フリーライダー討伐と世界で頻発するデモの関係について夢想する

今回の「政治家が嘘をつく」というエントリーはリツイート率が高かった。肌感覚に合致しているところがあるのだろう。だがこの嘘をどうやって防げばいいのかという知見は示されていない。競争から協力へという流れを作るためには一体何が足りないのだろうか。最後に「孤独と共感」で協力について読んだ。無私は最高の戦略というタイトルが付いている。これを読んでいて意外なところに着地した。それは破壊的なデモの正当性である。一昔前ならかなり危険思想として叩かれたのではないだろうか。




人間は親族だけでなく知らない人にも手を貸すことが知られている。極めて未開な文化でも全く協力のない文化は見られないので、人間は遺伝的に協力する性質備えているのではないかと考えられる。

しかし、政治哲学の分野では利己性が協力を生むという説が有力だった。マンデンヴィルは「蜂の寓話」という著作で「個人の悪徳が公共の利益を支えている」と主張した。マンデンヴィルは自分の利益のために動けば考えうる最大の善が得られるので人間がエゴイズムをやめたら社会は崩壊するだろうとさえ主張した。

19世紀の経済学者と社会科学者はホモエコノミクスという仮説を立て、人間は自分自身の利益を最大にするために行動しているのだろうと考えた。そして、進化生物学者もその考えを支持している。相手に協力してやる代わりに見返りを期待したり、自分の評判を上げるために善行を積んで見せるというわけである。こうして人々は協力を説明しようとしてきた。

ところが、実験行動学で違った知見も見えてきた。人は懲罰を与えるとき自分の利得を犠牲にすることがあるというのだ。これは個人の功利最大化仮説では説明ができない。

240名を対象にして20ドルを賭けた実験を行った。それぞれが手持ち資金の中から投資を行い投資金額の60%増しを均等に配る。実はこのゲームではフリーライダーを作っている。つまり自分は出資しないで見返りだけを受け取ることもできるのだ。フリーライダーは持ち出しがないので純粋にトクなのだ。

人々はフリーライダーを抑制するのにどれくらい犠牲を支払うのだろうか。今回はフリーライダーを罰することができるというルールを作った。フリーライダーが出てきたら懲罰するかどうかを尋ねるのである。この時参加者はコストとして配当から1ドルを支払う。1ドルでフリーライダーの資産を3ドル減らすことができる。プレイヤーはその都度変わるので懲罰にはフリーライディングを抑制する効果はない。ゲームはメンバーを変えて6ターン行われる。

フリーライダーを罰しても支出をした人の利益が増えることはない。それでも80%が少なくとも一度はフリーライダーを罰したそうである。公益に平均以上の投資をした人ほど他人を罰する傾向が強かったそうだ。罰せられたプレイヤーはそのあと平均で1.5ドルほど投資を増やすようになったという。

次に投資額を知らせた上で罰則規定を設けないゲームを作った。この場合95%の人が公共への投資額を控えるようになった。最終ラウンドでは60%が投資をしなくなってしまった。

最後にメンバーを固定して10回ゲームを行った。メンバー入れ替えがあった場合よりも公共への支出は50%増えたという。

結果的に、人は懲罰効果がなくてもフリーライダーを罰する傾向があり、フリーライダーが野放しになると協力を抑制するということがわかる。そしてフリーライダーが社会的に抑制できるということがわかると協力が促進される。

この文章は個人主義の欧米人が書いているので、フリーライダー抑制はもともと遺伝的に組み込まれた行動様式なのだろうと類推しているようである。日本のように相互監視が厳しい社会ではまた違った感想を持つ人もいるかもしれない。日本ではフリーライダーは文化的に極めて嫌われるし、学校の集団生活を通してそのことを叩き込まれる。

文章は、もともと人間には自発的にフリーライダーを罰する遺伝的(生得的)傾向がありフリーライダーが排除されるのを見たり経験することによって、群れからフリーライダーが排除されて協力が促進されるのではないかというような結論を出している。これは神の見えざる手の補正版である。

この文章で重要なのは「協力」が極めて明快に利得を増やすことが理解されているという点である。この場合フリーライダーを取り除くことで人々は公共にアクセスしやすくなる。ところが現実世界では協力をしても利得が得られるということは明快ではないし、誰がフリーライダーなのかということも実はよくわからない。ルールが明快でないということはつまり情報が明快でないということなのだから、コミュニティを整理するか情報を明快にすることでフリーライダーの問題は解決され、結果的に協力が促進されるはずである。

日本の場合文化的にフリーライディングを抑制する傾向が極めて強い。現実社会ではメンバーが固定されているので懲罰がしやすいからだろう。今でもテレビで不倫や脱税などの逸脱行為は極めて強く排除されてしまう。ところが文化的にフリーライディング抑止効果が高すぎるため、それを超えてしまうと社会的な対処が極めて難しくなる。するとゲームは一転して「持ち出しをしない」というルールになる。現在では日本人は政治に口出しせず、法人は税金を支払いたがらない。人々は消費を控え自己防衛に走り、それが結果的に経済を縮小させている。

こうした環境は何も日本にだけあるわけではないようだ。実際にはSNSは協力を促進する方向ではなく競争のための議論を促進し協力を阻害している。人々はお互いの話を聞かなくなり協力どころではない。破壊が先行する中SNSが現在目指しているのは構造の破壊である。世界各地ではデモが起こるようになり手法がSNS経由で拡散している。今デモが起きているところでは「協力」が生きているのだが、それは生産ではなく破壊の方向に向かう。

