天から落ちてきた人を叩く
飯塚幸三元工業技術院長が轢き逃げ事件を起こし(日経新聞)た。母子がなくなっており夫の無念の会見が印象的だった。しかしこの件では全く別の件が大きく取りざたされることになる。それが「上級国民」という悪意のあるキーワードである。
飯塚さんが逮捕されなかったことをうけて「上級国民だから警察が忖度しているのではないか」と話題になったのだ。J-CASTが面白い分析をしている。日本では推定無罪原則が無視されており、逮捕が社会的制裁と捉えられている。しかし、上級国民であればそうした制裁を免れることができるのではという疑念が国民の中に渦巻いているというのだ。あるいはそうなのかもしれない。
よく衆愚主義などというのだが、その行動動機は社会正義の追求である。ただあまりにも「勝ち負け」にこだわりすぎるので最終的にはリンチ担ってしまう。もともと法の下の平等も推定無罪の原則も建前としか思っていない国民だが、政府に反抗することはできない。だからそこから落ちてきた人を執拗に叩くわけである。
そこにあるのは弱者叩きの快感だけだ。テレビは一応「この事故を繰り返さないように議論が進むものと思われます」などと言っていたが「嘘つけよ」と思ってしまった。誰かを叩くコンテンツは売れる。だから流しているわけで、問題解決など実はどうでもいいという姿勢があまりにもあけすけだった。
見たくない現実は実は目の前にあった
先日、石窯のあるパン屋に立ち寄った。イートインスペースがありそこで100円シュークリーム(コーヒー付き)を食べていると、次々と高齢者が入ってきた。食事を作るまでもないが何かちょっといいものを食べたいくらいのニーズを持っている人たちがパンを買いに訪れるのではないかと思う。
ここのところ本当に杖をついている人をよく見かけるようになったのだが、彼らが運転してきていることにまでは気がつかなかった。外にあるイートインスペースからは駐車場が見えるのだ。
一人で買いに来ているお年寄りもいたし、あるいは夫婦揃ってという人もいた。夫の方が足が悪くて「運転は男がするものだ」という気持ちが強いのではないかと思う。そして無理を重ねた結果事故を起こすのだ。このことからも「弱者に転落」することを恐れた天国の住人が最終的にとんでもない加害者として人生を終えることになるという悲劇があるように思える。
皮肉なのは飯塚さんが官僚だったということだ。つまり政府の一員も国が助けを必要とする人を救済するなどということを全く信じていなかったことになる。自分で外出できなければ自分も粗末に扱われるだろうという確信があったのだろう。
それでも失敗した人を叩き続ける社会
このようにみな漠然と落ちてゆく不安を抱えており、なおかつ現実に落ちてきた人たちを容赦なく叩く人たちも多い。
ただ、本当にそれでいいのだろうかと思った。なぜならば自分も、加害者家族になるという可能性があるからだ。そこで、家族に免許返納させたことがある人はいますか?」と聞いてみた。案の定答えはつかなかった。さらに「加害者の関係者になる可能性もあるのでは?」と回答もしてみたが、やはり飯塚さんや家族の責任を問うコメントがついた。
日本人は「弱いもの」と認定されるのを嫌い、また「弱いもの」は無制限に叩いて良いという社会である。そしてどうしたら勝てるかを冷静に見ているので決して政府に改善を訴えかけたりはしない。このようにして私たちは毎日息苦しい社会を自分たちで作っている。その間問題解決は「おやすみ」になる。こうして問題ばかりが積もってゆく。
ただ、あまり世の中を嘆いてばかりもいられない。最近は忙しくて余裕のなさそうなお母さんや高齢者の運転が増えている。携帯電話で連絡を取りながら車を運転している人も珍しくない。だから、車を見たら運転席を覗き込むようにしている。向こうから「どうぞ」と言ってくるまでは絶対にこちらからは(たとえ信号が青でも)渡らないようにしている。
社会が弱者叩きに邁進し問題解決をしないのだから「自分の身は自分で守らなければならない」のである。多分、今回教えるべきだったのは「車は絶対に信用してはならない」「青信号を鵜呑みにしてはいけない」ということなのだろうと思う。