先日来「言葉の使い方」が妙に気になっている。いつもの通り安倍首相のおかげだ。安倍首相は常々「リーマンショック級」という言葉を使っていた。リーマンショックとは金融機関の信用機能が毀損され、経済が疑心暗鬼に落ちいた上で、大規模なリセッションが起きたという事例だ。にも関わらず安倍首相はこれを「景気悪化」と単純化した上で、G7の首脳にプレゼンしてしまった。これに加担したのは外務省なのではないかと言われ始めているらしい。経済の専門家ではなさそうだ。炎上しはじめると一転して「自分はそんなことは言っていない(官僚が勝手にやった)」と申し開きをした。
これは問題だ。問題を解決したり意思決定しようと思えば現状を分析する必要がある。しかし、安倍首相の頭の中には選挙のことしかなく、外務省は滞りなくG7を進行したかった。どちらも経済の問題を解決するつもりがなかったわけである。
だが、政治家たちは「リーマンショック級か」ということをしきりに議論している。物事の定義などどうでもよいらしい。すなわち、政治家たちにはそもそも問題を解決しようというつもりはないということになる。彼らは状況を利用することで頭がいっぱいなのだろう。
気になり始めると他の事例も気になる。別の議員は「日本の問題は供給サイドの問題に集約できる」と言っている。ただ、その中身を見ると「労働慣行」や「企業の構造的な問題」を意味しているらしい。もともとケインズの「需要サイド」という問題の建て方があり、それに対抗する形で供給サイドという言葉がうまれたということである。それぞれの考え方から処方箋のようなものが作られ、それを需要サイドの経済学とか供給サイドの経済学と呼んでいたのだろう。
どうやら政治家たちはそれぞれの処方箋を丸暗記しており、理屈をつけるためにこれは「供給サイドの問題だ」などと言っているらしい。Wikipediaを丸ごとコピペしたのだが、ソリューションは次の通り。減税して小さな政府を目指すということらしい。市場経済の調整メカニズム(つまり供給メカニズム)を政府が阻害していると考えるようだ。つまり供給サイドの制約要件は政府と社会主義的な政策なのだ。
- 民間投資を活性化させるような企業減税
- 貯蓄を増加させ民間投資を活性化させるような家計減税
- 民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和)
- 財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化
しかし、消費者=生産者でもあるので、需要サイドとか供給サイドという言い方はなじまない。にも関わらずこういう言い方が通用するというのは、すなわち誰も問題を解決するつもりがなく、従って現状を分析する意欲がないということである。社会主義的な政策に反対しているのである。面白いのはその政治家が所属する政党は民共共闘を唄い、一般的には左派政党だと認識されているということだ。
別の経済評論家はもっと悲惨だ。アベノミクスは成功しつつあると主張している。労働人口が伸びているというグラフを出してどや顔である。実際には非正規雇用が増えており、給与総額は減っている。それを指摘されると今度は「経済が分からないやつは、そのうち正規雇用転換が始まるという経済の基本が分かっていないのだ」と言う。もちろん、過去にそのような事例もあったのだろうが、理論には前提条件があるはずだ。だが、それは無視する。
日本の場合は終身雇用を支えきれなくなっており、これが非正規雇用への転換を促進しているものと(少なくとも直感的には)予想される。社会保障の費用分担が正規と非正規で違っている点がこれを後押ししているのではないかと考えられる。この構造転換は社会保障システムの破綻を予想させるのだが、政権をたたえてその日の生活を支える必要がある人には、10年後のことなどどうでもよいのだろう。
感じるのはドメスティックな教育とグローバルな教育の違いだ。少なくともアメリカ式の教育に触れている人は、予断なく状況を分析して、プロセスを明確にした上で、結論を出して、人に説明すべきと考えているように思える。ところが、ドメスティックな教育しか経験していない人たちは、こうした手続きをすべて「効率が悪く無駄だ」と考えるようだ。それは東大を出ていても、成蹊大学レベルでも同じらしい。
いずれにせよ、誰も「用語の定義をちゃんとしよう」とか「前提条件を明確にしよう」などと言い出す人はいない。自分の思い込みで情報発信し、好き勝手に論評している。首相のようなエライ人、新聞社、経済学者、一般庶民に至るまで、それでもなんとなく議論めいたものが進行してゆくのである。