演歌の誕生 – 日本人にとって理論化とは何か

政治問題を扱っていると「保守とは何か」という疑問にぶち当たる。「だいたいあの界隈ね」ということはわかるのだが、本質を抜きだそうとしても抜き出せない。本質が抜き出せないためにそれに対抗しようとすると対抗運動も崩壊する。




「日本の保守が害悪だ」とするとそれを潰したいわけだが、それが潰れない。だからいつまでたっても我々の社会は停滞したままだというのがこのブログの考えている行き詰まりである。そしてそれを我々は野党がだらしないからだと説明している。でもそれは説明になっていないし何の解決にもならない。

こんな時にはどこか別のところからヒントが降りてくることがある。今回のそれは演歌だった。後付けだが歌謡曲の保守思想である。この演歌というジャンルは1970年にはすでに存在しており「昔からあった」ような印象がある。ピンクレディーが奇抜な歌謡曲を歌っていた時「昔からずっとやっている歌手」が「日本の伝統である演歌」を歌っていたという感じなのだ。

Quoraで回答するためにその演歌について調べた。回答そのものはいい加減なものになったが調査の読み物はとても面白かった。演歌は実は昔からあったジャンルではない。1970年代に新しく作られたジャンルなのだ。

もともと演歌の演は演説の意味だった。川上音二郎が元祖とされているそうである。ところが政府が政府批判を認めなかったこともあり政府批判を基盤とした演歌はなくなる。そして、大衆音楽の中に溶け込んだ。個人としての日本人は社会や国家などは扱わせてもらえなかった。個人で自由に表現できるのは個人の心情だけだったのである。小説の世界では自己を確立して外に打ち出すこともなく、心情を扱う私小説が流行したりしている。

大衆の歌は流行歌と呼ばれたようだが、これとは別に艶歌と呼ばれる一連の歌モノがあったようだ。楽器を使って街中で歌本を売り歩くような人たちを艶歌師と言っていたようだ。艶歌はプロモーションの一環であり歌は売り物ではなかった。

戦後、流行歌は次第に西洋音楽を取り入れて変わってゆく。基地まわりをする人たちが西洋のジャズなど取り入れて新しい流行歌を作った。高度経済成長期になると、都会に出てきた地方の人たちが望郷の念を募らせ歌を聴くようになった。ニーズを持ったユーザーの集まりも生まれた。しかし、グループサウンズやフォークなどが出てくるとこうした歌は「古臭い」として嫌われるようになってゆく。時代が急速に変化しアメリカから新しいジャンルが次から次へと出てきていたのである。

そんな中、五木寛之が1966年に「艶歌」という小説を出して「艶歌の再発見」をした。つまり西洋音楽に乗らない日本人の感情を歌ったのが「艶歌である」と言ったのである。「演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間」によると、もともと西洋音楽と日本の音楽を雑多に混ぜ合わせた「流行歌」というジャンルから再構築されたのが艶歌である。そして1950年代からこうした歌を歌っていた人たちが演歌を自認するようになってゆく。春日八郎がその最初の一人であろうとWikipediaは言っている。

ここで「艶歌」という名前がなぜか「演歌」に変わっている。この「演」という言葉がどうして再び出てきたのかという説明をしている人は誰もいない。おそらく昔からあって文字が簡単だったのでプロモーションに使いやすかったのではないかと思う。この時点で演歌は昔からあったということになっているのだから、もはやもとの「演説」という意味を意識することはない。その実態は古びた望郷の歌だったのである。

まず正当化すべき内容がありそのために正当化に使えそうな箱を見つける。そしてあとはその箱の中で好き勝手にやりたいことをやる。これが日本的なジャンルの作り方なのである。ただ、これだけだと例が一つしかないことになる。J-POPについても見てみよう。

演歌を古びた地位に追いやった一連の音楽は歌謡曲と呼ばれるようになる。これも意味があるようなないような不思議な名前だ。だがやがて若者は歌謡曲に飽きて洋楽を聞き始める。昭和の終わり東京に英語で音楽を流すJ-WAVEというFM局ができた。ちょうどテレビでMTVなどをやっていた時代だ。

WikipediaのJ-POPの項目をみるとJ-WAVEがこれまでの歌謡曲と違った新しいポップスにJ-POPという名前をつけたことになっている。1988年から1989年にかけてのことだ。ちょうど平成元年頃の出来事ということになる。J-WAVEは日本の歌謡曲の中から「洋楽と一緒に(つまり英語で)紹介しても」遜色がない音楽を集めてJ-POPという箱を作ったのだ。古くさいと思われていたものをリパッケージ化したのである。

だから、あとから演歌とは何かとかJ-POPとは何かと言われると実はよくわからない。平成の最初の頃の洋楽っぽい音楽もJ-POPだが「AKB48」も「モーニング娘。」もジャニーズが歌う演歌っぽい音楽もJ-POPである。単に正当化の道具なので誰もJ-POPがなに何なのかということは考えない。

面白いのは平成元年頃に作られたJ-POPという音楽が今でも使われているということだろう。これに代わる新しい言葉はできていないわけで、それはつまり新しい音楽の聞き手が現れていないことを意味するのだろう。邦楽は30年もの間J-POPから進化しなかった。アメリカから流行を取り入れるのをやめてしまったからだろう。

音楽では演歌はただ忘れ去られてゆくだけだ。誰も演歌に不満をいう人はいない。保守に対して文句をいう人が多いのは実はそれに変わる新しいものが現れていないからなのである。

もともと保守にも実態はない。それは戦後の民主主義思想に乗り遅れた人たちがこれこそ日本の伝統であったという再評価をして自身を正当化しているに過ぎないからである。そしてそれに対抗する人たちも、社会主義・革新・リベラルという名前をつけて正当化を図っているに過ぎない。保守という実体のないものへの対抗運動なのでさらに実態がない。つまり、保守やリベラルをどんなにみつめても課題や問題点は見つけらないことになる。

音楽の流行は西洋音楽によって作られる。日本でこれが起こらないのは、多分日本人が新しいものを作ろうとはしないからである。なので、西洋から新しいものが入ってくるまで日本人は今の状態に文句を言い続けるはずだ。

面白いことに一旦箱ができてしまうとそれは人々の気持ちを縛る。多分演歌界の人たちはファンも含めて「これが演歌である」という経験的な合意がある。それに合わないものは「伝統にそっていない」として排除される。保守にせよリベラルにせよ「我々はこうあるべきだ」という思い込みがありそこから動けなくなるのだろう。

