そのピザを諦めたら日本人は幸せになれる

小林某という漫画家が中国人が新千歳空港で騒いだ件について論評している。航空機がキャンセルになったのだが「なんとかして飛行機を飛ばせ」と騒いだのである。小林氏は「中国人は民度が低い」という。普段なら「そうだよな」と思うのだが、これを読んで「そもそも民度は高くない方がいいのかもしれない」と思った。それはドミノピザの件を思い出したからだ。

中国人が大騒ぎしたのは、彼らがシステムというものを信頼していないからだ。イレギュラーなことが起こると騒いで解決しようとするわけである。だが、日本人はイレギュラーなことがあっても騒がない。それは「自分たちでなんとかしよう」とはもはや考えていないからである。一歩進んで「自分たちでなんとかできるはずはない」と考えている人もいるかもしれない。日本人は個人の力を信じておらず、システムを過剰に信頼する。しかし、実際にはそれが正しいかどうかを理解できていないことが多い。

ピザ屋の件に戻る。彼らが寒空の下でピザを1時間以上待ちながら注文をキャンセルしなかったのはなぜなのだろうか。それは彼らが予定や見込みというものを絶対視しているからだ。ゆえに一度決めたものを諦め用とは考えず、ひたすら「早くピザが焼きあがる」ことを望んだ。

一方、店側も一度売上の立ったピザを諦めるということはしなかった。並んでいる人に「もうピザは作れそうにない」と告白して次回の割引券などを配るという選択肢があったのだが、そうはしなかったのだ。

一見「理性的」に見える顧客とピザ屋だが、両者の現状維持バイアスは明らかに狂気のレベルに達している。なぜならば一部の店舗では予約管理システムが停止しており、誰がどのようなピザを注文したのかはわからなかったからだ。つまり、通常のオペレーションではピザを焼くことも逆にピザをキャンセルすることもできなかった。そこは「現場の判断」でなんとかするしかなかった。だが、彼らは何もせずピザを焼き続け、客は待ち続けた。

「現場の判断」はのちに「責任」を生む。客も店も判断することを避けたのだろう。未知のできごとについて自らが進んで判断することを「リーダーシップ」という。日本人にはリーダーシップが欠如している。

実は「列に並ぶこと」は日本社会に蔓延する病のようなものだ。例えば正規雇用を得るために大学に進学するのも列に並ぶことだ。誰も4年後に正社員になれるかはわからないし、正規社員にも副業が許される時代である。だが、それでも借金してまでも大学に進学し、それができそうになければ第二子の出産を諦めという行為が広がっている。それは列に並ぶ以外の選択肢が見当たらないからだ。

さらにこの列は、結婚して子供ができたら退職するという別の道に繋がっている。女性が退職したくないと望んでも、列は途切れている。その列からはみ出すことはできないので、女性ができないのは列から離脱するのを先延ばしすることだけである。子供を産んでも列に残り続けた人は過酷な運命をたどる。システムをごまかした人というレッテルを貼られるからだ。道は先細っているのでライバルは1人でも少ない方が良い。

この列はドミノピザに似ている。みなシステムが壊れかけており「みんなの分のピザはないかもしれない」ということに薄々気がついている。しかし、今まで待っていた時間が「サンクコスト」になり、ピザをキャンセルしようという気にはなれないし、列を離脱したからといって別の食べ物にありつけるかどうかはわからない。だから、幸運に期待し、別の人たちが列をはみ出したら、背中を押して列を短くすることしかできないのだ。

たいていの苦しみは列の途中から「もっと早くピザを焼けよ」とヤジることくらいしかできないという現実から生まれているようにも思えてくる。

ピザがほとんどなくなっても、日本人は列に並び続けるのかもしれない。もう出来る努力は「列からはみ出さない」ことだけになっているからだ。列から出てしまえば絶対にピザは食べられないが、列に並んでいれば2人に1人はピザが食べられるという世界だ。この列に並ぶ努力は、例えば会社に遅くまで残って過労死寸前まで残業することになったりするのだろう。

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