4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。
1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。
まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。
がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。
白い紙を取り出して整理してみることにした。
一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。
ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。
この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。
突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。
自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。
- 意見・主張・試論(これがメイン)
- 意見をバックアップするための事実
- 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
- 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)
ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。
これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。
エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。
一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。
今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。
これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。
例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。
「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。
そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。
先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。
自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。