2019年10月は世界で同時多発的にデモが起こった月として記憶されることになった。多分今の経済構造は人々が把握できるより大きすぎるのではないかと思う。戦争によって経済構造が破壊されることがなくなった現代において、それに変わる何かが生まれてきているのかもしれない。それは法的にはいけないことなのだが、善悪を超えたところで何かが起きているのかもしれない。

日本社会はこれまでコミュニティの抑止効果が高かった。お互いがお互いを監視する体制なのでいざという時に協力して破壊するという体制が作れない。このため日本は穏やかな衰退と漠然とした不安という道をしばらくは歩み続けるのかもしれない。

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嘘つきが信頼される時

今回は安倍政権やトランプ政権が嘘をついているのに支持がなくならないのはどうしてなのかという話である。




孤独と共感」を読んでいる。これまで勝つための議論について読み、次に自己愛と攻撃性について読んだ。次は嘘についてである。今回は嘘つきの方が正直な人より信頼される可能性があるという結論なのだが、科学論文は一読しただけではよくわからない。そのため書きながら整理している。

まずは、American Sociological Review 2018年2月号に掲載されたという実験の話が出てくる。424人を被験者としたオンライン調査である。架空の大学の自治会の選挙の話を紹介して反応を聞いている。

最終的な質問は「現職に対抗する自治経験が全くない新人を支持しますか?」である。

まず、二つの異なるストーリーを与える。前者では新人は正直だが、後者では新人は嘘つきである。したがって普通に考えると新人は信頼されないであろう。

  • 新人が現職が提示したデータが「査読付き学術誌に掲載されていない」と指摘した。
  • 新人が査読付き学術誌に掲載されているのに掲載されていないと嘘をついた。新人は研究チームのメンバーに性差別的な発言をしていたこともわかった。

次に、これらの2群にそれぞれ違う評価を与えた。全部で4グループになる。

  • 現職には正当性に疑問がある。
  • 現職は立派な人間である。

さらに無作為に二つの異なる条件を与えた。全部で8通りの組み合わせができる。

  • あなたは現職と特性が近い。
  • あなたは新人と特性が近い。

現職に問題があり新人候補と性格が近いとされた人は、新人が正直である時よりも嘘つきで女性蔑視であるとした時のほうが支持率が高かったそうだ。つまり「自分を守ってくれる嘘は良い嘘であり、嘘をつかない人よりも頼れる」と考える傾向があったということだ。ただこの調査はインターネット調査でありこれをそのまま信頼していいのかがわからない。

次に、ペンシルバニア大学の政治学者Diana Mutzが「自分の過去の研究と合致する」と指摘したということが書かれている。ムッツの研究チームはトランプ大統領の地球温暖化がデタラメだという主張が虚偽であると示し、402名の被験者を調べた。

トランプ大統領支持者はこれをエリートへの挑戦と捉えたそうだ。つまり、トランプ大統領支持者はこれが嘘であると示されてもなおトランプ大統領を支持したことになる。トランプ大統領を信頼したのか多少の嘘は構わないと思ったのかはわからない。最初の実験と合わせて考えると「トランプ大統領は良い嘘つきであり自分たちの役に立つ」と考えていたことになるが、独立した実験なので関連付けて良いかはわからない。

前回「人が勝つための議論に耽溺することがある」という研究を紹介した。ここから勝つためには手段を選ばなくなるだろうなというくらいのことはわかる。相手が信頼できなくなると「こちら側も防衛のために嘘をついてもいいのだ」と考えるようになるということである。

人々は協力するためにも議論するのだが、協力関係が成り立たないとなると相が変わるのだろう。人々は勝つため相手の話を聞かなくなるばかりか嘘をついても構わないと思うようになるのである。ただ、協力すればより良い成果が得られるが嘘と競争からは何も生まれない。つまり、コミュニティが崩壊しかけているからこそ議論が競争的になり、さらにそれがコミュニティを崩壊させるということになる。まさに割窓的な社会である。

実際にトランプ大統領には岩盤支持層と呼ばれる人たちいる。アメリカのメディアはトランプ大統領の嘘を暴き続けているのだがそれを自分たちへの攻撃と受け止めているのかもしれない。つまりトランプ大統領は自分たちを守るために良い嘘をついていると受け止めて、それ以外の声に耳を傾けなくなってしまうのである。ただ、そこにはエリートが自分たちを搾取しているという被害者意識がある。

Twitterで野党は安倍政権の嘘を攻撃し続けている。野党は実はこれも無意味かもしれないということにそろそろ気がついた方がいい。安倍政権は嘘をついたり情報を隠蔽しているからこそ支持されているかもしれない。これが成り立つのはつまり有権者たちが「野党は自分たちを傷つけて貶めようとしている」と考えているからなのである。野党が信頼されていないことがそもそもの原因なのだ。

今回は協力と競争というテーマで3つのお話をご紹介した。複雑で理不尽そうに見えるネット言論なのだが実は割と簡単で合理的なルールの組み合わせで成り立っているのかもしれない。

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自己愛に潜む暴力

孤独と共感」に「自己愛に潜む暴力」という記事があった。人はなぜ虐待や言葉による暴力を繰り返すのかについて考察している。つまりTwitterで意見が異なる人を攻撃するのはどんな人なのかというような話である。




相手に暴力を振るう人は自己評価の低さに悩んでいると教科書には書いてある。だが、カウンセラーなどの実務家はそれには当てはまりそうにない事例があるとうすうすは知っている。心理学では有名な「自己評価の低さが暴力につながる」という周知の事実を科学的に解明した人は誰もいないのだそうだ。

