税か国債か – ちょっとおかしな議論を展開してみる

最近、Quoraで展開しているお気に入りの理論がある。「税も国債も一緒」というものだ。なんちゃって議論としてとても気に入っている。ここから見えてくるのは「公共なき社会」が陥った袋小路である。




まず前提から確認して行きたい。「日本の企業は法人税を支払わなくなっている」という前提が本当なのかを検証する必要がある。

まず日本では直間シフトが始まっている。所得税と法人税が減っていて消費税が増えている。法人税がピークだったのは平成元年あたりである。つまりバブル崩壊と一緒に法人税の減収が始まっている。この直間シフトの裏に何があるかはよくわからないが、官僚の政治不信だと思う。政治に左右されず安定した税収が見込める一般間接税に移行したいと考えるといろいろと説明がつくからである。つまり官僚は政治家を信頼していない。

次に企業の内部留保は増えている。最近では企業の蓄積を「内部留保」とかっこ書きなしに使っているようだ。経常収支も黒字なので留保した金を使って海外に投資したり日本の政府に貸しているのであろうということがわかる。

ちなみに最新の資料では家計は1%程度しか国債を保有しておらず、海外の比率は10%を超えたくらいのようである。なので、企業が政府をファイナンスしているという言い方は間違っていないと思う。ただし、短期国債の7割は海外に買われているという。都市銀行は長期債から逃げているが地方銀行の保有は伸びている。

ということで政府債務を長期的に支えているのは日銀と企業(地銀含む)であると言えるし、海外に投資できない企業にとって政府は残された唯一の投資先になっているという可能性が見えてくる。

常識的に考えると税金は税金であり国債は国債だ。しかし、見方を単純化してしまえば「誰が誰に資金を融通しているのか」というだけの話である。税金は所有権が移転する資金移動だが、国債は所有権が移転しない資金移動である。つまり企業も政府を信頼していない。国債でファイナンスすれば少なくとも元本は保証されるということである。なので、利息が得られない低成長経済・過剰資本蓄積社会において、国債は税と一緒なのでそれほど問題にはならないということになる。

日本を閉鎖された経済系としてみると、税金として支払っても国債として貸し付けても、最終的には自分たちに戻ってくる。最終的に自分たちに還流してくることになる。ちなみに賃金として分配しても同じことである。自分たちの商品を買ってくれれば結局自分たちのところに戻ってくるはずだ。だがそうはしない。企業は従業員も消費者も信頼していない。ただ、結局国に貸しつければ国がばらまいてくれるのでこれも「まあ、言ってみれば同じこと」と言える。

ただ、問題は別にある。それは動機になっている不信感そのものである。

賃金を支払わないことで消費が冷え込んでいる。新しい製品やサービスも生み出しにくくなっておりイノベーションが阻害される。しかし弊害はこれだけではない。サラリーマンは失敗できずレールから外れることができないので労働市場が流動的にならない。こうしてますます不信感が閉塞感を生み出し、それがさらに不信感を増幅させてゆく。

最近の暴走する車問題を考えても「周囲に助けてもらうような存在になったらおしまい」と考えている高齢者が多いこともわかる。この先2,000万円か3,000万円を抱えて生きてゆく高齢者が増えることも予想される。不安は不安を呼び、それが消費の停滞につながり、経済がますます閉塞するというわけである。恒例になった日本人は運転免許も貯金も手放せないし、それにしがみついて生きてゆくしかない。

よく、北欧の国では「自分たちに戻ってくるから税金を払うのが苦にならない」というような話を聞く。共助が社会に染み付いている国はこのように公共に支出したものは自分たちに戻ってくるであろうという確信があることになる。逆にギリシャのように公共に信頼がない国は、レシートを発行せずに売り上げを過小に申告していた小売店が多かったというような話がある。

我々はまず隣人を信頼し公共という概念を再構築しなければならないというのがこの話の結論になるのだが、それを行動に移す人はそれほど多くならないだろう。日本はそれほど徹底的な社会不信がある<自己責任社会>なのだと言える。個人の競争もないので突出する人は叩かれる。そうなるともう他人を叩きつつ「自己防衛」するしかないということになる。

結局、閉塞感を生み出しているのは私たち一人ひとりなのかもしれない。

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