神戸に世界一高いクリスマスツリーが立つというニュースを見た。NHKの朝の番組でわざわざ中継が出してまで紹介していたので「景気の良い話だな」とは思ったのだが、これがまさか炎上するとは思わなかった。
この案件が炎上した理由はいくつかあるようだが、糸井重里さんが絡んでいるようだ。この件についての一連の考察はタグでまとめてある。一言で言うと糸井さん個人が悪いというわけではなく、その背景にある事情が変わっているのではないかと考えている。Exciteは次のように面白おかしく伝えている。
さらにこれに反応している人たちがいるのだが、戦争はいけないから憲法第9条改悪に反対というような主張にも共鳴しそうな人が多い。毬谷友子さんは「ひっそりさせておいてあげたい」と言っているのだが、毬谷さんのいうように木はひっそり生きていた方が幸せだったのだろうか。
ひっそりと生きている方が、この木は はるかに幸せだったと思う。
意味がわからない。
人に見られることが幸せなのか?
その価値観が愚かすぎて震える。 https://t.co/v96SEchKFb— 毬谷友子 (@mariyatomoko) 2017年11月21日
これまで、日本人は経済モデルを田畑で考えているのではないかと考えてきた。環境によって収量が影響を受けて全体を増やすことができないという世界である。この環境では誰かが儲けるということは必ず誰かが損をするということになる。土地の生産量が限られているので日当たりのよいところを横取りするか水を自分の田んぼに流すなどをしないと収量が増えないからだ。
このためにそもそも「儲ける」ことに関して懐疑的な人が多い。そこで、西畠さんが儲けるということは何かを搾取しているという図式が即座に描かれたのではないかと思う。つまり150年生きてきた木の命を奪ったのは西畠さんが不当に儲けることにつながるという図式が作られたのである。しかし、これだけではこの件は大した広がりが得られなかったのではないだろうか。
それに輪をかけたのがそれを応援している糸井重里さんだ。糸井さんといえばバブルの頃に「思いつきを言葉にするだけで大儲けした人」という印象がある。そもそもバブルは「根拠のない浮かれた景気にもかかわらずみんながいい思いをした」ということになっていて、バブルを生きた人はズルいという印象がある上にそこにのって大儲けした糸井さんは「インチキ詐欺師」だと思われているのかもしれない。
糸井さん(実際には事務所だが)の「何かを考えるきっかけにしよう」というツイートはふわっとした言葉で何かをごまかしていると考えられているようだ。このツイートには様々な懐疑的なコメントが付いていて、阪神淡路大震災の当事者で感情的に傷ついている人もいるようだ。
ネット上でもすでに話題になっている「世界一のクリスマスツリー」。みなさんがこのツリーを見て、なにを考え、なにを思うか、それこそが清順さんの本当のねらいでもあるのです。(担当稲崎)https://t.co/WI1fVSZfTm
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) 2017年11月15日
つまり、儲けることは騙すことと同じであるという低成長時代ならではの空気があるということになる。さらに東日本大震災の復興対策費用が流用されていたり、オリンピックが実際には政治矛盾を隠蔽するのに使われていることもあり「もうごまかされたくない」というイライラが募っている。
企業が収益を上げるために賃金は低く抑えられており、非正規雇用ばかりが伸びるという現状では「企業活動とは搾取のことだ」と捉えられても不思議ではない。バブル的で景気の良い話はたいていが詐欺であり、それが本家本元の<詐欺師>によって支えられているという図式である。企業活動も浮かれた消費もそれほど恨まれているのである。消費が伸びないのも当たり前だ。
糸井重里的なものは、男性的でインダストリアルな価値観に従わなくても、しなやかで優しく生きて行けますよというメッセージだった。日本は豊かだったのでこうした異なる価値観が共存できたのである。しかし不景気が広がるとそれは逆に「男性的で優しさのない経済」をごまかすために、しなやかさや優しさが利用されているのではないかという疑念に変わる。あまりにも不景気すぎてもはや糸井重里的なものが存在する余地がないということになる。
ところがこれが本当に詐欺なのかを考えた人はほとんどいないし、議論においてそのようなことを考えた形跡もなさそうだ。それは日本人が自分たちの暮らしがどのようにして成り立ってきたかをすっかり忘れてしまったからだ。ここから先は「糸井重里的なもの」の終わりというよりは、保守の崩壊という視点で続けたい。
ここでは家畜の例をあげて説明したい。私たちは毎日豚や鶏肉などを食べているが、家畜を搾取とは呼ばない。これは多くの人が家畜という概念を知っているからである。中には養豚や牧畜なども動物への搾取だとみなして肉を一切食べない人もいるがそれは例外的である。
では木はどうだろうか。今回神戸に「無理やり連れてこられた」のは150年間生きていたあすなろというヒノキの仲間だそうだが、周りは山火事で焼けてしまったそうである。これがもともと植林されたのち放置されたものなのか天然木だったのかは全く確かめられていない。つまり、同じ木であっても家畜化された木なのか野生のものなのか誰も木にする人はいないということだ。
こうしたことが起こるのは、東南アジアなどの安い木材に押されて日本人が自分たちの山林を構わなくなったからである。日本人はこれまで自然の恵みを利用して生活を成り立たせてきたということすら忘れてしまったので、もはや「管理された林」という概念が理解できないのである。
今回のあすなろはもしかしたら天然木なのかもしれないのだが、それでも山火事で焼け残ったところに一本だけ木が残っていると再植林や開発はできない。植林された森であれば再整備したいだろうが売れる見込みがない植林をしても仕方がないし、次に使えるようになるまでには数十年という時間が必要になる。木材の価値を高めて得ることができれば、単に木材として売るよりも産地は喜ぶ。だから、これは必ずしも「木を殺した」ことにはならないはずだ。
今回の利益配分がどうなっているのかはわからないのだが、地元を騙した上で安くで買ってきて大儲けするようなスキームになっているとしたら考えを改めた方がよいし、そうでないなら産地の人たちの意見も紹介した方が良い。これが企業の説明責任というものである。もはやふわっとした優しさは何の役にも立たない。我々はそれに依存しすぎたと言える。
つまり、この件が炎上した裏には、もともとの成り立ちを説明しないまま感動ストーリーだけを押し売りしようとしたというマーケティングの失敗があるようだ。糸井さんの事務所がどの程度これに関わっているのかはわからないのだが、少なくとも西畠さんの会社はマーケティングに失敗したことになるし、誰かがそれなりのアドバイスをしてもよかったのではないだろうか。
このように改めて考えてみると、バブル以降の時代の変化に驚かされる。バブル時代には誰も消費に疑いを持たなかったので、なんとなく顧客を良い気分にさせていればそれなりにものを売ることができた。しかしながら現在の空気はその頃と全く変わってしまっているようであり、マーケティングに必要なスキルも変わってしまった。
企業が儲けるときには「地域への貢献」や「背景の丁寧な説明」などが求められる。ある意味面倒な世の中になっている。だが、新時代に適応したマーケターならそこに面白みを感じるのではないだろうかと思ったりもする。