平成というのは西洋から新しいものを取り入れるのを諦めてしまった停滞と安定の時代だったということになる。停滞に文句は言っているが実はそれが日本人にとって居心地の良い状態なのだ。

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日本が独自に民主主義を作ればそれは何もしないための仕組みになるだろう

連日韓国のニュースをやっている。「韓国はうまくいっていない」と主張することでうちは韓国よりもマシだという気分に浸りたい人が多いのだろう。みんな安心して騒いでおり目を背けたいニュースがそんなにも多いんだなという気分にさせられる。




Quoraでは、韓国とは断交したいが中国や北朝鮮のトクになるのは困るという質問を見かけた。日本人は民主主義という概念は理解しないが、誰か他の人がトクになると悔しく逆に誰かが困っていると自分が嬉しいという「細かな社会的会計」の概念を発達させている。このため意思決定に時間がかかり結局何もしないことを決めてしまうのである。小さな集団では機能する社会的会計だが集団が大きくなりすぎると予測が人間の脳の容量を超えてしまうのかもしれない。

ワイドショーを見ていて「面白いな」と思ったことがあった。「大統領が変わるたびにこんなに政策が変わっていいのか」という戸惑いの声だ。有権者が方針を決めたらそれによって劇的に変わるのが「民主主義だろう」と思ったのだが、日本人には受け入れられないらしい。

民主主義は意思決定の仕組みなのだが、日本人が求めるのは継続性と安定である。つまり日本人が意思決定の仕組みを決めると「何もしない」ことを選ぶ可能性が高い。多分日本人が決める憲法は「みんなでよくよく話し合って何も変えないために誰にも権力を持たせないようにしよう」というものになるだろう。

これを考えていて、面白い問題を見つけた。それが英語入試改革である。2013年頃に楽天の三木谷社長が「日本人は実用的な英語ができないから試験をTOEFLにしたらどうか」と言っている記事を見つけた。この線に沿って受験の改革も進められたがどういうわけか現場が大混乱しているらしい。なぜなのだろうかと思った。

Quoraで聞いてみたら「入試が変わって学生が戸惑うのは当たり前」と受験生の事情を切断した上で「何のための改革なのかわからない」と戸惑う大学の教授の回答がついた。この教授は英語教育には自分の考えがあるようだ。そもそも高校の先生が英語を話せないのに「試験を変えたからといって高校生が英語を話せるようになるはずがない」と言っている。そこまでは確かにその通りである。ただそこから教育方針を決める会議が「企業と一部の大学関係者に限られている」という不満に流れてしまった。つまり彼には彼の言いたいことがあり、その他のことはどうでもいいとは言わないまでも優先順位が低い問題なのである。逆に三木谷さんから見るとアカデミズムがどう考えていようと自分の会社の成果さえ上がればいいわけだ。つまり、日本人はお互いに他の村のことを聞く気持ちがない。

企業は英語が話せる即戦力がとにかくほしい。どうしていいかわからないから入試を変えたらと提案した。ところがもともとの目的が伝わらずどういうわけか「入試を変えたら」という話だけが一人歩きし、おそらく民間英語テストの利権確保などの話も加わり、かといってそれでは評価できないから旧来のテストも残そうということになり、最終的に混乱に至ったということになる。

そして、その間の全体像を知っている人は誰もいない。よくプロジェクトマネジメントがないというような話を聞くが、文部科学省も決められた通りに会議を行っただけで全体を通して物事を調整しようという気持ちにならなかったのだろう。そして官邸も自分たちの考えを学生に押し付けることに関心はあっても、日本の教育そのものには関心がない。

ふらふらと散策しながら日本人が決められない理由を探してきたのだがもう3つも見つかった。どういうわけか日本人は「目標を立ててそのために制度を変える」のがとても苦手なのだ。

  1. 誰が損をして誰が得をするかわからないから意思決定ができない
  2. そもそも急激に何かが変わると不安だ
  3. 目的意識を共有しようという気持ちが全くない

ここで韓国との比較は面白い。韓国は権力構造が変わると処遇が変わるという国だった。最初から中央集権化が進んだからであろう。中央集権化が進んだのはおそらく中国が大きすぎる敵だったからだろう。ところが日本は最後まで完全な中央集権化は進まなかった。藩を単位とした小集団が作られその中で比較的自由に意思疎通ができた。それでよかったのだ。韓国のような強い敵がいなかったため、小さなグループがお互いを牽制しながら全体としては何も変えない仕組みを作ったのだと思う。それが藩の生き残りに有利に働くからだ。狭い空間で争って滅ぼされるよりも相手に干渉しないほうが生き残れる確率が高かったのだ。

日本人は小さなグループの中で自治的な関係を保つことを好み、あまり他者から干渉されたくない。中で小さな変化はあったとしても大きな変化が外からくることを本質的に嫌うのである。

また、同質な他者が集まる関係の中で取り立てて個人主義を発達させる必要もなかったのだろう。現代の民主主義は個人主義との相性が良くしたがって日本人が民主主義を理解できないのは当たり前である。

このため日本人が最初から民主主義をデザインするならば藩レベル(つまり県よりも細かい)の集団主義的な民主主義になるはずである。そしてその目的は藩の維持、つまり何も変えないことだ。

実際に日本の経済は成長と発展から取り残されてしまった。ところが皮肉なことに成長がないから格差も広がらない。停滞と安定は同じことである。これはこれで良さそうな気がするが、戦後日本が手を染めた自由主義経済は成長を前提にしている。つまり成長を前提にした仕組みと成長しない仕組みが軋轢を引き起こす。

ポピュリズムが日本ではまだ流行らないのはなぜか?静かに迫る「民主主義の危機」はそのような筋立てになっている。社会保障制度は成長を前提にしているため、これが崩れるだろうといっている。現代の日本は動きが止まった人間ピラミッドのようなものだ。すなわち重みに耐えかねた下の方から疲労骨折で圧死する社会である。ただ圧死者は少ししか出ないので全体としては格差が少ないように見える。しかし社会保障の仕組みはある日突然破綻するだろう。その衝撃はかなり大きなものになるはずだ。

