為末大さんはなぜリベラルから叩かれたのか

為末大という人がリベラル界隈の人から叩かれている。進化論を持ち出して競争に負けた人は淘汰されても構わないと「言い放った」からだ。この人バカだなと思った。

Twitterだけではコンテクストがわからないので、過去の発言やブログなどを読んでみた。彼のいう競争とは多分スポーツなどの競い合いが元になっているものと思われる。そして、これを進展させた上で「福祉予算が膨らんで国がそのまま衰退して行くからなんとかしなければならない」という問題を解決に結びつけようとしているようだ。

面白いなと思ったのは、為末さんが「弱者に足を取られて国が沈んでゆく」と感じているという点である。にもかかわらず国民にはやる気がないというのだ。

しかし、この認識は多分為末さんだけのものではないのかもしれない。この世代の人たちは、国が成長する様子を見たことがないのだろう。高度経済成長期にある人は競争と成長を結びつけるのだろうが、ポストバブルの人たちは弱者の除外を前提にする。これが「為末さんがバカ」である第一の理由だ。つまり情報が偏っているのである。

為末さんがバカである理由の第二は、彼が競争に参加するように人々を動機付けするスキルを持っていないという点だ。だから脱落をほのめかして、関係のない外野の人たちを巻き込んでしまっている。主に「左側の人たち」が強く反応しているのだが、為末さんの目的である「人々を競争に参加させ」「強い社会を作る」ことには全く関係がない。どちらかといえば排除された経験があるか、その可能性に怯えて拒否反応を持っている人である。

さらに、為末さんがそもそも目的意識を明確に持っているようには思えなかった。何のために議論しているかがわかっていないまま論を組み立ててしまったために、不用意に進化論や淘汰などを持ち出してしまったのではないだろうか。歴史を知っていれば、このような理屈がナチスのユダヤ人淘汰に用いられたということがわかったのだろうが、そこまでの知的な広がりはなかったのかもしれない。

「競争」が定義されていないのに、彼が認知しうる「競争」についてのみの考察しているために話が迷走しているということになる。バカは途中経過なのでバカであっても構わない。だが、そこから脱却できないのは少しもったいない気もする。

多くの人がスポーツの競い合いに参加するのは、競争を通じて自分の能力を伸ばすことができるからだ。例えば合唱や吹奏楽にもコンクールはある。芸術に競い合いがあるのは不思議なのだが、目的を持つことで技能を磨くことができる。コンテストにはいくつかの種類があるのだから、吹奏楽が嫌いな人はロックミュージックのコンテストに出ても構わない。

が、これを少し加工してハードル競争に負けた人は殺されても構わないのかと置くと話が全く違ってきてしまう。加工されたのは「競争の目的」だ。つまり、成長から生存競争へと目的が変わっている。しかし、これを変えるだけで意味合いが全く変わってくる。

例えば吹奏楽競争に負けた人がフルートを折って二度と音楽を演奏してはいけないなどと言われれば、その異常さがわかるはずだ。コンクールは技能を磨くためにあるのであって生き残り競争ではない。

人は競争を通じて個人的にまたは集団的に成長することができる。競争は成長という目的を達成するための手段だ。だから、スポーツは管理された競争になっている。だが人が競争するのは成長のためだけではない。人は限られたリソースのを巡って生き残り競争をすることがある。

いずれにせよ、成長のための競争が是認されるからといって、自動的に生き残りのために相手を犠牲することが是認されるわけではない。つまり、ボクシングが是認されるからといって、殴り合いが是認されるということではない。

為末さんは文章の中で「世界は競争を前提にしている」と決めつけているのだが、この競争が生き残りの闘争を意味しているのか、成長のための競い合いを意味しているのかがわからない上に、世界がどの範囲を意味しているのかがよくわからない。