この論文の著者R.F. バウマイスターは自己評価が脅かされた人が暴力を振るうようになるというegotism(脅かされた自己中心主義)という仮説を考えて実験してみることにした。自己評価が高い人が下方修正を迫らると防衛のために相手に殴りかかることがあるという仮説である。

ジョージア大学のカーニス教授が1980年代に行った研究では自己評価が高くなおかつ変動がある人に高い攻撃性が見られたという。高くて安定している人は攻撃性が最も低く、もともと低い自己評価の人は中間の攻撃性を持つという。犯罪者の中にも自己評価が高い人たちがいるし、チャイロットの著作「Modern Tyrants」は誇りが高く当然受けるべき敬意が払われていないと考える国の間で戦争が多発すると指摘している。さらに今まで培ってきた高い自己評価が破産やスキャンダルなどによって損なわれると自殺(これは自分に対する攻撃である)を選ぶ人もいる。

経験的に自己評価の危機が攻撃性をうむという事例はあるが、対照実験がないのでこれをもって「高い自己評価が攻撃性を生む」という仮説を証明することはできないだろう。

そこでR.F. バウマイスターはまずナルシシズムのある人と攻撃性について調べてみることにした。ナルシシストは極めて高い自己評価を持っている。自己愛(ナルシシズム)は肥大した根拠のない自己評価と言ってよく、したがって他人から「正当に」評価されないことがある。ナルシシズムについてはタルサ行動研究所のラスキンの指標を用いた。

  1. 肥大した誇大な自己観を持つ。
  2. 偉大さを示す幻想にとらわれる。
  3. 自分は特別なので特別な人間しか自分を理解できないと考えている。
  4. 過剰な賞賛を求める。
  5. 根拠のない過剰な権利意識を持つ。
  6. 他人を自分の目的のために利用する。
  7. 他人の感情に共感できない。
  8. 嫉妬しやすく、嫉妬されていると思い込んでいる。
  9. 傲慢で尊大。

自己評価と自己愛(ここでいう自己愛というのはナルシシズムのことである)は別の指標なので二つとも調べた。自分が得意分野を持っていてそれを自覚していても傲慢にならない人もいるからである。そのあとで小論文を書かせ「他人が評価した」という触れ込みの良い評価と悪い評価を渡す。さらにその評価をしたちいう人に会わせる。そのあと「反応時間を調べる」と嘘の説明をして大音量を聞かせる実験をした。大きな音を出すと相手はひるむので攻撃性の指標になるのだが、実験者には「反応時間を調べているのだ」と行動を正当化する説明が与えられている。

予想通り低い評価を聞かされたナルシシストがもっとも攻撃的になった。ナルシスストでない人の攻撃性は低かった。さらにナルシシストに別の相手(評価をした相手ではない)を当てると彼らは攻撃的にならなかった。つまり、ナルシシストは自分の評価を低めた人を攻撃するが誰でも攻撃するわけではないのだ。

ナルシシストはいつでも攻撃的になるわけではない。それが脅かされていると考えている時だけ暴力的になるのである。

ナルシシズムが条件付きで暴力を生むとすれば、自己評価が低い人を無理に褒めるのは危険かもしれない。自己評価を肥大させ自己愛的な傾向を強める可能性があるからである。根拠がない自己評価を与え続けられた人は常に承認を求め続けるようになるだろうし、そのバブルが弾けた時相手に対して攻撃性を向けるであろうということになる。

自己評価を肥大させるのは親などの周りの大人かもしれないし集団なのかもしれない。

いじめなどいろいろな分析に使えそうな実験だが、例えば日韓の関係に当てはめるのは簡単だ。日本人は東洋唯一の優等生として高すぎる自己評価を持っていたのだがバブル崩壊後その自尊心が傷つけられた。しかしそのままでは自己愛が満たせない。そこでそれを攻撃してくる韓国に対して過度の攻撃性を見せるようになったという説明ができる。また、「日本すごいですね」という番組も自己愛の確認である。日本人は自分たちが経済的に成功しているというよりも西洋から注目されちやほやされる存在でいたいのである。

さらにトランプ大統領を支持している白人も、もともと国内の有色人種を見下しておりさらに経済的な成功を手にしていたと考えることができる。彼らが没落したのはAIやオートメーション化のせいかもしれないが、そうとは認められない。だから自己評価が傷つけられた結果として中国やメキシコに攻撃性を向けているのだという説明をすることができる。トランプ大統領のように肥大した自己評価を持っている自己愛の強い人間が彼らの王となり「多少の嘘はやむをえない」として賞賛されているのは実は当然のことなのかもしれない。

こうした議論をどうやって沈静化させられるのかを考えるのは面白いが、彼らを褒めれば自己愛が肥大化するだけだ。かと言って否定すれば攻撃される。そうなると「彼らが求めている餌(賞賛)」はここにはありませんよとするのが一番良い方法に思える。だが、そのためにはスルーする側が安定した自己評価を持っていなければならない。

SNSは脅かされた自己中心主義同士が接触する危険性をはらんでいる。彼らが攻撃性を帯びた競争を始めた時、その議論は全て戦争状態に突入してしまうのである。その議論には落としどころがなくしたがって延々と続くだろう。

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政治議論は勝たなくては意味がない?

