少しだけAKB総選挙を見てちょっとした戦慄を覚えた。スピーチが支離滅裂だったからだ。一人の少女は名古屋で家が買えるくらいの売上があったが、ファンの人は家を買えないだろうから、私があなたたちの家になると言っていた。多分搾取しているということには気がついているのだろうが、個人の競争のためにはやむをえないので折り合いをつけようとして失敗したのだろう。言語的なストックの少なさがそれを「なんか言葉にできないけど不安」という状態にしているのではないかと思った。
意もう一人はさらに混乱していた。いつもはバックダンサーとして支える側なので個人の意見は言えないのだが、総選挙は一人ひとりの競争なので……と言いかけて迷走していた。本来は自己実現のために仕事をしたいのだが、個人を埋没させて仕事をするということに折り合いがついていないのだろう。これは自己実現に罪悪感を抱えるのではないかと感じた。
彼女たちの中には価値体系が作られておらず、与えたられたものを正当化して生きてゆかなければならない。その中で成果主義的な競争にさらされて、相当なストレスを感じているに違いないと思ったからだ。いわば組織として病みかけている状態になっているのだろうということを感じさせる。
ストレスを解消するためには成果を得るか、あるいは言語化した上でその意味を内在化させてゆかなければならない。言語化されないもやもやは不安として結実し個人の成長に影を落とすことになる。不安を内在化して消化するという機能を獲得することは極めて重要だし、それが与えられるのは当然の権利だ。だが、学校教育の中で「自分なりの価値体系を作ってそれを他人に説明する」という能力を発達させる機会を奪われているのだろう。
個人の成長と組織の存続の間にある緊張関係が大きな問題にならなかったのは、それなりに再配分がうまくいっていたからだろう。しかし、組織がすべての人に分配できなくなると、自己責任で生き残り、生き残ったあとはシステムを支えろと言われる。成長を搾取するか他人から搾取して生き残る仕組みになっているわけだ。これに折り合いをつけなければ生きて行けないという意味では、現代社会の極めて巧妙な写し鏡になっている。秋元康という人は本当に天才なのかもしれない。
三連覇した指原莉乃や上位7名のようになってしまうと、こうした競争に依存しなくても自分の名前が売る方法がわかるので、こうした矛盾した競争から離脱することができる。自分の価値観を追求したいひとは卒業すればいいし、指原のようにゴールが全く異なっている人(来年は総選挙のMCをやりたいということなので、雛壇からMCに上がるという中居正広のようなキャリアを狙っているのではないだろうか)は両立も可能になるだろう。
いずれにせよ指原や高橋みなみのような初期のメンバーのスピーチがそれほど支離滅裂ではなかったのは、自分たちでAKBを作ってきた体験があったからではないかと考えられる。自分たちでシステムを作った体験があると、学校で教わらなくても欲求を言語化する能力が身につくのだろうし、逆にそうでないメンバーは離脱してゆくということなのかもしれない。
さてここまでAKBについて書いたので、AKB批判になっていると感じる人もいるのではないかと思う。だが、実際にはこうした現象はいろいろなところで見られる。多分、国会でも同じようなことが起きている。
福島みずほ参議院議員が「共謀罪で逮捕するぞ」と恫喝されたという話があり、それはガセであるという話が後で流れてきた。だが、これはどうやら事実である可能性が高いらしい。本人がこう説明している。
わたしが「何トンチンカンなことをいっているのと野次を飛ばすと「共謀罪で逮捕するぞ」と野次が飛び、笑い声が起きる。誰が「共謀罪で逮捕するぞ」と言ったのかわからない。聞いたことのない声。私は右側を振り返って声を方を見ているので与党席。知り合いの野党議員ではない。知らない声。
— 福島みずほ (@mizuhofukushima) 2017年6月17日
この話が恐ろしいのは、この野次を飛ばした国会議員が自分たちの役割を完全に見失っているからだ。国会というのは、法律を作るところだが、同時に行政をチェックする機能を持っている。いわばハンドルとブレーキを持っている。だが野次を飛ばした議員は権力の側に立って野党議員を抑圧できると錯誤していることになる。こういう人たちが作る法律にチェック機能がないのは当たり前であり、いわば日本はブレーキが壊れた車のような状態になっていることがわかる。
確かに自民党にいる間は全能感を感じられるかもしれないのだが、下野してしまえば今度は押さえつけられることになる。がもっと恐ろしいのは権力の側にいて「相手を弾圧している間は仲間として認めてやるが、さもなければお前も弾圧されるのだぞ」と恫喝されるという可能性だ。
日本社会にはいい面もたくさんあるが、集団の空気が一人ひとりを抑圧するという場面がしばしば見られる。意思決定の仕組みが複雑で表からはわかりにくいからだろう。つまり「政敵を共謀罪で弾圧できる」というアイディアが生まれた瞬間に、一人歩きして誰も止められなくなる可能性があるのだ。
どうやら今の国会には根拠のない全能感が蔓延していて、選挙区を構築せず議員になったような人たちは選挙民という接点がないこともあって、自分の役割が何なのかということすらわからなくなっているようだ。いわばブレーキがない車に自らを閉じ込めていることになる。
と同時に、自分たちの役割を言語化して内面的に認識できない人が、ハンドル操作ができるとは思えない。結局、組織というのは一人ひとりの判断の積み重ねなので、こういう人たちが動かしている車は、ブレーキもハンドルもない可能性が高い。
AKBメンバーが自分たちの欲求を言語化できなくても、それは一人ひとりの成長とグループの存続という問題が生じるに過ぎないのだが、国会の場合は多くの国民を巻き込む可能性が極めて高い。が、どちらも根っこには「自分たちの存在を言語化して内面に定着させた上で、人にも説明する」という能力の欠如があるように思える。