英語でQUORAというQ&Aサイトがある。ここでは、実名で比較的まともな議論が行われている。ちょっとした焦りとともに、どうやったら日本語で建設的な議論ができるのかを考えた。だが、結果的には「日本人と議論するのは無駄だな」という結論になったので、書くことは何もないのだが、一応、考えた過程をまとめておく。
正確には、英語圏で数年以上の経験を積んだことがない日本人は建設的な議論の空間からは排除すべきだというのが結論になった。多分、中国語圏の人も大丈夫だと思うのだが、中国語の経験がないのでよくわからない。
英語圏には個人が意見表明を通じてレピュテーションを確立できる場が複数ある。一方、日本のQ&Aサイトはあまりまともにならない。最近ではYahoo!のコメント欄が匿名で荒れているという話がある。英語圏では個人が専門知識を披瀝することがその人の信頼性を増すという考え方があるのに比べて、日本にはそうした認識がないからであると考えられる。
劣情を匿名でぶつけ合うのが日本のインターネット議論の特徴だ。議論の場というのは基本的に荒れ果てていて、その中で喧嘩に強い人が生き残ってお金をもらって叩き合いをするのが日本の言論ということになっている。言論は「リアル北斗の拳」状態なのだ。
この違いはかなり大きい。英語圏では自分の知見をブラッシュアップしたり、逆にいろいろな人から知識を得ることができる。知識はネットワーク状に形成されるという特徴があるので社会全体の生産性が上がって行く。一方、日本人は同じガムを噛み続けるように知識が陳腐化して世界から取り残されてしまうというわけである。日本人は教育というと大学教育ばかりに着目するがこれはとても愚かなことである。
が嘆いてばかりはいられないので、原因を探ってみることにする。だが「どうして日本人は公開の場で意見表明しないのか」を考えると、途端に壁にぶつかってしまう。かろうじていくつかの特徴があるなと思ったが、どうしてそうなってしまったのかがよくわからない。つまり、対策の立てようがないのだ。
一つ目の特徴は「意見表明」が儀式になっているという点だ。日本人は集団間の調整でものをきめるのだが、形式的にリーダーが決めたことにすることが多い。つまり「リーダーに花を持たせる」のである。だが、同時にリーダーが一人勝ちするのを嫌う。
例えば最近の例では、安倍首相が個人の考えとして「憲法改正は第9条の追加と教育から」などといって自民党の中が大騒ぎになってしまった。安倍首相ですら祭り上げられる存在なので、個人として意思決定のコンペティションに参加することができないのだ。安倍首相の「力強い決断」はすべてアメリカからの圧力によるものであることがわかってきている。自民党の中に「アメリカに逆らうとマズイ」というコンセンサスがあり異論がでにくのだろう。意見表明は「あやしあい」の道具になっており、実際の意思決定とはあまり関係がないということだ。つまり、公開の場で意見を言ったり聞いたりしてみんなで決めて行くということがありえないのだ。
日本人の意思決定のメカニズムはよくわからないが、外から自民党の様子を見ていると派閥間の利害調整が意思決定に大きな役割を果たしているのではないかと思われる。つまり数が大きな影響を持っている。が、派閥は「持ちつ持たれつ」の関係を持っており、単にいうことを聞いているわけではないのだろう。
ここから想像されるのは、かなり固定的な人間関係がないと日本人は意思決定ができないということだ。自民党末期「麻生降ろし」が行われたが、これは「選挙に負けてしまう」という焦りが背景になったものだった。つまりベネフィットが得られないということがわかると、途端に何も決められなくなってしまうのではないだろうか。
日本人は徹底して個人の意見を嫌う。会議などで「それはお前個人の意見だろう」と言われたことがある人は多いのではないだろうか。集団の意見というのは個人の意見の集約のはずなのだが、個人が意見を直接表明すると嫌われる。いくつか理由が考えられる。リーダーでさえ個人の抜け駆けは許されないのだから、普通のメンバーが意思決定に大きな影響力を与えたとみなされるのがまずいのだろう。さらに、会議の場では「みんなが納得し」て「誰も傷つかか」ず「リスクが全くない」意見が求められることがある。それを求めていつまでたっても結論が出ないということはよくある。つまり利害調整が出来る時には裏で物事が決められるのだが、それがないと何も決められなくなってしまうのだ。
集団が説得力を持つという例を見つけるのはそれほど難しくない。例えばニュースショーのコメンテータは、ある集団に属していたという属性が説得力の源泉になっている。「元読売新聞の誰々さん」とか「時事通信社特別何とか委員のだれそれさん」というのがそれにあたる。就職の選抜も「今年は東大生を何人とMARCHから何人」という割り当てがなされることがある。これは東大というのが能力の指針として利用されているからだ。が、面白いことに「オリンピック金メダリストのだれそれさん」であっても、いったん集団性を帯びてしまえば政治問題についてコメントができることになっている。
このように考えると、日本人の公開議論は意思決定とは別の機能を持っているのだということがわかる。例えば「待遇」や「仲間の選別」であると考えらえる。つまり日本人は意思決定のために議論することはほとんどないのだ。
人がおとなしく振舞うのは、社会的なふるまいがある利得をもたらすからだ。You behave because of their reputationという英文が先に浮かんだが、日本語に訳せなかった。日本人は公共の場で良い評判を得るために公開の場で適切に振舞うということがないからだ。さらに社会貢献が感謝されるという背景がある。(His/ her social contribution counts.)
こうした社会的な認識はQ & Aサイトが適切に運用されるためにはとても重要なのだが、うまく訳せないのは、日本人がそもそも社会貢献や自分が参加して社会を建設するという意識を持っていないからだろう。利害調整は人から隠れて、テーブルの下で行うべきことなのだ。
建設ができないのだから、あるものの中で収まるか、破壊するかしか道はないということになる。右派左派ともに誰かのコピペの意見が多く新しいアイディアが得られないことはよくある。これを不思議に思っていたのだが、実はコピペこそが日本人にとって議論の目的なのだろう。つまり、「意見表明」は所属集団への帰属表明であって、西洋でいうところの意見表明や知識の交換ではないからだろう。
ということで、日本語で意見を求めたり、Twitterに健全な議論を期待するのは最初から意味がないという結論になった。特にTwitterには決まった構造はないので、いつまでたっても構造は作られないので、別の目的に用いるべきだということがわかる。社会的な圧力を顕在化させたり、地震などの時の情報インフラとしては有効なので、うまく活用すべきだと思う。