今回は短くネットの人民裁判が個人を完全に追い込むまで終わらない理由について考える。
先日、至学館の栄監督が伊調馨選手に謝罪した。しかし「コミュニケーションの問題だ」として実質的には非を認めなかった。さらに学長も「選手はたくさんいる」と従来の主張を繰り返した。つまり自分たちが可愛がってこなかった伊調馨選手に振り回されたくないというのだ。ワイドショーでは情報が錯綜しており、伊調馨さんを会見場に呼びつけたという人もいれば、実はレスリング協会側が気を利かせて問題を終わらせようとしたという人もいる。伊調馨さん側は「まだ内閣府の処分も出ていない段階で手打ちに応じた」ことにしてしまうと問題がうやむやに終わりかねないということを恐れているようだ。組織防衛のために問題を終わらせようとした学校側と納得しない選手側」が対立していることになる。学校が勝てばパワハラが正当化される。
謝罪に意味があるのは再発防止策を伴うからなのだが、栄監督は組織に守られており、至学館では同じような問題が繰り返される素地が温存されたことになる。「こう謝罪しておけばよい」というフォーマットができたことで問題の構造が温存される可能性もある。実際に政府はそうなっている。いつの間にか「文書はごまかしても刑事罰がない」し「官僚を形式的に罰しておけば政治家にはお咎めがない」というニューノーマルができてしまった。
学長が謝罪したくない気持ちはわかる。世間に負けたことになってしまうからである。麻生財務大臣が世間に部下の問題を謝罪することを「負けた」と感じるのに似ている。村のなわばりを気にする日本人には自然な感情だろう。コンプライアンスを気にするアメリカは企業を社会の構成要素の一つと考えるが、日本人は組織を独立した閉鎖的な村であり、他人からとやかく言われたくないと思うわけである。
この問題はこのままで終わるかもしれないし終わらないかもしれない。終わらないと考える人はレスリング協会という「公共性の高い」組織の問題を指摘している。栄さんはプライベートな空間で活動することはできるだろうが、この先公共性の高い組織には出てこれないかもしれない。日大はここで失敗した。学連という公共性の高い組織に対して非を認めなかったことで学連は排除された。問題は日大の反社会性の問題になっており、今後は企業や学生の親たちが日大をどう承認するかという問題になるだろう。
同じことはなんちゃって軍歌を歌ったRADWIMPSの野田さんにも言える。騒ぎに驚いて謝罪文を出したがライブでは「自分の国を愛して何が悪い」と開き直ったそうだ。つまりネット世論には屈したが、自分は愛すべきファンに囲まれており「このコンテクストでは自分は悪くない」と感じているというのである。彼らの村がどの範囲なのかはわからないが一体化した陶酔感に包まれているのかもしれない。
これらに共通するのは村という閉鎖空間の問題とそこにある「甘え」の存在である。親密な集団に囲まれている人は「集団から守ってもらえる」と感じて反省しない。もちろん形通りの謝罪はするが同じことを繰り返すだろう。
もし仮に日本人がしっかりとした個人を持っていれば「少なくとも公の場ではこういうことをいうのはやめておこう」という規範を身につけるだろう。しかし、集団に守られていると感じると結局それを忘れてしまい外側にいる人たちを苛立たせる。
例えばアメリカにも反社会的な人種差別感情はあるがこれが表に出ることは絶対にない。だが、白人同士の仲間内でどのようなことが話し合われているかはわからない。それはプライバシーとして保護されている。日本は「組織」が間に介在することでこれが複雑化するのだろう。
苛立った人たちは様々な手段に訴える。問題が加熱している時には「集団が白旗をあげて捕虜を引き渡す」ことを確認するまでいつまでも叩き続けることがある。これが炎上である。だが、非を認めない集団がそのまま残り続けると「アンチ」と呼ばれる人たちが蓄積する。安倍政権はアンチを過激化させたままで存続しており、何をしてもアレルギー反応が出る。
つまり、日本人の人民裁判が過激化するのは、個人の倫理が組織と癒着してしまうからなのだろう。問題を起こした人が「新しい約束」を交わす経路ができていれば問題は沈静化できる。また、甘えがあり「やはり認めてほしい」と従来の主張を繰り返すと問題が再燃する。組織や仲間が絡んでくると「自分だけで約束を交わす」ことができなくなり、問題が複雑化するのではないだろうか。