衆議院予算委員会の河村委員長が自身の発言を撤回した。首相が「集中審議は勘弁してくれ」と言われたらしいのだが、野党から攻撃されると一転して「そんなことは言わなかった」というのである。この人もまた「嘘をついている」と思うのだが、どうしてこのような嘘が蔓延するのか考えてみたい。これは「気の緩み」なのだろうか。
これについて考えているうちに、かつて日本人は恒常的に「管理された嘘」をついていたのだという考えにたどり着いた。ただし日本人はこれを嘘とは言わなかった。今になってなんらかの理由で嘘を管理できなくなっているのだろう。さらに西洋流の個人主義が間違って解釈されたことも原因になっているのではないかと思う。日本人はかなり特殊な集団制を生きていた。それが失われつつあるのかもしれない。
この言葉を考えてゆくと「政治にとって言葉は命である」という言葉も誤解されているということがわかる。言葉は命であるというと多くの人は「政治家は正直でなければならないのだな」と考えるが、本当にそうなのだろうか。
まず最初に個人主義について考える。ヨーロッパを起源とする文化はまず個人を考える。しかし階層構造がないわけではないし個人の欲求もぶつかることがある。そこで個人が協力するための様々な工夫が作られてきた。例えば個人主義のアメリカでは上司と部下はなんでも好きにいい合えると誤解している人は多い。しかし、アメリカで部下が上司に逆らえばクビになってしまう。アメリカ人は上司と部下の間が「フラットに見える」のを好むが、実際には上限関係があるからだ。
こうした文化の違いは、これまで紹介してきた異文化コミュニケーションの本にまとめられている。これまで「文化が衝突するとき」と「異文化理解力」という本をご紹介した。他にもホフステッドの指標などがありオンラインでも個人主義というのはどのようなものなのかを学ぶことができる。他の社会ついて学ぶことで日本人の集団主義が何を意味しているのかということも明示的に理解できるだろう。
日本ではアメリカ人のようにズバズバものをいうのがかっこいいという間違った個人主義理解が進んだ。このため集団の中の日本人が地位を利用して自分の意見を好き勝手に述べるというようなことが蔓延している。最近も大分選出の穴見議員が肺がんの患者の参考人に対して「いい加減にしろ」と恫喝したニュースが話題になった。規制の影響を受けるレストランチェーンの創業者一族であり分煙・禁煙を敵視しているのだが、のちに「喫煙者の権利を守りたかった」と釈明したそうだ。個人主義は自分の権利を守ると同時に相手の権利を尊重する主義のことなのだが、穴見さんは典型的な「甘やかされた日本人」でありこれが理解できなかったのだろう。だが、これが日本人にとって典型的な個人主義の理解であるのも確かである。多くの日本人にとって個人主義とはわがままな個人のことなのである。
しかしながら、これとは違った状況も見える。かつて日本人は本音と建前を使い分けていた。もともと個人の欲求などなかったことにして全てが自然と決まったと考えることを好んだ。これは集団と個人の間にマイルドな癒着があったからだ。だから欲求がぶつかるようなことは裏で根回しとして行い、表面上は「しゃんしゃん」と決めて表面上の和を大切にしてきた。こうして生まれたのが本音と建前である。みんなが気分良く過ごすためには建前が必要なのだが、それだけでは不満がたまる。そこで親密な仲間同士と甘えられる場所で本音をぶつけ合っていたのである。
政治にとって言葉は命であるというのは政治家が建前を管理する仕事だからだろう。日本で民主主義が崩れたなどという人がいるが、これは誤解だ。もともと日本の意思決定は最終的には儀式で終わる。この儀式の最新のファッションとして選ばれたのが民主主義なのだ。その意味では、日本の政治家は「建前の司祭」という帽子をかぶっていたことになる。つまり言葉というのはこの儀式に用いられる言葉のことだったのである。
ではなぜ河村さんは記者たちに「裏であったことを正直に語ってしまった」のでだろうか。河村さんは安倍首相と昵懇の仲であり「本音を打ち明けてもらえる仲間である」ということを見せびらかしたかったのではないだろうか。首相と仲良くなった人はみな首相との仲をほのめかしたがる。例えば籠池理事長がそうだったし、加計学園の渡辺理事長も県庁に行き「これは首相プロジェクトなのだ」と自慢していた。ところが彼らが地位の優越性をほのめかすと、それは「安倍首相はルールを作る側なので、多少の無茶はやってもいいのだ」という自慢になってしまう。実際に安倍首相はそのように行動していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
自民党はこの「儀式力」を失いつつある。これは裏を返せば安倍首相に「建前の司祭長」としての自覚がないからである。例えばいま立憲民主党が政権をとれば彼らは緊張して建前と本音を分離しようとするだろう。だが自民党は「一度失った政権を取り戻した」と考えており「多少のことは許されるようになった」と誤解しているのではないだろうか。だから「建前と本音」を分離して聖域を確保するという気持ちが薄くなってしまうのかもしれない。また、最初の政権では儀式性にとらわれて言いたいことも言えなかったという気持ちがありそれを取り戻したいということも考えらえる。なぜ「気が緩んでいるか」は多分本人たちに聞かなければわからない。
もちろん、政治家全体が西洋流の「説明責任」を学び民主主義を尊重するというアプローチも取れる。個人主義社会に出た日本人は問題なく個人主義の文化を学ぶことができるので「日本人には無理だ」とも思わない。だが、一人ひとりの議員を見ているととてもそのようなことはやってくれそうにない。意識が低いというか「ぼーっとして何も考えていない」ように見えてしまう。二世議員が多く「集団に守られている」という油断があるのだろう。その一方で、建前と本音を意地でも守り通す(つまり本気で民主主義ごっこをやる)気迫も感じられない。こうして嘘が蔓延しそのたびにマスコミが大騒ぎするという気風が生まれてしまった。
我々はかつて本音と建前という二重性を生きていた。しかし今では西洋流の民主主義や組織統治の上に本音と建前がかぶさる三重性を生きている。
国民が「政治家が嘘をついている」というとき何を求めるのだろうか。本物の民主主義国のように正直に意思決定プロセスを伝えて欲しいと思っているかもしれないのだが、これは同時に不都合な事実も受け止めるということを意味する。多くの人は不都合なことや醜いことは「そちらで処理して」きれいな結果だけを見せてくれと思っているのではないかと思う。つまり、政治家は嘘をついているという非難は、必ずしも「正直になってくれ」ということを言いたいのではなく、なぜもっと上手に嘘をついてくれないのかという非難なのかもしれない。
この文章を読んでくださる方にはぜひ、これからも「上手な嘘」のある社会を求めるのか、それとも正直な社会を求めるのかということを考えていただきたい。誰かに伝えるつもりならお化粧が必要だが、誰にもいう必要はないのでその分だけ正直になれるはずだ。