別冊日経サイエンス「孤独と共感」を読んだ。コミュニティについて学ぶのに良いのかなと思ったのだが意外と政治関係の話題が多くびっくりした。この本はもともと経営学でいうところのハーバードビジネスレビューみたいなものなのだが、政治的な分断が進んでいるアメリカでは問題意識や危機感を持っている学者が多いのかもしれない。




この中に「勝つための議論の落とし穴」という短い論文がある。議論の仕方によって考え方が変わってしまうという話である。

議論には学ぶための議論勝つための議論がある。アカデミズムの世界では議論は学ぶために行われることが多い。ところが政治的分断が進むと勝つための議論が横行する。勝つための議論では相手を打ち負かすことが議論の目的になっていて、人々は相手から学ぶことに興味がない。以前から政治議論はネットワーク的な島を作るということは知られていたがトランプVSクリントンの時期からアメリカでは二極化した議論が目立つようになった。あまりにも生産性が低く愚かに見えるので「どうしてこうなったのだろう」と考える人も多いのだろう。TwitterやFacebookでは敵対的な議論の方が広まりやすいという。つまり、SNSは議論分断の温床になっているようだ。

数学や科学には正解があることは明確とされるが、イデオロギーはその人の意見であり客観的な正解がない可能性が高い。それでも人々はそこに客観的な正しさを求めようとする。そしてどちらが正しいかを競い合うようになるのだ。

イデオロギーに正解があると考える人は自分と意見が異なる人と生活を共有するのを好まない。「意見が間違った人とは暮らせない」と考える傾向が強いということはこれまでも知られていたようである。「客観性があるだろう」という考え方が「多様性の否認」という行動に結びついている。

  • 考え方→行動

ところが政治的議論で勝つための議論を奨励すると「政治的意見には客観性がある」と考えるようになる傾向があるということがわかったという。つまり因果関係が反転している。実験ではその議論の時間はわずか15分だった。15分で考え方が変わってしまうのだ。

  • 行動→考え方

つまり、勝つための議論は多様性の否認というフィードバックループを生むらしいということがわかる。ここまではわかりやすい。

ところがここから議論が怪しくなる。論文を書いた人は明らかに多様性を重要視している。つまりいろいろな意見を受け入れるためには決めつけを排除すべきだと言っている。これは典型的にリベラルな姿勢だろう。

だが、このあと論文の議論は迷走しているように見える。地球温暖化に懐疑的な人の意見を受け入れる議論をするのは「間違っている」のではないかと言っている。リベラルにとって環境問題は重要でありその科学的知見は明らかだが、もしかしたら科学が地球温暖化の全容を知っているという前提そのものが間違っているのかもしれない。リベラルな人はそこを認められないのだろう。すでに「勝つための議論」に汚染されているということになる。

そこで論文の筆者たちは「温暖化懐疑派を受け入れてどっちつかずの態度」をとるのは間違っているのではないかと逡巡したのち「どちらの議論モードが”最善”であるかを直接的にきめることはできない」とまとめてしまっている。

もともと「なぜSNSが介在する現在の政治議論が決めつけと分断を呼んでいるのか」ということについて何も示唆はないので、どうしたら議論を「正常化できるか」というソリューションは提供しない。知見で終わってしまうというのが経営学との一番大きな違いだろう。

ただ、この短い文章を読むと議論で勝ちたがるのは日本人だけではないということだけは明白にわかる。さらに議論で勝ちたがっている人がいたら勝たせてやったほうがいいのだろうな。洋の東西を問わずどっちみちそうした人たちからは何も学べないだろう。つまり時間の無駄なのだ。

別冊日経サイエンス「孤独と共感」は政治議論がなぜ荒れてしまうのかということを考えるために役に立つ多くの知見が掲載されている。他にもトランプ大統領のような明白な嘘つきが信頼されるのはなぜかということを扱った論文や、いじめ加害者として暴力的になる人はどんな人なのかということを扱った論文がある。

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線状降水帯の恐怖を経験する

千葉市付近に強烈な雨が降ってきた。朝の時点では昼頃にはやむかなあなどと気楽に構えていたが止みそうにない。そのうち不安になってきた。食べるものがないわけではないが「このまま閉じ込められたらどうしよう」などと思ってしまったのだ。今回感じたのは雨の恐怖ではなく情報氾濫の恐怖である。




雨が止まないのはこの付近で雲が湧いて線状に北から南に伸びていたからだ。いわゆる線状降水帯というものである。話には聞いていたが経験したことはなかった。ただ、気象レーダーがあるので雨についての状況はすぐわかる。記録を見るとわかるのだが、それほど壊滅的な雨が降っているというわけではないのだが、それが数時間同じところで降り続けるのである。つまり、雨としては未曾有という感じではない。

雨がひどくなって移動できなくなってから千葉市が警告を出し始めた。自治体が出す警告にはなんとなくアリバイめいたたいものがあるのだがこれが出てから行動しては間に合わない。というよりその時にはもう外には出られない。これが最初の急につながる。つまり「そんなに大変なことが起きているのか」と思ってしまうのである。

ところが止み間が出てくる。そこで外に出て買い物をすることにした。後で冷静に考えたら別に買いに行かなくてもよかったのだが、慌てていると冷静さが幾分失われてしまうのである。ところが雨はそこでは止んでくれない。また降り始めた。

そのうちにTwitterがおかしくなり始めた。千葉駅が浸水したとか佐倉駅が川みたいになったというのである。事前にこの近くは台地になっていて大きな川がないということはわかっていた。それでも不安になる。もともと心の準備が全くできていないうえにあれよあれよという間に情報が氾濫するので追いつけなくなってしまうのだ。

