先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。
この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。
日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。
日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。
こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。
「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。
よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。
現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。
前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。
これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。
同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。
彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。
日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。
だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。
このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。