All for All – 日本は全体主義の国になったのか

このところ全体主義について書いている。テーマになっているのは日本は全体主義の要件を満たしていないのに、なぜ「全体主義になった」といいたがる人が多いのかというものだ。実際にこのブログの感想にもそのようなものがあった。多分、安倍首相が全体主義的だと言いたいのだと思う。

全体主義には幾つかの背景がある。なんらかの競争があり、弱い個々のままでは勝てないから個人を捨てて全体に奉仕することを求められるという社会だ。しかしそれだけではなく全体から零れ落ちる人が出てくる。例えばナチス政権下のユダヤ人や障害者は全体には入れてもらえず、排除されなければならないと考えられた。

前回「シングルマン」を見た時に中で出てきたハクスリーの「すばらしい新世界」について少しだけ調べた(シングルマンにすばらしい新世界が出てくるわけではない)のだが、このディストピアではエリート層を支えるためには知能が低く外見的にも劣っている下層な人たちが必要と考えられていた。イギリスとドイツの違いはここにあるように思える。ドイツでは下層で醜いとされたユダヤ人は抹殺されなければならなかったが、イギリスではエリート層を支えるためにはこうした人たちが必要だったという認識があったようだ。階級社会であり、なおかつ古くから植民地経営をしていた国と後から乗り出した国の違いだろう。

このことからグローバリゼーションのような枠組みの変更が全体主義の成立に大きな役割を果たしていることがわかる。冷戦化の世界では下層で醜いとされた人たちは社会の外側におり直視する必要がなかったし、それに保護を与える必要もなかった。ところが、グローバリズムが進展しこうした人たちが社会に流れ込んでくると、それをどう扱うのかということが問題になる。建前上は同じ人間だからである。

特にアメリカは奴隷出身の人たちにも市民権が与えられており、本来は法的に保護を与えられないはずの不法移民たちまでが社会保障を要求している。経済的に豊かな白人はそれでも構わないが、余裕のない人たちにとっては許容できる範囲を超えている。そこで白人至上主義という全体主義的な主張が生まれるわけだ。だが、自分たちが下層階級の仕事をやろうという気持ちがあるわけではない。社会の外に追い出して自分たちだけは特権を享受したいという気持ちなのだろう。

アメリカやヨーロッパは移民の流入を許したことが全体主義を蔓延させる要因になっている。だが日本はそこから「学んで」おり、技能実習生という制度を作り労働力だけを移入したうえで社会保障の枠外に起き、定住させないように結婚や子供を制限するという制度を作った。ゆえに日本で全体主義が蔓延するはずはない。唯一の例外が植民地として支配した朝鮮半島なので、未だにこの人たちの存在が過剰に問題視されたりする。

にもかかわらず「日本は全体主義化しているのでは」などと書くと強い反応が得られる。これはなぜなのだろうか。日本は全体主義とは違った「社会を信頼しないバラバラな大衆が住む」社会になっているので、政治家たちはなんとかして個人の関心を社会に集めなければならない。そこで全体主義的なスローガンが持ち出され、それが却って反発をうむということになっている。

この観点から全体主義のメッセージをみるとちょっと違った見方ができるかもしれない。二つのメッセージがある。一つは一億層活躍社会でもう一つがAll for Allである。これは、社会に対する「すべての人の」動員を求めるという意味で共通している。

例えば一億総活躍社会は一見全体主義的に見えるが、実際にはエリート層が下層階級の人たちを搾取し続けるためのメッセージになっている。先進国から滑り落ちてしまったために外部からの労働力に期待できない。そこで、高齢者も安価で動員しようという主張である。これが全体主義と言えない。大衆から発せられたメッセージではなく、’誰も発信する政治家を信じていないからだ。

一方でAll for Allも全体主義である。その証拠にAllが二回もでてくる。これは笑い事ではない。これは、誰も民進党を支持してくれないからみんなで支持してくれよというもので、すでに政治的なメッセージですらない。前原さんが悪質なのは全体主義はエリートが大衆に与える幻想だということを理解した上で、それを「みんなのために頑張るのですよ」とごまかしている点だろう。が、実際には無害なメッセージだ。民進党も含めて誰も前原さんのいうことを本気にしていない。カリスマ性がない全体主義の訴えは無視されてしまうのだ。

小池百合子東京都知事は自分とお友達で都民ファーストの会の人事を決めており、これは全体主義的だと言える。だが東京都民がこれを放置しているのはどうしてなのだろうか。それは政治のような汚いことに関与せずに、いい思いをした古びた自民党を掃除してくれるからだという認識があるからだろう。つまり、政治というのはそれほど汚いもので関与したくない。かといって誰かが陰に隠れておいしい思いをするのをみるのも嫌だ。そこで誰かが処理をしてくれることを望んでいるのである。誰も築地や豊洲がどうなるかということに関心はない。この感情を「シャーデンフロイデ」というのだそうである。

こうした主張が出るのは、日本人がもはや社会を信頼していないが、経済的にはそこそこ満たされており、なおかつ社会的秩序も保たれているからだろう。経済的にある程度の豊かさがあれば引きこもるスペースもあり、引きこもっていても豊富にやることがある。さらに政治は完全に私物化されているので(首相が自分たちの勢力を維持するために特に理由もなく国会を解散し、そこで得た勢力を利用し、特区を作って友達に利益分配している)社会に対して積極的に貢献する理由がない。そこで、政治はなんとかして有権者を引きつけようとして全体主義へと誘導しようとしている。

つまり、日本と欧米は真逆の位置にあるのだが、不思議なことに同じように見えてしまうということになるのではないか。

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