テレビは駅などのメジャーな場所は扱ってくれる。そのうち部分的に都川や村田川といった近くにある川が溢れかけているようだという話が断片的に入ってきた。ところが肝心の周りの状態がわからない。千葉市は近くの川がモニターできるカメラなどを持っていないようだ。そこで「外に出て様子が見たくなってくる」のである。よく川を見に行って流されたという話は聞くし「ばかだなあ」と思うのだが、急激に状況がエスカレートすると合理的な判断ができなくなるのだろう。特に普段の流れが穏やかな中小河川ほどウェブカメラを設置したほうがいいかもしれないと思った。一級河川ではないありふれた都市水路のほうが実は状況が豹変しやすい。

雨が止むとほっとして状況が確認したくなる。この付近には大きな川はないが、県をまたぐような大きな川はあとから水が押し寄せてくる可能性がある。1日遅れで街が氾濫したというような話もあるのだが行政単位ごとに情報を区切っているので全容がわからないのだろう。周囲の状況が確認できる情報システムを整備しない限り、こうした犠牲者はこれからも出続けるだろうと思った。

結果的に5名が亡くなったというところで一旦話は落ち着いた。後になって朝日新聞は千葉と福島で10名が亡くなったと伝えている。あの程度の雨でもまとまるとこれくらいの死者になってしまうわけだし、ある日突然やってくると思ったほうがいい。

朝日新聞には高校生が帰れなくなったという話が出ていたが、千葉市では帰宅困難者も出たそうだ。さらに、成田空港へ行けなくなった人たちもいたようである。外国人は情報が不足して大変だったという話をQuoraで聞いた。いずれにせよ、朝の時点ではそんなことが起こるとは全く予想していなかった。普段から情報が入手できる手段を複数確保したり周囲の状況を確かめたりしたほうがいいが、一旦状況が起きたら逆に慌てないほうがいいのだが、とにかく情報が圧倒的だ。こんな中で平常心でいるのは難しいかもしれないが、それでも落ち着かなくてはいけないのである。

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神戸市のいじめ問題に見るリベラルの劣化

テレビ朝日で神戸市のいじめの問題を扱っていた。昔からいじめ気質あったという男性教師の問題から始まったのだのだが、なぜこのような人をスクリーニングできなかったのかというところに議論が及んだとたん問題の深刻さが浮き彫りになった。最近は先生の志望者が少ないので不合格が出せないのだそうだ。最近のワイドショーは誰かを叩くつもりで始めても日本社会の衰退を直視させられるという構造になってしまっている。




さらに教師の間の格差もいじめの原因になっていたようだ。「先生の質が落ちている」というバッシングがあった問いに「一般社会のように成績をつければいいのではないか」として制度を弄ったのが裏目に出ているようだ。成績の良い先生が悪い先生をバカにするようになってしまったというのである。

成績をつけるのは上司なので、最終的には校長先生の資質によって採点基準がまちまちになる。安倍政権下で優秀なはずの忖度官僚が政治に引き上げられてダメ議員に闇落ちするようなことがあるが、おそらく同じようなことが教育現場でも起きているのではないかと思われる。

バッシングのみでろくな対策を取らず教育の専門家と政治家に改革を丸投げしたツケがここにでてきている。だが、長年蓄積した問題なので複合的すぎてどこから手をつけていいのかわからない。今までソリューションを出してこれなかったのだからこれからもソリューションは出てこないだろう。

ところが番組としてはソリューションめいたものを出さなければならない。最後には尾木直樹さんに「専門家を集めて分析させ提言を出すべきですね」とまとめてさせていた。「ああまた同じような過ちが繰り返されるんだろうなあ」と思った。

教育現場は複合的な問題を抱えている。その根本にあるのは社会の援助不足である。社会は失敗には厳しいが援助はしたがらないという目線で教育現場を見ている。だから失敗すればするほど世間の目は厳しくなる。これは予算不足という衰退が生み出した副次的な症状だがそれが改善する見込みはない。政治が有権者を無視して自発的に援助を決めるまで日本の教育はこのまま荒れ続けるだろうが、自民党は自分たちの考えを道徳として押し付ける以外具体的なアイディアは持っていないように思える。

もう一つ「触れられなかった」面白いことがあった。それが革新市政と神戸方式についてである。テレビ朝日だから触れないのかそれともテレビ局がこの問題を政治と絡めたくないから触れないのかはわからない。

神戸市は1960年代から1970年代に革新市政となったらしいということは前に書いたのだが、Quoraでは阪神大震災の時に革新市政だったから自衛隊の援助をなかなか要請しなかったのだという話を聞いた。怒っている人も多いようだ。阪神大震災当時は村山政権時代だったので少なくともその頃まで革新市政が続いていたということなのかもしれない。その後革新市政がどうなったのかはよくわからない。

革新市政の全てがいけないとは思いたくないのだが、今回の件に関しては学校現場の性善説への過信は問題の根幹の一つだと思う。共産主義が崩壊したのは「人が権力を握れば独占したがる」という単純なことを忘れていたからだと思うのだが、リベラルは全般的に性善説を信じすぎチェックや抑え込みを過度に嫌いすぎるところがある。人は善人でも悪人でもないと思う。それは結果論である。

