元貴乃花親方の息子である花田優一さんがテレビに出まくっている。どうやらマスコミはリスクのある政治報道よりもこの若者を叩くほうが報道価値があると思っているようである。世も末だ。だが、この一連の報道を見ていてとても気になることがでてきた。それは家族と道徳的価値である。
元貴乃花親方は新興宗教と関係を持ち独自の道徳感を持っている。だが、それに社会的価値が全くないことは明らかである。誰一人追随者がいない。彼の道徳は彼が作り出したファンタジーだがそういうことはよくある。日本人の男性は「育てる」ということにあまり関心を持たない。興味があるのは競争だけである。人は競争だけをして生きて行くわけではない。
一方息子である花田優一さんが道徳的観念を持っていないこともまた確かなようだ。納期はすっぽかし、奥さんとは早々に離婚し、両家の親に報告もしなかったようである。にもかかわらず、花田優一さんは臆せずにテレビに出まくった。爽やかなルックスでよどみなく流れるように話す様子から彼が一連の報道に大した罪悪感を持っていないことがわかる。まだ23歳という若さを考えると大胆というか異様と言って良い。彼は道徳的規範の代わりに「爽やかな若者を演じる」術を身につけており、テレビもそれを好意的に受け止めているのである。雑誌ではこうした「爽やかさ」は伝わらない。
父親である元貴乃花親方は「このままでは大変なことになる」と他人事のようにこれを週刊誌にぶちまけているというところから、この人が「自分も子育てに三角すべきだ」という意識を一切持っていないことがわかる。雑誌にそんなことを書けば息子にどんな批判が集まるかは容易に予測できたはずなので、もう常軌を逸しているとしか思えない。だが、この人は貴ノ岩にも同じことを言っていたし「花田勝氏」にも同じことを言っていた。正しくないと思ったものを容易に切断できてしまう人なのであろう。
さらに河野景子さんもテレビに出て「貴乃花の言っていることもわかるし息子の言っていることもわかるが、間に立ったりはしない」と言っている。母親もまた「家族」を切断してしまっているようだがそれに違和感は感じていないようだ。こうして演じる一家が作られ、テレビはそれを歓迎する。本物の家族より演じている方が本当に見えるのだ。
人間が社会規範を受け継ぐ時、家庭はとても大切な役割を果たす。しかしながら、元貴乃花親方にとって家族というものは取り立てて省みる価値がないものだったのだろう。だが、さらに重要なのはテレビを見ている人たちも「家族が価値観を育てる」ということにさほど関心を持っていないということである。彼らがみ違っているのは勝利に向けて邁進する貴乃花とそれを支える健気で華やかな家族の姿なのである。
この「正しさ」と「結果としての勝利の全面的な正当化」への固着は極めて男性的な日本ではよく見られる光景だ。それを陰で補正してきたのが女性だった。だが、女性は一人で子育てをしているわけではなかった。問題は、常に外に触れている「相撲部屋」としての貴乃花部屋と、プライベートとして孤立してしまっている家庭の絶望的な乖離である。これは群れで子供を育てる「共同養育」という習性のあるヒトとしては極めて異常な状態だ。
先日NHKで育児ノイローゼについての特集をやっていた。母親が不安を感じやすいのはヒトが群れで子供を育ててていた名残なのではないかという説があるそうだ。戦後の核家族化には「共同養育環境」が阻害されるという決定的な問題がある。
鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。
https://www.nhk.or.jp/special/mama/qa.html
なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。その大きな溝が、いわゆる“ママ友”とつながりたい欲求や、育児中の強い不安・孤独感を生み出していると考えられています。
この花田家を見ていて安倍晋三を思い出した。彼も実家が政治家であり、子供の頃は選挙一色の暮らしをしていた。選挙に勝つことが家の至上目標だった。安倍晋三も子供の頃に寂しい思いをしたという。彼の規範意識のなさが、選挙にかかりきりになる家と孤立した家族から来ているのではないかと思った。政治家の二世・三世も演じることを強制された人たちなのである。ただ、ここでは孤立した家とは言わずに「独立国家の共同体」と表現されている。心理的な正当化が起こるのだ。
「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)
洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140
花田優一さんが生まれる前から花田家は常にマスコミに注目されていた。河野景子さんや花田優一さんは後援者らがいるパーティーで「形式的に正しい家族」を演じることに慣れてしまった。お母さんはそれを使って講演活動までしているし息子も靴を売るためだと言って父親のパーティーで営業活動などをしていたようである。しかし、形式的に正しさを演じているということは、内心の正しさなど何も意味がないのだということを意味になりかねない。同じようなことが世襲の政治家の家庭でも起きているのではないかと思う。選挙で受けがよければ裏で何をしていても構わないという虚構の家族である。
選挙に勝ち続けるということは有権者からみて正しい家族像を演じ続けるということだ。この結果ばかりに注目し本来持つべき道徳心をないがしろにすることは、社会が個人に与える刑罰のようなものだ。内心など何の意味もないとして個人の道徳心を絞め殺してしまうのである。安倍首相は嘘を嘘と思わない虚の政治家であり、教育や子育てへの投資には極めて無関心である。お友達にも、外面的な規範である教育勅語的を復活させれば世の中の道徳の問題は全て解決するという人たちが多いようだ。ある意味元貴乃花親方に似た思想を持っている。
花田優一さんは、元貴乃花親方が予想するようなことにはならないかもしれない。23歳の修行から上がりたての若者に立派な靴など作れるはずはないが、彼の元には新しい靴の依頼がくる。「あのテレビに出ている花田優一が作った靴」に価値があるからだろう。また、マスコミも彼らのおもちゃになってくれる便利な人形を求めている。普通の家族の日常には商業的価値はないが、演じる家族にはその価値がある。一部では花田優一さんは多弁なのでお父さんより政治家に向いているのではないかとさえ言われていた。あながち皮肉でもなさそうである。これが日本人が欲しがっている「リアル」なのである。
安倍晋三さんも今の所「大変なこと」にはなっていない。大変なのは嘘に振り回され続ける国民である。ただ、それも選挙民が聞きたい歌だけを政治家に要求し続けた結果なのかもしれない。安倍晋三は岸信介の孫を演じていればいいわけだし、麻生太郎は吉田茂の顔真似をしていればいいのだ。
ただ、こうしたいびつな演じる家族は日本の未来を危機にさらしているように思う。孤立家族で育ったが経済的には恵まれていた安倍晋三が首相であり、自分のために小学校が作られたという極めて特殊な家庭に育った麻生太郎が副首相である政権が「あたたかな子育て環境」に積極的になれる可能性はほとんどない。彼らが熱心に取り組んでいるのは演技を賞賛してくれる周りの人たちに恩恵を与えることであり、国の未来にも個人の内心にも全く関心がないのである。