コメント欄で感想をいただいた。「あくまでモデレーター的な態度を崩さないHIDEZUMIさんは、「秩序の中に暮らす」ことが怖くないのでしょうか?」と書かれたので心の中で一通り毒づいた後で、でもこれを説明するのは意外と面倒だなあと思った。Quoraだと面倒なので「そうですよねえ」といって逃げてしまうことが多い。この議論で一番面倒なのは「個人主義・集団主義」という用語の粒を揃えることである。わかりやすい漢字なのでなんとなくみんな知ったつもりになってしまうのである。
まず個人主義だが「個人の選択が最も大切である」という価値体系である。個人主義の国では法体系や社会制度が全てこの基準をもとに組み立てられている。ヨーロッパには個人主義社会が多いがアングロサクソン系は特にこの傾向が強いようだ。個人主義の人は集団主義を檻だと思ってしまう。イギリスがEUを抜けたのは大陸法が受け入れられなかったためと言われている。彼らはEU官僚が良かれと思って個人の生活にあれこれ口を出すことに耐えられなかった。またアメリカ人も政府がマスクを強制するのが嫌いでパーティーをやってコロナウイルスに感染したりしている。それくらい文化的価値観の違いがあるということだ。そして個人主義の国はこれを普遍的価値観だと信じ込んでおり周りにも勧めたがる。日本も勧められた国の一つだ。
一方、集団主義は社会の中に序列がありその序列によって集団が守られるという文化傾向である。なので集団主義の人たちが秩序の中に暮らすのは別に怖くない。逆に集団主義の人が「それぞれ自由にやってください」などと言われても単に不安を覚えるだけだろう。集団主義の人から見ると個人主義というのは城壁のない都市である。
問題なのは日本人が「厳密に言うと個人主義でも集団主義でもない」という点である。森という曖昧な自然境界に囲まれているのが日本人である。日本人に里の絵を描かせると山と水辺(浜や川)になんとなく囲まれてはいるが城壁のない絵を描くはずだ。
日本は「菊と刀」で初めて日本人論に接したので「自分たちは集団主義だ」と思い込んでいる。「悪」とされた封建制からの脱却が至上命題だったために戦後の教育はこの傾向が強化されてしまった。そしてこの上にゆり戻しが起こる。いわゆる自虐史観への抵抗運動である。
このため日本人が集団主義・個人主義の話をすると思い込みが入り込み議論が難しくなる。
もちろん100%客観的な議論などできないのだがヒントはある。ここにHofstedeの国際比較を用意した。IBMの社員に行った文化背景調査がもとになっている。今回はここから「集団主義・個人主義」「男性性・女性性」「パワーディスタンス」の三つの指標を使うことにした。
最初の図は、男性性・女性性と指標と個人主義・集団主義を掛け合わせた図である。日本は突出して男性性が強い社会である。男性性が強い社会は「居心地の良さよりも結果として勝つことがとても大事」という社会である。これを男性的というとジェンダー上の観点から怒られそうなので「競争意識」という訳にした。日本が真ん中にあり極めて個人主義的なアメリカ(アングロサクソン諸国は似たような数字が出る)と集団主義的な中国・韓国に挟まれている。
もう一つのグラフを見るとまた別の姿が見える。日本とアメリカのパワーディスタンスはより平均に近い。つまり「偉い人が命令する」のを嫌がる社会である。さらにこの傾向がより強いアメリカの上司は自分の下の名前を呼ばせる。つまり友達として接したがるのである。一方、中国と韓国のパワーディスタンスはかなり強い。
よりパワーディスタンスが弱いスウェーデンやドイツで「上司風」を吹かせるのは自殺行為である。会社の部下というのは一個人であり当然同じ人間として仕事のお願いをしなければならない。スウェーデンやドイツから見ると日本ですらやや高圧的な社会になるだろうが実は日本がほぼ平均値である。
日本人から見ると中国や韓国は高圧的な社会であると考えられがちである。中国人や韓国人は上司や年上の人が「指導力を持っている」と考えると安心する。どちらかというと年長者に頼りたいという気持ちがあるという社会でもある。だから集団主義でパワーディスタンスが強い社会の人は「序列の中で暮らす」のは特に怖くない。
日本が経験した時代変化による価値観の揺れ
ところがここにまた別の要素が絡んでくる。それが時代変化である。日本は第二次世界大戦で抑圧的な社会になった。戦争という脅威があったのでむしろ当然のことかもしれない。おそらく「菊と刀」はこの時の特異な日本の姿を切り取っている。GHQの憲法は旧体制をFeudal(封建制)として批判の対象にしている。日本は個人が抑圧された社会であり本当の日本人はここから解放されたがっているはずだと考えたのだ。「菊と刀」の失敗はおそらくそこにあるのだろう。