それでも我々は小さなグループに閉じこもり何もしないことを選ぶのである。

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トウモロコシで安倍政権はまた一つ嘘を重ねる

日本がアメリカからコーンをたくさん買うことにしたという。ところが日本側の報道をみてもどんな合意があったのかさっぱりわからない。やっとAERAの電子版が「あの説明は嘘だろう」という記事を出してジャーナリズムを批判した。新聞の政治部は安倍政権から人事関係の情報をもらいたいので政権が嫌がることは書けないのだろう。だから週刊誌の電子版という離れから批判するしかないのだ。




アメリカ側のニーズは明確である。トランプ大統領の関税戦争に報復するために中国は支持基盤である農家を狙い撃ちにしているらしい。ロイターによると大豆・豚肉などの被害が大きいようだ。しかし、被害がどれくらい出るかはよくわからない。それくらいアメリカは揺れている。トランプ大統領は補償を打ち出したが、6月にすでに多くを使い果たしているという報道もある。つまり今回のトランプー安倍ディールはアメリカ政府の補償の肩代わりの役割を果たすことになる。

To compensate for lost sales to China, the U.S. government has offered $28 billion in aid to U.S. farmers, of which about $8.6 billion had been doled out as of the end of June.

Factbox: From phone makers to farmers, the toll of Trump’s trade wars

Quoraで聞いてみたがやはり安全保障上アメリカがパートナーであり中国とは敵対しているという安全保障に関連する見方がでた。つまり、安倍政権は安全保障上トランプ大統領の支持者を支えているのだろうという説である。日本から見ると出てこない姿勢だなあとなんだか感心させられた。

しかし、そもそもこの話題に興味を持った人は少数派だ。英語版ではトランプ大統領がアメリカの農業を破壊するという質問には関心が集まっていた。しかも向こうで勝手に文脈が作られた説も流布している。全てロシアが関与しているのだという説にたくさんの高評価が付いていた。

日本のトウモロコシはほとんどが輸入されているそうだ。65%は家畜用の飼料で20%はコーンスターチとして加工されているという。もともと9割はアメリカから買っている。しかし、このコーンは穀物としてのトウモロコシだ。野菜としてのトウモロコシは別扱いだ。こちらは意外なことに自給率が99%もあるそうである。さらには今回病害虫の被害が出ているという葉っぱや茎を食べさせるトウモロコシもあるそうだ。整理するとこうなる。

  • 野菜としてのトウモロコシ:(遺伝子組み換えだと騒ぎになっている。どうせ飼料用のトウモロコシに混ぜて使うんだろうという強者までいた)
  • 飼料用穀物トウモロコシ:(すでにアメリカから買っていて今後追加で買う)
  • 飼料用の葉と茎を利用するトウモロコシ:(軽微であるが病気が南九州で見つかっている)

飼料穀物としてのコーンを追加輸入する可能性が高いのだがそもそもアメリカから買っているため「単に数百億円の余剰のコーンが増えるだけ」ということになる。ブタが突然二倍のトウモロコシを食べるようになるとは思えないから余剰在庫になるのだろうし、そもそもいつまでも買い続けるわけにはいかない。

一方でTwitterで出ているように日本人の食用のトウモロコシが遺伝子組み換えに侵されて健康被害が増えるということもなさそうだ。遺伝子組み換えトウモロコシが栽培されれば生態系には影響は与えそうだが、今回は輸入種が入ってくるだけである。そもそも家畜の餌になっておりそれが二次的に我々の口に入るに過ぎない。

新聞はあてにできない。アメリカの世論も混乱しているし日本でも環境派が騒ぎ出している。そして日本政府の説明もデタラメである。こんな時は原典を当たってみるに限る。きっと有益な情報が見つかるのではないのだろうか。

トランプ大統領の発言がホワイトハウスにあったので読んでみたのだが。ほとんど何も言っていない。全てが感覚的な言葉で彩られ「何を大筋合意(agreed in principle)したのか」がさっぱりわからない。言っているのは「全ては自分たちの思い通りに行った」ということと「国連総会(UNGA)の時に合意することができるだろう」ということだけである。曖昧なのに最後に全部で合意したとまとめている。

PRESIDENT TRUMP:  So, thank you very much.  We’ve been working on a deal with Japan for a long time.  It involves agricultural and it involves e-commerce and many other things.  It’s a very big transaction, and we’ve agreed in principle.  It’s billions and billions of dollars.  Tremendous for the farmers.
And one of the things that Prime Minister Abe has also agreed to is we have excess corn in various parts of our country, with our farmers, because China did not do what they said they were going to do.  And Prime Minister Abe, on behalf of Japan, they’re going to be buying all of that corn.  And that’s a very big transaction.  They’re going to be buying it from our farmers.
So the deal is done in principle.  We probably will be signing it around UNGA.  It will be around the date of UNGA, which we all look forward to.  And we’re very far down the line.  We’ve agreed to every point, and now we’re papering it and we’ll be signing it at a formal ceremony.

Remarks by President Trump and Prime Minister Abe of Japan After Meeting on Trade | Biarritz, France

終わりの方でも念押しをするようにコーンについて安倍首相に語らせようとしている。選挙キャンペーンに協力するような画を撮らせたかったのだろう。安全保障の問題で「北朝鮮の短距離ミサイルは日本の問題だから」と言って何も語らせなかったのとは全く人が変わったようである。

表向きは病害虫の件を持ち出したようだが、先に調べたように日本のトウモロコシはアメリカの飼料用コーンとは関係がなさそうだ。安倍首相がよくわかっていなかったのか、あるいは事務方がごまかしたのかはわからない。国会運営でおなじみの不用意なことをいって後の対応を菅官房長官に丸投げするという構図である。この後野党が嘘だ嘘だと騒ぎ立て国民が疲れて終わりになるのだろう。

トランプ大統領にとってはそもそも記者会見が大切だったのだし、日本も当座のメンツは立つことになる。ただ、後の説明はいつものようにおざなりである。安倍首相は国民への説明などどうでもいいと思っているのだろうなあと改めて思わされる。

冒頭に述べたように、日本のメディアはほとんどこの件について触れていない。取材が難しいのか何かに遠慮しているのかはわからない。日本政府がメディアを検閲しているとは思えないのでメディアがなんらかの事情で自粛しているのだろう。

そこで自分で調べてみるとSNSでは様々な情報が飛び交っている。その意味では新聞の政治報道は自殺を図っているのだろうなあと思う。人事という情報を「自分たちがいち早く知る」ためのゲームに奔走し、国民にとって何が一番重要かを考えることを忘れ、必要な情報を正確に早く伝えることを放棄しているのだ。

