致する。おそらくは社会常識を知らず知らず自分の常識に合致させてきた人が多いのだろう。そしてそれはおそらく自発的に行われてきたに違いない。そして、日本は「常識をいえば褒めてもらえる」という単純な社会だったのだろう。ところが世間というものがなくなってしまい常識も消失した。だがそれでも人々は公正な新聞を読みたがっている。多くの人が政治情報で彷徨うのはそのような理由からではないかと思える。常識を言えばみんなに褒めてもらえるはずなのだが、それが見当たらないのだ。戸惑っても当然である。

こんな状況で「話し合ってみては」などと言ってみても何の意味もない。そんな経験はしたことがないからである。

恐ろしいのは彼らが或る日突然「自分の心情に合致した」情報に触れてしまう可能性である。いわゆる目から鱗的感覚である。実に危険だ。

先日、何気なく「第9条の会」についての個人的な経験を書いたのだが、これがシェアされることが多かった。どうやら、憲法第9条は共産党が新人勧誘の入り口商品として使ってきた歴史があるようだ。「戦争はいけない」というのは誰もが反対できない心情に合致するテーマなので、これをきっかけに勉強会に誘い次第に共産主義(といっても彼らが考える日本流のものだと思うのだが)を教え込むという方法が取られてきたようだ。

こうしたことが成り立つのはすでに出来上がった体系と組織があるからだろう。つまりムラがあるからだ。まずは誰にも反対できないような心情を与えてイエスと言わせてから徐々に自分たちの教えに導いてゆく。こうすれば受け手の「自分は公正中立である」という心情を維持したままで組織の色をつけて行ける。

だがこれは随分回りくどいやり方で、したがって今ではこうしたやり方を維持して行ける人たちは少ない。「ムラ」に閉じ込めて強化学習を繰り返さなければならないからだ。共産党や公明党では新聞が役に立っているようだが、これを一生維持するにはお金と労力がかかる。

このムラを失った日本人は今ではSNSを彷徨い歩いており「なんの偏りもない自分」の心情を反映してくれる<信頼できる>情報ソースを探している。そんなものはどこにもないのだから人々はSNSで「あなたは本質がわかっていない」と言って他人を攻撃するのだろう。

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おっさんの国家観と全体主義

ボランティアでQuoraで毎日「スペース」という政治ブログを勝手に担当している。Quoraはそもそもは質問・回答サービスなのだが、ROM好きな読者が「簡単に国際情勢を知ったように思える」というような読み物を目指していて、同じテーマを扱って吐いてもこのブログよりはずいぶん大人しめだ。そこに「ちゃんとした国家観がないのに政治を語るな」というクレームが入った。クレームなのだが「本当は話を聞いて欲しいんだろなあ」と思った。




経歴を見ると「一部上場企業でたくさん部下がいた」と書かれている。こういう人が引退して家にこもるようになると誰も話を聞いてくれない。小さなクレーム風のコメントをいろいろなところに書いているようだ。

以前同じようなクレームに「色々とご存知なんですねえ」というコメントをつけたことがあるが、その後で様々なクレームをつけてくるようになった人がいる。社会的認知には報酬系に働きかけるので麻薬のような効果がある。報酬が切れた時にもっと辛くなるだろう。孤独と共感という本を読んで高すぎる自我は攻撃性を助長するだけだということがわかったので、今回は「彼が答えを書ける場所を用意してあげることくらい」しかできないんだろうなあと思った。

「ちゃんとした」が翻訳しにくかったので「あるべき」として質問を立ててみた。案の定「日本は神武以来の歴史がある国」であるから日本はもっと世界から賞賛されるべきであるという長文の回答が返ってきた。これが「この人にとっての当たり前」なのだろう。会社では賞賛されるがSNSでは黙殺される程度の話でしかない。

こういう大人がたくさん組織の中に囲われているというのが日本社会の残酷さだ。おじさんたちは定年間際になると肥大した自我で問題を黙殺し「自分たちの当たり前」を他人に押し付けるようになる。これが社会と決定的にずれていて日本社会や組織を死滅させるのだ。

SNSでクレームを言われると「自分が攻撃されている」という気分になる。つまり、いわゆる「くそリプ」の類なのだが、くそリプにも有用性はある。これに対してリプライを書いた。そこで考えたのが「全体性の話」である。この方に響くことはないだろうが普段考えていることの良いまとめになった。