昭和期戦後教育はこの思い込みを背景にしている。例えば東京都では脱制服という動きがあった。昭和人は「自分自身の生き方は自分で見つけるべきである」という考え方に影響を受けている。より強い言い方をすると「個人主義に洗脳されて」しまったのだ。
先日「都立高「制服化」の波に懸念の声 「大人が若者を思考停止させている」」というAERAの記事を読んだ。この記事を読むと平成人が経験した価値観の揺れがよくわかる。
まず教育現場のニーズを見ると、昭和世代は自主自立を喜んでおり、平成・令和世代は「制服を作って正解を提示してほしい」と考えているようである。平成は大きな価値観の切り替え期になっているようだ。著者の島沢優子さんはこれを「保守化」と言っている。おそらくこれは昭和に影響を受けた平成の人の考え方である。
だが実際には「いろいろ正解を探索してみたけれどもよくわからなかった」という気持ちと「学校の方で正解を提示してほしい」という気持ちで揺れている。間違えたら個人的に罰せられるのが日本型自己責任社会なので「だったら正解を教えてほしい」と言っているのである。
実は日本人も「秩序の中に暮らしたい」と考えている。だが、その一方で「抑圧されて損だけを押し付けられるのではないか」と感じてもいる。なぜそうなるかというと「このままでは全員は逃げ切れないから相手を踏みつけて自分だけは助かろう」という人が集団主義の枠組みを利用するからである。これが集団主義の皮を被った個人主義である。単に利己主義ともいう。実は日本人が怖がっているのはそれである。
日本人が集団主義・個人主義を取り扱えない。三つの困難をあげてみた。
第一の難しさは日本に集団主義的伝統や枠組みがないことだ。つまり集団が個人を保護してくれるという前提も補償も文化的伝統もない。行き着いた先が日本型自己責任社会である。利益は集団のものであり失敗は個人が担うというどっちつかずの社会だ。つまり集団のトップが利益だけを吸い出して損を個人に押し付けるという社会である。これは厳密に言うと集団主義ではない。単に個人による個人の搾取である。
第二の難しさは日本人の中間的な立ち位置である。アメリカを見ると集団主義のように見えるが中国・韓国から見ると個人主義的で社会の保護や結びつきが薄い。中国から国家制度を輸入した時に国家制度を学んでもそれを厳密には実行しなかった。だから日本の氏族制度は早くから形骸化する。さらに戦後個人主義的な制度は模倣しても自分の考えを相手に伝えるという文化的態度は学ばなかった。日本はそういう社会なのだ。
第三の難しさは日本人が時代の中で揺れ動いており自己像が確定できないという点である。日本人は集団主義に触れた第二次世界大戦の失敗と高度経済成長の個人主義の失敗を両方経験してしまっている。現在は自由は怖いと思っているのだが逃げ込める集団がない。だが自己像が確定できないために何を怖がっているのかということすら言語化できないのである。
こうした困難があり、日本人は自分の立ち位置が確定しない。その確定しない視点で他者を観測するので「相手が集団主義と個人主義をごちゃごちゃにしている」と視点の投影が起きているようである。
自分たちの置かれている状態も客観視できないし中国とアメリカを両方知っている人もほとんどいないから比較もできない。だから抜け脱せないということになる。
日本はとにかく極めて突出した競争社会なので今すぐ議論をして白黒はっきりさせたいという人が多いようだ。協調やその場の和やかさを重んじない社会なので議論というのは勝つことに意識が行ってしまうのだろう。「今すぐ結論を出したい」という人で溢れているので「もう一度状況を整理してみませんか」などというと怒り出す人が多い。
「モデレータ的立場」とはおそらくこれを揶揄しているものと思われる。
私が「モデレータ的」と揶揄した理由を説明します。
個人尊重志向の社会と秩序志向の社会という見方で、国ごとの傾向を整理する。日本はアングロサクソン型と中国型のどちらでもない曖昧な立場にあることがよくわかる。という議論はよく分かりますし、日本の現状の理解に資することと思います。
とはいえ、秩序志向の社会には、体制による監視と時として生命の危機に関わる弾圧のリスクがあり、指導者は個人尊重志向の社会への脱出を準備していることも事実です。個人尊重社会でも体制による弾圧や差別の危機に曝されるリスクはあっても、秩序志向の国に逃げる人は基本的にいないという非対称性があります。あってもスノーデンくらいでしょうか?差別に苦しむアメリカの黒人がアフリカや中国に逃げようとしているとは思えません。
この非対称性に蓋をしたまま概念としての社会の指向性を議論すれば、秩序志向の人も議論に参加してプロパガンダをし易いでしょうから議論は上手く行くと思います。とはいえ、目に見える巨大なリスクに蓋をしての議論は議論のための議論、空理空論の概念操作ではないかと思います。リアルな社会とそこに生きるリスクをオミットしていると、日本社会の問題点への切り込みが弱くなると思います。