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政治的対立をこれ以上激化させないためにはどうしたらいいのか

このところ日韓対立をもとに「どうしてこうなったのか?」ということを考えてきた。




もともと国内政治の矛盾を隠蔽するために「対立を利用しよう」とする動機が日本にも韓国にもあった。これがお互いに呼応する形でエスカレートして行き誰にも止められなくなってしまっている。これをどちらかだけのせいにするのは難しそうだ。お互いの政権二同じようなニーズがあったと考えるべきだろう。また、アメリカは地域の調停に興味を失っておりこれも対立に拍車をかけている。

この対立は何も日韓関係だけではない。相似形はいろいろなところにある。例えば香港と中国の間に対立があり、インドとパキスタンにも対立がある。さらにイランとイスラエルも直接対決を始めたようだ。中国とアメリカも対立しており株価や経済に影響が出始めている。局所的にはインドネシアの西部(パプア)でも地元住民との間で対立が深まっているようである。これを全てアメリカのせいにすることも難しそうだ。どういうわけか対立は連鎖する。

背景にあるのは国内の経済的な困窮や不安などがあるのだろう。この不満が仮想敵を見つけてしまうとどこまでも燃え上がる。政権側がこれを利用して気を逸らそうとする場合もあるし、民衆側が仮想敵を見つける場合もある。

香港は経済上の地位の低下が不満に結びついたようだ。インドはヒンズー主義の台頭が原因になっており、インドネシアは国粋主義的な団体がパプア系に心ない言葉を浴びせたのがきっかけのようだ。パプアはイスラム圏のインドネシアにあって唯一キリスト教が優勢であり民族構成も頭部とは大きく異なる。イスラエルは首相の進退をかけた総選挙を控えており米中対立もトランプ大統領の選挙キャンペーンが原因だろう。

こんななか対立を抑制する方法にも見通しがついた。日本人は歴史教育は受けるが歴史の分析や討論の分析は行わない。かなり教育水準が高いはずの日本で、こと歴史・政治議論が先鋭化しやすいのは政治・歴史問題が「個人の印象」以上のところに持ち上がらないからである。つまり問題を社会化すれば解決の糸口が見つかる。

政治議論を観察していると、印象から作られた自分のポジションに都合が良い材料ばかりを集めてくることがわかる。この過程で「本音と建前」という二種類のロジックを使い操作しているのではないかという仮説も作った。綿密に文脈を作れてしまうために、却って元あった形が見えにくくなってしまう。このため社会で問題を解決するのが難しくなり議論が膠着するのだ。

「議論ができない」理由がわかれば対策が立てられる。つまり日本人は解釈をあまりにも重要視するので、元あった議論の形がわからなくなると大変不快な状況におちってしまうのである。ここから脱却するためには本音も建前も実は後付けのロジックであり、物事には多面性があるということをあらためて捉えなおさなければならない。

人間が理性的になれるのは感情的にフラットな状況にある時だけである。例えば戦争責任の問題は最初から「日本は反省しろ」とか「いや反省しない」という状態になっている。確かに長年謝ってこなかったのだから相手が苛立つ気持ちもわかる。しかし、よく知りもしないことに対して「とにかく謝れ」などと言われて不愉快に思わない人はいないだろう。まずは心理的に追い詰めないことが重要なのではないかと思う。

もう一つわかったのは、今の政治的議論は偏りが大きいと考える人が意外とおおいということだった。「公平に物事を見たい」というニーズがある。ブログはどちらかに偏ったタイトルをつけないと読んでもらえないことが多いのだが、実名制の質問サイトでは必ずしもそうはならない。政治議論に参加している人たちは声が大きくどちらかの陣営にコミットしていることが多い。このため自分の意見を決めかねているサイレントマジョリティも多いのかもしれない。ただ彼らも物事には真実があると思いこでいる節がある。歴史の教科書では出来事の解釈は一つしかないのが当たり前なので、解釈と現実がごっちゃになってしまうのだ。

問題解決の糸口は「物事の単純化」と「多面性の容認」であることはわかった。しかし、世界の情勢を見ていると経済的に追い詰められている人たちが多く「理性的になれ」などと言ってみてももうどうにもならない地域も多い。

私たちができるのはこうした対立を見て、感情に任せた議論ばかりしていては取り返しがつかなくなるということを知ることだけなのかもしれない。人間はどこまでも理性的でいることはできないのである。

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本音と建前 – 日本人が歴史議論を苦手とするわけ

最近面白い発見をした。Quoraで政治議論をしてくる人に対して瞬時に議論を終わらせるワードがあるのだ。それが「ああ、そうなんですね」である。意外なことにこれで済んでしまう議論が多いのだ。




長い間、嫌韓議論が苦手だったのだが、GSOMIAの件は韓国政府の対応がひどいなあと思ったので参戦してみることにした。高評価はつかなかったが攻撃もされなかった。

まず、韓国人と日本人の間には人間関係の取り方に違いがありこれが誤解の元になっているというラインを作った。つまり攻撃対象を韓国でなく仮説にすればいいと思ったのだ。

そもそも、もともとそれほど嫌韓でない人間が韓国政府の批判にまわるというポジションはあまりない。ポジションが非典型的であるというだけで人々は攻撃の対象とは考えなくなるようだ。このブログでは「政治議論運動会仮説」と呼んでいる仮説で説明がつく。紅組でも白組でもない人は運動会には加われないということである。攻撃しても面白くないのだろう。

日本の議論は保守・リベラルに分かれている。保守の人たちには韓国人に対する差別感情と韓国人をどう扱っていいかわからないという嫌気が共存している。一方でリベラルはこの差別感情が許せない。普段から「あしらわれている」という意識があるからなのかもしれない。そこで自然と嫌韓を巡って運動会が繰り広げられる。目の前に運動会があればとにかく参加してみるのが日本人だ。

ところが実際に参加してみると、結局「私には〜という印象がある」とか「私は〜を認めるつもりはない」と言っているだけだということがわかってきた。だから相手を刺激せず「ああ、そうなんですね」というと議論が終わってしまうのだ。

典型的には「朝鮮半島経営は植民地支配だったか開放だったのか」という議論がある。これは両方の側面が整理されていないという問題なのだが、保守は開放であってほしいという前提を置いた上で補強する数字を一生懸命に集めてくる人がいる。これは「そういう資料を集めてきていらっしゃるんですね、ご苦労様」で終わってしまう。実際には両方の側面があるので開放的側面があったからといって支配の事実が消えるわけではない。

