前回、ある人のツイートを引き合いにして、北朝鮮と核についての一文書いた。が、ちょっと長めの文章なので、その人からは何の反応もなかった。今のところはブロックもされていないようである。だが、中には反論してブロックされた人もいるみたいだ。その人の名前をTwitterで検索するとブロックという用語が候補として出てくる。
何が違うのだろうかと考えたのだが、党派性が関係しているのではないかと考えた。この人のツイートを見てゆくと、社会党に対する強い反発心を感じる。これはコンテクストの集積になっていて一つの物語というか概念の塊を作っている。だからここに触れるものに対してアレルジックな対応が起こり、それを理性で包むとあのような対応になるのだろうと思われる。
もう一つの可能性は、ストーリーの一貫性にこだわる人がいて、社会党の主張がそれに対してノイズとして働いているというものである。実際の物語は多面体になっているので認知するためには複雑な知性が必要なのだが、多面体を扱えない人というのもいるのだろう。もっとも単純なのは陰謀のせいにして夾雑物を取り除くことだが、ある程度の知性が残っていると「理性的に夾雑物を取り除こう」とするのだろう。
どうやら、議論と対話は二重通信になっているようである。一つは論題そのもので、もう一つは待遇と関係性に関する通信だ。つまり、論題そのものは反対意見であっても、党派性は同じですよといえばこうした対立は起きないだろうし、待遇表現をつけてやれば相手は攻撃する材料を失ってしまうということになる。どちらにせよ、複雑な多面体は扱えないので、こうした要素は「ないもの」としてキャンセルされてしまうからである。
それでは複雑さとはなになのだろうか。それは認知力ではないかと思う。つまり、ある事象があったとして、それを自分の立場と相手の立場から検討した上でその関係性を把握しなければならない。だが相手は自分とは違う認知をしているということがそもそもわからないか、相手の立場から状況がどのような思考を与えるかということがわからなければ、そもそもそのような検討をすることはできない。
これは「努力していないからわからない」のではなく、そもそも最初からそのような認知力がないのだろうと思われる。
少なくともこのことから、北朝鮮ミサイル問題というのは別に彼らにとってはどうでもよいことなのだということになる。そこで改めてスレッドを見てみると、反論してきた人を諭したり論破してみせたりしていることがわかった。つまり、関係性をうまく結べないために、反論という形で相手を煽っているのだ。論題は一種の承認欲求を満たすための道具なので、利用できないとわかるとブロックしてしまうのではないだろうか。だが、それがコミュニケーションの稚拙さなのか、先天的な認知の問題なのかはよくわからない。
しかし、考えてみるとこれは異常な事態だ。なぜならば北朝鮮という隣国が核兵器を開発して日本に打ち込むことが可能なのだ。国連を中心にして経済的に結びついた世界では、主権国家が過剰な被害者意識を募らせて勝手に武装を始めるというのは想定していない状況であり、全体の秩序にとっては大きな脅威である。にもかかわらず、これを<議論>している人たちは、それよりも自分がどのように待遇されているかということの方が重要なのである。
いずれにせよ、こういう人はそもそも議論というものに意味があるとは思っておらず、単に「自分が承認してもらえるか」ということにしか興味がない。しかしそれは当たり前だ。そもそも相手が違う立場を持っているということがわからないからだ。議論というのは立場のすり合わせなのでそもそも議論は成立しない。
相手と一緒にアウトプットを作ろうとは思っていないのだから、こういう人たちと関わるのは問題解決という意味では時間の無駄である。ただし、関係を結んでおくと「トク」になる人もいるので、そういう場合には、逆らわずに頷いておくと良いのかもしれない。裏返しにすると論題についての態度は意思決定になんら影響を与えないからである。だから賛成しようと反対しようとアウトプットには影響がないのだ。
こうした事態に問題があるとしたら、それは別のところにある。それが絶望感である。
組織や集団に無力感が進行すると、すべての人たちが待遇をもとめて、問題解決をそっちのけにして議論を繰り広げるということになる。ここから生まれるのが党派の細分化である。コミュニケーションの稚拙さと絶望感がないまぜになった状態の例として昔の左翼運動がある。過激な左翼運動はやがていくつものセクトに分裂し、世間から見放されながら権力闘争を繰り広げた。「自分たちは世界を帰ることができない」という絶望感が内部に向かうと、つぶしあいが始まるのである。最近では民進党が自滅への道を歩み始めたが、実際に政権を担当してみて何もできなかったという絶望感が根底にあるのだろう。
Twitterにおいてブロックというのは自分がコントロールできる唯一の表現なので、待遇にこだわる人はブロックを多用するのだろう。が、こういう人が増えるのは問題解決によって状況をコントロールするのを諦めた人であるとも言える。
安倍首相は国際コミュニティを無視して、自分の方が北朝鮮よりえらいということを一生懸命になって証明しようとしている。かといって、自分で軍隊を持っているわけではないので、彼ができることは、国連安保理に泣きつき、北朝鮮を挑発し、アメリカをけしかけるだけである。
多分、ヨーロッパのリーダーたちは世界の秩序を維持することが自国の安定に重要であるということがわかっており、中国やロシアのリーダーたちはアメリカを牽制することで自国のプレゼンスを高めようという意識があるのだろう。だが、安倍首相は自分の政府すらコントロールできていないので、世界の秩序を維持するために日本がどう貢献するかということにまで頭が回らないのだろう。目的意識を失ったリーダーというのは恐ろしいもので、核不拡散条約を批准していないインドに原子力技術を売り込みにゆき、北朝鮮には核不拡散条約に従うべきだなどという主張をしている。
そのように考えるとこうした「自分たちは状況を変えられない」という気分は国のトップからかなり下の方にまで蔓延しているのではないかと思う。考えてみると、バブル崩壊以降何をやっても状況が変えられなかったわけで、こうした絶望感が深く根付いているのかもしれない。