国家にしろ社会にしろ健全な状態では特に違和感は感じられない。ところがある部分が痛むとそこが全体から切り離されているように感じられることがある。これが全体性が損なわれた状態なのだが、日本語にはこの健やかな全体性を表す言葉がない。この感じを伝えるにはどうしたらいいのか?ということを考えて思いついたのが昔学校でシスターに教えてもらった小指の話だった。小指に怪我をするといつもの素指のことが気になる。神様はそのようにしてあなたのことを気にかけているのですよという話につながっている。

この話は子供に「全体性」を伝える話である。キリスト教において神は人格ではなく原理なのだろう。

健康な時に我々は小指の存在を忘れている。しかし怪我をするとそれが部分として切り離されて意識される。それが全体性が損なわれたという感覚である。切り離された側はおそらく孤独を感じ周囲に痛みを伝える。

この全体性を取り戻すことを英語では健康(healthy)と言っている。英語にはwhole/heath/healという一連の言葉がある。このブログではハイル・ヒトラーの意味という記事で取り上げたことがあるが、ドイツ語にも同根の言葉があるのだ。いわゆる哲学用語ではなく割と一般的な感じである。wholeという全体性が保たれた状態があり、それを回復するのがhealなのだ。そしてhealが保たれたのがhealthyなのである。

ところがこの全体性の話を日本人はしない。おそらくはだが恵まれた自然環境に囲まれていて「村に全体性がある」ということが意識されないからだろう。あまりにも当たり前すぎてこれまで意識する必要すらなかった感覚ではないだろうか。

西洋には全体性を示す哲学体系とそれを表す言葉がある。ところが日本ではあまりにもありふれているので「里村」のような全体性がある環境をいいあらわす言葉そのものがない。そして村を失った多くの日本人がこのことについて悩んでいる。

ある人たちは反日という言葉を使って小指を切り離そうとしている。痛みを攻撃と捉えているのだろう。逆に小指側には「全体主義」という反発の用語がある。「健全な全体」という感覚を知らない人は小指だけで生きてゆこうとするのである。

この全体としての一体感がどうやって生まれるのだろうかと考えてみたのだが、それはおそらく将来に対しての見通しや安心感という主観似寄るのではないかと思う。主観なのだから政体のようなシステムや法律を語ってもそこから全体性を再現することはできない。

全体性が失われるとどんな政体でも痛みが出てくる。ヨーロッパでもアメリカでも政治の分断が起きていて「世界から全体性が失われていること」がわかる。特に民主主義というのは違いを乗り越えて同じ運命共同体として生きて行こうということなので、全体性が損なわれると民主主義そのものが失われる。

だが、全体性が損なわれた状態で議論を始めてしまった人は最初から危機感に彩られていて自分の意見に固執するだろう。いわば溺れている状態なので、全体性をもう一度考えてみませんか?という声は届かないのだろうなあと思った。

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英語を話せない「自称英語専門家」が議論をめちゃくちゃにしているのではないだろうか

英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。




最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。

英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。

就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。

これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。

ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。

つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。

お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。

何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。

本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。

これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。

同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。

  • 中国語:英会話
  • 漢籍:英文解析

ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。

例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。

かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。

漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。

同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。

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Produce X 101プロデューサーの逮捕

AbemaTVで「Produce X 101」を見ていた。番組が進むにつれて「この人は絶対に入るだろう」となっていた候補生が脱落するのを見て「ああ、事務所との調整がうまく行かなかったんだろうなあ」と思っていた。つまり、ある程度操作はあるだろうなと考えて見ていた。




だが番組はプロデューサーの逮捕という衝撃の結末を迎える。民意を弄んだツケは大きかったと言える。番組を押し上げたのも民意だったのだが、逮捕のきっかけになったのも民意だった。韓国は日本と違い共和制国家なのだなと思った。よく「国民情緒法」などど言われるが、それが本来の民主主義国のあり方なのである。このため民意を味方につけると支援が得られやすくなるが、それにより葬られる可能性もある。民意というのはつくづく恐ろしい生き物だと思う。

前のグループWanna Oneは活動期間が短かったのだが、今回のX1は活動期間が長くなることが予想されていた。事務所としては、人気がそこそこのタレントはグループに預けた方が露出が増えるわけだが人気がある人は自分のプロダクションで抱えた方が良い。これくらいの算数は誰にでもわかる。例えばイ・ジニョクは非常に人気が高く、最終的に脱落したのちにバラエティなどでも人気になっているようだ。この程度の操作であれば多分外に漏れることはなかっただろう。