ここまでわかると次はどうしてそうなるのかという問題が出てくる。第一の理由は感情と論理の分離のようである。本音と建前などと言われている。

日本人は本音と建前を分ける。論理は「建前」が担当しているとまずは考えられる。これは皆が合意しやすく反発されにくい解釈をまとめたものである。ところが日本人は本音も漏らす。この本音の機能が謎だった。実は本音も純粋な感情ではなさそうだ。

菅官房長官は「韓国への報復」を仄めかしつつ「表向きは貿易品の管理問題ですよ」という説明の仕方をした。つまり「報復という本音をにじませた」のである。WTOのルールに違反しないよう「本音をほのめかす」ことでメッセージを伝えようとしたのだろう。この本音はメディアによって様々に再解釈されることになった。産経新聞は菅官房長官のラインにそって「日本はルールに従って正々堂々とやっているから韓国はさぞかし困るだろう」と書いた。ここで産経の読者は満足する。菅さんの作戦は成功したのだ。

ところが今度は韓国がこの本音を利用し始める。文在寅政権は朴槿恵政権の決定を覆したかった。これに気がついた日本は「あくまでもこれは貿易品の管理問題である」と建前の方を強調し始めた。本音と建前の位置を逆転させた。あとは解釈の問題なのでこれで折り合いがつかなくなった。

日本の政権は多数派をとっているので国内では「空気の解釈権」を支配することによって少数派を笑うことができる。本音をひけらかしつつ少数派が文句を言ってきたら「それはお前たちが勝手に言っていることだ」といって少数派をバカにすることができる。つまり本音と建前の分離はいじめに使える。

実は本音も建前もロジックである。日本の保守が韓国に苛立つのは韓国が日本の作ったロジック通りに動いてくれないからなのだということがわかる。だからこそリベラル側はこれに乗ろうとするのだろう。数が逆転できるかもしれないからだ。

本音も実は「感情的な論理」なのだが、一旦本音と建前を分離して二重思考の状態を作ってしまうと「実際の実際はどんな動機だったのか」がわからなくなてしまう。本音という解釈を語り続けることによって空気への帰属意識は芽生えるだろうが、深層にあったはずの本当の動機はわからなくなってしまう。これが本音と建前の危険性だ。

ところが問題はそれだけではないようだ。それが歴史教育の問題である。

日本の歴史教育は「古代から近代までをとにかく覚える」というゲームなっている。このため個々の歴史について分析したり議論したりすることはない。だから、それぞれが勝手な印象を持ったままで歴史教育が終わってしまう。現実世界でもこの方式で歴史や政治を分析したつもりになってしまうのだろう。それぞれが勝手な印象を持っているだけならいいが、それを語り出した瞬間に収拾がつかなくなる。

学校で分析のための議論をしていれば物事には両面があるということがわかる人が増えるはずだ。だが、受験に間にあわせるためには考え事などしている時間はない。とにかく限られた時間の中で近代までカバーしなければならないからだ。

よく日本人は英語ができないという。文法の細かな規則をカバーするのに忙しく、英語を話すことができない人を毎年量産し続けている。日本の英語教育が作っているのは英語が使える人ではなく、英語の細かな文法をたくさん知っている人だ。同じことが歴史でも起きているのかもしれない。年号を知っている人はたくさんいるが「歴史を話せる人」はほとんどいない。

感情と論理を人工的に分離する癖がついてしまっており、なおかつ歴史的経過を単に年号としてしか覚えないという人が大挙して歴史に語り出した結果、自分たちが本当に何を考えていたのかがわからなくなってしまった。これが日本の政治言論の正体なのだろうなあと思う。つまり、この議論は運動会としては楽しいが、何の智恵もももたらさないのだ。

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産経新聞がまた新しい願望込みの物語を投げ込んだ

面白いニュースを読んだ。トランプ大統領が安倍首相と会談した時「父親はカミカゼだったのか」と聞いたというのである。




トランプ大統領はカミカゼがなぜタンクを半分空にして特攻したかったのか知りたかったらしい。「お酒か薬の影響だったのか」と聞いたそうだ。安倍首相は「愛国心ゆえだった」と答えたそうだが、トランプ大統領は「愛国心でタンクを半分カラにして突っ込むとは」とジョークのネタにして支援者の集まる席でスピーチしたようだ。他国の文化を重んじるという気持ちが全くないある意味アメリカ人らしい態度である。

このエピソードがQuoraで紹介された。これに不愉快な思いをしたらしい回答者から「曖昧なことを言うならばソースを示せ!」と苦情めいた回答が入った。時期的に韓国と日本の間の軋轢が問題になっており、韓国人に対しては居丈高になるのにアメリカだと何も言えないのかという含みを持ちかねない話である。

こうした感情的な問題に関しては上から抑えてやるといい。つまり「日本人は英語ができないから知らないのは仕方がないですよね」と言ってやるといいのである。日本人は英語とアメリカ人に対してコンプレックスを持っているので「親切に教えてあげる」のがよいのだ。序列を気にする人には実に効果的である。

実はこのエピソードはニューヨークポストが元ネタである。もともと伝統のある新聞だったようだがタブロイド化し最近では過激な見出しで知られるという。英語版Quoraで調べてみたが評判はあまり芳しくはなかった。日本でいうスポーツ紙のような扱いらしい。ただし記名記事なので全くの作り話だと斬って捨てるわけにも行かない。

支援者たちはアメリカ人なので当然日本の戦争のことなどには大した関心はない。例えばアメリカ人はほとんど原爆について考えたことなどないだろう。だから特攻のような常識では考えにくい精神状態も単なるパーティージョークになってしまうことがある。片道切符で特攻するなど常軌を逸しているのだからお酒か薬物の影響だったのだろうと笑って終わりである。当然相手に対する共感もリスペクトもない。

英語で情報が取れる人なら誰しもアメリカ人は日本に対してさしたる関心がないことは知っている。だから日米同盟もその程度の確かさしかないということはよくわかっている。だが、英語で情報を取らない日本人はそのことが不安で仕方がない。ゆえにこういう話はなかったことにしがちだし、願望込みで解釈を加えがちだ。

韓国とのやり取りを見ていると「ちょうどその反対のこと」が起きている。韓国人が日本に反抗的な態度をとると、それを大きく拡大しいつまでも騒ぎ続ける。日本人は韓国人ならなんとかなると思っているからなのだろう。

