「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です