世界の中には競争を是認する競争型の社会と包摂性を是認する非競争型の社会があり、すべての社会が競争を前提としているわけではない。アメリカを念頭に置いているのかもしれないが、アメリカは個人が競争の結果を受け入れる社会なので「負けた人がどうするのか」ということがある程度社会化されている。つまり、負けた人が次に再チャレンジすることが認められている。つまり、競争を前提にすることと負けた人は滅びても構わないというのも実は同じことではない。

為末さんが「競争」の目的について考えずにいきなり競争を是認した上で、歴史的に大いに悪用されてきたダーウィニズムまで持ち出してしまうのは、日本人が競争そのものを自己目的化してしまう傾向が強いからかもしれない。日本の競争が集団化しやすく個人の力でコントロールするのが難しい。このため、競争に参加しないと集団的な圧力にさらされやすい上に、個人が競争に意義を感じられないということが起こり得るし、実際にいろいろなところで起きている。

例えば、組体操はチームで身体のコントロール力を高めるためのトレーニングだ。だから、管理されたぎりぎりの範囲で人間ピラミッドを作るという手段はぎりぎり正当化されるかもしれない。実際には競争のための競争が横行する。多分、十段ピラミッドを作るような人は「何のために競争をするのか」ということは考えないで、とにかく隣の学校よりも高いピラミッドを作らなければならないと考えるのだろうし、自分ではやらずに人にやらせるのだろう。

競争の目的が失われてもそこから抜け出すのは難しい。下にいる人たちは意味もわからず支えられるはずもない荷重をかけられたうえで半身不随になるような事故を起こす可能性がある。が、とにかく競わなければならないという空気があると足抜けすることも許されず、「どうしてもやりたくない」というと「わがままで例外的なのだ」とみなされて村八分にされる。

このような極端な競争の裏返しが「競争そのものがいけないのだ」というような競争の全否定だ。つまり、意味もなく競争したがる為末さんのような人と、意味もなく競争を嫌がる人たちは実は裏表になっているのではないだろうか。どちらにも、競争には目的があるという当たり前の認識が失われているという共通点がある。

戦争は制度化された殺し合いだが、すべての人が司令官になることはできない。トップが、戦争の目的を管理し、下士官レベルの人はとにかく勝つことだけを考えることになる。役割分担があるから下士官レベルは何かを考える必要はなかった。これが日本で<バカ>が量産される理由なのかもしれない。将校レベルがいなくなり下士官だけが暴走しているのが今の日本の現状と言えるだろう。為末さんはバカではなく青年将校なのだ。

例えば人間ピラミッドで将校に当たるのは校長や教育委員会だか、彼らの関心は別のところにあり、現場には無関心だ。そこで一部の先生が暴走してとにかく高いピラミッドを作ることになる。例えて言えば、中央軍司令部が壊滅したのに、現場では戦争が続いているようなことになる。こうした青年将校たちが一生懸命に働いた結果「とにかく競争が好き」という人と「とにかく競争が嫌い」という二極端の社会を生み出す。

この為末議論の一番の問題は、日本人が一体何のために戦っているのかがわからなくなっており、だからどのように勝つのかということもわからなくなっているということなのかもしれない。

にもかかわらず日本人は目的の振り返りをしなかった。とにかく社会を維持したかったので「競争に参加しなければ社会的に抹殺しますよ」とか「あなたの価値はなくなるのですよ」と脅すことで負の動機付けを続けた。一方、個人主義のアメリカでは個人が競争に参加するためにはしっかりとした意味づけをしなければならなかった。例えば、アメリカにはコーチングの技術として勇気づけのための「ペップトーク」などという手法があるそうだ。

個人社会は一見バラバラで弱そうなのだが、動機付けられた個人がコミットメントしたほうが競争には勝ちやすくなる。こうしたコーチングの手法が日本で発達しなかったのは、集団により圧力を加えたほうが簡単だったからだろう。

が、このことが「とにかく競争が好きな人」「とにかく競争が嫌いな人」そして「やる気がなく単に競争に参加するだけ」というバラバラな個人を生み出している。つまり青年将校たちが日本を弱くしているのだ。

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