私があえて揶揄したのは、議論の勝ち負けではなく、概念上の分類とリアルな生活という複数の層に跨った議論の方が面白くもあり有益でもあるからです。
私の揶揄に「勝つ」のは実は簡単で、「自分はどちらの社会でも自由に行き来出来るから実生活上のリスクを議論する意味はない」と言い切れば良いだけです。
前回はアングロサクソン礼賛的なコメントでしたが、もう一つ付け足すと、個人尊重志向の社会の場合は、階級の再生産が影の秩序であるということです。隠れた秩序志向とも言えます。パブリックスクールを出られるような生まれ育ちであるかどうかで人生が決まるという一面です。なので、どちらの社会でも指導者とその他の間に大きな利益相反があるのが現実です。利益相反のありようが偽善的なのはアングロサクソンで、逃避志向なのが中国といえましょう。日本はもちろんどっちつかずで何をしたいのか分からない、謎の第三極ですね。
上記のコメントに補足します。
① コメントの「秩序志向の人も議論に参加してプロパガンダをし易い」ですが、これはある意味定義の問題です。秩序志向の人は所属している社会や組織の秩序の範囲での発言を望んでいると思います。これは秩序志向の定義に含まれると思います。したがって所属体の意向を代弁する以上はプロパガンダになります。
個々人の心証をベースに主張し、かつ、秩序は乱さないという器用さは高度な全体主義と言えるでしょう。とは言え、一人の秩序志向の発言者が、所属体より先に何か世の中の変化に気づいた時はどうするのでしょう?所属体に先駆けて自分の意見を言っては秩序を乱してしまいますし、所属体の意向が変わるまで控えているのでは自分の意見とは言えませんね。緩い秩序志向程度で乗り切れる話題であれば何とかごまかせるでしょうが。
② 本文写真のキャプション「長野県白馬村大出にある典型的な里山の風景。ここから出て行けるわけではないが「閉じ込められている」という認識にはなりにくい。」について。
観光に訪れた人であれば閉じ込められる云々という意識を持たずにいられるでしょう。ここに住み続けているお年寄りも秩序に守られている感覚で安心していることでしょう。のんびりしたとても良い景色です。
でも、ここに若い人、特に女性がどれほど残っているのでしょうか?残っていてもせいぜいマイルドヤンキーでしょうか。ここに限らず、全国の長閑な田舎から若者が集団脱走しているのは、秩序志向の社会への反発ではないのでしょうか?彼ら彼女らは「閉じ込められている」のが嫌で都会へ行ったのではないでしょうか?もちろん、都会には家賃の為に働くという荒野が広がっている、しかも同類が上京するほど地価や家賃が上がるという自重で沈む無間地獄です。
③ リベラルという秩序について
今やアングロサクソン社会では、あらゆる個人特にマイノリティーの個人や人権を尊重するという「秩序」が大流行ですね。つまり特定の個人や社会集団を、指導された通りに尊重することが事実上強制されています。
暴動のきっかけとなった黒人達の前科を語ること自体が秩序を乱す行為としてバッシングの対象になります。面白いことに、黒人がBLMについて意見を言っただけで批判されます。象徴的なのは、民主党の大統領候補のバイデンが「自分を支持しない黒人は黒人ではない」とまで、ポロッと言ったことですね。
シアトルでは民主党の市長の支持のもと随分暴動がありましたね。ところが市長の豪邸が暴露されデモ隊が迫ると一気に鎮圧されてポートランドに急遽暴動がお引越ししましたよね?
リベラルの民衆はBLMという秩序(?)の中で安心し、秩序を乱す人を排除したいのでしょう。中国がBLMに武器を援助している疑いがあるという声明がアメリカ政府から出たようですが、民族性の違いを越えて秩序社会を作ってしまう共産主義はすごいですね。しかも、結局は資本主義以前の農奴制のようなことをジェントルに行っている所まで同じです。
何を言いたいかというと、中国でもアングロサクソンでも、秩序を利己的に使う個人主義、個人主義を強制する秩序が、それぞれ(ミクロとは言えないレベルで)内包されているということです。このぐらい両者を掘って見てから日本の立ち位置やその危険性を語っても良い気がします。
⑤ モデレーター
私は、議論のモデレーターは公平公正に参加者を扱う必要があると思います。だからと言って、本音を隠すまでの必要はないと思います。自分の価値観や立ち位置を見かけ上ニュートラルにしなくても良いと思います。高見の見物を決め込んでいると思われかねません。自分とは価値観の異なる参加者を正当に扱って、勝ち負けではなく落とし所を探る議論が生産的と思います。