Twitterの仕様が変わり「巻き込みリプ」が増える懸念があるということが問題になったらしい。ちょっと不思議な騒動だと思ったが、これを考えて行き着いたのは日本のコミュニティの特徴だった。どうやら個人主義と集団主義が入り混じっており、円滑にコミュニケーションをとるためにはこれを意識して使い分けなければならないということなのではないかと思う。さらに考えてゆくと社会で円滑にコミュニケーションをとるための経験と知識が失われつつあり、新しい形を模索しているのかもしれない。
巻き込みリプというのは、調べたのが正しければこういうことのようだ。AさんがBさんと話している。Cさんがやりとりに加わりAさんが抜けた。しかしAさんとBさんの名前が残っていると、Aさんにも通知が行く。これを巻き込みリプといい「迷惑行為」だとみなされるという。
これが問題になるのは、Twitter上の会話がそれほど愉快なものではないからではないかと思った。もし「そうですね、すばらしいですね」という意見だけであればそれほど問題にならないのだろうが、クレームなどの場合には不愉快な体験を拡散してしまうことになる。
だが「不愉快仮説」だけでは解決しない。そこで、そもそも同質ではない人たちと会話をすること自体に苦手意識を持っている人が多いのかもしれないという仮設に行き着いた。フォロー・被フォローの関係でやりとりしているうちはある程度の親密さが確保されるのだが、これがワンホップするだけで「知らない人」になる可能性が高いからだ。つまり、Twitterでは日本人が持っていた、集団主義と個人主義を使い分けるというやり方が通用しないのだ。
知らない人を不快に思う態度は、子供などでによく見られる。多分コミュニケーションとしてはある程度の緊張が伴い、それに耐えられないのだろうし、自我が発達していないので何を主張して何を引くべきなのかということが分からないのだろう。
例えば、かつての日本人は敬語を使うことで距離を置いていたのだが、そうした距離のとり方も理解されていないのではないだろうか。
公共圏での距離のとり方は日本独特のもので、集団主義的傾向の強い韓国人や中国人たちからは「冷たい」と感じられることが多いようだ。韓国人は日本人に対して「この人とはとても仲良くなれた」と感じたあとで裏切られた感覚を持つことが多いという話を聞いたことがある。日本人には「親密な態度を装っているが実は距離をとるためにそうしている」だけという場合がある。
一方で意見調整型のコミュニケーションは西洋系の人たちからは「遠慮しあっていて」正直ではないとみなされることがある。相手の意見を聞いているだけのように見えてしまうようだが、実は聞き返されることを期待しているということが分からないのだ。
つまり、日本人が距離をとってばかりというのも間違っている。古くからある職場ではかなりあけすけな意見が飛び交っているはずで、上から下に対するものもあれば、下からの突き上げもある。このため旧来の日本は稟議書社会で下からの提案を上が決済することになっていた。最近あった、三越・伊勢丹での社長放逐もその一例だそうだ。上からの改革を労働組合が嫌ったのだ。
つまり、古くからあるコミュニティを知っている人は、うわべだけで距離をとったり、下から自分の意見を通したりというように、形式的な関係と本音をうまく使い分けてきたということが分かる。集団主義の体裁をとっていながら、実はとても個人主義だったり、やはり集団主義的な行動が求められたりするわけだ。つまり、明示的な関係と暗黙的な関係をうまく読んで成り立っている社会なのだ。
ここからTwitterで個人が情報発信するというのは、日本でこうした複雑な社会が壊れつつあり、個人として意見形成したり、集団を形成したいというニーズがあるこことが分かる。
しかしながら、明示的な個人主義を体得していないままでこうした情報空間に放り込まれる(自ら進んで参加しているわけだが)さまざまな軋轢が生まれるということになる。
Twitterは、自分の意見を押し付けてくるが何を言っているのかさっぱり分からない人を良く見かける。経験を共有している集団では自分の意見を表明できなくても、周囲が補ってくれる。また共有された価値観のセットも豊富にあるので意見を形成する必要すらない。こういう人が裸で個人主義社会に突入するとこうなってしまうのだろう。
その意味では「Twitterなど無駄」ということもいえるわけだが、スピリチュアル的に言えば「人生は修行なのです」ということになる。つまり、壮大な路上教習なのかもしれない。