宮藤官九郎作の「いだてん」が終わった。最初の方は「NHKの忖度でしょ」などと思ってバカにしていて見ていなかったのだが、最後の数回だけを見た。学徒出陣のエピソードをみて「あれ面白いぞ」と思ったからだ。途中学徒出陣で戦地に行った仲野太賀がなくなるところを飛ばしてあとは結局全部見てしまった。
面白さの原因は屈折からの解放だろうと思う。オリンピックが成功する前史として選手2人だけの初参加・戦争による中断・有望な選手の戦死・田畑政治の失脚など様々な困難がある。こうした絶望を積み重ねてゆくのだが基底に宮藤官九郎の子供っぽさがあるので絶望はあっても暗くはならない。
最後の数回というのはこうした屈折が回収されつつ解決されてゆくという段階に当たる。つまり最後のおいしいところだけをつまみ食いした感じになっているのである。おそらく視聴率が悪く「前のお話を見なくてもわかりますよ」とばかりに回想を増やしたのもよかったのだろう。おいしいところだけ抜くというのが、そもそも大河ドラマの見方としては間違っているかもしれない。
よく「宮藤官九郎の作品はじっくり見るべきだ」というような評論があるのだがそうでもないように思える。落語のネタと物語を掛け合わせてつないでゆくというようなライン一つを取っても、短いスパンできれいに決まってゆく。その場その場で見ても十分に楽しめる展開になっていた。却って一年もこれを見せられると疲れていたかもしれない。後で調べると、落語の話はかなり込み入った物語の一つのエピソードのようだが、単体でも十分に楽しめる仕上がりになっている。
宮藤官九郎って面白いなあと思った。
オリンピックが戦争からの復興であるというラインは戦争を語らないと描けない。しかし、戦争を正面からまともな作家が描くとおそらくもっと凄惨で暗いものになっていたはずである。さらに「戦争はいけないことです」「我々はそこを乗り越えて経済的に成功したのです」というような正解を見ても面白くもなんともない。最近大河ドラマを見なくなったのは正解を押し付けられるのにうんざりしていたからである。
NHKの誰が発案したのかはわからないが「正解」を徹底的に避けるために、貧相で屈折してはいるがそこを振り切って明るくみえる宮藤官九郎で乗り切ったというのがすごいところだなあと思った。そういえば3.11も宮藤官九郎だった。「あまちゃん」にも救いのない津波でレールが寸断された鉄道の話が出てくる。おそらく東日本大震災を描くためにあの作品はアイドルを扱ったのだろう。今回も、暗い面を逃げずにきちんと捉えつつ落語というお笑いを使うというのはかなり練られた作戦だったのだろう。エンターティンメントは絶望を癒すためにあるからだ。
徳井義実の大松監督も大成功だった。途中でスキャンダルを起こしてテレビから消えかけている徳井だが物語の中では全く気にならなかったし、途中で「あれ?この人じゃなきゃダメなんじゃないの」とすら思えた。問題を抱えながらも自分たちの理想のために突っ走る人たちの群像劇だからこそ徳井は浮かなかった。大松監督は今でいえばセクハラパワハラの極みだが、実際には「選手個人が好きでやっている」が「マスコミからの重圧も感じている」という屈折が物語を前に進めるのに大いに役立っている。その意味では正解を押し付ける最近のお笑いはつまらない。人生に何の瑕疵も破綻もない人の笑いが面白いはずがない。
麻生千晶という人が早い段階で「いだてんに落語はいらない」と書いているがおそらく落語は今回の話の中核にある。この麻生さんの感想が「視聴率が上がらなかった」理由を端的に表しているのだろうと思う。つまり正解である美男美女のヒーローがいないことと歴史を正解として書かなかったことが「いだてん」のテーマだったのだろう。時代遅れを体現してくれているという意味では、麻生さんはよくぞネットにあの文章をさらし続けてくれているなあと感心する。
例えば松坂桃李が美男美女に囲まれた武将の役で出てきたら、おそらく大河ドラマとしては面白かったが松坂自体は埋もれていただろう。個性的な人物の中に配されることで「あれ、この人は演技派俳優なんだなあ」という印象になる。「二枚目」は最初に出てくる看板では本来はないのかもしれない。
ここで問題になるのは「これは大河ドラマとして一年間かけてやるような話なのだろうか」という点だ。おそらくもっとコンパクトにまとめてもそれなりに面白くなった作品だった気がするし、麻生の言うように美男美女が出てくる物語にしたほうが視聴率は取れただろう。
一方で。これだけのキャストを集めて作品を作れる場所が殆ど無くなりかけているんだなあと気づかされる。つまり「いだてん」は大河ドラマにはふさわしくないが、あの枠でしか作れなかった。日本はおそらく貧乏になっている。これは大変不幸なことである。
大河ドラマは「自分たちのご当地の英雄を取り上げろ」というプレッシャーにさらされている。地域振興に役に立つ物語を作れというわけだ。すると当然ヒーロー・ヒロインを否定的に描くわけには行かなくなる。教科書的な正解を道徳的な枠組みで描かざるをえなくなるのだから当然ドラマとしてはつまらなくなる。
今の日本人は面白い解放感のあるドラマではなく教科書的な正解を見たがるしそれを他人に押し付けたがる。そうやってドラマはどんどんつまらなくなるがドラマに期待しない老人は満足する。それは日本ドラマの衰退と死である。論評を見る限り「面白くない正解」に傾くんだろうなあと思える。東洋経済も6月の時点で「ああ、これはダメだ」と言っている。
最後に嘉納治五郎の「これが世界に見せたい日本なのか?」という問いかけが出てくる。何が正解なのかはわからないがとにかく疾走感たっぷりに走り抜けたというのは歴史としては田畑政治の「ドタバタ」が正解なのだろうが、老化した日本人にとっては正解ではない。そして、日本人はこれからつまらない正解を志向するようになるのだろう。
おそらく今の東京オリンピックが恐ろしく盛り上がりに欠けるのはそこなんだろうなあと思った。嘉納治五郎の問いかけに対して動かない人たちが寄ってたかって「自分たちが見せたい正解」を押し付けるというのが今のオリンピックだ。だから実際に動く人たちが誰もついてこないのである。