一連の森友騒ぎで担当者の一人が自殺したことがわかって1日経った。事態は急展開しようとしている。財務省は書き換えを認める方向で最終調整をしているようである。調べてみるまでわからなかったのだが、この一連の騒ぎの背景には11年前に起きたのと同じような構造があるようだ。安倍政権とネトウヨのお友達の病気は治っていなかったということになる。
構造についてはおいおい説明してゆく。ここではチェックとしてこの文章に違和感を感じるかということを考えてみていただきたい。
学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地格安売却問題をめぐり、財務省が決裁文書の書き換えを認める方針であることが分かった。複数の政府・与党関係者が10日、明らかにした。野党が安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相の責任を厳しく追及するのは必至。安倍政権への打撃は避けられず、首相は苦しい政権運営を強いられそうだ。
この件について、安倍首相は当初は何も発言しなかった。菅官房長官は親族のプライバシーのこともあるので答えられないと言っているのだが、政府から親族に対して口止めのプレッシャーがかかったのではないかということを言う人もいる。佐川長官は辞任の際に「(自殺した職員を)個人的には知らない」と言った。説明を押し付けられた形になった麻生財務大臣は仏頂面で会見を開き「俺は知らない」という態度を取り続けた。
共通しているのはどこか「他人事感」が漂っているという点である。特に顕著だったのは麻生財務大臣の態度で「バカな人たちが状況を混乱させているが、それは自分たちのせいではない」と考えているらしい。安倍首相も明確に指示をしたわけではないようで、この問題を他人事として放置し続けた。彼が重要視するのは「自分が関わっていない」という結果だけであり、その過程にはそれほど興味がないようだ。
よく「私利私慾にまみれるのはよくない」というような話を聞く。だが、必ずしも私利私慾が悪いことだとは思わない。日本人の行動規範の多くは「私利私慾」で説明がつく。だが、自分の利害なので中長期的な計算ができている。だから、私利私慾で計算ができているうちは日本人は変化もしないが間違いも少ないのである。
だが、この私利私慾が短期的に歪められると問題が起こる。いろいろ考えているうちにふと「第一次安倍政権はどうして滅んだのか」ということが気になって調べてみた。松岡農水大臣の自殺というような事件もあったが、特に大きかったのは年金問題だ。年金情報がずさんに管理されているということがわかったのだが、安倍政権はこれを処理できなかった。最終的には処理を放棄して「お腹を壊して」政権を放棄したのである。
この時も安倍政権は他人事のように問題を処理をしようとしていた。選挙期間が重なったこともあり各地で「安倍政権に対する自爆テロだ」と言って厚生労働省を非難したり、根拠もないのに「一年で解決する」と大見得を切っていたそうだ。しかしながら、年金行政の現場の人たちをバカにしながら協力が得られるわけもない。程なくして「一年ではとても修復不可能だ」ということがわかり収拾がつかなくなった。
それではなぜ、安倍政権は現場ときちんと話ができなかったのだろうか。ネットに残っている記録をみると、もともと大阪のテレビ局での「自称ジャーナリスト」の根拠のない発言が状況を悪化させる一因になっているようである。このジャーナリストは「自治労は民主党の支持母体だから彼らが先導しているに違いない」と主張した。つまり、政局として矮小化しようとしたのだ。安倍首相はどこかでこれを見たのだろう。そのまま選挙でそう主張した。つまり「お友達の慰め」を聞いたことが問題を悪化させる要因の一つになっている。
この問題と今回の問題にはいくつかの共通点がある。最初から問題をきっちりと処理していればよかったのだが、対策を取らずに放置していた。そして、構造的な問題があるとは思わずに政局的に処理しようとする。今回、自治労と民主党の代わりになっているのが朝日新聞だ。「野党が新聞社と結託してフェイクニュースを流しているに違いない」と主張する議員や自称ジャーナリストが大勢いた。中には新聞社が説明責任を果たすべきだなどとめちゃくちゃな論を展開する人まで出てきた。いわゆるネトウヨと呼ばれる人は「誰が何を言っているか」ということを重要視する人たちなのだが、彼らによると事象は政局で説明ができてしまう。そして、自分たちは賢くて全てのことを知っていると考えるので、彼らの見立てが間違っている可能性を疑わない。