ただ、今回のプレゼンテーションを聞いて、確かに経済発展期には自主性を重んじる性善説の方が良かったのかもしれないなあと思った。かつて先生は聖職でありバブル崩壊後には狭き門でもあった。こうした時代には「自発的な改善」が成り立つ。ところが環境が悪化してきてしまうと「社会からの援助のない閉ざされた空間で行われる個人間の闘争」に変わってしまうのである。つまり、日本はもうリベラルを包摂する力がない落ちぶれた国になったのかもしれない。

テレビ局はこの問題を扱わないだろうが、多分神戸市では問題になっているはずである。社会が余裕を失い失敗を許さなくなると、かなり強烈な揺り戻しの動きが広がるだろう。多分報道されないであろう「改革」は教育現場への不信に彩られた改悪になってしまうかもしれない。

今回の問題は考えてみれば4人の教師の不埒な行動の話に過ぎないはずだ。だが、ソリューションを導き出そうとすると、様々なパンドラの箱が空いてしまう。問題がゴミ屋敷のように積み上がっている。だから、我々視聴者は誰かを叩いてそこそこ満足したらそのあとの解決を丸ごと諦めてしまうのである。

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東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。

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洪水が去ったあとでバベルの塔を見た

台風19号の死者が50名を超えたようである。朝日新聞によると54名が亡くなっており16名が行方不明だということだから合計すると70名になる。その後の報道でも増え続け、70名以上になるのは確実なようだ。




台風一発でこんなことになるんだと自然の驚異の恐ろしさを感じる。しかしそのあとの出来事はもっと恐ろしかった。人々は自然災害の脅威を目の前にして罵り合いを始めたのである。

最初の違和感は二階幹事長である。台風災害がまずまずで収まったと言い、批判が出ると撤回した。世論の反発を期待した野党だけが騒ぎ、自民党幹部たちは何も言わなかったようだ。そのあと予定していた通りに予算委員会が再開された。台風15号よりも内閣改造を優先した安倍政権らしい対応だった。「心ない人たち」とはまさにこういう人たちの事をいうのであろう。

今回の台風の第一の教訓は「自分たちのところでなくてよかった」が間違った安心感を与えるということだ。千葉の人たちは停電被害や風でなぎ倒された木などを目の前で見ているので過剰に身構えてしまった。一方で、台風15号で被害に遭わなかった人たちは、事前に未曾有の雨をもたらすだろうという情報が出ていたにもかかわらず「まさかうちがこんなことになるとは」と口を揃えた。同情はしても当事者意識を持たなかった人も多かったのだろう。

今高度経済成長期に推進した治水事業が想定する以上の自然災害が起こっている。だが、日本にはもはや高度経済成長期並みの土木工事を行う余裕はなく、したがって「どう逃げるか」に頭を切り替えなければならないのかもしれない。自然は我々の想定をはるかに超えてくるということを謙虚に受け止めるべきであろう。かつてならそれは「神の怒り」などと説明されただろう。

ところがTwitterでは堤防が壊れたことで、やはり民主党政権は間違っていたというTweetが飛び交っている。自然の脅威を目の前にしてもまだ自説にこだわっている人が多いということがわかり慄然とする。そうまでして勝ちたいんだと思うと同時にこの恨みがどこから来たのだろうかとも思う。

第一に「弁舌の爽やかさ」に対する恨みなのではないかと思う。日本は学校で自分の説を論理的に伝える勉強をしない。それでも頭の良い人たちは自分の説を伝える術を身につけてゆく。その他大勢の人たちは自分たちの気持ちを伝える術もなく。不安を共有することもできずに社会人になってしまう。彼らは時には鬱屈した感情や不安を持つだろうがそれを解消する術を持たない。そこでそれを晴らすためにこうした機会を利用してしまうのである。民主党への怒りはそこに向いている。

武蔵小杉や世田谷といった高級住宅が被害にあったことでヤフーコメントには「あんなところにマンションを建てるからだ」などといったコメントが並んでいた。どこかやっかみの気持ちがある人たちも多いのだろう。彼らもまた妬みの気持ちをぶつけている。SNSはこうした我々が持っている恨みや妬みの気持ちをありのまま映し出す。

今民主党批判をしている人たちは洪水被害を受けなかった人たちだから、自分たちは助かった(つまり被害は他人事だった)と勝手に想定した上で、自分たちが助かったのは<あの憎き>民主党政権が堤防を妨害しなかったからだと勝手においてしまう。この「他人事でよかった」という気持ちは正常性バイアスを強化する。そのうち現体制を支持しているから自分は安心であるし安心であるはずだという間違った認識が生まれることになる。政治は実は何もしてくれないからこうやって自分たちを慰撫するしかないのだが、裏側には庶民が怒りを持っても何も変えられないという諦めがある。

この「自分の身に災厄が降り懸からなくてよかった」と考えたのは何も庶民だけではなかったようだ。二階幹事長はまず「地元でなくてよかった」と考え、次に東日本大震災クラスの災害が起これば自分たちの地位が危ないぞと考えたのだろう。これも「自分たちでなくてよかった思考」である。気持ちはすでに自分の地位をどうマネタイズするかに向いており国家の危機に関心はない。そして国民はもはやそれに怒らない。怒ってもどうにもならないことを知っているからだ。

この刃はすぐに自分たちに向く。自分たちが同じ目にあっても国や社会は助けてくれないだろうなということが否応なく自覚されてしまうからである。こうして私たちの社会は少しずつ壊れてゆく。あとできることは自己防衛に務めることで、具体的にはお金を使わずにとっておいたり、スーパーで食料を買いだめすることくらいになってしまうのである。我々の社会はもはや危機を叫ばない。

