先日、茂木健一郎が「日本の笑いは低俗でつまらない」と発言したことについて取り上げた。茂木健一郎がつまらないのは、西洋的な価値観をよしとしていて、日本文化の中にある良さを全く見出そうとしない点や、低俗さと高級さという価値体系の奴隷になっている点だ。つまり、戦前回帰をよしとするネトウヨの人たちとたいして違いがないのである。
いずれにせよ、この記事は、政治課題(もしくは政治課題に擬態した他人の悪口)と違いあまり関心を集めなかったようだ。とはいえ「笑いとは何か」ということを当てずっぽうで書いたので、本でも読んでみようかと思った。図書館で蔵書を検索したところ、ベルクソンの「笑い」という小編が見つかった。哲学書を読むのは気が重いなあと思ったのだが、気が変わらないうちに読んでみることにした。
読んでみて思ったのだが、現代社会に閉塞感を感じている人はぜひ一度この本をパラパラとめくってみるべきではないかと思った。精読するとたぶんかなり時間がかかるので「ざっと読み」がおすすめだ。
現在の閉塞感は、多くの人が安倍政治にうんざりしているにもかかわらず解決策が見つからないということに起因している。人口が減少し、経済が崩壊してゆくのにその解決策が何十年も見つけられないという「沈みゆく予感」が背景にあるのではないかと考えられる。つまり、解決策が見つからないということが問題になっている。そこで「なんとかしろ」と怒っているのだ。しかし怒りの感情は他人を遠ざける。危険信号を発出しているからだろう。反核とか平和運動といった誰でも賛成しそうな運動に支持が集まらないのは、それが楽しそうに見えないからである。
安倍政権は、権威が問題を隠蔽し、情報を隠し、法体系をゆがめているという点に問題があるのだが、誰もそれをやめさせようとはしない。閉塞感を感じる人は政権が持っているデタラメさを否定したいが世論調査をみると「自分だけが安倍を嫌っていて、みんなは依然安倍政権を支持しているように」見えるので苦しむのだろう。
こうした状況を変えるために笑いは役に立つ。笑いは「誰にでもわかり、愉快だから」である。つまり、怒りによる打倒よりも笑いによる批判の方が広がりを持つ可能性が高い。しかし、それは多くの人が思っているような「直接的な政権への批判」ではないのではないかと思う。
ベルクソンは笑いが成立するためには3つの要素が必要だとしている。詳しい定義は原典を読んでみていただきたいのだが、自分なりに解釈すると1) 人間的な感情に基づいており、2) 対象から心理的に分離しており、3) その感覚が集団に共有されていることが重要だということのようだ。これについて詳細な分析がなされるのだが、政治的な重苦しさというものにのみ焦点を当てると「対象に近すぎる」と笑いが起こらなくなるということが言える。ベルクソンは「共感があると笑えない」と言っているのだが、共感だけではなく反発もある種の愛着である。アタッチメントという言葉を想起したが日本語の適当な訳を思いつかなかった。
つまり、今安倍政治に反対している人たちは「安倍政治にアタッチしすぎているからそれが深刻に思える」ということになる。同時にそこから離れて新しい選択肢を探すことにも恐れを感じているということが言える。逆に代替策を探さなくても権威そのものが無効化されてしまえば、目的は半分くらいは達成できるし、興味がない人にも広がる。笑いはデタッチメントすることによって対象物を無効化できるのである。
そのためには安倍政治を客観視してみる必要があるということがわかる。少し離れたところからみると、安倍政権の口裏合わせは喜劇でしかない。しかし、これを個人が感じているだけでは笑いは発生しない。これは「裸の王様」の例を思い出すと理解しやすいだろう。王様が服を着ていないのは自明だが「みんながそれを認知している」という理解が共有されない限り、それは笑いにならないのだ。ベルクソンの定義を離れると、笑いはみんなが漠然と持っている感情に言葉を与えることで共有を促すための高度な技術なのである。結果的に緊張が緩和されることになる。
博多大吉が伏し目がちに「政治的な笑いには需要がない」と告白している。これはお笑いを生業にする人たちにとっては危険な態度だ。状況が閉塞するほどに、発言できる範囲は狭まり、最終的には弱いものを叩いて笑いを取るか、自分を貶めて笑わせるしかなくなってしまうだろう。日本は戦時中に「決戦非常措置要綱」を作ってエンターティンメントを禁止した時代がある。古川緑波などのお笑いタレントは大変苦労したのだが、こうした苦労は戦後には引き継がれなかったようだ。しかし、それは彼らの職場の問題であって、特に我々が考えるべき問題ではないかもしれない。
日本の笑いは実践が主で、理論的な教育がほとんど存在しないか、存在したとしても西洋喜劇の流れを組んだ古典的なものだからではないかと考えられる。このため体系的に自分たちの笑いを客観視する機会恵まれないのであろう。
戦争が起きると「笑っている場合ではない」ということになり、他人を強制的に戦争へと駆り立てる動きが出る。そこでどのように立ち振る舞うかが生き死にに直結するので、境遇を客観視するような余裕はなくなり、世の中から笑いが消える。現在も「政治を笑のめしてはいけない」という空気が広がっている。敵の存在こそ明確ではないが、社会が闘争状態に近づきつつあるのかもしれない。