コミュニティマネジメント実践編 – 「引用」を徹底して大混乱する

フェイクニュースが多い。特にネトウヨ系の人が自分の言いたいことだけをいう絶叫型の記事が多く困っていた。軽く「引用をしっかりさせれば収まるだろう」と思っていたのだが、これが大間違いだった。日本人には引用を理解できない人がいる。説明してもわかってはもらえないのである。日本人は「理由を気にしない」という性質があるので制御するのにかなり癖のあるやり方をとらなければならない。

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アメリカ人はプロセスを気にしないのか?

これまで日本人はプロセスを気にせず結果だけをありがたがるというよう話を書いている。このため一旦できた正解を動かせず「正解に縛られるだろう」と分析した。そうなると「じゃあ日本人以外はそうならないのか」という疑問が生まれる。アメリカの事例を考えたい。

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日本人はプロセスを気にするのか気にしないのか

先日来、西洋のメディアはプロセスを気にするが日本のメディアは気にしないという話をしている。だが、ちょっとそれが崩れそうな事例を見つけた。文書管理のようなプロセスを気にして安倍政権を批判している人が多いのだ。実は日本人はプロセスを気にするのかも知れないなと思った。

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カルロス・ゴーン被告の会見から締め出された安藤優子さんの怒りと日本の病

カルロス・ゴーン被告の会見がレバノンのベイルートで行われた。この会見には朝日新聞・小学館・テレビ東京は入れたようだが、フジテレビはアクセスできなかったそうだ。安藤さんが興奮気味に自分たちが排除されたことを憤っていたのが印象的だった。

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議論と対話実践編 – 意見を募集してみる

Quoraでスペースと呼ばれるコミュニティ運営をやっている。自分の意見を言いつつ投稿にも目を通して場所を作って行くという作業である。漫然とやっていたのだが、定期的にまとめたいと思う。今回はその第一回目である。今回は「参加を促す」ことの是非について考える。色々考えているとかなり本質的な問題にぶち当たる。

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氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。

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ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか

ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。




これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。

小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。

まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。

次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。

これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。

すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。

  • 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
  • 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。

この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。

さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。

これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。

一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。

この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。

ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。

だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。

さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。

おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。

だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。

最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。

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政治的中立性とは

先日「Quoraは政治的に中立か」という質問を見つけてずっと気になっていた。似たような質問に「中立な新聞が読みたい」というものがある。前提として政治情報というのは中立でなければならないという思い込みがあるらしいのだが、この「中立」にどうにも違和感がある。最近、早稲田大学の近藤孝弘教授が書いた「日本の若者の「政治ぎらい」と〈政治教育〉の深い関係」というエントリーを読んで違和感の一部が解けたような気がした。中立ではなく正解だとわかったのだ。つまり「どの新聞が正解ですか」と聞いているわけである。




ワイマール共和国は民主主義を受け入れない人たちに支えられた民主主義国家だった。その失敗から学んだ西ドイツの教育現場では政治に意見を持って議論参加することが要求されるようになった。つまり西ドイツでは民主主義という制度を学ぶだけでは民主主義は機能しないと考える。また、政治について学ぶ政治教育と政治議論は分けて考えられる。

そんな中で生まれたのが、対立する問題は対立する問題として扱うべきだという「ボイテルスバッハ・コンセンサス」である。Wikipediaから参照した。

  1. 圧倒の禁止の原則。教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2. 論争性の原則。学問政治の世界において論争がある事柄は、授業においても議論があるものとして扱う。
  3. 生徒志向の原則。生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない。

この二番目と三番目にあるように「教師は対立点を紹介し生徒に意見を持つべきだと促す」というのがドイツ流だそうだ。教師が自分の意見をいう場合もあり、意見が片方に傾いたとき対立意見を言ってみることもあり、対立点を提示するファシリテータとして機能することもある。先生がどう対処するかは場合によって異なるのだが、先生もまた意見を持っている。つまりそれぞれが意見を持っていることが期待されそれらの意見を公平にあつかおうとするわけである。

ところがこうした伝統がない東ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)のようないわゆる右翼ポピュリスト政党が「教員が自分たちの政党に批判的な政治的意見を持つこと」に対して否定的な見解を示すことがあるという。先生は偏っていて「政治的な中立性を損なっている」というのである。

この文章から読み取れるのは、政治的な中立性はドイツでも期待されてはいるが、それは日本とは異なっているということである。日本では意見が分かれる問題は「あえて触れない」という同調性が重んじられることが多い。つまり中立な意見というのが「みんなと同じ意見だ」と理解されている可能性がある。つまり世間一般の正解を中立と言っているのである。

