メールで質問をいただいたので、ここに返信を書きたい。
引用の許可を取ればいいのかもしれないのだが、著作権の関係があり質問の全文引用して書けないので却って誤解が生じる可能性がある。今後ご質問はできればコメント欄にお願いしたい。コメント欄は公開されている上に後で編集が可能なので、ご自身で著作物(つまり質問)をしていただきたいからだ。許可を取ってメールの内容を載せたとしても「あとで書き直したい」とか「撤回したい」ということになるかもしれない。
ご質問の内容は二つ。日本人には公共空間を作るつもりがないというのはどういう意味かというものと、過剰適応とゲーム産業の関係である。
第一に「日本人は公共空間を作るつもりがない」についてである。主語を日本人にすると「日本人は議論をする資質がない」とやや自虐的に捉える方が多いというのは意識して書いているつもりなのだが、やはりそこから抜けるのは難しいのかもしれないと思った。
日本人にはそもそも公共という概念が存在しないと考えている。だが、この日本人はかなり限定的に使われている。経験上、英語圏での海外生活を経験している人は公共空間とか社会という概念が理解できる。例えばエンジニアのように英語が専門でない人でも英語圏で働くと簡単にこうした概念を理解するようだ。
例えば、英語で行われる授業で先生が何かを発言したとする。すると、誰かが手を上げて今回の授業に関係がありそうな情報を加えたり考えを述べたりする。これを「授業に貢献する」という。授業の貢献は成績に加算される。ただ聞いているだけでは「授業に参加していない」ことになり貢献点がつかない。授業はみんなで作り出してゆくというのが英語圏のやり方であり、アメリカなどでは高校レベルでもこうしたことが行われているようだ。こうして「みんなで作ってゆく」のが、社会であり公共空間である。こうした考え方は職場にも引き継がれる。
日本人は社会的なルールには素直に従うので、あらかじめこうした空間ができていれば簡単に公共概念を理解する。わざわざ海外留学や海外赴任をしなくても、公共を理解している日本人はたくさんいるのだ。例えば登山をすると下山してきた人に挨拶をされることがあり応えるのがマナーになっている。登山は多分ドイツやオーストリア辺りを発祥とする若者に人気のアクティビティだったのでその名残が残っているのだろう。つまり、登山愛好家は「みんなで山の雰囲気を作ろう」という気分があり、ゴミを拾ったりお互いに挨拶をするという習慣があることになる。同じように海外と接触したサッカー愛好家もゴミを拾って帰る。これも公共空間をみんなで守ろうという意識の表れである。つまり、こうした人たちは西洋と接触しているがゆえに公共という概念を理解していることになる。
だが、見たことがない人にはこうした公共という概念が理解できない。例えば自民党の憲法草案でいう「公」というのは、すなわち「ズベコベ言わずに国のいうことを聞け」という意味であり、その国とはすなわち国会議員のことだ。ある人は国にあれこれ言われるのは嫌だといい、別の人はみんなに異議を申し立てるとは迷惑な存在だと言う。知らず知らずのうちに公共を「誰かの空間」と認識し、その上で「誰の声が一番大大きいか」ということを瞬時に計算してしまうのである。
しかし、これはアメリカ人が優れている言う意味ではないし、日本人が劣っているという意味でもない。しかし、日本人が作る独特の社会には名前がないので、このブログでは、所有権や上下関係など諸々の属性を含めて「村落」と呼んでいる。社会学にはもっと別の良い呼び名があるかもしれない。
日本のスーパーマーケットで子供ににこりと笑ったり、コンビニでドアを開けてあげたりすると睨まれることがある。特に女性にこうした傾向が強い。多分「私に関わらないでよ」という気持ちが強いのではないかと思われる。日本には公共がないので外で出会う人は全て単なる他人でしかない。ゆえに他人同士で協力することもない。ただ、現行憲法が公共とか社会という概念を取り入れてしまったために、左派リベラルの中には公共とは国の行政サービスのことなのだと考える人もいる。
ある人は公共をお互いに参加して作り上げる社会だと捉え、別の人は誰かの所有物だと考える。そして、また別の人は公共を国の行政サービスだと捉えるわけである。
メールの内容を公開してもよければ貼り付けたいのだが、この後質問にはかなり様々な要素が整理されないままで入り込んできているように思える。そこに至る前にまず「公共」をどう理解しているのかということを整理した上で、提示してみるべきなのではと思う。
常々、外国の文化と接していない日本人が「公益」や「公共」を理解しているのかということが知りたいと考えているのだが、意外と「当たり前」と考えていることを言葉にするのは難しいのではないだろうか。この辺りはご協力いただける方がいらっしゃったらコメント欄にでもお考えを残しておいていただきたい。
ゲームに関しては、書いていることはほぼ当たっていると思う。かつてゲームのマーケティングをやっていたことがあるのだが、この時にすでにメールにあるような議論があった。当時の日本のゲーム業界はコンソールゲームが主流でPCゲームは日本では「洋ゲー好きの物好きしかやらない」となっており、携帯ゲームは「低スペックのかわいそうな」存在であった。
ただ洋ゲーのオンラインゲームを担当している人たちは顧客と接点があったので(オンラインゲームではイベントなどを仕掛ける必要がある)こうしたことが起こるのはあらかじめわかっていたようだ。
コンソールゲームの人たちはPRをコミュニティに頼っていた。日本にはゲーム雑誌が一つしかないので、そこのPRスケジュールが優先され、そこから逆算してオンラインの情報解禁日などを決めていた。ゲーム雑誌がランキングを発表しそれにファンが従うという構図があったのである。このため「過剰適応」が起きており、売り上げを広げることができなかった。「洋ゲー=クソゲー」という構図がありそれが固定化されていた。さらにライトゲームユーザーはゲームユーザーですらない完全に取り残された存在だった。彼らはそもそもゲーム雑誌などを読まないからである。
ということで、多分「過剰適応」にはマーケティング的な名前が付いているはずなのだが、今回は見つけることができなかった。