日本人は心象による序列を作ってしまうところがあり対等な人間関係や同盟関係が作れない。だから政治家が絡んだ外交交渉で日本はいつも間違える。心象で目が曇っているので侮られたり不用意に怒らせたりするのである。

とはいえ、日本がアメリカ人から下に見られているのはいつものことだし相手はタブロイド紙なのだからそんなに気にする話でもない。ところが産経新聞の記事を見て驚いた。ニューヨークポスト電子版を引き合いにしているのだが、安倍首相の父親が特攻隊だと知ったトランプ大統領が安倍首相の説明に心を打たれたという感動秘話になっているからである。「トランプ氏、日韓首脳の「なまりある英語」を揶揄 安倍晋太郎氏が元特攻隊員と知り感銘」となっている。外国人が日本の心に触れて感動するという「日本スゴイですね系」の記事である。

確かにニューヨークポストはこのジョークの意味は書いていないのでトランプ大統領が特攻隊をクレイジーだったと言っているわけではない。だが、パーティーで気楽に話題にしているのだからリスペクトしたわけではないだろう。この話はネットですでに紹介されていたので産経新聞は「フォローしなければ」と思ったのかもしれない。彼らにとって安倍首相はヒーローなので「ヒーローが何も言い返せなかった」では困るのだ。

ただ、新聞電子版を読んでネタ元(ちなみに記名記事である)に確認も取らずに勝手に解釈を加えているわけで、これはもはや新聞記事ではない。願望込みのファンタジーだ。

ただこの件で産経新聞を非難する気にはなれなかった。産経新聞も自分たちのプリンスがトランプ大統領に相手にされていないことは知っているのだろうなと思った。だからこそ躍起になって物語を作ったのだろう。また朝日などの反安倍陣営の新聞も政治的な影響を失っていてこうした心象を正当化する記事を書きかねない状況になっている。こちらもインテリ層が政治に対して影響力を持てなくなったということを認めたくない。

一種のメンタルクライシスにある新聞が心象的創作物からは逃れられるはずはないのだ。

ただ、これが我々の政治的な意思決定にどんな影響を与えるかという点は気になった。日本人は本音と建前を分ける二重思考を社会的に容認している。このため自分が本当はどう考えているのかがわからなくなってしまうことがあるのではないかと思った。

産経新聞が本当はアメリカに相手にされていないことを知りつつ「安倍首相はアメリカに強い影響を与えている」と信じている限り、彼らは難しい判断から目を背け続けるだろうなあと思った。そうすると我々読者はますます自分たちが信じたい物語だけを信じることになるだろう。

日本にはその意味では信頼できるジャーナリズムはないのかもしれない。誰もそんなものを求めていないからである。にもかかわらず日本人は政治的に中立でありたいと考え、中立な新聞やメディアを持ちたがる。中立とは「自分の意見とぴったり合っている」ということだから偏っているのだが、他人の意見を尊重できない我々はどうしても自分の中にある偏りは見たくないのであろう。実に不思議な光景である。

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日本はもうだめだおしまいだと叫ぶ人たち

Quoraで日本はもうダメだという話が出ていたので「20兆円も海外から利子収入が入ってくるのになぜ悲観論ばかりなのか?」と書いた。もっと冷静になって次世代投資について考えるべきであるという提案だ。すると最近にになく高評価がたくさん集まった。改めて日本閉塞論に息が詰まっている人たちがたくさんいるんだなと思った。閉塞感を意識化する機会は少ないので言語化すると喜ばれるのだろう。




このエントリーには面白いコメントが2つ付いた。

一つは「でたらめをいうなやはり日本はおしまいだ!」というコメントだった。国の予算が100兆円あり20兆円を海外からの上りで穴埋めするというのはおかしいと書いてきた。国と企業の収益がごっちゃになっているのだが、ポイントは自分の観測と違った意見が出ると感情的に否定してしまうという点だろう。楽観論も悲観論も感情の領域にあり合理的な政治の問題ではない。だが、実際に政治を動かすのは感情なのでこうした声を無視していいということににはならない。ただこの意見を合理的に否定するのは難しいだろう。否定されればされるほどかたくなになってしまう。

もう一つのコメントは「政府債務が溜まっているのは確かである」という点とそれでも「教育への投資が少ないのは確かに問題だ」という点を指摘してきたものだった。実際に研究者とお話をする機会がある現役世代の方である。つまり、極度の楽観論や悲観論のどちらも正しくないということを理解している人もいるのだ。

Quoraの政治板は短い間に950名がフォローするコミュニティになったのだが、感情的なレスポンスをする人、冷静な理解をする人、とにかく議論を吹きかけて勝ちたがる人とありとあらゆる人が集まってきている。1,000人というとミニコミ紙レベルだと思うのだが、新聞はもっと大変なんだろうなあと思った。民主主義になるとさらにこれが複雑に絡み合う。

今回の「楽観論」は「国際収支発展段階説」という説に基づいている。国際収支発展段階説によると、やがて債券取り崩し状態に入るのだそうだ。今の日本の段階を成熟債権国と呼ぶそうだが、この状態があと数十年続くという。なのでポイントはこの成熟段階をいかに長引かせ、あるいは若返らせられるかという点にある。当然これといった正解はない。

お金が湯水のように入ってくると言ってもいいことばかりではなく当然代償がある。「世界最大債権国」日本、直接投資急拡大の必然には「慢性的な通貨高に悩みその度に景気が悪化する」と書かれている。何らかの理由で景気が悪化すると新興国から資金が逆流して円などの安全資産に戻ってしまう。すると急激に交易条件が悪化して日本は製造業で稼げなくなってしまうというわけである。つまり、資産が製造業を圧迫するという皮肉なことが起こる。

同じことはアメリカでも起きている。アメリカは取り崩し段階に入り赤字が続いている。これは長年製造業が圧迫され中国などの人件費が安い国に転移してしまったからである。アメリカは意識して構造転換をしなかったためにラストベルトという工業地帯が取り残されそれが問題になっているのである。背景にあるのは構造的な問題なので中国にケチをつけたりFRBに文句を言っても工場がアメリカに戻ってくることはない。先日ご紹介したアメリカの通貨切り下げ策は実は債権国を降りてサイクルの最初に戻れということなのだ。それはつまりアメリカの金融市場を爆破してしまうということである。