西ドイツ領域ではそれぞれが意見を持っているのは当然であり、それは偏りではなく主体性と位置付けられる。一方AfDに代表される東ドイツでは日本と同じように自分たちの意見が中立でありそれに逆らう意見が「偏っている」とみなされることがある。東ドイツは長く社会主義を経験している。指導政党の意見が「ドイツの正解」だった時代が長い。

日本人が「政治的に中立な意見が聞きたい」という場合、正解が知りたいと考えることが多いのではないかと思う。例えば、原発設置には反対の声も強いが実際に存在している。そこで日本人は「どっちが正解か」ということを知りたがる。中立な意見が読みたいというのは誰かが決めてくれた正解が読みたいというのと同じことだ。世の中の趨勢が原発維持であればそれに従っておくのが無難である。逆に原発反対を表明してしまうと「変わった人」と見なされて世間から浮いてしまう可能性がある。

現在の新聞は右と左にわかれていてお互いに対立しているように見える。正解がないという状況に戸惑いが生まれて「みんなの正解が知りたい」と考え「政治的に中立なメディアはどこですか?」と聞いくるのだろうと理解できる。正解のメディアがあればそれを読んでそれと同じことが言いたいのだろう。

これはおそらく「世の中が戦争礼賛に傾けば自らも戦争を礼賛する」という態度につながる。毎日新聞が戦争を礼賛し朝日が戦争支持に転じる。そこでみんなが戦争を支持しているということになり、日本は第二次世界大戦に突入していった。

ドイツにも同じような経験があり民族の虐殺にまで発展している。ドイツは「みんなの意見に従うこと」は危険だと考え政治議論を教育の一環に取り入れているのだろう。主体的な意見を持つと偏っていると罰せられる傾向が強い日本では、自分で考えた意見を持っている人ほど「自分は孤立した少数派なのでは」と考え萎縮してしまうかもしれない。ネトウヨは自分で意見を考えられないがゆえに「自分は正解の側にいる」と考えてしまう。極めて不当なことだが政治的リテラシが低い方が却って自信を持ってしまうといういびつな環境だ。

一方、自分で考えた意見を固着させた人は過度な攻撃性を身につけてしまうことになるだろう。自分の意見に予防線をはり少しでもそれに異議を申し立てる人がいればアレルギー的に攻撃する。護憲派や原発反対派にはその傾向が強いように思える。いわゆる世間が見る攻撃的なリベラルの姿だが、そこにあるのはある種の病化した被害者意識だろう。少数派だが正解と信じる人たちの末路である。

すべての人間は偏っていて政治な正解などないということに気がつくまで、日本では誰かが正解を提示してくれるまで日本は三層に分かれたままだろう。

  • 政治に関わるのはやめておこうと考え、正解に飛びつく人
  • 被害者意識を募らせる少数派
  • 多数派の意見をコピペして少数派を攻撃する人

誰も主体者として関与する人がいない政治は魂が死んだ巨大な生き物に過ぎない。ただ単に食べ物を求めて右往左往するようなグロテスクな姿を晒して、他人を批判する咆哮を上げ続けるのである。

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大河ドラマとしては正確だが、不正解だった「いだてん」が終わった

宮藤官九郎作の「いだてん」が終わった。最初の方は「NHKの忖度でしょ」などと思ってバカにしていて見ていなかったのだが、最後の数回だけを見た。学徒出陣のエピソードをみて「あれ面白いぞ」と思ったからだ。途中学徒出陣で戦地に行った仲野太賀がなくなるところを飛ばしてあとは結局全部見てしまった。




面白さの原因は屈折からの解放だろうと思う。オリンピックが成功する前史として選手2人だけの初参加・戦争による中断・有望な選手の戦死・田畑政治の失脚など様々な困難がある。こうした絶望を積み重ねてゆくのだが基底に宮藤官九郎の子供っぽさがあるので絶望はあっても暗くはならない。

最後の数回というのはこうした屈折が回収されつつ解決されてゆくという段階に当たる。つまり最後のおいしいところだけをつまみ食いした感じになっているのである。おそらく視聴率が悪く「前のお話を見なくてもわかりますよ」とばかりに回想を増やしたのもよかったのだろう。おいしいところだけ抜くというのが、そもそも大河ドラマの見方としては間違っているかもしれない。

よく「宮藤官九郎の作品はじっくり見るべきだ」というような評論があるのだがそうでもないように思える。落語のネタと物語を掛け合わせてつないでゆくというようなライン一つを取っても、短いスパンできれいに決まってゆく。その場その場で見ても十分に楽しめる展開になっていた。却って一年もこれを見せられると疲れていたかもしれない。後で調べると、落語の話はかなり込み入った物語の一つのエピソードのようだが、単体でも十分に楽しめる仕上がりになっている。