だが、韓国ではなぜかこれが詐欺事件となってしまい逮捕者が出てしまった。発端になったのは「投票結果が不自然に揃っており怪しい」という疑惑だった。ファンの中から「真相究明委員会」が作られ、まずはケーブルテレビ局MNetへの告発運動が起きた。これが7月のことだった。番組は名前の通り練習生を101名集めるところから始まる。大勢の中から選ばれているから優れているということなのだから、脱落者を集めなければならない。参加プロダクションも多かったことから操作が大掛かりになったようだ。つまり最終調整ではなく、最初から調整が行われていたことになる。

一連の番組はMNetというテレビ局の制作なのだが、実際に制作を担当しているのはCJ ENMという会社である。そしてタレントはそれぞれのプロダクションから出てきている。どうやらプロダクションがCJ ENMのプロデューサを性接待しているらしいという疑惑が出てきた。そして、CJ ENMのプロデューサらが逮捕されてしまい疑惑は本物だったということになってしまった。今のところどのプロダクションの関係者が接待する側に回っていたのかはわからないのだが、過去の練習生の中からは「あらかじめ曲を教えてもらえていた練習生もいるだろう」などと囁く声も出ている。

KStyleによると逮捕されたアンプロデューサはX1とIZ*Oneが選抜された番組での投票操作疑惑を認めたそうだ。日本円にして1,000万円程度の接待もあったという。そしてテレビ局MNetは告発側に回っている。何も知らなかったというわけである。逮捕容疑にはテレビ局への業務妨害・背任などが含まれる。つまり、形式上は国民を裏切ったということではなくテレビ番組をきちんと制作しなかったことが罪になっている。

制作会社と企画会社などを家宅捜索した警察は、彼らについて詐欺と業務妨害、背任などの容疑を適用した。

アン・ジュニョンプロデューサー「PRODUCE 48」の投票操作も認める…シリーズ2作品への関与に衝撃

日本であればここまで厳しいことにはならないだろうと思う。なんとなく裏でまとめてしまい表向きは何もなかったことにした上でシリーズを廃止するというような措置をとるだろう。騒ぎが大きくなればテレビ局の管理責任が世論から追及されるからだ。

韓国ではネット世論の影響が強い。さらに88民主化運動が草の根で盛り上がったという独自の歴史があり「庶民が政治を動かす」という世論が徹底しているようだ。今回も「国民プロデューサ」という世論で作られたアイドルというコンセプトなので、騙されたと感じた世論の怒りは、誰かの逮捕というところまで行かなければ収まらなかったということになる。

真相究明委員会は「本来のランキング」の公開を求めているそうだ。脱落者の中にも実力者がおりその実力者を集めてBy9という別グループを作って欲しいという声まで出ていたから、これは当然の要求かもしれない。

今後はX1とIZ*Oneの活動に焦点が移る。ファンは練習生はこのことを知らなかったことにして欲しいと思うのではないかと思う。プロダクションが接待していたとしてもタレントに罪があるわけではない。当初あからさまに推されていたのに実力が伴わずデビュー組に入らなかった人もいる。つまり実力がなければデビューはできていないのである。

実際にIZ*Oneの活動には影響が出ており新曲発売(韓国ではカムバックという)が中断されているようだ。X1は予定通りスケジュールをこなすという。X1は疑惑がわかってから活動を始めたので地上波への露出はそれほど多くなかった。そのため「放送の可否を判断」などと報じられているIZ*Oneの方が見かけの影響が大きい。

投票結果が操作されていたとはいえ、X1が実力のないチームであるということにはならないのだが、MNetは操作の間中「これといった立場はない」と慎重な立場を示していた。つまり、今後X1が早期解体される可能性もなくはない。MNetが応援してもCJ ENMがなくなってしまえば活動は難しくなるかもしれない。中にはデビューしても売れなかったためにオーディション番組に何回か参加してやっとデビューできたというメンバーもいるようなので、気の毒な話である。

