質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。
日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。
問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。
今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。
糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。
もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。
日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。
それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。
質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。
ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。
と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。
これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。
このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。
もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。
これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。
今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。
このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。
多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。
現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。