Twitterの議論をみていると共通点はそれだけではないようである。どうやら財務省には解体論があるらしい。財務省を一部解体して「歳入庁」を作るべきだという議論があるそうだ。社会保険庁も解体論が出ていて、それが実現する過程で年金記録問題が出てきた。つまり、社会保険庁は長期的な見込みに基づいて損益計算ができなくなっていたことになる。財務省がどうして記録の書き換えという犯罪行為に加担したのかはわからないのだが、もしかすると解体論に対する焦りと恐れがあったのかもしれない。もともと官邸は経済産業省よりであるということが知られているとする観測もある。
もちろん、国は公益に基づいて仕事をすべきなので私利私慾に基づいて行動することなどあってはならないのだが、日本人は理念というふわふわしたものを信頼しない。中長期的な利害に基づく私利私慾にはかなり敏感であり間違いも少ないが「村が解体する」という恐れがあると、こうした中長期的な計算ができなくなる。そこで暴走を始めるというわけである。彼らが不都合な情報を官邸にあげないのは「それが取り潰しの材料として利用される」ことを恐れるからだ。
ここから「官邸」と呼ばれる集団が孤立した小さなムラになっているということがわかる。安倍政権は消えた年金問題の反省から「現場を恫喝するための道具を持とう」と考えたのだろう。だが、このこと自体が今回の問題に暗い影を落としている。不都合があれば取り潰されてしまうのだから、悪い情報を官邸にあげなくなってしまうのである。
官邸ムラが孤立した小集団だというと、それは安倍官邸の問題なのではないかと思われるかもしれない。ここで思い起こされるのが菅直人官邸と東京電力の関係である。東日本大震災という未曾有の危機が起きたとき、菅直人官邸は疑心暗鬼に陥った。そこで官邸は東京電力に乗り込んで恫喝し、枝野官房長官は「直ちに健康に問題はない」という曖昧な態度を取り続けた。現場を恫喝したのだから情報が入ってくることはない。これが菅直人政権が状況をコントロールできていないという印象をあたえることになった。
日本人は村同士で利権を確保しているのだが、集団同士が協力して問題を解決することができない。ここで冒頭に出てきた記事を改めてチェックしてみたい。主語が「財務省が、野党が、安倍政権が」となっている。しかし憲法上は財務省は安倍政権の一部のはずなのだが、実際にそう考える人はいない。書いている人も読んでいる人も誰に教わったわけでもないのに「安倍政権と財務省は別」と考えており、特にそれに対して不自然さを感じない。これが日本人にとっては自然な感覚なのだが、では「国の問題に対処する」のは誰なのだろうかという疑問も浮かぶ。
さらに村の間に緊張関係が生まれると突発的あるいは意図的に出てきた問題にも対応できないくなる。基本的に「他の村で起きていることは他人事」であり、問題点を共有したり理解したりすることができない。ここでやるべきことは「すべてを統合して一つの問題として扱う」ことだが、それができない。
英語で状況を統合することを「リコンサイル」と呼ぶ。異なった立場にある人たちが情報を持ち寄って一つの問題として再統合するのだ。日本には「リコンサイル」しようとするリーダーはいないどころか、そもそも日本語にはリコンサイルにあたる文章そのものがない。wikipediaをみると「営業と事務部門がデータを突合することだ」という見当違いの定義しか見つからなかった。日本には複数部門で情報を照らし合わせるというような文化がそもそもないのである。
これは基本的に日本が国として大きな変化に対応することができないことを意味している。実際には野党も別の村を形成しているので、共同して「何が起きたのかを検証しよう」という対応にはなっていないし、自民党の中にもいくつもの小さな村があってそれぞれ好き勝手に「安倍政権が説明責任を果たすべきだ」とか「財務省はけしからん」などと評論しあっている。
本来なら麻生財務大臣がまず財務省内部をリコンサイルして官邸との関係を取りまとめるべきだった。しかし、そもそもリーダーシップについて学んでこなかった麻生財務大臣にその意欲はないし、多分リーダーが状況を統合すべきだろうという知識もなさそうである。さらに麻生財務大臣が状況を整理して解決に導くべきだというひとすらおらず、ひたすら「これは政局であり、官邸と麻生財務大臣は……」というような他人事の論評ばかりが飛び交う。
この問題を解消しないかぎり、日本人は何度でも同じような問題に直面し、その度に大きな混乱を経験することになるだろう。
当座人々は安倍政権が倒れるのがいつになるのかという政局に夢中になると思うのだが、実際にはそれよりも深刻な問題が全く解決されないままで放置されているということになる。