前原代表のいうAll for Allはどうやったら伝わるのか(あるいは伝わらないのか)

前原代表が今度の選挙ではAll for Allという概念を有権者にわかりやすく伝えたいと語っていた。前原さんのことは嫌いなので「お前には無理だろ」などと思ったのだが、思い直してどうやったら伝わるのかということを考えてみることにした。が、それを考えるためにはAll for Allとは何かということを考えなければならない。

All for Allというのは前原さんのような多様性が許容できない人がリベラルが多い政党で擬態するために作った言葉のように思える。多様性というのは裏返せばまとまりのなさなので、これを全体に奉仕させるためにはどうしたらいいのかと考えてしまうのだろう。元になっている概念はラグビーなどの全員が一つの目標に向かって勝利するというものだろう。だが、政治というのはスポーツではないので、社会は必ずしも一つの目標に向かって勝たなければならないということにはならない。

ゆえに前原流を突き進んでゆくとやがて論理は自己破綻するはずだ。これが自己破綻しないのは前原さんが自己抑制して理論を自死させてしまうからだ。

本来多様性を認めるということは闘争からの脱却を意味する。かといって、多様性は単なる混乱を意味するわけでは、実はない。この「認知の問題」が実は多様性と全体主義を分けている。

かつてファッションには流行というものがあった。流行にはシーズン限りのトレンドの他にスタイルと呼ばれる大きなまとまりがあった。例えば「渋カジ」とか「竹の子族」などというのがスタイルである。実際にはすべての人が渋カジだったわけでもないのに、渋カジがスタイルが成立しているように見えたのは何故なのだろうか。

多分、スタイルというものは多様にあったが、メディアがそれを捕捉できなかったからだろう。アパレルメーカーがースタイルを提案し、多くない数の雑誌がそれを伝えるというのが、かつてのやり方だったからだ。このためメーカーは数年前から形や色からなるトレンドを提示した上で一年かけてじっくりと製品を準備することができた。

ところが、このトレンドやスタイルは徐々に消えてゆくことになった。たいていの場合これは「消費者がアパレルから離れて行っている」と理解されているが、実はメーカー主導ではないトレンドが可視化されるようになったことが原因となっている。

ところが、実際には別のことが起きている。トレンドは存在する。現在はゆったりめで長めのものがトレンドである。だが、スタイルは多様化している。スタイルとは文化的背景を持った選択の偏りのことである。それがその人の体型の偏りと重ね合わされることで「その人らしさ」を作り出す。スタイルは多様化しているのだが、ファッション好きの人はそれほど困っていないようだ。

これを理解するためにはマスコミュニケーションとインターネットの違いを知らなければならない。インターネットにはタグ付けとフォローという2つのまとめ方がある。トレンドより下位のマイクロトレンドが日替わり・週替わりで出ては消えているのだが、これはタグによってまとめられ検索可能になっている。さらに、ファッションコミュニティにはスタイルを持った人たちがおり(インフルエンサーなどと呼ばれる)彼らをフォローすることで、そのスタイルを捕捉することが可能である。情報という観点から見ると、階層型からネットワーク型へと変容しているということになるのである。

アパレルメーカーはすべてのマイクロトレンドを追うことはできないし、すべてのスタイルを網羅することもできない。彼らがやるべきなのは、いくつかのスタイルを提示することと、今あるマイクロトレンドを捕捉することである。かつての糸問屋から発展した商社は苦戦しているようだが、ファストファッションはここに特化して、捕捉したトレンドを短いリードタイムで製品化できるようになっている。

一方で価値観を押し付けて凋落したアパレルメーカーもある。アメリカでは、背の高い体育会系の若者がメインストリームなのだが、アバンクロンビー・アンド・フィッチはこのメインストリームを大衆に押し付けて大炎上した。ある一つの価値観を固定してしまうとすべてのその他の人たちを敵に回してしまうということがよくわかる。政治世界でこれと同じことをやって大炎上しているのがトランプ政権であり、自民党も同じことをしている。もし「多様性を無視して、みんなのために同じ価値観を持とう」などと言い出せば民進党も同じ程度には炎上するだろう。

このようにファッションのトレンドが一見消えて見えることと、政治が一つの価値観を押し付けてくることには共通の根がある。それが「バラバラさ」に対する理解の違いである。

かつては、保守中流という大きなマスがあり、そのカウンターとしてリベラルと呼ばれる人たちがいたのだが、こうした括りはなくなっている。それは渋カジがなくなってしまったようなものである。だが、わかりやすいファッションスタイルがなくなったからといっても人々は裸になったわけではない。たいていの人は何か服を着ている。中にはスタイルのある人もいるが、多くの人は「なんとなくユニクロを着る」というあたりがスタイルになっている。同じように政治的な意見を全くもっていない人はいないのだが、こうした人たちは無党派層としてひとくくりにされ、マスコミや政党から無党派層呼ばわりされることで、そうした自己意識を<洗脳>されているのだ。

成功したアパレルは製品中心のファションメーカーから多様なスタイルやトレンドを捕捉して素早く製品化する企業に変化した。つまり、みんなが漠然と持っているスタイルやトレンドをまとめて提示するサービスを提供しているのである。多様性を扱うということは、相の変化を伴うということになるだろう。

自民党は一つの物語に有権者を押し込んで行くという政党なので、多様な声を聞いてそれを政策化できるようになれば実は簡単に対抗ができる。問題は政治の世界に多様性を扱う成功したモデルがないということだ。

与野党は、狭いコミュニティの中で有権者に受けようとする政策を探している。これはアパレルが自分たちの頭の中だけで「どのような服が売れるだろうか」と考えているのと同じことであり、現在では自殺行為である。

例えば、政治家は地盤の他の専門分野を持ち、専門分野の情報を受発信することができる。関心のある人がそれをフォローすることができればコミュニティができる。政党はナレッジのネットワークなので、これを組み合わせればいろいろな分野で問題解決ができるソリューションネットワークのようなものが容易に作れる。

色々とわけ知り顔で書いてきたが、こうしたことはSNSの世界では当たり前に行われている。その証拠にTwitterで様々な専門家をフォローしている人は多いはずである。そうすることで例えばベネズエラの現在の状況がわかったり、トランプ政権の動向を日常的に捕捉することができる。

前原民進党政権は多様性を扱えないことで崩壊してゆくはずだ。共産党という「隣にある異質」とすら協業できないのに、その他の雑多さと協業できるはずなどないからである。

こうした多様性(雑多さ)を受容できない人は大勢いて、Twitter上でのたうちまわっている。彼らは与えられるストーリーなしに社会の複雑さを許容できないゆえ、多様な価値観が飛び交うTwitterが許せないのだろう。そのため自分の捏造された価値観からの逸脱を攻撃したりブロックしたりするのではないかと思う。こうした人たちをひきつけて内部崩壊してゆく道を選ぶのか、それとも多様性を受容してより多くの価値観に触れることができる社会に進んでゆくのかという選択肢を、我々は持っている。

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