CJ ENMは日本では吉本興業と組んで日本版のProduce X 101を放送中だ。こちらはソフトバンクグループのGYAOで放送されていて12月にメンバーが決まる予定である。だがCJ ENMが絡んでいる以上「無傷」ではすまないかもしれない。不幸中の幸いというべきか日本では番組自体があまり中もされておらず、したがって韓国本国の一連の騒ぎとはリンクされていない。韓国の番組を見ていた人は国民プロデューサーというコンセプトを理解していると思うが、日本の番組だけを見ている人には何のことだかわからないかもしれない。

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あいちトリエンナーレの表現の自由をめぐる議論はなぜ空転したのか

あいちトリエンナーレの「表現の自由問題」が話題になってからしばらくたった。Twitterでは未だにこの話が政治的対立としてくすぶっている。だが、今思い返してみるととても不思議な点が多い。これを考えて行くと「日本はもう芸術は扱えない国になったのだな」ということがわかる。芸術をやるなら海外に出るかYouTubeなど外資の入ったプラットフォームで展開するのが良い。




この話はもともと見向きもされてこなかった現代芸術の話だった。なぜこれに火がついたのかがそもそもわからない。

おそらく、韓国のテレビ局に「天皇が燃やされた」というビデオと慰安婦像が組み合わせて表現されたために文脈ができたのが問題視されたのだろう。だが、議論を追ってみてもそのことが語られることはなく、あくまでも作品と主催者の「政治性」に焦点が当たっているように見えてしまう。ところが、芸術監督の津田大介も愛知県大村県知事も特に反天皇的な政治スタンスを持っているわけではなさそうだ。すると「この問題は一体何を解決したいのか」が見えなくなる。だからいつまでも落としどころがなくくすぶり続ける。そもそもなぜ慰安婦像が問題なったかといえば、その前の徴用工裁判で韓国が日本企業を「挑発したから」という流れがある。つまり、冷静に考えてみるとこの問題には流れだけがあって核がない。

もともとは「天皇は自分の内面の一つである」というメッセージだったのだが、そのことは顧みられることはなく、ひたすら自分たちのアイデンティティをめぐる戦いになっている。ところがよく考えてみるとそのアイデンティティは自分のものではない。お互いに「日本」という大きな殻を被っているだけである。一方は「伝統と私」という肥大化した自己意識を持っていて、もう一方は民主的な私という肥大化した自己意識を持っている。保守の方がグロテスクさは際立って見えるが、国から補助金が出るビッグプロジェクトで遊んでやろうという「火遊び精神」を感じる。

さらに考えを進めて行くと、どちら側も「このアリーナであれば自分たちの自己実現ができる」と考えているということがわかってくる。観客がたくさんいるからそこで何か叫べば振り向いてもらえるのだ。その観客とは実は「保守と左翼」なので、つまり彼らは依存状態に陥っていることになる。お互いに罵倒し合っているように見えて慰めあっているのだ。

表面上は「何が表現の自由なのか」ということが話し合われているので念のために、何が表現の自由なのかを見て行く。例によってWikipediaから英文を拾った。

Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed. No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

難しいことは書かれていない。憲法に書かれているのは検閲がされないことと信書の自由が侵されないことで、隠れた主語は権力者である。つまり権力者に邪魔されずに協力ができる自由を保証しますよと言っている。つまり表現の自由の前提は協力なのである。協力による社会建設を政治だと定義すれば、政治のために表現の自由がある。ゆえに、協力する意図がない表現の自由には意味がない。

まずリベラルの方から批評してしまうと、手続きの問題があったにせよ補助金を出さないということを決めたからといって表現の自由が侵されたことにはならない。民間でやればいいからだ。民間でやろうとした時に会場を貸さないように圧力をかけたり禁止したりすればそれは検閲になるだろう。

さらにこれまで商業的に成功するための努力をしてこなかったという点も見逃されている。補助金付きの芸術展の機会があるために自助努力が阻害されたのだろう。社会に余裕がなくなり補助金打ち切りということになり芸術家が慌てだしたという側面がある。

さらに、主催者側に「自分たちの意図を理解してもらおう」という熱意はない。もし芸術監督以下のスタッフレベルに意欲があったとしたら津田大介さんを芸術監督に選んだのは失敗だった。東某という人と「燃えちゃうやつですねえ」などと言っておりとても真剣だったとは思えない。

