どうせ誰も助けてくれない

このところ毎日のように村社会について書いている。日本には村社会的な慣行が残っていて成長を妨げているというような話である。ただ、これは概念的な話で、やはり現実的には村空間は破壊されており援助が得られない人もいる。今回はそんな話である。

先日、Twitterで「この人の言っていることはどの程度本当なのだろうか」と思う人を見かけたというような話を書いた。結論からいうと虚実が入り混じっていた。この件についてさらに話を聞いたのだが、いろいろ考えさせられることが多かった。Twitterは顔が見えないのでいろいろなバックグラウンドの人がいるということと、他人を「助ける」のはそれほど簡単ではないということがわかった。

この人の主張をまとめると、いろいろな政治家のところに行ったがみんな悪い人ばかりで、結局は誰も助けてくれないというものだった。どうせ誰も助けてくれないというので「そんなことはない」と言いたくて話を聞くことにしたのだが、どうも一貫しない。そこで話をまとめてもらえるようにお願いしたところブログのURLが送られてきた。途中まではまとまっているのだが、最後がかなり乱雑になっている。そして、まとまった話の内容がどうも少しおかしい。

前回のビートたけしの件でも書いたのだが、日本人は「どちらが悪いか」ということを経緯の中からわかってもらいたいという傾向が強いようだ。この人にも同じ傾向がある。だから「何がしたいのか」とか「何がして欲しいのか」ということは後に来る。「何がして欲しいかわからないのに、誰も助けてくれないと思ってしまう」というのはよくあることなので、そこを整理すれば良いのかなと思った。だが、DMなどを使って話を聞いていると何かがおかしい。

そこでわかったのはこの人が「情報の刈り込みができない」ということだった。話をしているうちにいろいろな思いが溢れてきて「全部伝えないといけない」と思ってしまうようである。その中に「逮捕された」とか「強制入院させられた」というワードが出てきた。投薬経験もあるようで「眠らされたと」いうこともあるようだった。それが「医療過誤」という話につながり、だから訴えたいとなる。

ここで病気の名前を書かない理由はいくつかある。まず、精神科医ではないので適切な診断名がつけられない。どこからが正常でどこからが正常ではないという境目がない。この人もいろいろな人からそれを指摘されて「自分は違う」と考えているようである。さらに、大した診断もしないで適当に病名だけつけて薬漬け二するということも行われているようである。本人は納得しないままに薬だけが増えてゆくということになる。

病気が重いか薬の量が多いと作業はできないと思うのだが、ブログサービスやTwitterに登録して自分の情報を発信することもできているようだ。さらに、政治家のところにいって意見をいうこと自体はできているようである。だが、言っていることがまとまらず終わりもないので最初は親切のつもりで聞いてあげていても途中で嫌になってしまう人が多いのではないかと思う。

こうした人の話を聞くのにはスキルが必要だ。だが、突然こういう体験をすると何をしていいのかわからない。そこで市役所の福祉の窓口に相談をしてみた。職員は「福祉メニューは紹介できる」という。だが、プライバシーの関係から家族でもなく資格もないという人は大したサポートはできないようである。

そういう意味では、こういう経験をしたときに最初に聞かなければならないことは「サポートできる家族がいるのか」ということと「すでに福祉サービスに乗っているのか」ということのようだった。そこで家族について聞いてみたのだが、失踪したとか見捨てられたとか、家がなくなったなどと辻褄があわなくなったので、市役所の人とコンタクトできているのですかと聞き変えてみた。すると「市役所(この時点ではどこの市役所なのかがわからない)の人は気に入らないからお付き合いしていない」と始まり、市職員にいかにひどい目に合わせられたのかという話が始まった。

この拡散がこの人の特徴なのだろうと思った。誰でもいろいろな経験をすると良い可能性や悪い可能性を思い浮かべる。普通の人であれば対話を通じて情報を刈り込んで行き最終的にもっとも高い可能性を残す。これが他人の推論と合致してはじめて「現実」だと認識されるわけである。だが、刈り込みがないと突拍子もない可能性について言及してしまい、それが他人の推論と合致しないので結果的に「幻想」などと言われるのかもしれないと思った。

ここまでで「聞いてもらえていない」とか「適当にあしらわれている」という感じを与えずに思考の拡散を防ぐためには、必要なことを「はい」か「いいえ」で答えられる形式で聞くべきだということがわかった。ここで「優しい私」をアピールしようとするとかえって曖昧な態度になってしまい相手を怒らせるか、手応えがないといってやめてしまう人もいるのではないかと思う。

Twitter経由ということもあり、聞けたのは「生活保護は今でも受けているか」ということのみだった。生活保護を受けていれば(本人は市役所とコンタクトがないと主張していても)少なくとも市役所の福祉網には捕捉されているということがわかる。

ただ、家族との連絡は取れていないようなので、不安は大きいだろうなと思った。さらにいろいろなところに助けを求めるうちに悪い人に騙されてもいるようだった。どうやらこういう人を騙して保護費を中抜きする人がいるようなのだ。

よく生活保護とか精神的に不安定であるということに対して概念的な話を聞くのだが、いざ自分が接したときにどうしていいかわからないものだなと思った。精神的な介助だけでなく例えば車椅子の介助であったとしてもある程度の知識がないままでは手出しができない。また「いい人」をアピールしたいとか生きがいを見つけたいというような動機で手を出すと続かないだろうと思う。話を聞いてもそれが賞賛してもらえることはないからだ。ただ、今回の場合は相手は納得したのか「話を聞いてくれてありがとう」と言ってもらえた。「大して役に立たなかったな」とは思われたかもしれないのだが、まあ怒られるよりはマシといったところではないかと思う。

「誰も助けてくれない」という感覚は自分で経験しないと苦しいものなので、なんとかしたくなってしまうのだが、やはり社会的な仕組みがないとサポートは難しいと思った。また、よく他人に勝手に病名をつけて排除しようとする人がいるが、世の中には過酷な体験をしている人もいるのだろうから、それは本来控えるべきだし咎められるべきでもあると思う。

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