最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。
が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。
こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。
しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。
このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。
もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。
例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。
まあ、もととなる維新の提言にも元の足立議員の文にもあなたのおっしゃるようなことは表現はされてないですけどね(´・ω・`)国会議員もしくは政党のだす提言なのだからわかりやすい表現をするのは当然(´・ω・`)あなたも思うと断言されてないですし自身の考えに自信がないのでは(´・ω・`) https://t.co/3YSDCTElq6
— chisa (@chisa2012) 2017年6月22日
「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。
何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。
ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。
感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。
このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。
この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。
例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。
だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。