ところが保守側にも当然問題はあり、実は捕手側の方が問題が大きい。保守といっても日本の保守は公共には興味がない。ところが今回彼らは韓国から屈辱されたということに怒っている。しかし、今になっても何に怒っているのかが自己分析できないので「天皇の写真を燃やすとは親の写真を燃やすことだ」などとキレてしまう。彼らはケシカランサヨクを叩くことが社会的正義だと信じているようだが、そう信じている間は何が問題なのかを考えずに済む。

保守にとっては、自分たちのおそらく肥大した高すぎる自己評価が毀損していることが問題なのだろう。つまり自分たちでもうすうす衰退に気がついていてそれを指摘されるたびにキレて見せることになるのだ。自己評価が高まらない限り今後も同じ問題は起こり続けることだろう。彼らにとって一連の運動は防御的反応に過ぎない。彼らは鏡をみれば全部壊して回る必要がある。愛知トリエンナーレの件はたまたま韓国のテレビ局から扱われなければ問題にならなかっただろう。その証拠にいろいろな現代美術展ではもっと過激で不快な表現も出てきているようだが、それがTwitterで問題になったりすることはない。彼らの鏡には映っていないのである。

事前に基準を示さず後付けで補助金を削減したことが問題視されているが、原理的に事前に基準を示すことはできない。何かが映り込むまで鏡そのものを叩くことはできないのである。だから、鏡にお気に入りのものだけを写し込むことはできるだろう。

だから、政府を礼賛する表現だけを集めた芸術祭を開くことはできるだろう。だが、それは例えて言えば朝鮮民主主義人民共和国のマスゲームやナチスの芸術展みたいなものだ。あれは見世物としては面白くても芸術とは認められないはずである。逆に「芸術による自由な自己発展を扱えなくなりましたよ」という自白行為に過ぎない。だが、肥大化した自我を持ってしまったがゆえに攻撃に耐えられない人たちはそのことを自ら自覚することはできない。そして周りを巻き込んで何も映すなと叫び続けることになるのだ。

今回、ここまで声が大きくなってしまったということは、日本では傷ついた自己像を持ってしまった人がそれほど多かったということである。ゆえに日本では今後大掛かりな公共芸術展はできなくなるだろう。

このように考えてみると、保守の側はそもそも公共に関心がなく、リベラルと言われている人たちも人々が協力し合って何かの理解が得られるとは思っていないようだ。協力という文化がない日本では表現の自由という表現は成り立たない。ゆえにあいちトリエンナーレの「表現の自由論」は空回りし続けたのである。

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破壊的なデモか永遠の停滞か

日本人はなぜ有名人を過剰に叩くのかという質問があった。Quoraでは面倒なので適当な答えを書いたのだが、今回はここから日本経済はなぜ停滞しているのかという説明をしようと思う。




日本人は閉鎖的な空間に住んでいた。このためフリーライディングやルールブレイキング(掟破り)を見せしめ的に叩けば、村の安定を守りルールブレイキングが防げた。だから日本人はこれ以外のやり方を考案する必要はなかったのだろう。

ところが地域社会は崩壊し終身雇用もなくなった。閉鎖的な空間がなくなったためにかつてあった「叩くマネージメント」が成り立たなくなった。知らない人たちと協力しあわなければならないのだが、過剰に村落的なマネージメントに適応してきたためにやり方がわからない。

そのうち政治は公共を諦めて自分たちの村を作ることにした。Twitterでは特区ビジネスコンサルティングが叩かれているが、税金という公金を使って村をつくりそこに様々な人々が群がるという仕組みである。オリンピックも英語の民間テストもそういう村になっていて政権政党のトップだけが利権を独占できるという構造になっている。今や汚職をする必要はない。合法的に特区を作って利益を独り占めすればいいのだ。

一方で介護保険のように公共性が高い事業はフリーライディングの温床になっている。既得権をつくると「それを最大限に利用しないと損だ」ということになるので費用が跳ね上がってしまう。NHKによると介護保険は制度の見直しが始まったそうだ。同じことは高齢者医療にも言える。厚生労働分野は誰も儲けられないがかといって費用抑制もできない。これだけ高度に発達して見える日本社会だが、マネージメントという発想がないのだ。そして、利権を得られない分野に政治家は興味を向けない。おざなりの議論が行われるだけであとは「消費税を20%にするか30%にするか」という議論になるだろう。

