オバマ大統領と演劇的才能

オバマ大統領の広島訪問が終わった。終わってみると、その見事な演出家ぶりが印象に残った。メディアはオバマ大統領が被爆者代表と抱き合う<感動的な>写真を載せた。これはオバマ大統領が標榜する「リコンサリエーション」の見事な象徴といえる。ハバナ訪問に続いて「かつての敵国と和解した偉大な大統領」というレガシーが作られたのだ。

加害者であるはずの日本人と抱き合うとは何事かという声は当然出るだろう。そこでオバマ大統領は見事なツイストを用意していた。実はアメリカ人にも原爆被害者がいる。その人たちに光を当てたのが、この抱き合った人なのだ。決して謝罪しているわけではない。アメリカ人の恩人に感謝を示しているのだと主張できるわけだ。この人選が偶然であるはずはない。計算された筋書きだろう。

これは国内向けの対策であるだけではない。原爆は(当然のことながら)その場にいた人たちを分け隔てなく殺す。人類に対する罪であり、アメリカ軍だとか日本軍という隔てを超越してしまう恐ろしい兵器なのだ。アメリカ人は「日本人を殺したから正当だった」と考えるのだが、実は同胞も殺していたと知り、少なからず動揺したはずである。

スピーチ自体はあまり意味のないものだったが「アメリカ人にも被害者がいる」という話が予め知られていたら、このような演出は成り立たなかっただろう。演劇は新しい発見による緊張とその緩和が要点なのだ。

演出は偉大なリーダーにはなくてはならない資質だ。アメリカは1年以上もかけて大統領を選ぶので、こうした演劇的な才能が正否を分けるのだろう。オバマ大統領とスタッフたちが演出家としての才能を持っていることは間違いない。

一方、安倍首相は日米同盟は盤石なものであることを見せつけて、国内の支持を盤石なものにしようとした。いつでもバラクの隣に座りたがるその姿は、クラスのイケていない学生がスポーツ万能で勉強もできる学生と友達になりたがっているようにも見えた。その見事な小物ぶりがますますオバマ大統領を引き立てることになった。オバマ大統領はそんな晋三の肩を叩いて「これからもがんばろうな」と言ったそうである。

安倍首相はG7を自らの失敗を糊塗するのに利用しようとした。しかし「リーマンショック級の事態が起きている」という主張(妄想と言っても良いだろう)は世界のメディアから嘲笑された。日本のマスコミは消費税増税延期を既定路線として捉えており、描かれたシナリオを淡々と伝えるだけである。マスコミはもはや反対や論評すらしてくれない。意図は見え透いており、誰も驚かないのだ。安倍首相とそのブレーンに演出の才能がないのは明白だ。

オバマ大統領と安倍首相の一番の違いは何だろうか。それは、緊張を生み出す力とそれを解消する力の有無だろう。オバマ大統領にはリーダーシップがあるので人々の反対を押し切って状況を打破しようという意欲があった。一方安倍首相は基本的にはアメリカのフォロワーなので、独力で緊張を作り出すことはできなかった。むしろ、支持者たちの関心を惹き付けるのに腐心している。状況に振り回されているのである。

一方で、作り上げられた緊張は緩和させられなくてはならない。そのために使われるのが「共感力」なのである。安倍首相は基本的に空気が読めないので共感力がない。だから、安倍首相が作り出した緊張は単に状況を混乱させるだけなのだ。反対者と対話していないのだから当然だ。

つまり、シナリオを作り、状況をコントロールする人だけが演劇的才能を駆使できるのだ。

とはいえ、オバマ大統領の演劇的才能が良いことだったのかどうかは議論が分かれるところだろう。演劇的才能に頼りすぎるあまり「出落ち」のようになってしまい、現実を変えることはできなかった。大統領のピークは間違いなくYes We Canだろうし、ノーベル平和賞の受賞だろう。だが、その後、せっかく作った健康保険プランはうまく機能せず、銃犯罪もなくすことができない。演劇は他人の緊張を見ているから楽しいのであって、自分自身について考えるときには別の回路が働くのかもしれないし、大統領の手足となって実務を進めるパートナーに恵まれなかったのかもしれない。

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