私たちが本当にショックを受けているのは高度経済成長期に克服したと思っている問題が実は解決していなかったということだ。このまま堤防を積み上げていっても不安を拭い去ることはできない。もともと沖積平野や氾濫原で暮らしてきた我々日本人は、堤防決壊を事前に察知して逃げる手段を考えたり、何かあった時に生活再建ができるような保険制度の拡充などを考えたほうが実は良いのかもしれない。また地下や低地に家を建ててそこに高価な機材をおくのは止めたほうがいい。堤防を高く高くするより普段から退避できる回数を増やしたほうがいいかもしれないのである。

だが、我々の社会はこうした気持ちの切り替えができずにいる。不安だから誰かを罵り、自分たちでなくてよかったと考え、それが油断をうみ、新しい不安を生むという悪循環である。

だが人々の罵り合いを見ていると、どうやら当事者になるまで人々は考えを改めるつもりはないらしい。私たちはこうした人々を説得できない。潜在的な不安を抱えつつ傲慢になった人々に届く意思疎通可能な言葉ないのだから、それはまさに現代版のバベルの塔である。言葉は通じても気持ちは伝わらないのだ。

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台風19号の不安と止められない社会

台風19号が過ぎ去って被害状況が見えてきた。長野県から関東地方を挟んで岩手県あたりまで大規模河川の決壊と浸水が相次いだようだ。教科書で習ったような大河川が軒並み被害を受けた。21の河川が氾濫したという。そんな台風だった。




しかしよく聞いてみると「最近は氾濫したことがない」だけで実際には氾濫の履歴はあったようだ。つまり日本の治水というのは被害の先延ばしになっているということがわかる。大きな堤防を作れば数十年間被害を食い止めることができるが、その分一度被害が出るとその影響は甚大なものになる。そもそも川の土砂が作った土地(沖積平野)の上に住んでいるのだから当然のことなのだ。かつての日本人は沖積平野沿いの谷筋に家を持っていた。古い集落は今でも高台に建っているはずである。

だが、高度経済成長期にそのことを忘れてしまった日本人は、Twitterで民主党の政策が悪かったなどと言い合っている。かつての治水の歴史を日本人は忘れてしまったのだろう。どこから来たのかということに興味を持たず他者への罵倒に走る人たちが保守を自認している。

またコミュニティも大きく損なわれていることがわかった。マスメディアや国と一人ひとりの間を取り持つ存在が消失しかけている。

現在の保守・中道政権は過疎地域対策に興味はあっても都市コミュニティの構築にはほとんど興味がない。彼らは古いものも守れないし新しいものが作れない。こうしてできたのが砂つぶのような社会である。

概念的なことはさておき、予算制約は深刻な問題を引き起こしている。千葉県ではヘリコプターを持っておらず千葉県の自治体にもヘリコプターを持っているところがほとんどないということだ。千葉市は二機持っていて、一機は市内の様子を把握するのに使われ、一機は福島県に貸し出したそうである。

また香取市の氾濫対策に千葉市が入るという話もあったそうだ。のちに自衛隊が入ることになり収まったようだが地域によってはかなり人手不足が顕在化しているところがあるようだ。

国は権限と予算を手放したがらず、したがって地方自治体も広域連携や災害対策は国の仕事だろうと思ってしまう。間がすっぽりと抜けてしまっているのだ。

江戸川区では「区内全域が避難対象になった」そうだがどこに逃げていいかわからないという人もいたようだ。それについて呟いた人が逆に「なぜ普段から準備していないのだ」などと叱られているTweetが流れていた。日本人は不安を共有できない。不安を共有すると弱者とみなされ逆に「準備が足りない」とか「意識が低い」などと叱責されかねない。コミュニティはすぐには作れないし、いったん壊れてしまうとこのようなことが起こる。助けを求めた人に将来助けが必要になるかもしれない人が「マウンティング」をかけてしまうのである。これがリーダーや統治者のいない社会の実情である。

調整は効かないがなんとなく動いている社会では「目の前の問題は無視しろ」という圧力の他に「とにかく今動いているものを止めるな」という圧力がかかる。そしてその圧力を受けるのは人が足りなくなっている現場である。運送・配送の現場でもかなり悲惨なことが起きているようだ。

JRは電車を止めて無理に通勤者が出てこないようにした。前回台風15号の時には一部が止まったために「行けるところまで行こう」とした人たちが津田沼駅で何キロにも及ぶ列を作ったりしたからだろう。今回、確かに鉄道では混乱は起きなかった。

ただ「自己責任」にすると必死で職場に到達しようという人がたちが出てくる。自分たちの手で自分たちのオペレーションが止められないのである。

Twitterでは「帰りの電車が見つからないなら働いた後に適当に泊るところを探せ」というような配送現場がでているというような話が出ていた。真偽はわからないがありそうな話ではある。

お店に品物がないことにも耐えられなくなっている。コンビニではずぶ濡れで品物を運んで物流を支えた人たちもいたようだし、トラックドライバーを休ませるなという話もあったそうだ。こうした話がちらほらとTwitterで流れてくる。どうにかならないものかと思う。

全体として「止まったら死んでしまう」というような強迫観念にとらわれているという印象を持った。日本は補給が十分でないインパール作戦を戦っているのだが、一体何と戦っているのか、誰の指示で戦っているのかがわかららない。だからとにかく戦い続ける。多分疲弊した人たちから徐々に消えてゆくだろう。政治はそこにあるがすでに不在になっているのだろう。そしてそのことに誰も憤らなくなってしまっている。

