クリスマスシーズンを前にAmazon PrimeがCMを流している。配送業者らしい見知らぬ男性が何かを唱っている。多分、本国のCMを流用したものではないかと思うが、全く訴求効果がなさそうだ。それはなぜなのかを考えてみた。
アメリカ人は「説明」が大切だと考える。新しいサービスの内容を説明し、その「ベネフィット」を感じてもらおうと思うのだ。そのため、アメリカのCMはベネフィット訴求型が多い。そこで、いきなり女性が出てきてシャンプーの効果について説明を始めるというようなコマーシャルが好まれる。
ところが日本人はベネフィットにあまり関心を寄せない。見知らぬ小太りの男性が何かを唱っていても、それが自分に関係があることだとは認識しないのだ。
日本人はむしろ、周囲にいる自分と同じような人たちがサービスを受け入れているかどうかを気にする。見知らぬサービスを使っていると自分まで「不正解だ」ということになりかねないからだ。こうした周辺情報のことを「コンテクスト(文脈)」と呼ぶ。コンテクストの方がベネフィットより大切なのだ。
このため、日本人では「自分と同じ属性を持っている」人か「自分の恋愛対象になる」人と商品やサービスを関連づけるようなコマーシャルが好まれる。もしくは誰もが憧れる芸能人が使っているところを見せて「あの人のようになれるかもしれない」というような憧れを抱かせる手法もよく取られる。
このため、日本のコマーシャルではよく顔の知られた芸能人が重用される。そのような芸能人は「数字を持っている」とされるので、広告代理店が芸能人にランクをつける。バラエティ番組でもお笑いタレントが実際に大型量販店やファストフード店に行き実際に商品を試してみるような内容が好まれる。お笑いタレントは自分たちと同じだと考えられているので、彼らが使うサービスは「正解」になる可能性が高い。
一方で、アメリカのコマーシャルで芸能人が出てくるのはむしろ例外的かもしれない。「コンテクスト」は商品の本質(ベネフィット)とはあまり関係がないからだ。コンテクストが重要視されるのは高級アパレルや香水などの商品に限られるのではないだろうか。訴求すべきベネフィットが抽象的だからだ。
ハリウッド俳優は「映画の中身」を語りたがる。限られた時間の中で「本質」を語らなければならないと感じるからだろう。一方で、日本人のレポータは、その俳優がどんな人であり、受け取ったプレゼントにどんな反応をするかを知りたがる。周辺情報の方に需要があるのだ。日本人は映画でどのような内容が語られているかということにはあまり関心がなく、どのような人が作っているのかを気にするのだということになる。
こうした違いが思わぬ誤解を生むことがある。よく安倍首相は海外のプレスにちぐはぐな回答をしている。プレスの人たちは物事の本質(政治家の場合は問題の解決策を示すのが本質だと考えられる)を聞きたがっているのだが、安倍首相はコンテクスト(周囲の状況や自分がいかに信頼に足る人物かということ)を語ろうとする。これがちぐはぐさを生み出している。答えを聞いた海外プレスは不満を募らせているかもしれない。少なくとも首相の発言がニュース記事になる事はないだろう。
こうしたちぐはぐさが生まれる原因が政治家にあるというわけではない。日本の有権者がコンテクストを知りたがるからだ。選挙の時期に「支持者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行くとよく分かる。彼らは問題の本質(なぜ、それが起きて、どう解決すべきか)についてはよく知らないし興味もない。にも関わらず「今回のマニフェストがなぜ正解なのか」というコンテクストを語りたがる。
よく、安倍首相は「矢(手段)」と「目標(的)」の違いを理解していないと言われている。しかし、日本型のリーダーの役割はコンテクストと正解を提示することにあると考えられるので、物事の論理的な整合性が取れなくても構わないのだろう。正解さえ決まってしまえば、回りにいる人たちはその正解を自分が好きなように解釈し好きなように取りはからうことができる。
2009年の選挙では逆の現象が見られた。問題の本質は分析されず「政権交代が正義なのだ」というような主張がまかり通っていた。政権交代がなぜ必要で、それがどのような解決策を提示するかということはあまり重要ではなかったのだ。
こうしたコンテクストは「空気」と呼ばれることがある。
このように考えると「日本人は物事を解決できないではないか」と思えてくる。それほど問題解決に重きを置かないのかもしれない。それよりもむしろ問題を文脈に当てはめて「解決した」と見なすのではないかと考えられる。そう考えると東アジア各国の「歴史認識問題」が起きている理由がほの見えてくる。扮装をどう防ぐかということよりも、その事件がどのような意味を持っているのかというコンテクストが重要視されるのだろう。