本日は安倍首相が嘘つきであるという前提で文章を書く。なぜ嘘つきなのかという証明はしない。嘘を嘘と認めることが重要だと考えるからである。誹謗中傷だと取られても構わないが、人格攻撃が嫌いな人は別の言葉で置き換えても良い。
安倍首相は嘘によって政権を維持しようとしている。昨日の決算委員会を見て、嘘を認めるときにも嘘をつくことに驚きを感じた。今回は太田理財局長の答弁をきっかけにTwitterで「太田さんが嘘を認めたぞ」というようなつぶやきが流れ、ほどなくして新聞の記事になった。あまりにも嘘が多すぎるのでそれを認めるのに長い時間がかかり、本当のことを言ったというだけでニュースになるのだ。
この件NHKが「抜いて」、西田参議院議員が指摘し、太田さんが認めたという流れなになっている。ニュースでは西田さんが太田さんを罵倒したところが多く使われたのだが、空々しいにもほどがあると思った。たぶん隠し切れなくなったか佐川理財局長にすべてをかぶせるという落とし所が見つかったのだろう。野党が指摘して見つかると「彼らの得点になってしまう」という気持ちもあったのではないかと思う。しかし、マスコミの人たちもこれがお芝居だということを知っているはずで、知っていて「財務省が嘘を認めた」と言っているのである。異常としか言いようがない。
嘘がいけない理由を倫理的に説明することもできるのだが、ここではPlan/Do/Checkというサイクルで説明したい。計画を実行してチェックすることで学びを得るという一連の流れだ。意思決定がすべて正しいということはありえない。もともと思い切ったことをしているのだから、時々見直せばよい。ことわざ「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるのだから間違えること自体は悪いことではない。
しかし安倍政権はこのチェックのサイクルを無視している。チェックすることによって万能感が損なわれるのが嫌なのだろう。
例えば、観察したように北朝鮮を巡る会談から除外されているのに、自分たちのおかげで交渉が進展したのは嘘というより現実否認である。しかし首相が現実否認するとそのあとの議論が一切許されない気分が作られる。それどころか、事実を隠蔽することまで日常的に行われるようになった。自衛隊の日報改竄は霞ヶ関で作った嘘がばれないように後世の教訓になりそうな日報をなかったといって捨てていたという問題だ。首相が過ちを認めて改めないので、その下にいる人たちは間違いを隠蔽して認めないようになってしmったのだ。
安倍政権は学ばないので自分たちの自分たちの政策がどんな影響を与えるのかを予測できない。これが嘘の最初の副作用だ。
現在の保守政治家は学ばないことを怖がらない。すべての教訓はすでに経験によって獲得していて自分はすべて知っていると考えているからなのだろう。西田議員と彼に続く自民党議員たちの質問を見ていて彼らhが学ぶ必要がない理由がわかった。西田議員はある意味選挙で何が一番重要なのかを正しく認識している。有権者は経済が成長しない理由を取り除くことなど望んではいない。彼らが欲しがっているのは当座の仕事である。
今回の質疑で西田さんは「どんどん鉄道を作ればよい」と主張し、プライマリーバランスの改善などどうでもいいと言い出した。経済成長すればプライマリーバランスはおのずと改善するのであって今は経済成長を再び起こすことが重要なのだという。多分念頭にあるのは世銀からお金を借りて新幹線を作ったように借金で鉄道建設を促進することなのだろう。新幹線ができてから経済成長が始まったという明確な経験が元になっているのだろう。これは戦争で破壊された生産設備が現代的な形で復活したので借金が役に立ったという点をまるで無視しているのだが、彼らにとってはそんなことは些細でどうでもいいことなのだ。
とにかく景気が良くなるまでお金を使えという話なので特に学ぶ必要はないし推移を注意深く見る必要もない。経済成長しないなら使い方が足りないといって騒げばいいのである。
これに対して政府側は議論せず「国際的信用も大切だし、地方にもお金を回したいし」というあいまいな答弁をしていた。足元では情報の改竄が恒常的に行われているのですでに自分たちが何をしているのかが分からなくなっており何も決められなくなっているのかもしれない。
だがさらに深刻なのは野党側だ。政府与党が小出しに嘘を回収するので、嘘を追及することが存在意義になってしまっている。政権運営の経験が乏しいかほとんどないので対案を出したりチェックしたりということができないのだが、嘘をついているのだろうと糾弾することはできる。小西ひろゆき議員は数まで数えて執拗に「安保法制が違憲だということになったら総理をやめますか」と質問をしていた。安倍首相がそれを認めるはずはないのだが、森友問題で旨味と達成感を学んでしまったのだろう。
本来ならこうした野党議員は淘汰されてなくなるはずなのだが、安部政権がこまめに嘘をついてくれるおかげで仕事ができてしまっている。こまめな嘘と隠蔽は野党に対する安倍政権の雇用対策でもある。
さらにマスコミは明らかに嘘だと分かっていることでも、政府が公式見解を出すまではなかったこととして報道する。そして政府が嘘を撤回するたびに恭しく「認めた」と伝えるのだ。マスコミが政府のお芝居にお付き合いするのは自分たちが責任を追求されたくないからだろう。「誰かが言っている」と書いている限り、自分たちの責任が追及されることはない。
日本は強い中央政府が協力に産業を推進することで成り立ってきた国だ。だから官僚機構の政策立案能力の低下は国の成長を著しく阻害する。すべての官僚がチェックではなく嘘のためにリソースを浪費しているので、経験から学びながら政策立案能力を磨くことができなくなっている。そして議員にはそもそも政策立案の意欲はない。
最初に安倍首相が嘘つきであるという前提で議論を始めたのは嘘つきであるということを証明することに時間を割かれると経験から学ぶことができなくなってしまうからである。このままでは日本は何も学べないどころか、今どこにいて何をしているのかすらも分からなくなってしまうだろう。すでにそうなっているかもしれない。
嘘という価値判断を含んだ言葉が嫌いであれば「現実から学ばない」と言い換えてもらっても良い。学ぶつもりがないというのは恐ろしいことなのだが、「全てを知っている」と思っあがっているとその恐ろしさもわからなくなってしまうのである。