宮藤官九郎って面白いなあと思った。

オリンピックが戦争からの復興であるというラインは戦争を語らないと描けない。しかし、戦争を正面からまともな作家が描くとおそらくもっと凄惨で暗いものになっていたはずである。さらに「戦争はいけないことです」「我々はそこを乗り越えて経済的に成功したのです」というような正解を見ても面白くもなんともない。最近大河ドラマを見なくなったのは正解を押し付けられるのにうんざりしていたからである。

NHKの誰が発案したのかはわからないが「正解」を徹底的に避けるために、貧相で屈折してはいるがそこを振り切って明るくみえる宮藤官九郎で乗り切ったというのがすごいところだなあと思った。そういえば3.11も宮藤官九郎だった。「あまちゃん」にも救いのない津波でレールが寸断された鉄道の話が出てくる。おそらく東日本大震災を描くためにあの作品はアイドルを扱ったのだろう。今回も、暗い面を逃げずにきちんと捉えつつ落語というお笑いを使うというのはかなり練られた作戦だったのだろう。エンターティンメントは絶望を癒すためにあるからだ。

徳井義実の大松監督も大成功だった。途中でスキャンダルを起こしてテレビから消えかけている徳井だが物語の中では全く気にならなかったし、途中で「あれ?この人じゃなきゃダメなんじゃないの」とすら思えた。問題を抱えながらも自分たちの理想のために突っ走る人たちの群像劇だからこそ徳井は浮かなかった。大松監督は今でいえばセクハラパワハラの極みだが、実際には「選手個人が好きでやっている」が「マスコミからの重圧も感じている」という屈折が物語を前に進めるのに大いに役立っている。その意味では正解を押し付ける最近のお笑いはつまらない。人生に何の瑕疵も破綻もない人の笑いが面白いはずがない。

麻生千晶という人が早い段階で「いだてんに落語はいらない」と書いているがおそらく落語は今回の話の中核にある。この麻生さんの感想が「視聴率が上がらなかった」理由を端的に表しているのだろうと思う。つまり正解である美男美女のヒーローがいないことと歴史を正解として書かなかったことが「いだてん」のテーマだったのだろう。時代遅れを体現してくれているという意味では、麻生さんはよくぞネットにあの文章をさらし続けてくれているなあと感心する。

例えば松坂桃李が美男美女に囲まれた武将の役で出てきたら、おそらく大河ドラマとしては面白かったが松坂自体は埋もれていただろう。個性的な人物の中に配されることで「あれ、この人は演技派俳優なんだなあ」という印象になる。「二枚目」は最初に出てくる看板では本来はないのかもしれない。

ここで問題になるのは「これは大河ドラマとして一年間かけてやるような話なのだろうか」という点だ。おそらくもっとコンパクトにまとめてもそれなりに面白くなった作品だった気がするし、麻生の言うように美男美女が出てくる物語にしたほうが視聴率は取れただろう。

一方で。これだけのキャストを集めて作品を作れる場所が殆ど無くなりかけているんだなあと気づかされる。つまり「いだてん」は大河ドラマにはふさわしくないが、あの枠でしか作れなかった。日本はおそらく貧乏になっている。これは大変不幸なことである。

大河ドラマは「自分たちのご当地の英雄を取り上げろ」というプレッシャーにさらされている。地域振興に役に立つ物語を作れというわけだ。すると当然ヒーロー・ヒロインを否定的に描くわけには行かなくなる。教科書的な正解を道徳的な枠組みで描かざるをえなくなるのだから当然ドラマとしてはつまらなくなる。

今の日本人は面白い解放感のあるドラマではなく教科書的な正解を見たがるしそれを他人に押し付けたがる。そうやってドラマはどんどんつまらなくなるがドラマに期待しない老人は満足する。それは日本ドラマの衰退と死である。論評を見る限り「面白くない正解」に傾くんだろうなあと思える。東洋経済も6月の時点で「ああ、これはダメだ」と言っている。

最後に嘉納治五郎の「これが世界に見せたい日本なのか?」という問いかけが出てくる。何が正解なのかはわからないがとにかく疾走感たっぷりに走り抜けたというのは歴史としては田畑政治の「ドタバタ」が正解なのだろうが、老化した日本人にとっては正解ではない。そして、日本人はこれからつまらない正解を志向するようになるのだろう。

おそらく今の東京オリンピックが恐ろしく盛り上がりに欠けるのはそこなんだろうなあと思った。嘉納治五郎の問いかけに対して動かない人たちが寄ってたかって「自分たちが見せたい正解」を押し付けるというのが今のオリンピックだ。だから実際に動く人たちが誰もついてこないのである。

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