今回も日本には自然災害が多く「何かあったらオペレーションを止めざるをえないほどの被害が出る」ということを学んだ。だから何かあったらオペレーションを止めて「復興に全力をあげましょう」といリーダーか統治者が必要なのである。日本人はこれまでもそうしてきたし、これからもそうせざるをえない。

だが、どこから来たのかどこへ行くのかを全く気にしない「自称保守とやら」からはそんな話は聞こえてこなかった。これが我々を不安にさせている。

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不安を言い出せない社会と拡散するデマ

先日スーパーでパンがなくなったという話を書いた。不安な人が多いんだろうなあと思ったのだがQuoraやTwitterでは未曾有の台風なのだから備えて当然だというコメントをいくつか頂いた。もちろん備えるのは悪いことではない。




しかし、別の店にはまだパンがあった。多分テレビで情報を見て心配になり、買いに行ったら実際に品薄になっていた。そこで心配になり余剰の購買につながったのだろう。つまり今回強調したいのは備えることの是非ではなく、その行動が合理的かどうかである。合理的でないとしたらなぜそうなるのかということだ。

台風19号に備えてパンがなくなったスーパー

まずなぜそうなるのかという点から考える。今回は「身近に危険が迫っている」というメッセージがあった。さらに過去に南房総の住人がひどい目にあっているという情報も流れてきた。ところがソリューションを提供する人がおらず(マスコミは情報を流すだけなので地域コミュニティがなんとかすべきだった)解決策が見つからない状況になっていた。すると人々は過剰反応覚悟で備えるしかなくなる。

単純に言えば「地域コミュニティの不在」が招いた事態といえる。マスコミは情報を伝えてはくれるがコミュニティまでは作ってくれない。そんな中で砂つぶのようになった人々が情報を受け取るとこうなるのだ。

砂の粘度が現れているのがコミュニケーションの不在である。

今回見ていて「だれも何も言わない」ことがとても気になった。高齢者が棚をぐるぐると回っている。歩いてもパンは見つからない。とはいえ騒ぐ人もいない。なぜならば災害はまだ起きていないからである。つまり「未然の状態」なのだ。

高齢者が何も言わないのは彼らが戦後の混乱期という自己責任社会に育ち、今まただれも頼れないという時代を生きているからだろうと思う。加えて未然の状態であり目の前に明白な危機がない。漠然とした不安を抱えると人は合理的でない行動を取る。

彼らは「迷惑をかければコミュニティから排除されて捨てられる」という社会を生きてきた。だからよく「迷惑はかけられない」という。中には電車に乗って席を譲られると逆に怒り出す人がいる。彼らにとって迷惑をかける人というのはすなわち社会の厄介者であり無価値な存在だということになるのだろう。助けが必要な人ほど引きこもってしまうのだが、普段はそれが目に見えない。

と同時にそれは彼らが「役に立たない存在」向けてきた刃でもある。今でも、電車に乳母車と一緒に乗ってくる人たちに向けられる「迷惑だから家にいればいいのに」という暗黙の視線である。これは、現在の少子化につながっている。個人が自己責任の殻に引きこもっているが故に協力して全体最適を目指すということができないのだ。

ところが黙っているのは彼らだけではなかった。お店の人たちも何も言わない。話題を振ってみたが凍りついた笑顔で対応されただけだった。こちらは別の理由が考えられる。彼らはパートで発注権限がない。このために物資がなくても何もできない。多分そういう気持ちがあって目の前の問題を見てみぬふりをしてきたのだろう。この地域は一週間電気が止まっており恒常的に品薄が続いていた。そのときも何もしなかったしできなかったのだろう。現場からの声がなければ発注側は異常に気がつかない。

今回の台風被害ではあらかじめ想定されていた風害と停電に対しての初動は早かった。役所がフォーメーションを組んでおけるからだ。しかし今後予期せぬ洪水に対してどう対処したかが検証されることになるだろう。今の役所には権限がない。このため事前に決めておいた通りにしか動けない。日本社会の雇用環境が硬直化しておりリーダーが権限を握りしめているために柔軟に動けない。

高齢者は声を上げず現場もなにもできない。こうなると、全体が沈黙を守ることだけがパニックを防いでいるという状態になる。不安は封じ込めるしかない。すると当事者たちは自己防衛的な気分を強めてゆく。今回は局地的な品薄という問題だった。多分貯蓄を抱え込んで使わないというのも同じ気分に由来するのではないかと思われる。だが、社会がない以上そうするしかないのだ。我々が見ているのはかつて我々が作ってきた社会の廃墟であってその中身は多分かなり荒れ果てている。

沈黙が問題を解決しないのは明らかである。問題が解決しないのだから不安はいつまでもなくならずさらに全体的にみると合理的でない行動が繰り返される。多分、必要なのは「パンがなくて大変ですねえ」と笑ってみせることだ。だがそれをやろうという人は誰もいなかった。

この裏返しとして台風19号は未曾有の大きさの台風であり地球最大のカテゴリー6クラスであるというデマまで飛んだ。江戸川区が浸水して1週間は帰れないだろうと断言する人たちもいた。解消できない不安は匿名の情報空間に反動的な情報を拡散させる。実際に台風19号は広い範囲で浸水被害を起こしている。だから、Twitterには信頼できる情報だけを流すべきだ。それでも、不安の中で人はありもしない情報を拡散させ、またそれを信じてしまう人が出てくるのである。

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