債権国であると言っても喜べない事情がもう一つサイクルの外にある。それが膨らみ続ける国家債務だ。

金融市場の大崩壊が近い将来に起こりうる理由という恐ろし気な記事がある。リーマンショックが起きたとき各国政府が問題を吸収した。このため「表面上危機が収まっていたように見えていた」のだが、トランプ大統領がそれをぶち壊しにしようとしていると言っている。つまり、トランプ大統領が引き起こすであろう混乱はアメリカだけでなく金融市場全体に災厄をもたらすかもしれないということだ。

  1. アメリカ株式市場がリーマンショック級の3割を超す大暴落を起こす
  2. アメリカ株に連鎖して先進国、新興国が株価暴落を引き起こす
  3. 米中貿易交渉が決裂し、米中を悪性インフレが襲う
  4. 米国債が売られて金利が上昇、世界の債券バブル崩壊で新興国の債券が紙くずになる
  5. 新興国通貨が暴落しあちこちでハイパーインフレが始まる
  6. 地政学リスクが高まり、ドルが売られて原油、金価格が高騰

実は、日本も似たような状態にある。政府が国債を発行し実質的に日銀が引き受けている。これが破裂しないのは日本は債権国であり円が安定しさんだと見なされているからである。つまり日本政府の実力が過大評価され問題が先延ばしされておりどんどん大きくなっている。これが弾けた時の痛みは相当なものだろう。

日本はかなり厄介な時期に債権国になったのだなあということがわかる。企業がお金を貯めこみ政府に働きかけて税金を支払わなくなる。法人税が下がると節税のために人件費をあげようというインセンティブも失われ消費市場が冷え込む。足元の景気が悪くなるので、政権を維持するために国債を発行して危機を乗り切ろうとする。するとインバランスが蓄積して金融市場が混乱する可能性が高まるというわけである。

面白いのは、日本にはお金が有り余っているのだからそのお金を使って将来に投資すればいいではないかという観測と、インバランスが高まっているからかつてない恐ろしいことが起こるかもしれないという観測が同時に並び立つところである。これはどちらも事実であり、どちらかが正しければどちらかが間違っているというものではない。

ここまで冷静にわかれば「今はなんとなかっているのだからどうにかしてこの恩恵を長い間享受できるようにしよう」と考えるのが自然である。コラム:英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏によるとイギリスもかつて債権成熟国の段階を経験して今も先進国なのだから、イギリスに学べばいいのではないかと書いている。

また、英国が自国の特徴を生かしてサービス収支や所得収支の黒字体質を確立したように、日本にはもともとモノづくりや技術力に優位性があるため、過去の経常黒字で積み上がった多額の対外資産を活用すると同時に、産業の競争力回復を目指し、国際収支の発展段階説で言えば第四段階と第五段階を行き来するような形になるのが理想的と考える。

英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏

つまり日本も上がりを国内投資する体制さえ作れればイギリスのように長い間債権国としての特権を享受できるであろうというわけである。ただ、何に使うのかは国でビジョンを作るか、ビジネスコンペの体制を整える必要がある。競争させるなら地方分権にして地方ごと競わせたほうが良いだろう。

ところが実際にはそのような話し合いの素地はできていない。そればかりか各国でポピュリズムが横行し有権者が扇情的に煽られるばかりである。どうやら日本も例外ではないようだ。欧米に比べると静かではあるがポピュリズムが蔓延している。

我々は、実は解決策があるのに、極度の楽観論と悲観論の間を揺れ動きながらさまよっているのだ。

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津田大介に見る表現の不自由と議論の不在問題

あいちトリエンナーレの表現の「表現の不自由展・その後」が炎上した。最初は変な問題でモメるなあと思っていたのだが瞬く間に延焼し1日で大問題になった。Twitterでは現代芸術に興味がなさそうな人たちが吹き上がっていたのが印象的だったのだが最終的に日本人はこのレベルのcontroversyを扱えないのかと思った。表現の自由ではなく、議論が不在なのである。日本人はとにかく議論ができない。




この問題は、表現の自由・テロへの脅威・検閲(政治家の表現への関与)・SNSの侵食というような問題がヘドロのように塊を作っている。これを一挙に白黒つけるのは誰にも無理だろう。だが不思議なことにこの議論に参加する人は勝手に心象を作り出してそれを他人にぶつけるか当惑している。情報が飛び交っており正確でないものもあるかもしれないが、一つひとつ見て行こう。

テロに屈した・あるいはテロを言い訳にして表現への介入を避けようとした

最初に考えたのは、慰安婦像を持ち出したくらいで「ガソリンを撒くぞ」というのはいかにも不自由な世の中だなあというものだった。大村知事は慰安婦像の評価を避けつつ「安全確保」を理由に逃げたのかなあとも思ったが、結果的に「テロを許容するのか」ということになってしまった。津田によると「電話で文化を潰す」行為だ。

実際に脅迫に屈したならそれはそれで大問題だ。だが、政治家(名古屋市長)が彼の価値判断で中止を要請し、菅官房長官が補助金について仄めかしている。この線で中止したとなると憲法が禁止する検閲になってしまう。そこで京アニを引き合いに出したのだが、今度は電話をかけた人に屈して展示を中止したことになってしまった。これは威力業務妨害だと言っているのに等しい。ということで、これが一つの議論の塊を形成している。

津田さんは反響の大きさに驚いたと言っているが、Twitterでは遊びですんでいることも現実世界では大変なことになる。トリエンナーレという場所で表現の自由ごっこをして炎上したから強くなって逃げたのだと言われても仕方ないだろうと思う。河村名古屋市長も「朝生」のつもりで発言したのかもしれない。

政治家が簡単に表現を恫喝するが誰も反応しない

菅官房長官は補助金について仄めかした。この人はこれが政治家の恫喝になることにまだ気がついていないようだ。韓国との間でもこれで失敗している。自民党の内部で横行する仄めかしによる恫喝は自民党の外では通用しない。つまり自民党の反社会性の現れになっている。

ホワイト国と徴用工の問題を仄めかしたことは韓国の反発を呼び国際社会を呆れさせた。官邸は相手が吹き上がってから「いやそんなつもりではなかった」などと言い繕っているのだが、もう手遅れだろう。今回の件も芸術に政治が関与したと批判されることになるかもしれない。

国内問題で済めばいいが追い詰められた側が話をエスカレートさせれば「日本は言論統制国家だ」ということになりかねない。自分たちの心象に固執し、外からの眼差しが全く欠けているのである。

