海外で生活しているだろうと思われる人がTwitterで「日本流の空気を読むという文化が苦手」とつぶやいていた。これを読んでみて「別に日本人は空気を読むのが得意じゃないと思うけどなあ」と考えた。以下整理して行きたい。
まずこの人は「空気を読むのが苦手な人はどうしても言葉で説明しようとするが、言葉で説明するとそれは日本的ではないと言われてしまう」と言っている。つまり、他の人たちは「言葉なしで空気を読み合うのが得意なのだろう」と類推していることになる。
直感的に「それは他の人たちが自分の言いたいことを言葉で説明できないのに察してくれ」って言っているだけなんじゃないかと思った。だがそれは「無理ゲー」というものである。多くの場合、日本人は言葉を使って自分の気持ちや立場を表明するのが苦手だ。普段なら「なぜ言葉を使って説明するのが苦手なのか」ということを考察するわけだが、今日はちょっと違う方向に考えが向いた。
実は日本人(と括られている人たち)は自分たちのことを知ってはいるが、言葉にするのを避けているのではないのかと思ったのだ。言語による説得が行われるのは
- 「新しいことがあって、失敗する可能性もあるけど、達成度が高いよ」というような場面か
- 「みんなはこういうやり方になれているようだけど、僕は違ったやり方がしたいんだ」というような説明
の時だ。
これを一言でまとめると「新しいことへの挑戦」であり、その結果得られるのが「成長」だ。多分「言葉に出して説明したくない人たち」はそれが「失敗に終わる可能性」を恐れているのではないかと思う。失敗すると「なんか惨めな気持ちになるじゃん」と考えた経験がある人は多いのではないか。
こういう気持ちに最初に出会ったのはいつだろうかと考えたのだが、多分高校受験の頃ではないかと思った。高校は失敗できないので(浪人というのがほぼありえないから)公立校の場合「自分が絶対に受かる」ところを選びがちだ。するとそこに集まるのは「頑張ればもうちょっと上に行けたかもしれないけど、頑張らなかった」人たちである。彼らは「さらに高みを目指して大学受験しよう」などとは思わず「そこそこの地方の公立校にいければいいや」と考えてしまいがちだ。だから「いや頑張って違った体験してみようよ」などという人がいるとなんだか疎ましく、惨めな気持ちになってしまうのだろう。日本の学校教育はいわば「失敗できない学歴によるランク付け」なので、そういう人ばかりが製造されてしまうのである。
ここで「もうちょっと頑張ってみようよ」という人たちに言葉で説得されると「でも自分たちはどうせそんなに能力ないし」と言わなければならない。それはちょっと惨めなことだから言わないし言えないのではないだろうか。
大人になってくると様相が少し違ってくる。新人が「効率が悪いからやり方を変えてみましょうよ」などと提案する。しかし事情を知っている人たちは「いや、やり方を変えるとついてこれなくなる人が出てくるし」と考える。過去に何回か調整した末に混乱した苦い経験などを思い出すかもしれない、やり方を変えられない特定の個人を思い出すかもしれない。結局効率化を求めても面倒が増えるだけということになる。だが、それを言葉に出すと誰かの悪口になってしまうので言わない。そこで「察しろよ」などと思ってしまうわけである。
日本人が他人の気持ちを推察するのは得意じゃないというのは確実に言える。具体例を挙げろと言われたらTwitterからいくらでも実例が引いてこれる。たいていは相手の話を聞いていないし、聞いていても誤解している。賛同しているつもりでも実は自分のことを言っているだけという人も多い。総じてものすごく思い込みが強いし、自分たちが思い込みをしているということにすら気がついていない。もし日本人が空気を読む達人だったら、Twitterは今よりも居心地がいい場所になっているだろう。
もしTwitterが特殊な人たちの集まりだと思うなら、誰かの話を黙って15分くらい聞いていればいいと思う。「よくこれだけめちゃくちゃなことが言えるなあ」と感心することがよくある。ある分野については正確な知識を持っていても、その他はめちゃくちゃということがよくある。誘導すると怒られるので黙って話を聞くか「おうむ返し」を挟むのがコツかもしれない。
つまり「失敗するのが嫌だから今のままでいいじゃん」とか「あのうるさい人にあわせておけば丸く収まるんだからそれでいいじゃん」というのが空気の正体であって、別に相手の気持ちが読めているわけではないと思う。
しかしそんなことでは成長がないではないじゃないかと考える人も出てくると思うのだが、多分変化に伴うリスクを恐れているから日本は成長しなくなってしまったのだと思う。