村から排除された人たちは本来ならばお互いに協力しあうべきだ。だが、やり方がわからない。さらにこれまでも足を引っ張り合ってきたのでいざ声をあげてみようという気にもなれない。声をあげた瞬間に足を引っ張られる可能性が高いからである。このため、例えば日本人は匿名空間でしか政治発言ができない。実名の職場で同じことをやれば通報され排除されるだろう。

匿名空間では十分に協力体制が作れないので日本人は今でもルールブレイカーを過剰に叩くことによって問題を解決しようとしている。例えば不倫を過剰に叩くのは結婚制度を維持したいからだし、政治家が問題を起こすと辞任を求めるのはそれ以外に解決策が探せないからだ。だから日本人はルールも変えられなくなった。そして一人を叩いても当然問題は解決しない。

有権者・納税者は政治の私物化について薄々気がついていてもそれを咎めることはできない。野党の事も疑っているのだろう。自分たちの私物化のために有権者の怒りを利用しているのでは?と考えているのではないかと思う。

フリーライディングが予想される公共空間では公共に対する支出は削減される。これは前回のエントリーで見た通りだ。例えば、法人は法人税を払わなくなった。税金として国に投げ出してしまえば戻ってこないことは明白である。自民党に献金して私物化したほうがよい。有権者も防衛のためにものを買わなければいい。というよりできることはそれしかない。こうして信頼が失われた社会では公共への協力が手控えられる。我々は実験行動学の生きたサンプルになっている。

では、SNSで問題が協力ができれば問題は解決するのだろうか。政治という調整機構が破壊されてしまったところでは細かい調整は働かない。できることは一つだけになる。みんなで集まってできるのは旧体制を打倒することである。

この生きたサンプルが、チリや香港にある。問題をデモという協力によって解決している人たちがいる。チリでは地下鉄の運賃値上げをきっかけにデモが起こり最終的には大統領を除く閣僚がすべて辞任しAPECの会議が中止になった。レバノンでも首相が辞任したという。中には暴力的なものもあり決して褒められたものではないのだが、彼らは「同じ境遇の人たちは信頼できる」という最後の信頼関係だけは持っているのであろう。それは日本人が持っていないものである。

もちろん暴力的なデモではなく選挙によって問題が解決できればいいのだが、アメリカ合衆国やイギリスですら民主主義が二極化している。もはや健全な形の民主主義が成り立っている国はどこにもないといってよい。

だとすれば「デモや暴動も仕方がないのでは?」ということになってしまう。少なくともフリーライディングが排除されれば国や経済は再び成長を始める余地が生まれる。ただし、破壊の後に必ず再生があるという保証はもちろんない。本来は政治が細かな利害調整をするのが一番良いのだ。

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フリーライダー討伐と世界で頻発するデモの関係について夢想する

今回の「政治家が嘘をつく」というエントリーはリツイート率が高かった。肌感覚に合致しているところがあるのだろう。だがこの嘘をどうやって防げばいいのかという知見は示されていない。競争から協力へという流れを作るためには一体何が足りないのだろうか。最後に「孤独と共感」で協力について読んだ。無私は最高の戦略というタイトルが付いている。これを読んでいて意外なところに着地した。それは破壊的なデモの正当性である。一昔前ならかなり危険思想として叩かれたのではないだろうか。




人間は親族だけでなく知らない人にも手を貸すことが知られている。極めて未開な文化でも全く協力のない文化は見られないので、人間は遺伝的に協力する性質備えているのではないかと考えられる。

しかし、政治哲学の分野では利己性が協力を生むという説が有力だった。マンデンヴィルは「蜂の寓話」という著作で「個人の悪徳が公共の利益を支えている」と主張した。マンデンヴィルは自分の利益のために動けば考えうる最大の善が得られるので人間がエゴイズムをやめたら社会は崩壊するだろうとさえ主張した。

19世紀の経済学者と社会科学者はホモエコノミクスという仮説を立て、人間は自分自身の利益を最大にするために行動しているのだろうと考えた。そして、進化生物学者もその考えを支持している。相手に協力してやる代わりに見返りを期待したり、自分の評判を上げるために善行を積んで見せるというわけである。こうして人々は協力を説明しようとしてきた。

ところが、実験行動学で違った知見も見えてきた。人は懲罰を与えるとき自分の利得を犠牲にすることがあるというのだ。これは個人の功利最大化仮説では説明ができない。

240名を対象にして20ドルを賭けた実験を行った。それぞれが手持ち資金の中から投資を行い投資金額の60%増しを均等に配る。実はこのゲームではフリーライダーを作っている。つまり自分は出資しないで見返りだけを受け取ることもできるのだ。フリーライダーは持ち出しがないので純粋にトクなのだ。