140文字で簡単に炎上する国

次の問題は芸術と文脈である。日本は右翼左翼という枠組みで簡単に炎上してしまう世の中になっておりTwitterが大きな役割を果たしている。前回「Twitterがなぜ炎上しやすいか」について観察したのだが、問題に対して耐性がなくなっているところに刺激ばかりが増えて中毒を起こしているのだろう。慰安婦はその記号になっている。140文字で語れるのは記号の良し悪しだけだ。

140文字で「政治や表現について語れた」と勘違いする人も大勢いるんだろうなあと思った。撤退に追い込んだことで満足感を得た人もいると思うのだが、慰安婦像を否定したのではなくガソリンを撒くぞという暴力を肯定しているに過ぎないのだが、それでも「実質的に慰安婦が否定された!」と意気込んでいる人を見かけた。

今後、日本では「芸術展」という限られた場所でじっくり考えるということがこの先できなくなるのかもしれない。SNSが芸術展を侵食しているというのは、例えていえば映画館に右翼の街宣車が乗り込んでくるようなものである。つまり我々はTwitterレベル以上のことを社会で考えられなくなるということである。

この乱暴さを示すエピソードがこの騒ぎには内蔵されている。それがご尊影を焼いたという話である。実際には文脈があるので、それを説明した上で展示すべきだ。多分、美術展の中ではそういう工夫がされていたのではないかと思う。

ところがこれが韓国KBSで抜かれたようである。問題はそれをさらにTwitterが抜いてSNSで背景なしで拡散されてしまったという点である。一般参加者には映像をとるなと言っていたようなのだが、マスコミにも絵を抜かせてはいけなかった。津田は安易に逃げたことで、結果的に文化行為そのものを破壊しようとしている。

「お芸術」から抜けられなかった日本の表現と言論プロレスから抜けられなかた論壇という痛々しい光景

高度経済成長時代の中流家庭には百科事典や美術全集が置かれていた。こういうものをおくのが「ゆとりのある文化的な生活だ」と考えられたからである。日本人は憧れとして美術を捉えているのではないかと思う。「愛知にも先進的な文化生活を」というわけである。こういう「オシャレな文化事業」でコントロバーシャル(議論が分かれるような)な問題を取り扱うことはできないということはわかった。

保守は国費で不適切な表現を扱うのかとまるで国家権力が完全に自分たちの自由になると勘違いしているようだし、津田の側は税金さえ入らなければ何を言っても自分たちの自由ですよねと言わんばかりである。

そもそも自動化された慰安婦像を持ち出して手軽なコントロバーシャルを作ろうとしたところに「手軽に炎上させて注目を集めよう」という軽さが見られるし、検閲に当たるという自覚もなくそれに介入した政治家というのも痛々しい。ここまではテレビ論壇の言論プロレスだ。自分たちが現実世界でどのような影響力を持っているかということに気がつけなかったことになる。いずれにせよ、江川紹子さんが指摘しているようにジャーナリズムのテンションとTwitter言論プロレスでは緊張感が全く異なる。

この一連の出来事がパフォーマンスアートだったのだと考えれば、それは言論の不自由さを証明したわけではないと思う。単に議論の不在が浮き彫りになっただけである。我々は居間に飾ってある印象派の画集から抜けられず、テレビ的な言論プロレスからも抜けられず、さらにはTwitterの140文字の枠を超えて思考することを自ら禁じようとしているのだ。

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主語のない言語 – 日本語は情報を通して把握していない

スーパーで、東京オリパラ2020、いよいよ1年前!というポスターを見つけた。このポスターを読んで違和感を持ったので「これおかしいですよね」と書いた。違和感があるとか、下手なコピーであるというようなコメントはあったが「文法的に間違っている」という人は、一人を除いていなかった。その一人は日本人だが英語が堪能で今はドイツに住んでいる人だった。




このポスターがおかしいと感じるのは、これを文章として捉えているからだろう。「東京オリパラは今から1年後です」が正しい文章だ。つまり文法的に間違っているのだ。

ではこれをおかしいと判断していない人は、なぜおかしいと感じないのか。それは東京オリパラ2020年。今はいよいよその一年前!と分けて読んでいるからなのだろう。つまり日本語には英語のような「センテンス」がそもそもなく、語句の集合体なのだ。文章はこの語句にジョイントをつけているだけなのである。

このポスターが通じるのは日本人なら誰でも東京オリパラが今から1年後にあると知っているからである。経験を同じくする人たちの間では「いよいよ一年前!」というと、隠れた主語が「今」であるとわかる。多分、経験を同じくする人たちの間で鹿話されてこなかった日本語には主語が要らないのはそのためだ。

この文章において東京2020オリパラは「主題」であって「いよいよ1年前!」というのは単体の語句だと考えればいい。そして文章としては「今はいよいよ1年前!」が正しい日本語の読み方なのである。だから「東京2020オリパラ」のフォントと色を変えればよかったのにというコメントがついた。別々の文章であると明示すれば矛盾はなくなる。また「前」は前向きだが「後」は後ろ向きというコメントもあった。正確さよりも感じの良さが優先されるというのは仮説としてはとても面白い。

英語やドイツ語といった印欧語には主語と述語があり位置関係で役割が決まる。当然東京2020が主語でいよいよ1年前が述部だということになる。するとこの文章は間違いということになる。つまり、英語話者は単語から文章を「作ってしまう」ことになる。

そもそもこの文章は英語に訳せない。英語にするには「今は東京オリパラまで一年」としなければならない。世紀の文法では形式主語を立ててnowを補足に使うことになるのだろう。関係でなく距離を使わないと文章にならない。関係で記述しようとすると、2020年と2019年という二つの軸ができてしまうので文章も二つになる。

だから日本語で発想する人の英語には限界が生じる。日本語はそれぞれバラバラの単語や単語の塊がありマーカーをつけて連想して記述できる。構造を意識しなくてもいいので、構造に落とせない文章が出てきてしまうのである。日本語の方が自由度は高いがその分正確さにかける文章も書けてしまうということになる。

よくQuoraで句点が多く読みにくい文章を見かける。高齢者が連想的に文章を作っているようだ。日本語ではこういう文章が書けてしまうのだなあと思う。連想的に作られる文章の主題は「いい悪い」という感情なのでそれがすなわち心象藪ということになるのかもしれない。

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なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか

最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。




れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。

維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。

ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。

そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。

それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。

やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。

モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。

適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。

気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。

Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。

さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。

問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。

情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。

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