登戸の無差別殺傷事件をきっかけに社会と取引について考えている。日本社会にはある属性が欠落していてこれが取引社会を作っているというお話である。では何が欠落していて、その欠落は何をもたらすかというのが次の疑問になる。
取引には飴と鞭すなわち恫喝と包摂があるなあと考えていたところ、全く違うニュースが見つかった。自分の子供に犬用の首輪をつけてしつけようとした親が逮捕されたという事例である。子供を犬のように考える「血も涙もない」人が出てきているのである。では「血や涙」とは一体何なのかということを考えながらニュースを見て行きたい。
小中学生と専門学校生のきょうだい3人にペット用スタンガンで虐待を加えたとして、福岡県警小倉南署は29日、傷害と暴行の疑いで、無職の父親(45)=北九州市小倉南区=を逮捕した。捜査関係者などによると3人の腕には通電の痕が複数残っており、3人の話から虐待は10年ほど前から続いていたとみている。
スタンガンで子ども3人虐待 傷害・暴行容疑で父逮捕 福岡県警小倉南署
犬に使うのすらどうかと思うようなものを子供に使っている。ここでの犬はモノ扱いでありペットのような愛玩の対象ではないのだろう。それを人間に使うのは「常軌を逸している」ようにも思えるが、恫喝系取引の一種だと考えれば説明がつく。「子供に訴えかけて行動を変えてもらう」という可能性を全く考慮に入れていないというのは、相手が人間に見えおらずなんだかよくわからないモノのように思っているということである。
毎日新聞を読むともう少しよく見えてくる。一度始まった取引が一方的に拡大されている。わけのわからない他者を説得できない人は「恫喝力」をエスカレートさせてゆくしかない。
同署などによると、後藤容疑者は30代の妻と子供3人の5人暮らし。虐待は長女が5歳前後から始まったとみられ、「宿題をやっていない」「家のルールを守れない」などの理由で、1日に数回通電することがあった。
「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州
テレビの情報も合わせると「いうことを聞かないから」という理由でルールがどんどん増えていったようである。それが最終的に社会の規範とぶつかった。長女には物心が付き他者が介入することでこの人は逮捕されてしまったのである。
この父親は自分のイライラを抵抗してこない子供にぶつけた可能性がある。また、子供というコントロールできない異物を「調整する」ためにリモコンをつけた可能性もある。両者に背景するのは「他者に対する潜在的な脅威」という意識である。
考えるのも恐ろしいことだが、このような「支配するかされるか」という意識を持っている人は意外とこの社会には多いのかもしれない。それは我々の社会が義務教育の時点で「他人と話し合う」ことを教えず、一方的に聞いて暗記することを重要視しているからだろう。
なので、社会の側も同じような意識を持っている。つまり「この人について理解しよう」とはせず「懲罰するつもり」で事件報道を見る。つまり社会の側も犬用の首輪を他人につけたがっているわけで、その首輪が突破された時に「それ以外の解決策がない」という無力な状態に置かれてしまうということである。
このパターンを読み取るのは実はさほど難しくない。日本は国際社会から「表面的な制度」は学んだが、周囲と協調して安全な環境を確保する術を学ばなかった。そこで力による外部への拡張を始め、国際連盟を脱退し、最終的に第二次世界大戦で破滅した。
我々の社会が基本的に相手を理解できないのだということを受け入れると、この手の事件が日本社会から無くなることはないだろうという予想が立つ。日本人は自分とは異なる価値体系をもった人の内面を理解しようとはしないし、その能力も持たないのではないかと思うのだ。その代わりに条件を提示して誰かを操作しようとするのである。これは日本人が経験を同じくする人たちの中でしか社会ルールを構築してこなかったために起こることだ。
ここからわかることはかなり衝撃的である。日本人は村の外で「心を通わせて社会を作る」術を学ばなかった。ゆえに他人は操作するものだと思い込んでおり、そうした関係が家庭内にも入り込んでしまっているということになる。そのことがわかる事実がニュースには書かれている。
このニュースにはさらに興味深い点がある。西日本新聞には「一緒に暮らす母親は「その場にいなかった」と話しているという。」と書かれている。が、毎日新聞には別の一節がある。
もっとも、本人による訴えがなくても被害に気付けた可能性はある。一家が住んでいた家の近くに住む女性は、数年前から「風呂場辺りから1日置きくらいに子供が『ギャー』『痛い』『やめて』と叫ぶ声が聞こえた」と証言する。捜査関係者によると、子供たちの皮膚にはペット用スタンガンによるとみられる等間隔のやけど痕もあったという。
「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州
近所の人も気がついていたのに母親が知らなかったわけもない。この母親が「自分が生き残るために」子供たちを切り離したということがわかるし、社会に相談できるところを探すという技術がなかったこともわかる。つまり、家庭という環境が内も外もサバイバル空間になっているのだ。近所の女性もこの家族と話し合わないし、行政も知っていて本質的に介入することがない。社会全般として「形式を守る」ことはできても「心を通わせる」ことはできないという極めて砂漠化した社会である。
日本の村には多くの制限があり「心を通わせなくても」なんとかなる空間だったのだろう。が、今や村のような外的な装置はない。村を出た人たちはその場その場で心を通わせる必要があるのだが、日本人は未だにそれができない。そして恫喝と懐柔という取引だけが解決策だと思い込むのだ。
そんなことを考えていたらQuoraで「故意な殺人を全て死刑で片付けると困ることがあるのですか?」という質問を見つけた。ついに「人を片付ける」ということを悪気なく質問する人まで現れていることにいささか驚いた。心を通わせない以上それはモノと同じなのだから、この質問の動機そのものは極めてまっとうなのだろうが、それはすなわち「自分が用済みになったら片付けられても構わない社会」を受容するということを意味している。