人々はフリーライダーを抑制するのにどれくらい犠牲を支払うのだろうか。今回はフリーライダーを罰することができるというルールを作った。フリーライダーが出てきたら懲罰するかどうかを尋ねるのである。この時参加者はコストとして配当から1ドルを支払う。1ドルでフリーライダーの資産を3ドル減らすことができる。プレイヤーはその都度変わるので懲罰にはフリーライディングを抑制する効果はない。ゲームはメンバーを変えて6ターン行われる。

フリーライダーを罰しても支出をした人の利益が増えることはない。それでも80%が少なくとも一度はフリーライダーを罰したそうである。公益に平均以上の投資をした人ほど他人を罰する傾向が強かったそうだ。罰せられたプレイヤーはそのあと平均で1.5ドルほど投資を増やすようになったという。

次に投資額を知らせた上で罰則規定を設けないゲームを作った。この場合95%の人が公共への投資額を控えるようになった。最終ラウンドでは60%が投資をしなくなってしまった。

最後にメンバーを固定して10回ゲームを行った。メンバー入れ替えがあった場合よりも公共への支出は50%増えたという。

結果的に、人は懲罰効果がなくてもフリーライダーを罰する傾向があり、フリーライダーが野放しになると協力を抑制するということがわかる。そしてフリーライダーが社会的に抑制できるということがわかると協力が促進される。

この文章は個人主義の欧米人が書いているので、フリーライダー抑制はもともと遺伝的に組み込まれた行動様式なのだろうと類推しているようである。日本のように相互監視が厳しい社会ではまた違った感想を持つ人もいるかもしれない。日本ではフリーライダーは文化的に極めて嫌われるし、学校の集団生活を通してそのことを叩き込まれる。

文章は、もともと人間には自発的にフリーライダーを罰する遺伝的(生得的)傾向がありフリーライダーが排除されるのを見たり経験することによって、群れからフリーライダーが排除されて協力が促進されるのではないかというような結論を出している。これは神の見えざる手の補正版である。

この文章で重要なのは「協力」が極めて明快に利得を増やすことが理解されているという点である。この場合フリーライダーを取り除くことで人々は公共にアクセスしやすくなる。ところが現実世界では協力をしても利得が得られるということは明快ではないし、誰がフリーライダーなのかということも実はよくわからない。ルールが明快でないということはつまり情報が明快でないということなのだから、コミュニティを整理するか情報を明快にすることでフリーライダーの問題は解決され、結果的に協力が促進されるはずである。

日本の場合文化的にフリーライディングを抑制する傾向が極めて強い。現実社会ではメンバーが固定されているので懲罰がしやすいからだろう。今でもテレビで不倫や脱税などの逸脱行為は極めて強く排除されてしまう。ところが文化的にフリーライディング抑止効果が高すぎるため、それを超えてしまうと社会的な対処が極めて難しくなる。するとゲームは一転して「持ち出しをしない」というルールになる。現在では日本人は政治に口出しせず、法人は税金を支払いたがらない。人々は消費を控え自己防衛に走り、それが結果的に経済を縮小させている。

こうした環境は何も日本にだけあるわけではないようだ。実際にはSNSは協力を促進する方向ではなく競争のための議論を促進し協力を阻害している。人々はお互いの話を聞かなくなり協力どころではない。破壊が先行する中SNSが現在目指しているのは構造の破壊である。世界各地ではデモが起こるようになり手法がSNS経由で拡散している。今デモが起きているところでは「協力」が生きているのだが、それは生産ではなく破壊の方向に向かう。

2019年10月は世界で同時多発的にデモが起こった月として記憶されることになった。多分今の経済構造は人々が把握できるより大きすぎるのではないかと思う。戦争によって経済構造が破壊されることがなくなった現代において、それに変わる何かが生まれてきているのかもしれない。それは法的にはいけないことなのだが、善悪を超えたところで何かが起きているのかもしれない。

日本社会はこれまでコミュニティの抑止効果が高かった。お互いがお互いを監視する体制なのでいざという時に協力して破壊するという体制が作れない。このため日本は穏やかな衰退と漠然とした不安という道をしばらくは歩み続けるのかもしれない。

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